# 13

 久しぶりに会った恵人は、髪が短くなっていた。別人のようで、少しこそばゆい気持ちになる。


 ゼミ仲間で集まった日の翌日、佑希は恵人にLINEを送り、一度断った映画に誘い直した。それからの1週間は、そわそわと心浮き立つような日々だった。


 そして土曜日の昨日、1週間分の家事を片付けると、風呂で丁寧にリンパマッサージをし、パックで肌を整え、今日に向けて備えた。


 服装は、久しぶりに引っ張り出してきたデニムワンピに白のレースのカーディガン。靴はベージュのフラットシューズ。髪には、今日はスエードリボンを合わせた。


 一方の恵人は、青いチェック柄のシャツに、黒のズボン。会社にいるときよりもう一段階カジュアルというところか。


 こうして私服になってしまえば、普通の男女でしかない。会社での立場も、胸元の社員証の色も関係ない。


 2人肩を並べて映画館へ向かう。こういう場面は、幾つになっても照れ臭い。知り合いにでも会ったらどうしよう、などといらぬ心配をしてしまう。


「ええと……1度断っちゃってごめんね。あのとき、ちょっとバタバタしてたんだ。ほんと、それだけだから」


 我ながら弁明じみている、そう思いながら佑希は言った。


「いや、こちらこそ、忙しいときにごめん。こっちも、たまたま電車の広告でこの映画のこと知ってさ、それでほら、男1人でこんなの見に行くのもって思って、それで」


 最後の方は濁すように、恵人は言った。2人して言い訳を重ねるようにしている姿が面白くて、佑希はこっそりと笑った。


 恵人は、うつむいて自分の足元を見た。本当に、ただバタバタしていたというだけで断った訳じゃないよな。


 ――あなたの社員証じゃ、このフロアの部屋、入れないんだよ。


 古山の言葉が頭の奥に響く。佑希に言われた訳ではないが、まるで佑希本人に拒絶されたかのように思えてしまう。


 恵人はそっと顔を上げ、佑希の顔を覗き込んだ。


 笑っていた。佑希の可憐な笑顔に、恵人は心が暖かくなった。


 ◆


「映画、おもしろかったね」


 映画館近くのファッションビルをぶらぶらしながら、佑希は言った。


「うん。引き込まれちゃったよ。最後の最後までどう終わるのか心配だったけど、あのラストでよかった」と恵人は返す。


「うん、分かる。あー、でもいちばん最後のところだけは、よく分かんなかったなあ」


「確かに、あれ余計だった気がする」


「尺が余ったとか」


「まさか」


 そう話しながら、2人で笑った。


 館内の明るい照明が、一つ一つのショップを明るく照らす。店先に並ぶ商品も、それを眺める他の客たちも、キラキラ輝いて見える。


「どこか見たいお店ある?」


 恵人は尋ねた。


「うーん……」


 佑希は返事に詰まる。正直なところ、男性と出かけているときに服を見定める気はおきない。かといって、このままどこにも入らず歩いているだけなのもつまらない気がする。そんなことを考えながら辺りを見渡していると、あるショップの入り口にいる小学生くらいの女の子と、母親らしき女性の姿が目に留まった。


 その店は姫系子ども服のブランドで、女の子はフリルのついたピンクのワンピースの裾をつかんでいる。そばを通り過ぎようとしたとき、母親の声が耳に届いた。


「ピンクなんて着るもんじゃないって言ったでしょ」


 佑希は足を止めた。女の子は訴えるような目で母親を見上げている。


「これからは女の子だって青や緑を着る時代なの」


 青色のパーカーとカーキ色のカーゴパンツを着たその女の子は、諦めたように手を離した。


「……水野さん?」


 恵人に呼びかけられ、佑希は我に返る。気がつくと、恵人は佑希の数歩先で立ち止まって、こちらを振り返っている。


 佑希は歩き出し、言った。


「それじゃあ、上に行ってみようか」


 ◆


「わあー!」


 ビル最上階の展望台。


 ガラスの向こうはオレンジ色に染まっていた。遠くに見えるビル群は黒いシルエットとなり、その向こうに太陽が身を隠そうとしている。


「すごーい! 綺麗だねえ」


 佑希はそう言って、恵人の方を見た。恵人はただ黙って微笑んだ。


 都会の向こう側に広がる、あたたかな空の色に、胸をぎゅっと締めつけられそうになる。嘘偽りのない、自然の色だ。


「あのね」佑希は口を開いた。「今日誘ったのは、本当は、考え直したからなの」


 恵人は目を見開いて佑希を見る。


「最初、せっかく誘ってもらったのに、私ったら、自分の立場とか周りの人の言うこととか、そんなことばっかり気にして断ってしまったんだ。くだらないよね」


 佑希は口元だけで笑って、恵人を見た。


「いや、くだらないなんて言えないよ」恵人は首を振った。「僕だって、世の中分かってるよ。いつ首を切られるか分からない、不安定な生活で、水野さんみたいな立派な人と釣り合うわけないって」


