# 16

 いつも通り、保険金の請求書の内容を端末に入力していた恵人は、顧客が書いた書類の中に“祐希”という名前を見つけた。字は少し違うが、愛しい人を思い出すには充分だった。


 昨日の佑希の姿が、自然と思い起こされる。真剣に映画を観る横顔、夕日の中での抱擁、食事中の笑顔、そして……


 思わず口元が緩みそうになり、恵人は慌てて真剣な表情を作った。


 それにしても、以前エレベーターで出会ったときは難しい顔をしていた佑希を笑顔にすることができたのだ。彼女にはもっと笑っていてほしい。彼女の苦しみの種は取り除いてあげたい。


 そうだ。ご飯とか作りに行ってあげたいな。


 昨夜、飲み物を出してくれたときに冷蔵庫の中身が一瞬見えてしまった。いや、覗くつもりはなかったんだけど。たまたま見えただけなんだけど。


 で、その冷蔵庫は、飲み物や調味料以外ほとんど空っぽで、食材らしきものが入っているようには見えなかった。


 きっと、激務で食事を作る余裕もないのだろう。自分も忙しいときは食事への関心が低くなっていたっけ。だからこそ、美味しい食事を作って佑希を癒してあげたい。佑希が喜んでくれる姿を見たい。


 いや、それって結局自分が、喜ぶ佑希の姿を見たいだけじゃないか。それに、いきなり食事を作りに行くのは、やっぱり重いかな。


 でも、食事、一緒にしたいな。せめて一緒にお昼に行くとか。


 しまった。今日お昼一緒に行けるかどうか朝のうちに訊いておけばよかった。佑希といると、幸せ過ぎて訊かなければいけないことを忘れてしまう。


 佑希の階はスマホの持ち込みも自由らしいし、昼休みになったら連絡してみるか。


 ◆


 そういう訳で、昼休みが始まるなり、恵人は早速佑希にLINEを送ってみた。しかし、しばらく画面を見つめてみても、既読はつかなかった。トイレを済ませて再びスマホを取り出してみても、まだ既読はついていない。


 どうしよう。忙しかったかな。やっぱり朝のうちに訊いておけばよかった。


 それとも、いきなりこんなメッセージを送って迷惑に思われただろうか……


 考えていても時間が過ぎるだけだ。そう思い直し、恵人は食堂へ向かった。スマホをこまめに確認しながら、ランチを選び、会計を済ませ、2人掛けの席を選んで、奥のソファ席は空けたまま手前側の椅子に座った。そしてポケットからスマホを取り出し、画面を見てみるも、佑希がメッセージを見た形跡はなかった。


 普通に考えたら、忙しいんだろうな。恵人はそう思おうとしたが、今朝のやけにあっさりとした佑希の態度がふいに頭をよぎった。自分とのやり取りも化粧の片手間といった様子で、こちらを見るのも鏡越し。朝食に何を食べたいか訊いても、軽いのなら何でもいいと投げやりな答え。愛の言葉は時間がないと拒絶され……


 いやいやそんな訳がない。佑希はその後も、自分と並んで歩くことを選んでくれた。そんな佑希を信じないのは逆に失礼だ。きっと本当に忙しいだけなんだろう。


 このままずっと待っていても仕方ない。恵人は、《忙しかったかな? いきなり誘ってごめんね。先に食べてるね》とメッセージを送り、食事に手をつけた。


 それにしても。恵人は周りを見渡した。右隣に座っているのは女性2人組。左隣は男性2人組。どちらも楽しそうに話をしている。気にしすぎかもしれないが、2人掛けの座席のわざわざ手前の席に1人で座っている自分が少し情けなくなった。


 せめてまた久米川にでもバッタリ会わないかなあ。そういえば久米川とは、この間一緒に飲んで以来連絡を取っていなかった。


 あいつ、佑希のことを高嶺の花なんて言っていたけど、昨日の出来事を知ったらどう思うだろう。驚き羨む顔を思い浮かべながら、様子伺いに久米川にもLINEを送ってみた。


 しかし、昼休み終わる時間になっても、どちらのメッセージにも既読はつかなかった。


 ◆


 山下の判断のもと、今回の過剰引き落とし問題は、会社のあらゆる危機に対応するリスク管理部に報告され、システム企画部を中心に調査が始まった。リスク管理部の判断で、役員や関連部署の責任者を集めた緊急対策会議が招集され、山下と前島の2人も5階の会議室へと向かった。


