# 2
中央線、荻窪駅。
混雑したホームで、律儀に列をなす人々。
そこに電車が近づく。窓から見える車内は満員で、狭い空間にどれだけたくさんの人間を詰め込むことができるか挑んでいるかのようだ。
まるで奴隷だな。
そのとき、ポケットの中でスマホが振動した。
こんなときに。恵人は、ポケットに手を突っ込む。
液晶画面には“ヒューマンリソーシング”の文字が光っていた。
今日から派遣で働き始めるという日の、派遣元からの電話。この電車に乗るより優先だろう。
電車待ちの列が動き、人の流れに飲まれそうになる。その流れに逆らおうと、人と人との間に身体をねじ込んだ。迷惑そうな顔が見える。舌打ちが聞こえた。黒縁眼鏡が鼻の下までずれる。こういうとき、背がもっと高ければいいのにと思う。やっとのことで、ホームの空間に身を踊らせると、眼鏡を直し、応答ボタンを押した。
「お待たせしました。武田です」
「あ、武田さーん? ヒューマンリソーシングの
飄々とした男性の声が聞こえる。派遣会社の社員だ。派遣される方でなく、する方の。確か入社4年目で、自分より7つも若いはずなのに、自分に対する敬意は皆無だ。
「おつかれさまです」
「あのさー、突然でほんっと悪いんだけどー」
不吉な切り出し方に、恵人は身を強張らせた。まさか、仕事を始める前から派遣切りじゃあなかろうな。
「実は、今日から大洋生命さんの本社に行くはずだった子が、急にバックれてー」
「はい?」
「事務センターはまだしも、本社さまに穴を開ける訳にはいかなくってさー。武田さん、悪い、これから本社に向かってくんない?」
「ええっ!?」
恵人は思わず大声を出した。
確かに自分は今日から大洋生命で働く予定だった。けれども勤務地は本社ではなく、家から数駅のところにある、事務センターという事務業務の拠点。そこで生命保険の契約書の内容をちまちまと入力するはずだった。それがいきなり本社とは。都内の一等地、自分とは縁遠いエリートたちの世界。光栄なことかもしれないが、話が違う。
「場所は後でメールするから。ま、本社っていっても、仕事内容はそんなに変わんないし」
「けど、今からじゃ始業に間に合いませんが……」
「大丈夫、先方にも事情は話してあるから」
「……分かりました」恵人は渋々答えた。そしてつけ加える。「それは、今日だけの話ですか?」
「いやー、すぐには次の人も決まらないだろうし、先方もころころ人が変わるのはよろしく思わないからねえ。しばらくの間頼みますよ」
恵人は頭を抱えた。けれども、上から言われてはしょうがない。もともとこっちには仕事を選ぶ権利なんかないんだ。
「分かりました」
恵人は電話を切ると、電車待ちの列に並び直した。事務センターは私服可の職場だったが、念のためスーツを着てきて本当によかった。
◆
大手町駅から数分歩いたところに、目的の建物はあった。蜂の巣のように規則的な窓が並ぶ、細長いビル。そこが大洋生命の本社だった。
今日からここで働くのか。恵人は息を飲んだ。
大洋生命といえば、日本で五本の指に入る大手の生命保険会社だ。最近は有名女優を起用したCMが話題だ。働けなくなっても、私があなたの支えになります――確かそんな感じのコピーだったと思う。
恵人は緊張の面持ちで自動ドアをくぐった。
出迎えてくれたのは、30代後半か40代前半くらいの女性だった。眼鏡を掛け、上下ともグレーのスーツに身を包んでいる。
「お待ちしていました。私は保険金部の
女性はにこりともせず言った。
「ヒューマンリソーシングの武田と申します。すみません、初日からこんな時間になってしまって」
自分の責任ではないものの、一応は会社代表として、恵人はそう答えた。
「私たちもよく分かっていないんですが……なんだか大変だったようですね」
青柳は困惑した様子で答えた。
事情は話しておくと言ったのに。恵人は心の中で城崎を呪った。
「とにかく、オフィスまで行きましょう。ゲートがありますので」
青柳はそう言って、カードケースに入った社員証を渡した。恵人はそれを首から下げる。先に進む青柳に倣って、駅の改札のようなゲートに社員証をかざした。
恵人はちらりと青柳の社員証を見た。首のストラップ、プラスチックのカードともに青色だ。一方、自分が渡されたのはどちらも黄色だ。
恵人の目線に気づいたのか、青柳は説明した。
「社員証の色は3種類あります。青が社員、黄色が派遣社員、赤が来客用です」
なるほど。恵人は納得した。それで青柳と社員証の色が違う訳か。
「大洋生命のオフィスは、このビルの2階から5階です。私たちの働く保険金部は2階にあります」
これだけ高いビルでも、この会社のオフィスは4フロアだけなのか。恵人は意外に思った。
階段を上がり、2階に着くと、まずロッカー室に通される。
「保険金部をはじめ、2階のオフィスでは大切な個人情報を扱いますので、携帯電話などの私物はロッカーにしまっていただきます。飲み物など必要なものは、備え付けのビニールバッグに入れて持ち込んでください」
青柳の説明を受けながら、ずらりと並ぶロッカーの間を進む。
「武田さんのロッカーはこちらです」
そう言って青柳が指差したロッカーには“中村”の名札が貼ってあった。青柳もそれに気づき、「失礼」と言って名札を剥がした。
なるほど、それがバックれた犯人の名前という訳か。
◆
保険金部は、机が8つ固まった島が、10個ほど並んでいる部屋だった。
皆デスクトップ端末に向かって、一心不乱にデータを打ち込んでいる。多くが黄色い社員証だ。意外にもスーツ姿は少なく、ワイシャツやポロシャツの人が多い。
その中に、ぽつりぽつりと青い社員証の人たちが見える。1つの島に、2人ほど。男性はワイシャツかスーツ、女性もそれなりにフォーマルな格好をして、ノートPCに向かっている。
「部長も外出していますし、挨拶は明日の朝礼のときにしましょう。こちらが武田さんの席ですよ」
恵人が席に座ると、青柳は自分の席に書類を取りに行った。恵人は机の上を眺める。机の上には、文房具類と、プラスチックのケースに入った日付印が用意されていた。
どうせ日付印も“中村”になっているんだろうな。そう思ってケースから日付印を取り出すと、本来名前が入る部分には“46”という番号だけが刻印されていた。
違う色の社員証に、番号だけの日付印。なるほど、これが派遣で働くということか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます