エスカルゴの涙

くもさき

第1話

 カフェの向かいの席で足を組み、なにか言い訳をするでもなくただ黙りこくっているかれは、私の知らないマフラーを巻いていた。視線はテーブルの上の灰皿に注いでいるけれど、そこには別段面白いものがあるはずもなくただ空っぽのままだ。私は私が一気に遠く、かれにとって過去の人になっているのだと感じる。かれはどこを見ているかわからない目をしていたし、その理由を聞くのもいまさら意味のないことに思えた。


 私はそれ以上なにも言わず、千円札一枚を灰皿の下に差し込み店を出る。かれは私を止めもせず、初めから一人でそのカフェに本でも読みに来たような格好で、伏し目がちに灰の積もらないその銀皿を見つめていた。最後に、遠回しな物言いでもいいから、嘘でもいいから私たちの話を、一緒に過ごした時間の感想を言って欲しかった。


 アパートに帰ると、自分の着ている下着がひどく汗をかいていることに気付き、急いで裸になる。まだ水が冷たいうちにシャワーをかぶったけれど、そんなことで消えてくれるつまらない感情は残念ながら私の中にはなかった。

 小さな浴槽にお湯をためながら入ると、愛しい日々が蛇口から零れるお湯と一緒に私の元へと帰ってきた。どっちが長くサボテンに触っていられるか、目隠しをして作った紙飛行機での競争。他愛のないやりとりは、私をいつだって癒してくれた。すでに私の知らない男になり始めているかれとの過去。それに浸るのが、あまりに不毛なことだと解ると、すぐに浴槽から上がった。

 急いで着替えると、四十五リットルの燃えるごみ袋に、思い出を片っぱしから投げ込んでいく。私の住んでいる辺りはとくに居酒屋が多く、ごみの分別に関しては驚くほど緩かった。いや、もしそうでなくても今日ばかりは私も分別などしなかっただろう。ほとんど処分したかな、と部屋を見渡したとき、窓際にちょこんと置かれたサボテンが目に留まった。そっと針の部分を指の腹で触ると、すぐに指を引っ込めてしまうほど、つんとした痛みがからだの末端から隅々まで駆け抜けた。どれだけ血が出ようとも、この手でそれを握りしめてしまいたかった。それでも、すぐに思い止まったのは、やはりかれが私のその手を誉めてくれたことが忘れられなかったせいだ。

 私はほとんどパジャマ姿のまま、裸足にサンダルを履くとそのまま勢いよく外に飛び出した。

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