# 8

 派遣社員の定時となり、黄色い社員証の面々は一斉に席を立つ。席には社員だけが残り、残務とやらをこなしている。


 恵人も他の派遣社員たちと同じように、オフィスを出てロッカー室に入った。けれども荷物は取り出さずに、いつの間にか貼りかえられていた“武田”の文字のロッカーの前で、ただぼんやりと立っていた。


 誕生会の会場について、店名と場所は聞いていたが、直接集合なのか、みんなで集まって行くのか、詳細は何も分かっていなかった。


 昼休みにせっかく佑希に会えたのだから、情報を聞いておけばよかった。


 とりあえず様子を窺いにいくとするか。恵人はロッカー室を出ると、エレベーターに乗り込み、4階のボタンを押した。


 エレベーターが開くと、恵人と同じ色の社員証を下げた女性が数人、エレベーターの到着を待っていたところだった。それ以外に、廊下に人影はない。


 社員たちはまだ仕事中だろう。誕生会の開始時刻まで1時間以上ある。動くには早過ぎただろうか。


 辺りを見回しながら、廊下を進む。初めて訪れる、別のフロアだ。自分がここにいるのは場違いな気がした。


 ほどなくして、オフィスのドアが目に入った。男性社員が社員証をかざして中に入るところだった。勝手には入れなそうな雰囲気だ。


 ガラス張りの壁から中を覗けないか、そう思ってドアに近づこうとしたそのとき、紫がかった髪をした中年の女性が、中から姿を現した。恵人はぎょっとして足を止める。


 女性はドアの外に出たが、恵人の方には歩いて来ずに、ドアの方に向き直った。手にはカラー印刷されたポスターのようなものを持っていて、手首にはめたセロテープをちぎり、ポスターをドアに貼ろうとしていた。


 ここで中を覗きこんだら明らかに怪しいな。そう思って、恵人はその場を去ろうとした。そのとき、女性がこちらを振り返った。


「あ、ごめんね、通る?」


 女性はそう言って、自分の青い社員証をカードリーダーにかざし、ドアを開けようとした。


「あ、いえ、違うんです」


 恵人は両手を顔の前で振った。


「入んないの? じゃあこんなところでどうしたの」


 困ったな。どう答えよう。女性はこっちをまじまじと見ている。


「えっと……」


 適当にやり過ごそう、そう思って口を開くと、女性は「あっ!」と大声を出した。


「もしかして、あんた、前島さんが言ってた人かしら」


 前島。その名前なら、今日聞いた。


「聞いたわよー。水野ちゃんの命の恩人って」


 なんと。あの男性はそんなふうに周りに言いふらしていたのか


「いや……そんなたいしたことはしてませんよ」


「やーっぱりそうなのね! こんなところでどうしたのよ。あ、そっか。このあと誕生会行くものねー。それで待ち合わせ?」


 女性は矢継ぎ早に言葉を浴びせた。


「ええと、待ち合わせてる訳じゃないですけど、お店に直接行っていいのか分からなくて……」


「なるほどね。大丈夫、みんな仕事終わったら連れだって行くから。ここで待ってなさいな」


 女性は笑顔で答えた。恵人は少し安心した。


「ところで」女性はまじまじと恵人を見つめた。「あんた、その格好で行くの? スーツ持ってないの?」


 痛いところをつかれた。よりによって今日は、ワイシャツですらなく、水色のポロシャツに、黒のチノパン。こうなることが分かっていれば、もう少しまともな格好にしたのに。恥ずかしくて、恵人は少しうつむいた。


 女性はニカっと笑うと言った。


「ついてきて」


 ◆


「うちの旦那のよ。歳の割にスリムだから、きっとサイズ合うでしょ」


 女性はロッカー室に入ると、一人一人に割り当てられているロッカーではなく、部屋の隅にある大きなロッカーを開け、上下のスーツを取り出した。恵人は差し出されるままに、それを受け取る。


「ズボン緩かったら、これでなんとかして」


 続いて女性はそう言って、スーツで両手がふさがっている恵人の腕に、さらにベルトを乗せた。


「あとはワイシャツとネクタイよねえ……どっかにあったと思ったんだけど」


 女性は床に置いてある段ボールを漁った。


「あ、あったあった」


 そして、スーツとベルトの上に、放り投げるようにワイシャツとネクタイを乗せた。


「あ、あの、ありがとうございます……」


 女性の勢いに気圧されそうになりながら、恵人はお礼を言った。


「いーのいーの。この時間なら誰も来ないだろうから、今のうちにここで着替えちゃいなさい。じゃ、また誕生会でね」


 そう言い残して、女性はロッカー室を出ようとした。


「あ、あのっ」恵人は慌てて女性を呼びとめる。「お名前、伺ってなかったんで」


「ああ、私? 総務部の柴田こずえちゃんです。よろしく」


 女性は、黒く化粧を塗りたくった目を細めて、そう答えた。


 柴田がドアの向こうに消えると、恵人はふーっと息をついた。まったく、すごい人がいたもんだ。彼女も常務の誕生会に出席するようだし、それなりにちゃんとした社員なんだろう。旦那さんもここで働いているみたいだし。


 とにかく、おかげで助かった。これで佑希の前でも恥をかかずに済むだろう。

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