# 12

 佑希からの丁寧な断りの文章に、恵人は、また機会があればと返した。そのメッセージは、既読の表示がついたまま宙に浮かんでいる。


 恵人はその画面をぼんやりと眺めた。


 早まっただろうか。もう少しメッセージのやり取りを重ねてからの方がよかっただろうか。それに、多忙な彼女の都合も考えずに誘ってしまったのがよくなかっただろうか。


 いや。それ以前に、あの日距離が縮まったと思ったのは自分だけだったんだろうか。


 やっぱり彼女は、手の届かない、遠いところの人だったんだろうか――


 ◆


 大洋生命3階、第2会議室にて――


 佑希は、企画部から配られた資料の中に、気になる文言を見つけた。


 保険金部業務の事務センターへの完全移管。


「これまで保険金部は、段階的に業務を事務センターへ移管してきましたが、先般の企画会議で、来期中にすべての業務を移管する計画となりました。各部門の皆様におかれましては……」


 企画部の説明を聞きながら、佑希はぼんやりと恵人のことを考えた。


 保険金部の業務が本社から移れば、彼のような派遣社員は仕事を失うだろう。運が良ければ、本社で他の仕事をもらえるか、事務センターでまた同じ業務につけるかもしれないが……


「……それにより、さらなるコストコントロールが見込まれ……」


 これだけ、コスト、コストと言っている状況では、期待できないだろう。


 そうなれば、恵人との繋がりもなくなるのか。佑希は、恵人が不安定な条件で働いているという事実を、改めて突きつけられたように感じた。


 ◆


 直接断られれば諦めもつくかもしれない。


 恵人は、その日の仕事を終えると、ロッカーから大きめの紙袋を取り出した。中には、柴田から借りたスーツが入っている。それを手に、恵人はエレベーターに乗り込んだ。


 4階に着くと、恵人は深呼吸し、廊下を歩き始めた。もちろん、このフロアに来たからといって、佑希に会えると決まった訳ではない。それでもわずかな期待と不安に、恵人の胸は脈打つ。


 はやる気持ちを抑えながら廊下を歩いていると、恵人のすぐ左横のドアが開いた。それは女子トイレのドアで、中から女性が1人出てくるところだった。佑希のことで頭が一杯で周りが見えていなかった恵人は、危うく中から出てくる女性とぶつかるところだった。


「あ、すみません……」


 そう言って顔を上げると、そこにいたのは見覚えのある顔だった。


「あれ、誰かと思ったら武田くんじゃない」


「こ、古山さん……」


「こんなところでどうしたの?」


 冷ややかな声で、古山は訊いた。


「ええと、柴田さんにお借りしていたものがあったので、それを返しに……」


「借りてたもの?」と古山は怪訝そうに聞き返す。


「ええ、ちょっと、スーツを……」


「スーツ? ああ、だからこの間スーツだったって訳か」


 恵人はきまり悪く目をそらした。この間はせっかくビシっとキメてきたというのに、そのタネがバレてしまった。


 古山は、口元に笑みを浮かべると、右手を差し出した。


「ほら。ちょうどいいから、私が返しといてあげるよ」


 恵人は一瞬硬直した。どうにか言い返さなければ。


「大丈夫です。直接お礼も言いたいですし」


「いいって。お礼も私から伝えといてあげるよ」


 古山は手を下ろさない。


「けど……」


「武田くん? 柴田さんも仕事中だし、暇じゃないの」古山は突き放すように言った。


「それに、あなたの社員証じゃ、このフロアの部屋には入れないんだよ」


 ◆


 土曜日の夜。人で溢れ返る新宿駅に、佑希は降り立った。


 今日は仕事の日よりもカジュアルで、かといってラフになりすぎないよう気をつけて服装を選んできた。ダブルストライプのシャツに、黒のカーディガンを羽織り、ボトムスはマスタードイエローのワイドパンツ。足元は黒のオープントゥのパンプスを合わせた。髪は、三角の飾りのついたヘアゴムでポニーテールに結った。


 もう、何人か来ているはずだ。周りを見渡すと、懐かしいメンバーが数人、売店の前に立っているのを見つけた。今日は、結婚する美香への前祝いと称して、同じゼミの女性陣で集まる約束をしていたのだ。


