# 3
大洋生命5階、会議室にて――
常務の
「当社も、もっと新規開拓のアウトバウンドを強化しなければ」
◆
「なに、この目標値!? 今のコールセンターの人員でどう達成するの!」
佑希は頭を抱えた。これをコールセンターに伝えたら、反発は必至だ。しかし、常務から下りてきた指示ではやむを得ない。
◆
埼玉、大洋生命テレサービス株式会社。
アウトバウンド部門、つまりインバウンドとは反対に営業などの電話を会社から顧客に架ける業務を担当している部門にて、課長の
「ふざけないでください! 私たちに休むなって言うんですか!」
受話器の向こう、佑希は頭を下げた。
「そんなことは言っておりません。御社のインバウンド部門と応援体制を組んでいただいて……」
「インバウンドも手一杯です! 失礼ですが、御社はこちらの仕事を理解されていないんじゃないでしょうか?」
「いえ、そんなことは……」
◆
「はあー」
電話が終わると、佑希はデスクに突っ伏した。
「ご苦労だねえ」
頭の上から、聞き覚えのあるダミ声が響いた。佑希は慌てて頭を上げる。
「
声の主は、総務部の古株、柴田だった。社員登用されたのは数年前だが、20年以上前からパートとして勤めており、総務部で彼女に敵う者はいないという噂だ。紫がかった髪色も、派手なネイルも、直接咎める者は誰もいない。
「たまたま通りかかったら、ずいぶん苦労してるようだね。はい、ご褒美。クッキー焼いてみたの」
柴田は、ほぼ真っ黒に近いアイシャドウを塗った目を細めてそう言うと、きれいにラッピングされたクッキーを佑希に手渡した。
「わあ、かわいい。ありがとうございます」
「柴田さーん、こんなところまで来て、さぼってるんじゃないだろうな」
そこに前島が割り込んできた。
「失礼ねえ。ほら、あなたもどうぞ」
柴田は笑いながらそう言って、前島にもクッキーを渡そうとした。
「遠慮しとくよ」前島は目の前で手を振った。「ほら、ここは女子会じゃないんだ」
「はいはい」
柴田は特にムッとする様子もなく、にこやかにその場を去っていった。
◆
武田恵人は、“竹田”の名札が貼られたロッカーから財布を取り出し、5階の社員食堂に向かった。
3日目の勤務も半分まで終わり、早くもコツをつかめてきた。本社勤務なんて何をするのだろうと思っていたが、恵人の仕事は要するにデータ入力だった。城崎の言う通り、事務センターで行うはずだった仕事とたいして変わりない。それに、以前の仕事に比べたらなんと気楽なことか。
あの頃は大変だった。やっぱり、零細企業のSEなんてなるものじゃなかった。繁忙期には何度も終電帰り、時には終電も逃し、会社に泊まり込んだこともあった。本当にあの頃は……
そんなことを考えながら会計を済ませ、トレイを手に座席を探していると、懐かしい顔が視界に入った。昔を思い出しているうちに、記憶と現実が入り混じってしまったのだろうか。
恵人は立ち止まり、目の前の席で食事をしている男性を、もう一度、ゆっくり見た。間違いではなかった。恵人は、男性の方を向いて口を開いた。
「
その声に男性は顔を上げ、恵人を見た。
「武田……? 生きてたか!」
彼は、立ち上がって、声を上げた。
「よせって、大声出さないでくれよ」
「悪い悪い。おお、座れよ」
彼は向かい側の席を手で指し示した。彼も黄色い社員証だ。
久米川は、以前恵人が勤めていたシステム会社の、唯一の同期だった。こんなところで再会するとは思ってもいなかった。
「武田、おまえどこにいんの?」
「4階の保険金部。最近、派遣で働き始めたんだ」
「なんだ、そうだったのか」
「久米川こそ、何でこんなところにいるのさ」
「おまえが抜けた後、金融系システムの会社に転職したんだよ。今は11階にある大洋生命システムズって子会社に常駐さ。幸いにもここの社食が使えるから、たまに来てるんだ」
「ああ、なるほど」
常駐とは、自社でなくクライアント企業に常駐しながら働くという、IT業界によくある働き方のことだ。周りはみんなお客様だから、自社で働くよりずっと気を遣う。
「どんな感じ? 大変じゃない?」
恵人は声を潜めて訊いた。
「ま、今度飲みながらでも話そーや」
久米川は苦笑まじりに答えた。どうやらここでは話せない話らしい。
「武田はいつからここに?」
「今週からだよ」
「そっか、そっちの話も、飲みながらでも」
「ああ」
◆
同じ社員食堂にて――
「そういえば、水野さんと直接お会いするのは、お久しぶりですね」
50代前半ほど、眼鏡の奥に穏やかな笑みを浮かべた男性は、佑希に向かってそう言った。
「そうですね、
自分の名前が呼ばれたので、佑希はフォークを皿の上に戻し、笑顔でそう答えた。
「おかげさまで新商品の『くらしサポート』も好調で、一同ほっとしているところですよ」
和智と呼ばれた男性は、穏やかに返した。
「くらしサポート」とは、今年発売された就業不能保険だ。病気やケガで働くことができなくなった場合に、給付金を受け取ることができる。発売の前後は事務統括部も慌ただしかった。佑希は担当外なので特に関わることはなかったが。
「いやあ、去年は本当に大変だったもんな、和智」
和智の向かい側に座っていた前島は、ねぎらうように言った。
「まあな」
和智が前島の方に向き直ったので、佑希はまたフォークを手に取った。ボロネーゼのソースが白いジャケットにつかないよう、丁寧にパスタを口に運ぶ。
