# 4
東京、高田馬場。
佑希は、帰宅するとそのままベッドに倒れ込んだ。
今週も一段と忙しかった。身体が悲鳴を上げている。明日は一日中寝ていよう。それから明後日に溜まった家事を片付けよう。出かけるなんてもっての外だ。
そういえば、前島は明日釣りに行くとか言っていたな。佑希はぼんやりと思い出した。どうしてこの激務の後に、遊びに行けるのだろう。
そうか。前島は、中学高校と野球部だったんだっけ。持っている体力が違うのだろう。それに……
考えかけて、やめた。男だから女の自分より体力がある、と言い訳にしたくはなかった。
しかし、薄々と気づいてはいた。体力の話だけではない。前島には専業主婦の奥さんがいると聞いている。毎日の食事をどうするか考えることも、週末に溜まった家事を片付ける必要もないんだ。
だからといって、女の方がつらいと甘えたくはない。男にだって、男にしか分からない苦労があるのだろう。それでも……
「ずるいなあ」
しんとした部屋の中で、佑希はひとり、つぶやいた。
◆
「乾杯!」
客たちの騒ぐ声に、呼び出しボタンの音、それに応える店員の声。
周りの喧騒に対抗するように、恵人と久米川の2人は、勢いよくグラスを合わせた。
「いやー、こうしてまた武田と飲めるなんて思わなかったよ」
久米川は、ビールジョッキを勢いよくテーブルに置くと、涙を拭う仕草をした。
「ばーか、大げさだよ」
恵人は笑って、レモンサワーに口をつけた。
真横でコールの掛け声が響く。大学生だろう。
「……ったく、元気いいなあ」と久米川。
「もうちょっと離れた席にしてくれればよかったのにね」と恵人は返す。
けれどもしょうがない。2人の給料では、大手町の良さそうな飲み屋には手が届かず、電車を下って学生街の安いチェーン店に落ち着いたのだ。メニューを選ぶのも、価格を気にしながら。酒が薄いのは、酒にあまり強くない恵人にはちょうどいいが。
横の学生グループに目をやると、茶髪の男が薄着の女に言い寄っている。
あいつらは楽しそうでいいなあ。恵人はレモンサワーを流し込んだ。
◆
ああいけない、化粧くらいは落とさないと。
そのまま眠りそうになったところを、佑希は精神力で振り切った。シャワーは明日の朝に回してもいいものの、化粧は落としておかないと、この年齢の肌には厳しいものがある。
本当に、化粧は朝も夜も面倒臭い。それがなければ睡眠時間だってもう少し長くなるのに。
そう思いながら、佑希は洗面所に向かった。
◆
久米川はだいぶ酒が回って、会社の悪口を言い続けている。
「俺から言わせると、この会社、相当やばいぞ」
恵人はウーロン茶を啜りながら、適当に相槌を打つ。
「上の人たちがシステムのことをまったく分かっちゃいない。予算も減らされて、みんなギリギリだ。今売り出してる新商品だって、相当カツカツのスケジュールで回してたんだぞ」
久米川は顔を近づけ、声を低くした。
「このままじゃ絶対、何か問題が起きるぞ」
恵人は曖昧に相槌を打った。
きっとそれは久米川自身が、何か問題が起きればいいと思っているんだろう。恵人自身もそうだったが、忙しさが限界を超えると、すべてがどうでもよくなることがある。いっそ自分の手ではどうしようもないくらいの大問題が起きればいい。そんな思いがよぎるようになるのだ。
恵人は同情の目で久米川を見つめた。
◆
翌週。
佑希は、1日の仕事の段取りを手帳に書き始めた。今日は定時までに仕事を終えなければいけない。
優先すべきは何かを考えていると、前島に呼ばれた。佑希は、思考を中断して課長席に向かう。
「水野さん、ほんと悪いんだけどさあ」
前島にそう切り出され、嫌な予感がした。
「毎年今頃の時期、事務部門の業務フロー点検ってのをやっててね」
「はい」
「いつも
「……はい」
幸田とは、現在育児休業中の、佑希の後輩だ。
「今年は水野さんにお願いしたいんだ。ほら、古山さんや伊藤くんは、まだ新商品関連でいろいろあるからさ」
「…………はい」
「それで、非常に申し訳ないんだが……」
前島は、言い出しにくそうに、頭をかいた。
「コンプラへの提出期限が……来週なんだよねえ」
佑希は無表情になった。
「ええと、そういうのって、もう少し早めに……というか、毎年の業務なら、前任者から前もって引き継ぎとかなかったんですかね……?」
「幸田の奴め、本当は今頃戻ってきてるはずだったんだが……。まあ私の監督責任もある。申し訳ない。助け合いだと思って、引き受けてくれ」
上司に詫びられてはしょうがない。大まかな仕事内容を聞いてメモすると、佑希はふらふらと自席に戻った。
助け合い。
仕事の段取りを書き換えながら、ぼんやりと思った。
大洋生命は、女性に優しい会社だ。就活の際、説明会で何度も強調された。産休、育休も取りやすく、育休にいたっては3年間取得可能で、時短勤務や退職後の再就職も可能だ。入社後も、実際に制度を利用している人の多さに驚いた。
だが、それは多くの独身男女の犠牲の上に成り立っている。休暇中の業務は残りのメンバーに割り振られ、勤務時間は増えるばかり。穴埋めで派遣社員が入ることもあるが、結局はこちらが一から業務を教えなければいけない。
助け合いというが、助かるのは制度を利用する機会に恵まれた人だけ。果たしてこの先、自分にそんな機会が訪れるのだろうか。毎日夜遅くまで働き通して、休日は疲れで何もできないままで……
「えー伊藤くん、小窪常務の誕生会、行けなくなっちゃったの!?」
前島の大声が響く。
「すみません、先方がどうしても今日の夕方でないと、と……」
「そんな、当日に困るよー。常務の手前、席空ける訳にいかないし、キャンセル料だって高いのにさあ」
前島は呑気でいいな。佑希は頭を抱える前島を見やった。
いや、元はと言えば盛大な誕生会を要求する小窪の方が呑気なのだ。小窪の担当部門はコンプライアンス部とシステム企画部、そして我々事務統括部。他の部門の者ならともかく、担当部門に所属する正社員は、余程の事情がない限り、この恒例行事からは逃れられないのだ。
しかし、定時で仕事を終わらせようとせっせと努力している理由がこれでは侘しくなる。楽しい用事でも待っているなら張り合いも出るというのに。
課長席の電話が鳴り、前島はよそ行きの静かな声に切り替わった。静かになったところで、佑希はメール画面に向かう。
「ちょっと、誰かー。あ、水野さーん」
再び前島の声が響く。
何で私ばっかり。イライラしながら佑希は席を立つ。
「悪い! この資料さ、11階の
佑希は無表情で資料を受け取った。
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