# 5
「いやあ、佑希ちゃんが持ってきてくれるなんて嬉しいよ」
大洋生命システムズ株式会社、業務部部長の水野谷は、佑希の姿を見るとそう言った。
佑希が書類を差し出すと、水野屋はそれを受け取ろうと手を伸ばす。書類を手渡す瞬間、水野屋の手が佑希の小指に触れた。故意か偶然かは分からない。佑希は不快感を顔に出さないよう、にこやかに応じた。
「お元気そうでよかったです、水野谷部長」
「佑希ちゃんも、元気にしてる? 僕がシステム企画部にいたとき以来だねー」
水野谷は、もともと大洋生命の社員だった。噂では、セクハラで飛ばされたとか。名字が似ているからか佑希のこともお気に入りで、度々声を掛けられていた。
水野谷は、佑希に顔を近づけて声を低くした。
「ね、どう、彼氏とはうまくいってる? そろそろ結婚とかー?」
佑希はいろんな意味で返す言葉を失った。
彼氏とは、とっくの昔に別れていた。仕事が忙しすぎて、恋愛どころではなくなったのだ。
◆
データ入力も、ずいぶん要領を得てきた。恵人はPCに向かいながら思った。昨日からは、自分で入力するだけでなく、他の人が入力したデータの確認作業もするようになった。間違いを見つけても自分だけで修正する必要はなく、社員を呼んで2人で確認しながら行えばいいので気が楽だ。
「ちょっと、社員だけ集まって」
係長に呼ばれ、社員たちは席を立つ。こうやって社員だけが呼ばれるのは珍しくない光景だ。おそらく下々の者には必要ない情報なのだろう。
係長の話は長く、10時半の休憩開始に迫る。派遣社員には、午前と午後に15分ずつの有給休憩がある。目を休めて、データ入力を誤らないようにということらしい。
時計が10時半を指しても、社員たちは戻ってこなかった。普段は社員に一声掛けて席を立っているが、どうしたものか。周りも少しザワザワしている。
「ねえ、これ休憩出ちゃって大丈夫だよね」
「いいんじゃない? 時間なんだし」
誰かが言い出すと、みんな安心したように席を立つ。恵人もそれに倣った。
とは言っても、休憩時間は手持ち無沙汰なものだ。周りは女性ばかりで談笑する相手もいないし、自分はタバコも吸わない。画面を見続けた後だから、スマホを開く気も起きない。
とりあえずブラブラとふらついていたら、エレベーター前まで来てしまった。
そういえば。恵人は思い出した。この間久米川が、屋上からの景色が良いと言っていたな。
ちょっと行ってみるか。そう思い、恵人はエレベーターのボタンを押した。
◆
エレベーターを待ちながら、佑希は泣きそうになる。これでいいと思っていた。前島の教えに従い、古山の後を追うように、男性並みに全力で仕事に取り組んできた。プライベートを犠牲にするほどに。それがこれからの女の生き方だと、本気で信じていた。
けれど、周りを見れば、恋愛に結婚、出産に退職。そして自分も、彼氏は、お婿さんはとプレッシャーをかけられる。
険しくても、自分が信じて進んできた道は、たくさんの人が後に続くと思っていた。けれど、振り返ると後ろには誰もいなかった。みんな、古びた緩やかな道で、幸せそうに歩いていた。
本当は、彼女たちが羨ましかった。私だって、愛する人と結婚して、子どもを産んで、穏やかで幸せな日々を送ってみたかった――
エレベーターが来た。
佑希は、泣きそうな気持ちを抑えながら、5人ほどが乗っているエレベーターに乗り込み、4階を押そうとした。けれども、何かがおかしい。15階と18階のボタンが光っている。しまったと思った瞬間、エレベーターがふわっと上昇する感覚がした。
まあいいや。佑希は諦めて、手を下ろした。
15階で3人、18階で2人が降り、佑希は1人になった。行き場を失ったエレベーターは、どこにも行かずに停止している。
佑希は「R」ボタンを押した。頭はまったく働いていなかった。
◆
