# 17

 佑希は自席に戻ると、PCで社内ポータルサイトを開いた。ポータルサイトからは、各種連絡文書、社内の座席表や連絡先一覧、そして社内マニュアルや顧客向け資料のデータなどを見ることができる。佑希はその中から、「くらしサポート」の顧客向け資料のPDFを開いた。


 入社する前は、保険会社に入社したら、様々な保険商品の知識を叩きこまれ、自社のあらゆる商品に詳しくなれるのかと思っていた。しかしいざ入社してみると、入社後に配属された営業現場では、商品の細かい知識よりもいかに営業職員とうまくやっていくかの方が重要で、その後配属された事務センターでは、データ入力を行う派遣社員やアルバイトをいかにうまく使っていくかの方が重要で、事務統括部に異動してきてからは、コールセンターや事務センターをいかにうまく管理していくかの方が重要だった。


 もちろん、自分が担当している死亡保険の分野ならある程度の知識は頭に入っているが、発売されてからまだ日も浅い、自分の担当外の商品となると把握していないことも多い。しかしこうして関わってしまった以上、知りませんでしたでは済まされない。


 佑希は画面をスクロールしながら、資料の文字をざっと追った。病気・ケガで働けなくなったときに、毎月給付金をお受け取りいただけます。当社独自の「就業不能状態」に該当した場合が対象です。「就業不能状態」については下記の表通り……


 そして、先程話題になった特約の紹介のところで手を止めた。


 多様な特約はこの商品の売りの一つであり、種類は16種類。先進医療による療養を受けたときのための「先進医療特約」、初めてがんと診断された場合に備える「がん診断特約」、入院したときの一時金を給付する「入院一時金特約」、他にも、骨折したときの保障や、余命宣告されたときの保障というのもある。


 もちろん、様々な特約をつければつけるほど、保険料は少しずつ上乗せされるし、保障内容も複雑になる。


 もしかしたら、保障内容をきちんと理解しないで、営業職員の勧めるままに特約をつける顧客もいるかもしれない。だからこそ、今回の件で最初に対応した営業職員も、まず最初に契約内容を確認し直したのだろう。


「あのぉー、ちょっと教えてほしいことがあるんですけどぉー」


「うわっ」


 びっくりして振り返ると、福留がPCを覗き込むようにして真後ろに控えていた。慌ててPDFを閉じようとしたが、福留はのんびりした調子で言った。


「あー、『くらしサポート』って特約いっぱいありますよねー。僕も入るとき、どれつけようか迷っちゃいました」


 佑希は一瞬沈黙した。そして、驚いて訊き返す。


「福留くん、『くらしサポート』入ってるの?」


「あ、はい。自分のとこの商品ですし、せっかくだから入っておこうかなーって思って」


「へー……そうなんだ。……で、教えてほしいことって?」


「それがですね……あっ、ペン忘れてきちゃった。すみません、取ってきます」


 そう言って福留は、自分の席へと走った。


 入社2年目のマイペースな後輩に、そんなに愛社精神があるとは思わなかった。そもそも実家暮らしの独身、しかも親は医者という恵まれた環境で、働けなくなったときの保障など要るのだろうか。


 これも入社してから意外に思ったことの一つだが、保険会社の社員は、自社の保険にあまり入りたがらない。総合職社員は、営業職員のように契約数を稼ぐために自ら保険に入る必要はない。それに社員向けに割安の団体保険があるのだ。佑希もそれに加入し、最低限の保障だけで済ませている。


 しかし、だからといって、加入を考えないどころか、新商品の詳しい情報も把握しないまま仕事をしてきて、いざ自分が関わってからマニュアルを開き始めているようでは情けない。しかもそんな姿を後輩に見られてしまったとは。


 もっと勉強しなければ。佑希は思った。


 ◆


 夕方になってやっと、山下と前島が緊急対策会議から戻ってきた。前島は、古山と佑希を自席のそばに呼んだ。


「システムの方で、原因が特定された。詳しいことは省くが、システムの設計ミスで、特定の特約をつけるなど一定の条件を満たした顧客について、一回の引き落としにつき数百円の誤計算が起きていたそうだ」


 信じられないようなミスが現実になってしまい、佑希は苛立ちを覚えた。とっくに覚悟はしていたつもりだったが、まだ心のどこかで、何かの勘違いであってほしいと願っていたのだろう。


 前島は、手に持った資料に目を落とした。


「影響範囲を調査した結果、保険料を過剰に引き落としていた案件が、423件」


 佑希は数字をメモに取った。これまで誤った金額のまま見逃されていた数だと思えば多いかもしれないが、システムのミスによる全社的な影響がこれだけで済んだのなら良い方だ。


「そして」


 そして?


