# 11

 4階です。


 アナウンスの声でハッと我に返り、佑希は慌ててエレベーターを降りた。どうやら、1階から4階までのわずかな時間で眠りについていたようだ。


 普段から深夜残業に慣れているとはいえ、お酒が入った状態での夜更かしは身体に堪えたようだ。やはり20代の頃のようにはいかない。本当に、今日が土曜日ならよかったのに。


 もちろん、こうなることは昨日の時点である程度予想していた。けれど、それでも命の恩人であるあの男性と一緒にいたかった。


 しかし、強引に飲みに誘ってしまったが、相手の方は今頃大丈夫だろうか。データ入力なんて、ただでさえ眠気との闘いだろうに……


 ◆


「珍しいな、おまえが栄養ドリンクなんて」


 メリメリと瓶を開ける音を耳にして、同じ島の社員が恵人に声を掛けてきた。


「ええ、まあ、そうですね」


 今の自分はそんなイメージなのか。昔は栄養ドリンクなんてお茶代わりに飲んでいたのに。恵人は心の中で思った。


「大丈夫? 疲れてるのか?」


「いや、大丈夫です。昨日ちょっと……」


 そこまで言って、恵人は言葉を詰まらせた。詮索されるかと思ったが、社員はそれ以上何も訊いてこなかった。


 ドリンクを一気に飲み干すと、久々の苦みが、カーッと喉の奥に流れ込む。恵人は顔をしかめた。


 それでも今日は幸せだ。昨日あの人と知り合って、お酒の席までともにできたのだから。それだけで、今日も一日頑張れる気がした。


 ◆


 紙コップの中に黒い液体が注がれる間にも、一瞬の睡魔に襲われそうになった。いけない、いけない。佑希は、自販機の取出口を開け、コーヒーを手に取った。


「おはよう。やっぱり今朝は眠いよね」


 声がして振り返ると、古山も財布を手にしていた。今、まさに睡魔に襲われていたところを見られただろうか。佑希は苦笑いしながら答えた。


「おはようございます。今日はコーヒーでも飲まないとやってられないですね」


「ほんとだね」古山も苦笑した。「あれ? でもさあ……」


 古山が首を傾げたので、佑希は身構えた。


「水野ちゃん、昨日は1次会で帰ってたよねえ。逆に、いつもより早く帰れたくらいじゃない?」


「えっ、ああ、そうですね。けどやっぱりその、お酒が入ると身体にくるというか……」


「ふうん。水野ちゃん、いつもお酒強いのにね」


「そうですね……まあ、そういう日もあるというか」


「ねえ水野ちゃん」


「はい?」


「あの後、武田くんと一緒だったでしょ。2人でどうしたの?」


 佑希は硬直した。どうしてそのことを。


 もしかして、昨日恵人との別れ際に感じた視線は古山だったのか。そういえば、古山も乗り換えに高田馬場駅を使っていたっけ。


 いや、別に後ろめたいことをしている訳ではない。佑希は答えた。


「いや、別に2人でどうとかではなくて、昨日はちょっと飲み足りなかったので。本当は古山さんも誘おうと思ったんですけど、2次会に行かれてたので……」


「えー? じゃあ2次会来ればよかったじゃない」


「そうなんですけど、やっぱり気の置けない人たちで飲みたいというか……」


「ふうん」古山はフッと笑った。「彼とはもう、気の置けない仲なんだ」


「いや、その……」


 古山は笑いながら言った。


「誕生会のときも、彼のことかばってたみたいだし、もしかして、吊り橋効果で惚れちゃったあ?」


 心臓がもわりと広がり、体温がキュッと下がった。


 すると、古山は一瞬で真顔になり、


「派遣はやめときなよ」と、乾いた声で言った。


 佑希は驚いて、目の前にいる、自分の先輩を見つめた。


「危ないところを助けてもらって、カッコよく見えたかもしれないけど、所詮はいい歳して派遣やってる男だよ。将来性ないし、なによりつり合わないよ」


「一時の感情だけで恋してる歳じゃないでしょ。将来のこと、考えなきゃ。努力しなきゃ結婚できない時代だよ。まだ若いと思ってると、私みたいにあっという間にオバサンになるよ」


「それとも、この仕事に一生のやりがいを見いだせる? この部署にいても、先が知れてるんだよ。若いうちから営業の最前線にいた人たちとは、もう差がついてる。事務統括なんて名前だけはいいけど、やってることはただの調整役じゃない」


 古山は一気にまくしたてると、最後に言った。


「分かった?」


 佑希は呆気にとられながら、小さく頷いた。


 ◆


 電話の向こう、澤井の声は殺気立っていた。


 以前問い合わせがあった、同性パートナーの件で、なかなか回答を返さないコンプライアンス部に散々催促をし、メールを何往復もして文書案を調整し、やっと承認が下りたというところだった。


「けど、これじゃ納得していただけませんよ」


 けれども澤井は、それをあっさりと突っぱねた。


「それはコンプラにも訴えたんですが、あいにくこれ以上具体的なことは書けないというのが、社としての見解なんです」


「1週間以上かけてその答えですか? お客様にもそう言われます。この文書を見てお客様がまた電話してきたら、こちらはどう答えればいいんですか?」


 そうは言われても、たった一人の顧客のために、これ以上の対応は無理だ。


「……もう一度だけ、確認してみます」


 佑希は、低い声でそう答えた。そうでもしないと、ここは収まりがつかない。ここの部署は、そういう仕事なのだ。


 ◆


 帰りの電車の中、恵人は真剣な眼差しでLINEの画面を見つめていた。


 画面の中央には、ウサギのようなかわいらしいキャラクターのスタンプが浮かんでいる。昨日の帰り際、佑希とLINEの連絡先を交換した。そのときのやり取りだった。


 そして顔を上げ、左上を見た。そこには、恋愛映画の広告が吊り下がっている。大ヒットした小説が原作で、有名俳優と人気アイドルが主演を務める。朝のニュースやバラエティー番組でも、キャストが何度も出演して、この映画の宣伝をしている。


 それが今週末、公開となる。これはチャンスだ。


 恵人は再びスマホに目を落とした。そして、胸を高鳴らせながら、映画の誘いのメッセージを書き始めた。


 ◆


 今日はさすがに終電は避けたい。佑希は目をこすりながら思った。


 けれども、昨日できなかった仕事がまだ残っている。日中はコンプライアンス部との応酬に余分な時間を取られてしまった。明日の会議までに、まだやらなければいけないことがある。


 佑希は、作り途中の資料に目を落とした。事務部門のコスト管理についての資料だ。


 事務部門は、収益には直結しない部門だ。もちろん佑希たちの仕事も。どんなに顧客のために尽くしても、どんなに頑張って残業しても、その仕事はコストとして見なされる。


 日々関わっている現場の人たちの仕事も、将来的にはAIに置き換わるかもしれない。そうなれば、自分たちが管理をする必要もなくなるかもしれない。


 古山の言う通り、自分たちの仕事にはもう先がないのかもしれない。


 しかも、自分が長く担当している死亡保険の分野は、今時もう流行らない。今主流なのは、生きている間の病気に対する備えや、働けなくなったときのための保障だ。


 今までの経験や知識が、これからどう役に立つと言うのか……


 そのとき、デスクに置いてあったスマホの画面が明るくなった。


 恵人からだった。


 佑希は無表情でLINEの文面を見ると、そのままスマホを鞄にしまった。


 仕事が終わったら、断りの返事を入れなければ。


 ごめんね。武田さん。


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