第2話

「希和さん、きょう元気なくないですか」

「下の名前で呼ばないでくれる。勘違いされるから」

 そう後ろから声をかけてきたのは一年後輩の藤岡だった。このクレームを専門としたコールセンターでも、エースと呼ばれるのはかれぐらいのものだ。声からも伝わる物腰の柔らかさと、臨機応変に対応できる頭の回転の速さは、一度隣のデスクで仕事をすれば誰だろうとすぐに気が付く。以前なぜこんなところにいるのかと聞いたら、検事になるために国家試験の勉強中だと、当たり前のように答えた。かれなら素晴らしい検事になるだろうが、私の懐までは詮索しないで欲しい。

「別に、いつもどおりです」

「それにしては声のトーンがいつもより半音低いと思いますけど」

 この人はなにが言いたいのだろう。自分が絶対音感だとでも言うのだろうか。言い返そうとするも私は面倒くさいのでやめておく。

 藤岡が無言で私の前に置いた缶コーヒーを、ことわりを言う前に一口飲んだ。人が辞めたせいでかれとデスクが隣になったのはここ最近のはずなのに、藤岡は私が無糖派なのを知っていた。

「失恋ですか」

「五月蝿い」

ああ、ほんとうに、察しのいいやつは嫌いだ。

「アラサーの失恋は事件ですよ」

「セクハラで訴えてやる」

 藤岡は長い足を組み替えると「いやいや、ただ同僚として親身になっているだけですよ」と返した。


 帰り道、結局私は藤岡を連れていつもの店に寄った。その小さな居酒屋では、美味しいゴーヤチャンプルの定食があった。藤岡はゴーヤが昔から苦手らしいが、この店にはちょくちょく来ているようで、無口な店長に「いつもの」と生意気にいってハイボールをもらっていた。私は生ビールを飲みながら、無言で藤岡を見つめた。藤岡はやたらと爽やかな笑顔のままハイボールをごくごくとやっている。

「あんた、なんなの」

「そうですね。しいていえば、希和さんがおれの元カノに似ているからですかね」

 開幕のトークとしては、踏み込んだ一手をお互い放ってしまった。そう考えを巡らせている矢先「まぁ、希和さんの方が背も高くて美人ですけど。顔の造りとかはかなり似てるんですよね」

 お世辞にしては、落ち着いた声色だ。藤岡は鼻を近づけてもなんの匂いもしないような無機質で整った顔をぴくりとも動かさず、驚いている私を見つめ返す。

「なにか、悩み事ありますよね。これはおれのエゴですけど、あなたのそんな顔は見たくないんです」

「それは、私が元カノに似ているから」

「そうです」

 きっぱりと、かれは言い放つ。

 酔うには早かったが、私はなぜかしら、この男になら話してもいいと思えた。私は塞ぎ止められたものがなくなって、一気に打ち明け始めた。

 女の三十一という歳は、長年付き合った恋人と別れるにはもうつらすぎる年齢だった。最後に会ったとき、かれは私の知らない色のマフラーをしていた。つまり、そういうことだった。私はそれから結婚相談所に通うでもなく、合コンに行くでもなく、ただ心の穴を埋めるために男を金で買うことを選んだ。そしてかれと出会い、みるみるうちにはまっていった。


 真佑(まゆ)は少女のように突然、歌を歌う男だった。


 でんでん虫虫

 かたつむり

 お前の頭はどこにある

 角出せ、槍出せ、頭出せ。


 地声よりも少しだけ高い、透き通った声で、真佑は歌った。


「残酷な歌ね」

「そうかな。僕はそうは思わないよ」

 真佑はいつになく真面目な口調で続けた。

「相手のことが知りたいっていう、とても純粋な気持ちを歌っているんだ」

 この歌は。と、感傷的な横顔を見せる。

「真佑、こっち向いて」

 真佑はこっちを向かなかった。私はそのままの姿勢のかれを抱き寄せ、ふわふわの髪を撫でる。こんな仕事を選んだかれも、きっとなにか自分ではどうしようもないものを抱えているんだ。私は、かれの悲しみを分かち合えない。そしてそれは、この世で最も悲しいこと。

「次はさ、外で会おうよ。あ、希和さんの家にいってもいいかな」

一拍置いた後、愛しい声が尋ねる。かれとホテルで会うようになって六回目のその夜、私は本気でかれを解き明かしたいと思った。

 店を出ると、店にはいる前よりも不思議と藤岡がいい男に見えてきた。もうどうにでもなれと、私はゆっくりかれの手を握った。

「駄目ですよ。いい歳をしてお酒に飲まれちゃ」

 手を優しく握り返したあと、すっと離しながら藤岡はいった。その日はそれきりだった。私たちはそれぞれの家に帰り、私はコートも脱がずにベッドに倒れ込み、そのまま眠った。

 真佑の夢を見たいと思っていたけれど、その日の夢には真佑も藤岡も出演しなかった。

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