# 9

 1階のロビーで、恵人はそわそわしながら社員たちが下りてくるのを待った。


 スーツのサイズはおおよそ合っていた。さらに、コンビニで整髪料を買い、髪も入念に整えた。ついでに、鞄のポケットに眠っていたコンタクトレンズもつけてみた。これで、しがない派遣社員には見えないだろう。


 エレベーターが開き、青い社員証の面々が現れる。その中に前島の姿もあった。挨拶しなければと恵人は背筋を伸ばしたが、前島は恵人に気づかずに横を通り過ぎてしまった。


 スーツ姿じゃ気づかれなかったか、とがっかりしていると、佑希の姿が目に入った。佑希は少し驚いたように恵人を見つめている。そして、ゆっくりと微笑んだ。


「お、おつかれさまです」


 恵人はどぎまぎしながら声を掛けた。


「おつかれさまです」佑希は笑顔で返す。「行きましょう」


 そして佑希は、ゲートに社員証をかざす。恵人もそれに続いた。


 佑希は、前を歩く前島に声を掛ける。


「課長。武田さん、ちゃんと来てくれましたよ」


 前島と、その隣にいた古山が振り返った。恵人を見て、目を丸くする。


「どちら様かと思った」


 ◆


 みんなで連れだってお店へ向かう。佑希と恵人は、自然と肩を並べて歩いた。横に並んでみると、2人はだいたい同じくらいの背丈だ。


 佑希は、前を歩く男性をそっと指差して、小声で説明した。


「あれがうちの部長、山下やました部長です」


 続いてその少し前を歩く、恰幅のいい男性に目をやった。


「あちらは金子かねこ専務。役職の割に気さくでいい人ですよ」


 そして、後ろをちらりと振り返り、楽しげに話す男女に目をやった。


「人事部の塚本つかもと部長と、若手の柳原やなぎはらさん。やけに仲が良くて、不倫してるんじゃないかって噂」


「しっ、聞こえちゃうぞ」


 後ろから女性の低い声が聞こえた。振り返ると、いつの間にか柴田がそこにいた。


「はい、気をつけまーす」


 佑希は苦笑しながら答えた。そして恵人を手のひらで指し示す。


「柴田さん、こちら保険金部の……」


「もう知ってるわ」


 柴田はニヤリと笑みを浮かべた。


「いつの間に」


 佑希は驚いて、柴田と恵人を見比べた。


 ◆


 会場は、接待にも使われそうな和食料理屋だった。店内に入ると、奥の広いお座敷席に通される。みんな空気を読みながら、自分の座るべき場所を探す。小窪はいちばん奥の方に座るらしく、自然と若手はそちらを避けていた。


「ほらほら20代女子、そっち行かないで常務のテーブル行きなさい」


 塚本が女性陣を促す。


 佑希は手前から2つ目の列のテーブルに腰を下ろすと、恵人にも座るよう促した。恵人は戸惑った様子で、佑希の左隣に腰を下ろした。


「あの、水野さんは向こうに行かなくていいんですか?」


「呼ばれてるのは20代の女子だけだし。私はお呼びじゃないから」


 佑希は声をひそめた。もしかして、自分は20代だと思われているのだろうか。それなら光栄なことだが。


「まったく、失礼な話だね」


柴田はそう言いながら、佑希の向かいに座った。


「ねえ、ここ空いてる?」


 顔を上げると、古山が恵人の向かいの席を指差していた。いつの間にか前島たちと離れてこちらに来ていたらしい。


「あ、どうぞ」と恵人が答える。


 古山は静かに腰を下ろすと、佑希に向かって、来週の会議について話し始めた。話し相手を失った恵人は、うつむいてスマホを取り出している。


 どうしたのだろう。佑希は困惑した。古山はすごく気配りのできる人で、いつもその場全体が楽しめるような話題を振ってくれるのに。しかも、来週の会議のことなんて、今急いで話すことないのに。


「古山さん、こんなところに来てまで仕事の話はやめましょうよ」


 試しに、冗談っぽく笑いながら古山をたしなめてみた。一瞬、古山は面食らったようだったが、すぐに笑顔になって「ごめん、ごめん」と返してくれた。


 常務の小窪が拍手で迎え入れられ、乾杯の音頭とともに誕生会が始まった。


 といっても、佑希たちのテーブルはいたって平和に、普段の仕事の愚痴や、各々のプライベートの話で盛り上がる。


「武田くんは、毎日どんな仕事をしているの?」


 古山が恵人に尋ねる。


「ええと、お客様に万一のことが起こったとき正当なお支払いができるようにするために、支払いの申請書類の内容を審査端末に打ち込んでいます」


「へえ、しっかりしてるね」


 佑希は言った。


「面接みたいな答えね」古山は面白くなさそうに言った。「けど、データ入力って大変そうだね。ずっと同じことやるんでしょ? 疲れない?」


「いえ、こちらは有給休憩も取らせてくれますし、今のところ定時で上がれてますので、天国みたいなものですよ」


「ふうん、定時なんだー。羨ましい」と古山。


「ねえねえ、前はどんな仕事してたの?」


 割って入るように柴田が訊いた。


「前は、SEをやっていました」


「今日、自作のHPも見せてもらいました。すごかったですよ」と佑希は重ねる。


「ふうん、そんな才能があるのに」古山はまた口を開いた。「派遣で単純作業なんて、もったいなあい」


 本当に、今日の古山はどうしたのだろう。先程から一言一言に小さな棘を感じる。酒がそうさせているのだろうか。柴田もあからさまに眉をひそめている。


 佑希はハラハラしながら恵人の答えを待った。


「僕は、正社員として働くことがすべてではないと思っています」恵人は冷静に答える。「前の職を辞めたときに思いました。そのときは正社員でしたが、働いて、働いて、すべてを失うところでした」


 恵人は、グラスに口をつけると、続けた。


「今は仕事帰りに同僚と飲むこともできます。安くて美味しい料理を作ろうと、工夫を凝らすことも。一般的に、男の派遣社員は望ましい生き方ではないかもしれません。けれども、生き方は無限にあります」


「いいこと言うじゃない」と柴田。


「そうだ!」


 古山の隣で、一緒に話を聞いていた男性が声を上げた。


 佑希は胸をなでおろした。そして、グラスを持ち上げ、言った。


「その通り、生き方は無限!」


 皆グラスを上げた。


 ◆


 みんなほどよくお酒が入り、席が入り乱れた頃、小窪がビール瓶を持ってテーブルを回り始めた。そして、佑希たちのテーブルにもやってきた。


「いやあ、水野さんだったっけ? 頑張ってるみたいだねえ」


 ちょうど佑希の右隣があいており、小窪はそこに腰を下ろした。


「ええ、まあ」


 佑希はにこやかに返した。


 小窪がビールを注ごうとしたので、佑希はグラスに残ったビールを飲み干し、両手でグラスを差し出した。


「そうやって女の子ばっかりチヤホヤしちゃって」と柴田が茶化す。


「柴田さーん、相変わらず口が悪いなあ」


 小窪は笑いながらそう言うと、柴田にもビールを注いだ。


「水野さんは事務統括に来て、もうどれくらいになるっけ」


 小窪はテーブルに腕をついて佑希の方を向いた。妙に距離が近い。佑希は、気にしていないふうを装って答えた。


「5年になります」


「そっかー。その前はどこにいたんだっけ?」


「事務センターの登録部門に、3年半いました」


「そっかー、事務センターにいたのかー。あれ、そうすると、もしかして営業経験ないの?」


「いえ、新入社員のときに、半年……」


「半年じゃ経験あるなんて言えないよー。いかんなあ、やっぱり保険会社に勤めるなら現場は知っておかないとー」


 小窪は、佑希の言葉を遮るように、大口を開けて言った。


 自分で希望した訳じゃないのに。ろくに営業もやらせず事務方に配属しておいて、こっちが悪いかのように言うなんて。佑希は笑顔の下で拳をギュッと握った。


 その姿を、恵人はぼんやりと眺めていた。

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