「でもね」佑希は恵人を見つめた。「私は、あなたを忘れられなかった」


 恵人は微笑んだ。


「僕もです。水野さんが笑顔でいられるように、ずっと傍にいたい」


 きっと展望台には他にも人がいたはずだ。けれども、2人の目には周りの人たちの姿は入っていなかった。


 2人はどちらからともなく腕を伸ばし、抱擁を交わした。


 目の前は、一面の街の夕空。まるで、空を飛んでいるようだった。


 ◆


 いつの間にか日は暮れていた。


「えっと、この下の階って、レストランなんだよね」と恵人が言った。


「じゃあ、そこで食べてこっか」と佑希は返す。


「大衆居酒屋じゃなくて大丈夫?」


 恵人がいたずらっぽく訊くと、佑希は笑った。


「今日は特別な日だもん」


 展望フロアの一つ下の階のイタリアンレストランに入ると、窓際の席に案内された。2人は向かい合って座った。


「しまった、今日もスーツにしてくればよかった」


 恵人は、お洒落な雰囲気の店内を見渡すと、笑って言った。


「あら、充分立派よ」佑希もまた笑った。「まあ、けど、あのときのスーツ姿もカッコよかったけどね」


「よし、明日はスーツで出勤するか」


「やだやだ、明日のことはまだ考えない」


 佑希は、シッシッと嫌なものを追い払うように手を振った。


 本当に、まだ明日のことは考えたくない。職場に行けば生産性の低い仕事が待っている。


「お待たせいたしました」


 店員が来て、佑希の前にリゾットを、恵人にパスタを運ぶ。


「そうだね。今日はまず、この料理を楽しもう」


 恵人は穏やかに言った。


 ああ。自然にそう言ってくれる人が目の前にいてよかった。口をつけたリゾットは、今まででいちばん美味しかった。


「そういえば、恵人は、ウェブデザイナーっていうのかな、HP作るような仕事したいとか思ったりしないの?」


「どうしたのさ急に」


「んーなんとなく。ほら、前に見せてもらったHP、センス良かったじゃん」


 本当になんとなく、解放感からそんな発想が浮かんだだけだ。別に、自由で縛られない2人の未来を妄想していた訳ではなく。


「うーん、好きを仕事にすればいいってもんじゃないってのは、前の仕事で思ったかな」


 自由で縛られない未来は、音もなく萎んだ。


「ま、そうだよね。そういう私も、保険が好きでこの仕事してる訳じゃないし」


 佑希は自分に言い聞かせるように言った。


「じゃあ、どうして今の仕事に?」


「うーん、就活のときは、総合職でバリバリ働けるならどこでもよかったかなあ。なんとなく、金融系で大企業の方が、女でも舐められずに働けるイメージがあったから。それに……」


「それに?」


 佑希は窓の外に並ぶ、大きなビルの群れを見下ろした。


「正直、大企業なら潰れることもないし、安泰かなって。船は大きい方がいいと思ってさ」


 言葉にすることで気がついた。偉そうなことを言っておいて、自分も凝り固まった価値観に縛られていた訳だ。


「けど、最初の動機がどうあれ、立派に働く水野さんは素敵だよ」


 そう言われ、佑希は思わずむせそうになった。


「もうっ、何でさっきからそう恥ずかしいことばっか言うの!」


 そう言って、佑希は口を尖らせた。その姿に恵人は笑った。佑希も、耐え切れず口元をほころばせた。


 ◆


 高田馬場駅、改札前。


 佑希は、改札の手前で立ち止まり、恵人に向き直った。


「今日は本当にありがとう」


「こちらこそ。また明日、会社のどこかで顔見られるといいね」


 そうだ。明日は会社だ。もうそろそろ、明日のことを考えてもいい時間だ。


 佑希は、駅の時計にちらりと目をやる。


 これから、部屋に帰って、化粧を落として、明日に備えなければ。


 そのためには、ここで恵人に背を向けて、部屋へ戻らなければ。


 それでもまだ、今日を終えたくなかった。


「……ねえ」


「ん?」


「寄って、いきなよ」

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