恵人は、屋上に来てみてから、自分があまり景色に感動する性格ではないことを思い出した。ビルの建ち並ぶ眺めには3秒で飽き、恵人はベンチに横になった。
この時間だ。誰もいない、貸切だ。5分だけ横になって、仕事に戻ろう。そう思ったところに、人影が見えた。
◆
相変わらず頭はまともに働いていなかった。ただ、もうすべてから解放されたかった。自分には、何も失うものはない。だから不思議と恐怖はなかった。
佑希は、とぼとぼと屋上の端まで歩いた。柵の前で立ち止まり、後ろを振り返る。誰もいない。
佑希は柵に手をかけた。両手両足に力を込め、柵をよじ登る。
静かに、柵の向こう側に踵を下ろす。爪先の下は、数百メートル先だ。
「やめて!」
声がして、後ろを見た。
男性だった。黒縁メガネに、水色のポロシャツ。少し長い髪型が、風になびいている。学生のような印象を受けるが、よく見ると自分と同い年くらいかもしれない。このビルで働いているのだろうか。まあ、自分にはもう、関係ないことだ。
「来ないで。ほっといてください」
「だめです。こっちへ戻ってください」
「嫌です。来ないで。本気だから」佑希は彼の方を見ながら言った。「飛び降ります」
佑希は、そう言うと、足元を見つめた。そして、泣きそうな顔をしてもう一度彼を振り返った。
彼は、もう一歩、佑希に近づき、言った。
「飛び降りるなんて無理ですよ」
「どういうことですか? 私のことも知らないで」
「本気ならもう飛び降りてますよね」
「あなたが邪魔するから」
「見て見ぬ振りは、できないです」彼は、柵に手をかけた。「飛び降りるなら、僕も一緒に」
佑希はもう一度彼を振り返った。
「馬鹿なの? 死ぬの?」
「それでもいいですよ。僕も一度死のうとしたし」
佑希は目を見開いた。
「けど、落ちたら痛いだろうなあ。知ってます? 飛び降りても地面に落ちる前には気を失うって、あれ嘘なんですよ」
佑希はしばらく無言になった。そして訊いた。
「……ほんと?」
「はい」
佑希はまた無言になった。
「僕が証明しますよ。あのときは3階だったからうまくいかなくて、地面にぶつかるときの衝撃や、自分の血が流れる感覚まではっきりしてたなあ。とにかく痛かった」
彼は、遠い目をして、口元に笑みを浮かべた。
「もうあんな思いはしたくないけど、こうなったら仕方ない」彼は、じっと佑希の方を見つめた。「まあ、こっちへ来てくれると助かるんですけど」
「頭おかしいんじゃないですか?」
そう言って、佑希は足元に視線を戻した。
「よく言われます。けど、あなただって、20階建てのビルの、こんなところにいるんですよ」
佑希は、さあっと血の気が引く感覚がした。足元に広がる景色を見て、急に頭が冴えた。自分は、なんてことをしようとしているのだろう。
「さあ」彼は、柵によじ登り、上から手を伸ばした。「手を。もう、馬鹿なことはやめてください」
佑希はゆっくりと、柵に右足をかける。そして、手を彼の方に伸ばした。彼は、しっかりと佑希の手を握った。彼は、そっと微笑んだ。つられて佑希も笑った。
もう一歩、柵に左足をかけ、柵をよじ登ろうとした。そのとき、
「きゃああーっ」
ヒールが滑り、佑希の身体が柵から離れた。彼が慌てて両手で佑希の腕を掴む。
今や、佑希の身体を支えているのは、彼の両腕だけだった。佑希の身体は、ぶらぶらと宙に浮く。
「大丈夫です。絶対離しません!」彼は力強く言った。「登って!」
彼は力強く佑希を引っ張る。佑希は、柵に思い切りつかまった。その腕を、背中を、彼が引き上げる。佑希は脚を上げ、柵に爪先をかけた。彼が、佑希を抱きかかえる。そして、柵の内側へと、佑希を引っ張り上げた。
彼は、佑希を抱きかかえたまま、屋上の床に転がり下りた。
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