 佑希は会議に向けた報告書の作成や他部署とのやり取りに追われ、その合間には週末にコールセンターや事務センターで起きたその他の出来事についての報告も入り、やっと一段落がついたときには3時近くになっていた。


「はい、古山さん。鮭とツナマヨのおにぎりです。あとコーヒー。本当にこんなんで足りるんですか? 僕だったら倒れちゃいますよー」


 そう言いながら古山におにぎりとコーヒーを渡すのは、入社2年目の後輩、福留ふくどめだ。彼は個人年金保険や貯蓄保険の担当で今回の事態とは直接関わりがなく、比較的手が空いているため、休憩に出る間もない2人のために昼食を買ってきてもらったのだ。


「ありがとう。大丈夫、おにぎりの気分だったの」


 古山は笑顔でそう答える。


「水野さん、軽いのでいいって言ってたので、サンドイッチでよかったですか?」


 福留はそう言って残りのレジ袋を佑希に手渡す。


「え、ああ、うん。ありがとう」


 そう答えて、レジ袋の中を見ると、今朝食べたのと同じハムサンドだった。ちゃんとリクエストしておけばよかった。朝も先程も、時間がなかったからやむを得ないが、人に食べるものを頼むのは苦手で、どうしても曖昧なリクエストになってしまう。


「例のお客さん、まだ支部にいるんですか?」


 福留が尋ねた。


「ううん、さすがに昼過ぎに帰ったって。明日の夜、支社が自宅を訪問することになったみたいだけど」


 古山が、おにぎりのフィルムを引っ張りながら答えた。


「そっか、それはひとまずよかったですね」


「まあ、これから支社の対応をどうするかは、5階の会議と営業部門の問題だけどね。うちは営業本部が事務センターに問い合わせるのの間に入っただけだし」


 古山はそう言って、おにぎりに口をつけた。


「そういうもんなんですね……」


 福留はまだしっくりこないような様子で返事をした。


「支社のことまで構ってられないのよ。それより気になるのは、対象者がどれくらいいるかとか、どうやって対象の顧客にアプローチするかとか、かな。あと、新聞沙汰になるかどうかとか。早くシステムの方で原因が分かるといいんだけど」


「新聞沙汰、なりますか……」


 2人の会話になんとなく耳を傾けながら、佑希はコーヒーを飲み、サンドイッチに手をつけた。同じチェーンの同じ商品のはずなのに、朝に食べたものよりパサパサしていて、味気なく感じた。今日2回目で飽きているからなのか、消費期限が近いものだからなのか。


 そんなことを考えながら、片手でキャビネットを開き、鞄を取り出す。鞄に手を入れてスマホの通知を見ると、新着メッセージが2件入っていた。


 佑希は急いでサンドイッチを食べ終えると、ハンカチとスマホを取り出してトイレに立った。


 パウダースペースの鏡の前に立つと、化粧が崩れかけているのが分かった。


 今朝はいつもと調子が違ったからな。


 いつもの朝なら、化粧をするのに目はひんむくわ、鼻の下は伸ばすわと、ひどい形相になっているのだが、さすがに恵人の前では恥じらいがあって澄ました顔のままでいた。だから細部がヨレやすくなっていたのだろう。それに、ただでさえ、普段と朝のリズムが違って慌てていたのだ。初めての2人の朝を、もう少し落ち着いて過ごせればよかったのだが、仕方ない。


 化粧ポーチも持ってくればよかったと一瞬思ったが、どちらにしてもそんな時間はない。メッセージも急ぎの用事なのかどうかを確認するだけにしておこう。佑希はそう思いながらスマホを覗いた。そして、メッセージの内容に、顔をしかめた。


 なんだ、お昼の誘いだったのか。こっちは必死で仕事をして、お昼どころじゃなかったというのに。忙しかったかな、なんて後から言うくらいなら、先にこちらの状況を想像してほしかった。今日のような大きなトラブルがなくたって、ただでさえ月曜の午前中は慌ただしいのに。


 最初のメッセージが届いたのは12時2分。向こうは12時になると同時に席を立てる環境という訳だ。こちらの忙しさなんて分からないのだろう。SEの頃は激務だったと言って意気投合してくれたと思ったのに。


 そう思いながらスマホをポケットにしまおうとしたとき、古山の言葉がふと頭をよぎった。


 ――早くシステムの方で原因が分かるといいんだけど。


 恵人も同じシステム屋さんだった訳だし、取っ掛かりでもいいから何か分からないだろうか。そういえば恵人は今午後の休憩時間のはずだ。


 ◆


 3時の休憩時間が始まるとすぐ、恵人はロッカーに向かいスマホを取り出した。けれどもこの時間になっても佑希がメッセージを読んだ形跡はない。


 もしかして、やっぱり無視されているんだろうか。何か佑希の気に障ることをして嫌われてしまったとか。もしくはそこまでいかなくても、佑希にとって自分の優先度合いは低くて、これからも自分が追い続ける恋愛になってしまうのか……


 不安な気持ちで、自分が送信したメッセージを見続けていると、画面にパッと“既読”の文字がついた。恵人はホッと胸をなでおろした。


 やはりそんなことはない。自分はもっと自信を持っていいはずだ。そう思うと同時に、今まで佑希はスマホを見ることもできない状況だったのではないかと心配になる。お昼ご飯はちゃんと食べているんだろうか。


 そんなことを考えながら画面を見ていると、待ち望んでいた佑希からの返信が届いた。


《ねえ、銀行引き落としの金額がおかしくなっちゃうシステムのバグみたいなのって、聞いたことある?》


 …………はっ?


 恵人はポカンと画面を見つめた。言っていることの意味が分からない。言っていることの意図も分からない。それに、こっちが一方的にお昼に誘ったとはいえ、メッセージに気づかなかったことに対して一言あってもいいんじゃないだろうか。佑希はもう少し聡明な人だと思っていたのに。


 いや、きっと佑希も大変なんだろう。何かトラブルが起きているのかもしれない。まずは、何があったか聞いてあげなければ。そして、自分の知識に限界があることもきちんと伝えなければいけない。


 ◆


 佑希が質問のメッセージを送ると同時に、その隣に“既読”の文字がつく。つまり、恵人はこの画面を開いたまま佑希の返信を待ち構えていたということか。ちょっと引き気味で佑希はLINEの画面を閉じた。


 しかし、何はともあれタイミングよくメッセージを目にしてもらうことができた。原因はシステム企画部を中心に調査中だというが、システム企画部には、PCのローマ字入力もできず、いまだにカナ入力で文章を打っているような人もいるというのだ。実務をすべて子会社任せにして胡坐をかいている人たちより、現場を知っている恵人の方がまだ柔軟な発想ができるかもしれない。


 返事を待つ間に用を足し、手洗い場の前で再びスマホを見ると、さすが恵人だ。早速返信が来ている。


《何の話? 僕はWEB系SEだったから、よく分からないんだけど》


 佑希はガックリと肩を落とした。そっか。そりゃあそうだよね。期待した自分が馬鹿だった。


 同時に、恥ずかしさと自分への怒りが込み上げてきた。自分は何をやっているんだろう。この忙しいときに、男とLINEなんかして。会社の問題を自分の恋人が解決してくれるなんて期待して。


 そんな気持ちの収まらないまま手短に返事を返し、佑希はトイレを出ようとした。するとそこに、柴田が入ってきた。


「あら、水野ちゃーん」


「柴田さん、お疲れ様です。ってうわなんですか」


 柴田は佑希を見るなり、佑希がさっきまでいたパウダースペースに佑希を押しやった。そしてニンマリと笑うと、声を潜めて言った。


「見ちゃったわよー。今朝あの男の子と一緒に来てたでしょー」


 佑希は額に手をやった。朝の時点では誰に見られても構わないと思っていたが、今は説明するのも面倒臭い。


「ね、どしたの。朝帰り? いつの間に?」


 佑希の気分に反して、柴田は上機嫌だ。


「……知りませんっ」


 佑希は膨れっ面で柴田を押しのけ、その場を後にした。

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