テンプレ通りに出会った2人が人生のテンプレを乗り越える話
笠原たすき
# 1
東京、大手町。
エレベーターを出てオフィス内に入ると、今でもときどき、その開けた空間に圧倒されそうになる。
キーボードを叩く音、電話の呼び出し音に、それに応じる声、大量の印刷物を吐き出すコピー機の音……それらを通り過ぎると、佑希の所属する事務統括部のデスクに辿り着く。
「戻りました」
デスクに荷物を置く前に、真っ先に課長の
「おかえり。事務センターはどうだった?」
前島はPCから目線を上げ、佑希の方を見た。浅黒い肌に、白髪交じりの髪。安定感のあるがっしりとした体つきは課長席に相応しい。
佑希は苦笑しながら答えた。
「相変わらず現場はこちらに手厳しいですが、なんとか調整はつきました」
「ははっ、ご苦労さん」そう言って前島はPCに目線を戻した。「ま、詳しくは報告書上げといてね」
「はい」
デスクに戻ると、PCの電源を入れる。
「おつかれ、水野ちゃん」
声を掛けたのは、佑希の4つ年上の先輩、
今日は、柔らかい素材のグレーのジャケットに、清潔感のある白のインナー。紺色のタイトスカートと、それに色を合わせた紺色のパンプス。
36歳という年齢を感じさせない美しさ、かといって若作りにならない年相応の装いを物にしている。その姿は、佑希の憧れであった。
「田中センター長に嫌味言われなかったー?」
古山はあっけらかんと訊いた。
「ええまあ」
「あの人は、いつもああだから。まあ、気楽にね」
「ありがとうございます」
古山が席に戻ると、佑希は鞄から手帳を取り出した。
ミーティングの報告書、明日の打ち合わせの資料作り、メールも何本か返さないといけないし、合間に現場からの問い合わせも入るだろう。今日は何時に帰れるかな。
「あのう……」
派遣の女の子が、隣の席からおずおずと佑希に声を掛けてきた。彼女は、半年前に寿退社をした後輩の代わりに入社してきた子だ。どこかの短大だったかの出身で、仕事は丁寧だがなんともマイペース。とても退職した後輩のようには頼れない。
彼女は綺麗にマスカラを塗った睫毛を伏し目がちに、佑希の手元を覗き込む。
「戻って早々にすみません。頼まれていた書類の件で、分からないことがありまして……」
しょうがないなあ。自分の帰りを待ち構えていたんだろう。佑希は笑顔で彼女の方を向く。
「いいよ、どこらへん?」
彼女はぱっと顔を明るくした。
◆
ミーティングの報告書を前島に提出して席に戻ると、そのタイミングを待っていたかのように電話が鳴りだした。
「大洋生命事務統括部、水野でございます」
「大洋生命テレサービス、インバウンドの
大洋生命テレサービスとは、大洋生命のコールセンター業務を一括して受託している子会社だ。澤井は、死亡保険分野のインバウンド、つまり顧客から架かってきた電話を受ける業務を担当している係長で、同じく死亡保険分野の事務統括を担当している佑希とは顔なじみの相手だ。
その澤井がどんな用件だろう。佑希は少し、嫌な予感がした。コールセンターの各チームをまとめる
「お客様がね、うちで同性パートナーを保険金受取人に指定できない理由を文書で回答しろっておっしゃってるんですよ」
「文書ですか。それはまた……」
やっぱり厄介な案件だった。
「もちろん期間はいただいています。ご希望に添えるものがお届けできるか分からないとも伝えてありますし。まあ、渋々ですが」
「それは助かります。確か前に事務センターで似たような事例があったと思うので、ちょっと確認してみます」
「さすが水野さん、持ってる引き出しが違いますね」
「いや、弊社の見解となるとコンプラにも確認しないとですけど。まずは、一旦概要だけメールをお願いします」
「いつもすみません。よろしくお願いします」
通話を終えると、佑希はOutlookの検索ボックスにいくつかの単語を入力した。類似の事例のメールはすぐに見つかったが、あまり今回の事例の参考にはならなそうだった。ここはコンプラ、つまりコンプライアンス部の見解を仰ぐしかない。
佑希自身は、特段その手の人たちへの抵抗や差別意識はないつもりだったが、仕事の対応となるとまた別だ。彼らも必死なのかもしれないが、どうしてそこまでしなければいけないのだろうか。
大洋生命では同性パートナーを保険金受取人にすることはできないが、最大手2社ではすでに可能であり、ネット専業保険や外資系にも対応が進んでいるところは多い。わざわざ大洋生命を選んでもらえるのは喜ばしいが、どうして最初から対応可能な会社を選択しなかったのだろうか。佑希には彼らの心情が理解できなかった。
「お先に失礼します」
時計の針が5時を指すと、派遣の女の子は荷物をまとめて席を立った。
今日はやけにいそいそとしているな。佑希は、彼女の後ろ姿を見ながら思った。淡いピンク色のワンピースの裾が、歩くたびに揺れている。そういえば、ネイルも新しくなっていた。デートの予定でもあるのだろうか。それに比べて自分は……
そう考えて思い出す。佑希は周りを見回すと、鞄からスマホを取り出した。
すっかり忘れていた。大学のゼミ仲間、
文面はもう考えていた。あとはメッセージを取りまとめている友人宛に、送信ボタンを押すだけだ。
佑希はもう一度文面を確認し、送信ボタンを押した。小さく溜め息をつくと、ぼんやりと空色の画面を見つめた。美香にだけは、先を越されることはないと思っていたのに。
20代後半のとき、周囲に結婚ラッシュが訪れた。ちょうどそんな頃に美香は、勤務先の食品メーカーから、海外の現地法人に出向となった。それ以来、現地で華々しく活躍してきたという。しかし、そんな彼女も、向こうで出会った日本人と恋に落ち、相手の帰国とともに退職して結婚することになったのだ。
佑希はスマホをしまい、PCに向き直った。少し目を離した隙に、他部署の部長からメールが来ている。
みんなそれでいいのか? せっかく有名大学を卒業して、大手企業に就職して、責任ある仕事を任されてきたんじゃないのか? これからの時代、それが女の生き方だったんじゃないのか? それなのにみんな、家庭に入ってしまうなんて……
「はい、水野ちゃん」
唐突に、目の前に缶コーヒーが差し出された。古山だった。
「さっきから難しい顔してるから」
「あ、ありがとうございます……」
そう言って佑希は缶コーヒーを受け取った。
「何かうまくいってないの?」
「いえ、大丈夫です」
佑希は慌てて答える。まさか個人的な悩みで考え込んでいたとは言えない。
「そう? あんまり抱え込まないでね」
古山は笑顔でそう返すと、自席に戻った。
佑希は缶コーヒーを開けると、静かに口をつけた。
古山はいつも、山のように降ってくる仕事をテキパキと捌き、周囲も驚く発想力と頭脳で仕事を推し進め、他部署の役職者や役員からも一目置かれている。それでもなお、こうして自分の表情の変化に気づいてフォローをしてくれる。
結婚も出産もしていないが、彼女は自分の周りで最も輝いている女性だ。
忘れてはいけない。私が見習うべきはこちらなのだ。
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