第6話
回想をしながら歩いていた仕事の帰り道、駅前の交差点で俯いている希和さんを見つけた。話しかけようと近づくと、隣にいる少年と目が合った。少年はそっと彼女の手を握っていた。美しい少年だった。歳はまだ十五を過ぎたぐらいにも見えるが、華奢なせいかむしろ男装した少女のようにも見える。かれの眼差しは間違いなくおれを射抜いていた。黒めがちな深い瞳だ。どのぐらいの時間だったのだろう。時間が止まったみたいに、おれたちは見つめ合っていた。
かれはおれにはきこえない短い言葉を彼女に囁き、その場に残った。希和さんは横断歩道の反対側に去り、おれの目の前にはかれだけがいた。
「あなた、ひどく疲れてるみたいだ。もしかして希和さんのお友達かな」
呆気にとられているあいだに、かれの右手がそっと伸びておれの服の袖を掴む。
「えっ」
おれは驚いてその手を振り払ってしまった。
「驚かせてしまったね」
笑顔がこぼれる。
「もし一人でどうにもならないときは僕を呼んで欲しい」
かれはそれを持つには似つかわしくないその顔で、名刺を渡してきた。
〈真佑〉とだけ書かれたその名刺には右下の方に小さく携帯電話の番号が記されていた。
一度気になると、いてもたってもいられなくなるのがおれの性分だった。三日後の夜、おれはその番号に電話をかけてみた。
真佑はおれの話を聞くと、まずはおれのマスターべーションを見せて欲しいと言ってきた。
「いつも通りでいいですよ」
言われるがままに、おれは右手を動かす。ベッドに横這いになりながら、スクリーンの映像に目をやる。女の剥き出しの白いからだが全面に映し出されている。絵美は、ほとんど声を漏らさない。ただひたすらおれの腕が彼女を弄る。おれは彼女を犯している過去の自分を見ながら、本当にいま犯されているのはだれなのだろうと考える。けれど、だんだんそんなことがどうでもよくなってくる。
真佑は、過去の行為に見とれながら自慰をするおれを真顔で見つめている。普段コンタクトレンズをしている視力の悪い人間が裸眼でぼーっと見ているような、ひどく虚ろな目だ。それを受けてなのか、腹の辺りに抉られたような熱がこもる。だれの指図か、右手が自然と速度を増す。ソファにちょこんと座り、おれを見つめる真佑。激しく突かれ尻を浮かせる絵美。映像の中でもこの場でも、おれだけが声を出してしまっている。気づかなかった。自分がこんなに声を出していたなんて。依然として声を出さない二人とは対照的に、息さえもどんどん荒くなっていく。それでも監視を続ける真佑はじっと見つめるだけで、おれはその温度差にさらに興奮を増していく。快楽の終点に辿り着くのに、あまり時間はいらなかった。
息を切らしながら見上げた先に「おつかれさま」と運動部のマネージャー女子がタオルを渡すようにティッシュを差し出す真佑の顔があった。おれは返事もせずそれを箱ごと受け取ると、飛び散ったものをぬぐった。久しぶりの射精感がまだ腰に残っている。おれは、直接的な行為では逝けない。こんなことでしか自分の性を確かめられない自分に嫌気がさしている。
でも、なぜだ。なぜよくも知らない少年に、こんな自分を曝け出そうと思ったのだろう。けれど、なにかかれなら受け止めてくれる。そんな安心感があったのだ。あの道で会った時から。
「はは、おれこんなんでしか興奮しないんだ、おかしいだろ」
「おかしくなんてないです」
真佑は即答する。
「例えばこの国には、偏った価値観の性を思春期から取り込んでしまい、普通のセックスができなくなってしまっている人がたくさんいる。それを受け止めたり、ときには普通のセックスができるようリハビリに協力するのが僕の仕事です」
わかるようでわからない。
「なんだよ、普通のセックスって」
「日本のアダルトビデオって最後に女優の顔に射精して終わるものが多いでしょ。でもあれは作品としての安易な演出で、それを自分の恋人に当たり前にすることはできない。そんな葛藤を許し、ときには克服できるよう支え、苦しみを解放するのが僕らの役目」
笑顔のまま真佑は続ける。
「とくに日本人は趣向を凝らしすぎたからね。今の時代には僕たちみたいなセックスヒーラーが必要なんです」
たしかに。わかる気がする。実際おれも自分の性が歪んでいることに後ろめたさを常に感じていた。でもかれに自慰行為を見てもらって、なにかいまは清々しさのようなものが胸に残っていた。
「あのさ」
おれは生まれたての疑問符を投げかける。
「じゃあ普通のセックスってなんだ」
「そう、普通のセックスか、そうじゃないかなんてだれが線引きしているのか。本当はだれにもわからない。たとえ見つけようとしても、どこまでいってもそれは統計学でしかない」
そうだ。マイノリティが悪いわけじゃない。ただ、それが性癖となると話は違うのだ。上手く向き合わなければ、ときにだれかを傷つけてしまうかもしれない。
「真佑」
おれは人の名前を覚えたり呼んだりするのが実は苦手だ。とくに同性の、得体の知れない奴なんかは論外だった。それなのに、自然とかれの名を呼んでいた。
「いくらだ?」
財布を鞄から探りながら続けると、「いいよ」とかれはすかさずそれを制した。
「僕はね、あなたをお客にするつもりはないんだ」
露骨に疑問符を浮かべるおれに、その小悪魔はさらなる追い打ちをかける。
「どういうことだよ」
「あなたには僕の同僚になってもらいたいんだ」
言っている意味がわからない。
「なんでおれが、こんなこと。ただでさえ自分のことだけでこんなにいっぱいなのに」
つい本音がこぼれた。おれはどうやら真佑の前では少しも嘘がつけないらしい。
「だからこそです。あなたならきっとマイノリティセックスに悩む人たちの気持ちがわかる」
真佑は見透かすように続ける。おれは、初めて女の子に裸を見せたときのように胸がびりびりと緊張し、同時に不思議な安堵感が体内に充満していくのを感じる。なぜかしら、恐ろしく力強いなにかがおれの背中を押していた。人との関わりを空虚なままで終わらせていく、そんな生活にはもううんざりしていた。
真佑はおれの手を女のように優しく握った。
「才能には責任が付き纏う。あなたがやらなきゃいけないんです」
おれはそのときの自分の感情の波が何を意図するのか即座に考えることができなかった。
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