第3話

 朝起きてまず、コンタクトレンズを取り忘れて寝たことに絶望し、久しぶりに眼鏡をかけて出勤した。休憩中、藤岡とトイレの前ですれ違ったとき、私を見たかれは大袈裟なぐらい驚いていた。

「え、いまなにに驚いたの」

「い、いや、ぼーっとしてただけです」

 藤岡は今まで一度も見たことのない顔をしていた。先に席についてからも、なかなか席に戻らないかれを少し心配する自分がいた。あんなに目を大きくさせて、私の顔になにかついていたのだろうか。

「それよりあんた早く検事にでもなんにでもなって、こんなとこ出て行きなさいよ」

「検事、おれそんなこと言ってましたっけ」

 藤岡はけろっとした表情でいつもの調子に戻っていた。以前私に語っていた夢はどうやら本気ではないらしい。


 今日のクレーム処理はやっかいな内容のものばかりで、心底疲れた。様々な客たちの怒りという感情が私には身近だが、私自身はあまり怒りを持たない体質だと思う。かれらのあの渦巻くような怒りは、いったいどこからやって来るのだろうか。藤岡にたいしてちょっと失礼な人だなと思ったりすることはあるけれど、それは純粋な怒りではない。そういえば、朝の藤岡の反応はなんだったのか。考えながら、会社のビルの屋上に出る。缶コーヒーを飲みながらフェンス越しに見た町並みは、太陽の光を受けて反っているようで、まるで砦だ。このビルを中心にして、なにかを守る砦ができている。ああ、また増えた。私の周りには、不明瞭なものが多すぎる。

 携帯が軽快なリズムを刻むので、パーカーのポケットから取り出すと、真佑からのメールが届いていた。「今夜会えます、いつもの場所でいかがですか」そんな他人行儀な文面にも関わらず、そのメールにはお風呂に浮かして遊ぶアヒルのおもちゃがアップで撮られた写真が添付されていた。

「ねぇ、あのアヒルどういう意味」

「意味なんてないよ」

 両頬にえくぼを作りながら、真佑は湯船のお湯をぱしゃりと足の指先で蹴飛ばす。あのアヒルのせいで、私は無性にだれかと一緒にお風呂に入りたくなった。別に真佑でなくても、だれでもよかった。

「また、そんなこといっちゃって、僕に会いたかったくせに」どうやら無意識に思ったことを口に出していたらしい。真佑は嬉しそうにもう一度笑う。

 私は初めてかれに会った日のことを思い出す。あの日も真佑はやはりこの無敵な笑顔を携えて、綿毛を摘み取るような優しい所作で私を抱いた。

 最初は出来心だった。

「あなたの心にそっと触れさせてください」

 そのキャッチフレーズを見て、私はひどくときめいてしまったのだ。

 そのクラブに在籍しているのは娼夫ではなくセックスヒーラーだとサイトには書いてあったが、初めは意味がわからなかった。予約はすぐに終わり、私は駅前のホテルまで小走りで向かった。とてもどきどきしながらベッドに腰かけていると、三十分ほど経ってから、チャイムが鳴った。ドアを開けたとき、私は予約する店を間違えたのかと思った。目の前でぺこりと挨拶をするのはまるで中学生の女の子のような華奢な体躯をしていて、柔らかそうな髪はふわりと内巻きに跳ねていて、顔はまるで乙女のように可愛らしかった。

「真佑です。今日はよろしくお願いします」

 ただ一つ、そう笑いかけるかれの声だけが、きちんと声変わりをした男の音色だった。

 私はかれをソファーに座らせると、一緒に備え付けの紅茶を飲んだ。いきなりこんな謎めいた生き物とどうこうするなど考えられなかったのだ。

「なにか、してほしいこと、ありますか?」

 かれの声にびくっとした私は、肩をひきつらせたままそっと顔を覗く。やはりそれは、美しい子供の顔だ。

「まつげ、さわってもいいかな?」

 私は恐る恐る、その美しいパーツに触れる。長細い外巻きのまつげに。

「いいけど、ちょっとだけ恥ずかしいな」

 そうやって照れるかれはとびきりキュートだった。

 目を瞑ると、かれの顔はさらに暴力的な美を秘めた。私はその時点で、すでにかれと何らかの形で繋がりたいと思ってしまった。目を瞑りながら、無言でかれも手を伸ばしてきた。それは愛撫と呼ぶには優しすぎるほどゆっくりと、私の頬をくすぐった。

「もっと」

 自然と声が出ていたと思う。

「もっとさわって」

 真佑の手は魔法のように、どこかに触れる度その場所に熱を宿した。気付けば私と真佑はただただそのあとの一時間、ソファーで抱き合っていた。悔しくも、たったそれだけのことで、私はかれに魂まで抱かれたような気になっていた。真佑の髪は指の間で強く掴むと、くしゃりといい感触がした。細い鼻腔の隙間から、わずかに放たれるかれの息が首筋に当たるのがくすぐったい。

 私はきょうのかれに抱かれながら、あの日だれかにも抱かれたことを思い返すうちに自分の所在がうやむやにされて、私という人間がどんどんなくなっていくのを感じる。腰を使うとき、真佑は急に男の子の顔をする。すっと綺麗に切り裂いたような目尻を指でなぞる。その窪みはいつも決まって乾いている。


 アパートの扉を開けると、まず携帯を充電し、ベッドに横たわった。 事後のメールなど期待していないので、携帯の電源は切ったままだ。最近では煩わしいSNSは覗き見することすらしなくなった。しばらく会ってもいない友人たちの結婚や出産などの幸福を見て、落ち込む必要もないからだ。私は真佑との未来など考えられない。 かといって過去にもなりきれないかれは、私にとって現実の中にいて唯一の幻想だ。私はその幻想を断ち切れずにいる。単なるかれへの愛ではなく、やはりそれは快楽を伴う自己愛なのかもしれない。

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