「実際の保険料より引き落とし金額が少なかったのが986件」


 少ない方もあったのか! しかもそっちの方が多いのか! メモを取ろうとした手に力が入り、シャーペンの芯がボキッと折れた。


「合わせて1409人の顧客に影響が出ている」


「それにしても、どうしてこれまで気づかれなかったんでしょう」


 古山が疑問を口にした。


「実はね」前島は溜め息をついた。「コールセンターで、今日出勤しているオペレーターに対して緊急で聞き取りを行ってもらったんだ。会議には、あっちのセンター長も、テレビ電話で参加していたからね。そうしたら案の定、以前から他にも何件か問い合わせが入っていたというんだ。それが、個々のオペレーターや、SVの判断で見逃されていた。お客さんも、営業職員に確認するよう誘導されたり、間違いなんてあるはずないとコールセンターに強く出られたりして、引き下がっちゃったんだろうね。しかも、引き落とし額が少ない分には損じゃないし」


 佑希は苛立ちを隠せなかった。コールセンターは何をやっていたんだ。それを報告してくれていれば、もっと早く対処できたかもしれないのに。


 前島は、そんな佑希の気持ちを見透かしたかのように、穏やかな目をして言った。


「上としては、発覚が遅れたのをコールセンターのせいにしたいようだ。だが、私としては本社の監督責任もあると思っている」


 佑希は、前島の目を見返した。前島は、さっと厳しい目つきになった。


「コスト削減や効率化を押しつけ、利益になる営業のアウトバウンドばかり重視する。そうして、コールセンターは問い合わせ対応に体力を割けなくなってしまう。するとどうなるか」


 佑希は目線を落とした。


「お客一人一人の疑問を掘り下げて傾聴することなく、短時間で電話を切らせ、次の電話を取らせる。その方がオペレーター一人当たりの受信件数は増えて効率が良くなるからね。親身に話が聞けるオペレーターほど評価が低くなり、彼らは理想と現実のギャップに職場を去っていく。うちは関係ありません、営業さんにでも聞いたらどうですか、そういう態度をとれる奴が残っていく」


 佑希は背筋が冷たくなるのを感じた。


 前島は、まだ大洋生命がコールセンター業務を子会社委託していなかった頃にコールセンターに所属していたことがあり、佑希もこの話は以前から聞かされていた。それが今、目の前で起こっていることとして、改めて重くのしかかる。


「まあ、以前から上に物申していたことだったが、うちの担当の小窪常務が耳を貸さない。この間も、アウトバウンド強化の指示を出してきたところだったしな」


 佑希はうつむいた。


 ――インバウンドも手一杯です!


 コールセンターの吉村に言われた言葉がよみがえる。その指示を現場に伝えたのは自分だった。


 ――実務をすべて子会社任せにして胡坐をかいている人たち。


 先程、自分はシステム企画部の人たちのことをそう称した。それは自分への盛大なブーメランだった。結局、やっていることは同じだ。


「さっきの会議は、ひどかったよ」前島は苦笑交じりに声を潜めた。「どう解決するかより、どう自分たちを守るかだ。すべての責任は大洋生命システムズにある。発覚の遅れは大洋生命テレサービスのせいだ。すべて子会社のせいにして、責任を逃れ、自分たちを守ろうとしている。特に、まあ、誰がとは言わんが」


 前島は言葉を濁したが、佑希は察した。おそらく隣の古山も。なにしろ、システム企画部も、コールセンターを統括する事務統括部も、小窪の担当部門なのだ。自分を守ろうとする小さい男の姿が目に浮かぶ。


 船は大きい方がいいから、と昨日レストランで話したのを思い出す。確かに、そう思ってこの会社に入った。しかしその反面、組織が大きければ大きいほど、絡み合う利害も複雑になる。各々が自らを正当化しようとし、事実は歪められ、しわ寄せは下にいる者に回ってくる。


「まあそういう私も、会議じゃとてもそんなこと口に出せないけどね。ここで君たちに愚痴ったってしょうがない」


 そう言って、前島はフッと笑った。


「ともかく、対応については今営業も含めて協議しているところだ。特に、過剰徴収した分をどう返してもらうかをね。どちらにしても、対応が決定したら顧客へアプローチも入るし、プレスリリースも出る。うちが忙しいのは、それからだ」


「はいっ」


 佑希と古山は、そろって返事をした。


「水野さんも、担当外のところ悪いけど、古山さん1人じゃ大変だから、引き続き協力を頼むよ」


「もちろんです」


 佑希は頷いた。言われずともそうするつもりだった。


「ああそれと、水野さんが柏木さんから受けてくれたコールセンターのお客さんについては、対応方針が決まってからコールセンターで連絡することになった。柏木さんたちの方にもその話は行ってるから心配しないで」


「分かりました」


「コールセンターに任せられることは、安心して任せよう。私たちの仕事は、彼らが全力を尽くせるようサポートすることだ」


「はいっ」


 佑希は、前島の目をしっかりと見て答えた。


 席に戻ると、福留がPC画面を見ながら戦慄していた。今回の件に関するメールを読んでいるようだ。


「な、なんか、やばいことになってませんかぁー? 金融庁がどうとか、いろいろ書いてあるんですけど……。う、うちの会社、潰れたりしませんよね?」


 佑希はどっと脱力した。そしてあきれ顔で福留の方を見た。福留はすがるような目で佑希を見る。


 しょうがないなあ。佑希は笑顔で福留の方を向く。


「大丈夫、あんたは余計な心配しないで、自分の仕事に専念しなさい。こんなことで潰れたりするもんですか」

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