第4話

「先輩、この場所気持ちいいですね」

 その日、屋上で缶コーヒーを飲んでいた私に話しかけてきたのは最近入ってきたばかりの若い女の子だった。名前は、よく思い出せない。二十歳の可愛い子が来たと、男性陣は少なからずざわついていたが、デスクの位置も離れている私は気にもとめていなかった。

 私の憩いの場よ、邪魔しないで。なんて言えるはずもなく半ば呆然と彼女のカールしたつけまつげを見つめていると、すぐに彼女は本題に入っていた。

「あの、先輩って藤岡さんと仲良いんですよね」

「べつに、席が近いってだけ」

 なるほど、と思う。仕事もできて、背も高い、顔も悪くない藤岡には、モテない理由を見つける方が苦労するだろう。

「あの、私この前かれを誘って二人で飲みに行ったんです」

 藤岡が私以外の女と飲みに行っているという事実に、全くといっていいほどショックを受けなかったことで、私はかれに恋をしていないのだと改めて思う。ただ、逆に言えば、そういう恋だの愛だのと考えず付き合える男は貴重かもしれない。

「そうなんだ、積極的ね」

 うふふ、と彼女が笑う。私がどこかの会社の人事局員であったなら、是非彼女を受付に置いておきたいとさえ感じる笑顔だ。

「それで、私、こう見えてお酒強いんです。なんで、二人でいっぱい飲んだあと、かれの部屋で飲みたいって言ったんです」

 私が越えられない一線を軽く飛び越える今の若い子って、とやや引いていると彼女は意外にも少し悲しい表情に変わった。

「かれの部屋に行きました。でも、私その日なんにもされなかったんです」

 小動物のような瞳は姿を変え、睨むように私を見る。

「私の肩を抱こうとしたはずの手がぴたりと止まって、そのまま一人で寝ちゃったんです。あのひと。どう思います」

 どう思います、と聞かれても非常に困ってしまう。

「もしかしたらかれ、先輩のことが好きなのかなって」

「それはないと思うよ」

 たしかに藤岡は私にたいして人懐っこい一面を見せてくる。けれど、かれの内にあるものはそんな単純なことではないように思える。私の真佑に対する気持ちが難しいものなのと同じように。

 きっと藤岡は、ただのつまらない男ではない。私と同じなにか大事なものを失って、それでも日々を過ごしていかなくてはならない。そんな気配がかれにはある。

 真佑なら。かれなら藤岡の抱えているものさえ見抜くだろうか。あの二つの目に見られると、見つめられている自分の顔を貫き、その奥にあるホテルの淡い桃色の壁まで見られているような、丸裸にされるような不思議な気持ちになるのだ。それは単なる快感でもなければ痛みでもない、不思議としか説明がつかない心地だった。

「あいつ、案外身持ちが固いだけかもよ」

 私は何も考えず、その後輩に返事をしていた。彼女もどうせ私と友達になりたいわけじゃない。私だって友達なんて望んでない。今の私にはなにかを得たり失ったりするのが怖い。それがどれだけちっぽけなものだとしても。余計な荷物は持ちたくない。

「先輩、本当のこと言ってください」

 油断していると、さっきよりずっと目の前に彼女の顔があった。

 本当のこと。彼女にとっての本当ってなんだろう。私は自分の未熟な予想に、いつの間にかつまらない物差しを握りしめていたことに打ちのめされる。

 目の奥が濡れている。それはあまりにも真剣な眼差しだった。

 本当のこと、そんなの私の方が知りたいくらいだった。泣いて逃げ出したいと思っても私は泣くことができなかった。ただ、彼女の肩をぽんと叩いて「わかった、探り入れとくね」と嘘の約束を交わすことしか許されなかった。

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