「あ、佑希、久しぶりー」


 こちら側を向いて立っていた久美子くみこが、佑希に気づき声を掛けた。以前会ったのは2年ほど前、他のゼミ仲間の結婚式のときだった。そのときと変わらない、というより学生時代とほとんど変わらない姿だ。10年の時が一気に縮まったかのようだ。久美子はセミロングの髪を軽く巻いており、服装は、目を引く赤のトップスに、チェックのタイトスカートを合わせている。


「わー! 元気にしてたー?」


 続いて亜美佳あみかが声を上げる。こちらは5年ぶりくらいだろうか。けれども彼女も姿は変わらず、むしろ以前より引き締まっているように見えた。こちらはベージュのノーカラージャケットに、白のシャツ、ボトムスには黒のアンクルパンツを合わせている。


「もー久しぶりー! ちょっと痩せたんじゃない? ていうかやつれた?」


 芳子よしこがそう言ってポンポンと佑希の肩を叩いた。こちらは、学生時代は掛けていなかった眼鏡を掛けている。服装は灰色のタートルネックに、茶色のジャンパースカート。


「はは、そうかも。激務でね」と佑希は答える。


「もーう、大丈夫ー?」


 あっけらかんと笑い飛ばす芳子は、確か商社の一般職を辞め、今は子持ちで専業主婦のはずだ。芳子だけでなく、ゼミ仲間の半数近くは家庭を持っている。「今日は旦那の分の食事を作ってから出かけてきた」とか「子どもが産まれてから初めて夜に外出した」とか言い合う彼女らに、佑希はなんとなく引け目を感じた。


 そんなこともあって、お店では、同じく独身で恋人ナシの亜美佳の隣に座った。亜美佳はノンバンク企業の本社勤務で、佑希と同じく、業務委託先との折衝に奔走しているという。亜美佳とは、学生時代は授業で隣の席に座ることはあっても一緒に遊びに行くほどの仲ではなかったが、今日は、立場が似ているからか自然と会話が弾んだ。


「そうそう、上は思いつきで言うけど、現場の人に頼むのこっちなんだよねえ」


「分かるー。それで現場の人には細かいところまで質問責めにされるし」


「ねえねえ、佑希と亜美佳は、会社に良い人とかいないの?」


 2人で仕事の愚痴を話しているところに、芳子が割って入ってきた。


「そうそう、2人も美香に続かないと」


 同じく既婚で、現在育休中のあやも、芳子の隣から口を挟んできた。


「良い人って言ってもなあ……」


 亜美佳はそう言って佑希に目を合わせた。


「ねえ……」


 良い人。良い人かあ。佑希の頭に一瞬、恵人の顔が浮かんだ。けれどその後すぐに、それを打ち消すように古山の厳しい顔が浮かぶ。


 亜美佳は苦笑しながら口を開く。


「うちのとこは女社会だから、男っていったら既婚のおじさんか、派遣さんしかいないんだよねー」


「え、そうなの!?」


 驚いたように返す綾の職場は、建設機械メーカーだったはずだ。職場環境はこちらとだいぶ違うのだろう。


「そっかー、派遣さんはちょっとねえ……」


 芳子は眉をひそめて言った。佑希は、肯定も否定もせずに、愛想笑いで答える。


「将来考えると不安だよねえ」と、話を聞いていた久美子も続いた。


「そもそも、最初から対象にならないよねえ。ね、佑希?」


 亜美佳はそう言って佑希の方を向いた。


 頷くことはできなかった。


「なにそれ……」


 言葉が口をついて出た。


「派遣で働いてるからって、人格に問題がある訳じゃないじゃない!」


 自分でもびっくりするくらい、大きな声だった。抑えられなかった。頭がカッとなるのを自覚する前に声が出ていた。みんなが驚いて自分を見ている。


「あ、ごめん……」


 佑希は口をぽかんと開けたまま言った。


「ううん、私も言葉が悪かったかな?」と亜美佳。


「てか、佑希、酔ってるでしょー。飲みすぎー」と芳子が笑う。


 こういうときは芳子の笑顔に救われる。佑希も笑い返して、メニュー表を手に取った。


「あは、そうかも、ソフドリ頼もっかなー」


 そして、メニュー表の陰に顔を隠し、恵人のことを想った。


 ◆


 それでも本当は恵人と一緒にいたいんだ。家に帰ると、誰もいない部屋でひとり、佑希は恵人を想った。


 周りに否定されたことで、かえって気持ちがはっきりした。


 一度断ってしまったけれど……それでも、映画は来週もやっている。

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