「けど、僕はみんなに、あれやってこれやってって言うだけだから。今回は、
和智はそう言って、隣に座っている若い男性の方を見た。精悍な顔立ちの彼は、首を小さく横に振った。若くして商品開発部で活躍しているだけあって、聡明そうで、隙を感じさせない。事務統括部にはいないタイプだ。
「ほお、それは頼もしい。おまえらも見習えよ」
前島はそう言って、佑希と、その隣にいる
「いやいや、伊藤さんは新商品の件でもだいぶ頑張ってくださったし、水野さんも会議資料なんかでよくお名前を見かけてるよ。2人とも頼もしい部下じゃないか」和智は、たしなめるように前島に言った。「逆に、あんまり働かせすぎてないか心配だよ。特に水野さんは、女性なんだから」
女性なんだから。その言葉が佑希には引っかかった。別に女だからと言って手加減してほしい訳じゃない。和智には何度も会ったことがあり、そのときは穏やかで良い印象を持っていたが、実は女を下に見る人だったのか。佑希は少し失望した。
「ふん、『女だから』なんて、時代錯誤もいいところだ。仕事するのに男も女も関係ねえよ」
前島はきっぱりと言い放った。前島が味方になってくれて、佑希は少し安心した。
「失礼、前島のところで働くと婚期を逃すって定評だから、つい心配になってしまってね。余計なお世話だったかな」
和智は穏やかな口調で、しかし鋭く言った。
「ふん、心配には及ばねえぞ。最近そうでもねえから。俺としては腰掛けで働こうって奴は困るんだがな」
橋本と伊藤は、食事を取りながら、無言で彼らのやり取りを聞いている。和智はまだ心配そうに、何か言いたげな顔をした。
前島は、定食に添えられていたヨーグルトに手を伸ばした。そして、「おっと」と小さく声を漏らした。
「失礼、スプーン取ってくる」
前島はそう言うと席を立ち、カウンターの方に歩いて行った。
和智は、前島の後ろ姿を見届けると、笑顔で佑希に訊いた。
「本当に不満はないの? 忙しく働いてないで結婚したいとは思わないの?」
意地の悪い人だ。佑希は思った。それを押し込めて笑顔で返した。
「不満なんてありません。結婚は、良い人がいればいずれ、とは思っていますが」
後半は、この手の質問が来たときに使っている常套句だった。和智はそれを聞くと、憐れむように言った。
「良い人、ね。うちは給料は良いけど、それだけ稼いでると大変だ。自分より稼いでいる旦那さんを見つけないといけないからね」
◆
俺たちは一服していくから。男性陣はそう言って階段の向こうにある喫煙所へ消えていった。
4階までは階段で一つ下りるだけだったが、彼らと同じ方向に向かいたくなくて、佑希はエレベーターの方へ歩いた。
軽く笑って返したが、それでも和智の言葉は胸にちくりと刺さっている。
エレベーター前に着くと、ちょうど手前のエレベーターのドアが閉まりかけているところだった。次で下りればいいか。そう思ったところ、中にいる男性が自分の方を見た。
◆
恵人は、食事を終えると、1階のコンビニに寄るという久米川と一緒に下りエレベーターに乗った。エレベーターは空だった。1階と3階のボタンを押し、“閉”ボタンを押す。すると、閉まりかけたドアの隙間から女性の姿が見えた。恵人は慌てて“開”ボタンを押した。
「すみません」
女性は低い声でそう言って、中に入ってきた。そして、恵人の前に手を伸ばし、4階のボタンを押した。
その横顔は、どこか不機嫌そうに見えた。すっと整った眉の間にはしわが寄り、長い睫毛をした目は、もの憂げに伏せられている。けれども、不機嫌な顔をしていてもなお、滲み出る上品な美しさがあった。肩より少し下まで伸びた長い髪。白のジャケットに、紺色のワンピース。そこから伸びる、細い脚。首の社員証は青だ。
エレベーターが動き出すと、彼女は恵人から少し離れ、ドアの前に立った。その僅かな動作で、長い髪が揺れる。ほのかに甘い香りがエレベーターに広がった。
こんな美しい人に、何があったのだろう。笑えばきっと、もっと美しいのに。恵人は無意識に彼女を見つめていた。
あっという間にエレベーターは4階に着き、ドアが開く。彼女はドアの向こうへ歩いていってしまう。恵人は、背筋を伸ばして歩いていく彼女の姿を、ずっと見ていたいと思った……
「どうした?」
久米川の声で、我に返る。慌てて“閉”ボタンを押そうとして、反対に“開”を押してしまう。
また慌てて“閉”ボタンを押し直した。ドアが閉まると、久米川は笑った。
「あの女の人?」
久米川は鋭かった。
「いや……その……めっちゃ美人じゃなかった?」
恵人は顔が熱くなるのを感じた。
「やめとけ。4階って、なんとか管理部とか、お偉いさんばっかりがいるところだぞ? 手の届かない高嶺の花だ」
別にそんなんじゃない、反論しようと思ったときには、エレベーターのドアが開いていた。
「じゃな」
そう言って、久米川は手を振った。恵人はちらりと久米川を振り返りながら、エレベーターを降りた。
エレベーター前でひとり、恵人は彼女の顔を思い浮かべた。
そんなつもりはない。手が届くなんて思っていない。
ただ、あの人に笑ってほしいと思った。それだけだ。
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