# 6

 手の届かないところにいると思っていた女性が、自分の腕の中にいた。


 エレベーターで感じた甘い香りを、恵人は自分の胸元に感じた。


 恵人は慌てて上体を起こし、彼女から離れた。ここで誰か来たら疑われてしまう。


 少し距離をおいて、まだ横たわっている彼女の顔を覗き込む。


「大丈夫、ですか?」


 返事はなかった。ショックからか、気を失っているようだった。


 弱ったなあ。この状況をどうしたものか。恵人は考えを巡らせた。


 ふと教習所での応急救護の教習を思い出し、肩を叩いてみた。


「大丈夫ですか、大丈夫ですか!」


 やっぱり返事はなかった。


 この後はどうするんだっけ。呼吸の確認をして、人工呼吸? いやいや。恵人は首を振った。


 この後自分が取りうる最善の方法。自分の部署に戻って上司に状況報告、助けを求める。いやいや、その間彼女を放置するのか?


 彼女をおぶって、助けを求めにいく。ううむ、それも怪しくないか?


 考え込んでいると、胸元の社員証に目が行った。そういえば、彼女はなんて名前なのだろう。


 勝手に見ていいものなのだろうか。躊躇いながらも、おそるおそる社員証に手を伸ばした。


 水野佑希。


 そうか、水野佑希さんというのか。恵人は、心の中で繰り返した。


 彼女の名前を知ってしまった。恥ずかしいような、後ろめたいような、胸が苦しいような気持ちになった。名前を知っただけなのに。


 恥ずかしくなって、恵人は社員証から手を離した。カードケースが裏返しになって、佑希の胸元に戻る。すると、カードケースの裏側に名刺が入っているのが見えた。覗き込むと、名刺には彼女の名前の他に、所属部署とその電話番号があった。


 ◆


 遅い。


 前島は、なかなか戻らない佑希にイライラしていた。さっき頼んだ仕事について、補足があったというのに。


 もしや水野谷につかまってしまったのだろうか。あのセクハラ部長め。うちの部下をなんだと思っているんだ……


「課長」


 古山に呼ばれる。古山は、受話器を押さえ、深刻な面持ちをしている。


「水野さんが……」


 ◆


 恵人が屋上で待っていると、50代くらいの男性と、佑希と同年代くらいの短い髪の女性がやってきた。


「武田さんだね。連絡をありがとう。水野の上司の前島です」


「電話を受けた古山です」


 前島は佑希のそばにしゃがみ、肩を叩いた。


「おい、水野さん、水野さん!」


 反応はなかった。古山が心配そうに口元を覆う。


 前島は佑希の耳元に口を近づけた。そして、しばし何か考えた後に、口を開いた。


「仕事だ!」


 ぱちり。佑希の目が開いた。


 嘘だろ。恵人は顔をひきつらせた。


「すみません、今行きます……」


 佑希は、うなされたように口を開いた。


「ああ、水野さん! 気がついたか!」


 前島は顔を綻ばせた。隣にいた古山も、嬉しそうな、しかし複雑な表情を浮かべた。


 佑希は、ゆっくりと体を起こした。


 意識が、ぼんやりと戻ってきた。


 前島と古山がこちらを見ている。そうか、死に損なったか。


 その後ろで、先程の男性が心配そうにこちらを見ている。そうか、生き延びたか。


「水野さん、いったいどうしてこんなところで……」


 前島は心配そうな顔を見せた。


「ええと……」


 佑希は返事に詰まった。先程の記憶が鮮明に浮かぶ。けれども、ありのままを話す訳にはいかない。かといって、中途半端にごまかすと、この男性に疑いの目がかかりかねない。


「僕のせいなんです」


「何だって?」


 突如声を上げた恵人に、前島は厳しい目を向ける。


「ええとですね」恵人はしどろもどろになりながら答えた。「僕が屋上への行き方を教えてほしいと言ったら、その、丁寧に案内をしてくださって……」


「そうそう、それで、ついでに私も、ちょっとだけ遠くの景色が見たいと思っちゃって!」


 佑希は慌てて彼の話を引き継いだ。


「ほら、あれです……あの、富士山とか! 今日見えるかなーって、手すりから身を乗り出したら手を滑らせて、落ちそうになったところを彼が助けてくれたんです!」


 前島は目を丸くして、恵人の方を振り返った。


「そうなのか」


「……だいたいは」


「じゃあ君は、命の恩人じゃないか! 水野さんを救ってくれて、ありがとう!」


 前島が調子のいい性格でよかった。佑希は安堵しながら、それに重ねるように口を開いた。


「ええ、本当にありがとうございます。おかげで命拾いしました」


 そして、立ち上がってお辞儀をした。


「水野ちゃん、動いて大丈夫なの?」


 古山が心配そうに尋ねる。


「はい! この通り、もう大丈夫です! びっくりして気を失っちゃっただけみたいなので、もう仕事に戻れます」


「本当に? 少し休んだ方が……」


「本当に大丈夫です! ここで休んだら、仕事も溜まっちゃいますし」


「あ、そうだ。さっきお願いした件で、ちょっと補足があったんだよね」と前島が容赦なく口を挟む。


「分かりました。戻ったら早速伺います! あ、でも」佑希は男性に向き直った。「彼に挨拶しないと」


 ここで4階に戻ったら、彼との接点はなくなってしまう。佑希は、カードケースから名刺を抜き取り、差し出した。


「事務統括部の水野佑希と申します」


 彼はおずおずと名刺を受け取った。


「ええと、名刺なんか持てる立場ではありませんが、保険金部の武田恵人と申します」


「武田さんですね。今度改めてお礼をさせてください」


「あ! お礼と言えば」先に行こうとしかけていた前島は、振り返って声を上げた。「今日の常務の誕生パーティー、招待するよ。参加費もタダにする。私からのお礼だ」


 まったくこの人は抜け目ない。それは自分がキャンセルを出したくないからだろう。佑希は呆れた。


「君の武勇伝を披露するといいよ。出世の機会になるかもしれないよ?」


 前島は、恵人の黄色い社員証に目をやった。


「ええと、そのパーティーは、みなさんいらっしゃるんですよね?」


 恵人は3人を見回しながら尋ねた。


「ええ、もちろん」


「それでは、ぜひご一緒させてください」


 佑希は驚いて恵人を見つめた。前島の思いつきに、本当に応えてくれるとは……


「よろしく。保険金部って言ったね。君の上司にも君の活躍を伝えておくよ。休憩時間も過ぎているだろう? きっと心配しているよ」


「助かります」


「さあ、行くよ。水野さん」


 前島に促され、佑希は慌てて後に続いた。


 古山は、2人が屋上のドアの向こうに姿を消したのを確認すると、恵人に向き直った。


「さっき水野さん、富士山がどうとか言ってたけど……」


 古山はニヤリと笑った。


「富士山、反対側なんですよね」


 恵人は目を見開いた。


「水野さんも馬鹿じゃないから、方角くらいは分かると思うけどねえ。ま、そういうことにしておくか」


 そう言い残し、古山はドアの向こうへと消えていった。恵人はムッとした顔でその後ろ姿を見つめた。

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