第19話 シングル・マザー
「お疲れ様でした」
部屋に戻ってきた笹井夫妻を、冴子は丁寧に迎えた。
和歌の葬儀では、笹井夫妻は今まで冴子を支えてくれたと深々と頭を下げ、手厚く葬った。なれない子育てに和歌と源之助夫妻の親子にどれだけ助けられていたか、冴子自身頭が上がらない。
「和之は?」
「寝ています」
黒の喪服を着た夫妻を冴子は迎え、その後ろにいた杉下にちょっとだけ驚いた。
「話があるから来て貰ったよ」
笹井はそう言い、杉下に上がるように言った。
リビングのテーブルに着いた夫妻と向かい合う形で冴子と杉下は座り、冴子はお茶を入れていた。
「冴子、正直に答えてほしい。杉下先生と今後、結婚するつもりはあるのかい?」
「杉下先生が何を言ったかわかりませんが、結婚するつもりはないです」
「それは、気持ちがないから?それとも、子供達のことがあるから?」
冴子は言いよどんだ。
「全部考えて、そのほうが良いだろうって」
搾り出した答えは、抽象的なものだった。
「杉下先生は、子供たちのことがあるから冴子と法的な結婚をするつもりはない、けれど、事実婚はしたいと」
冴子は首を振った。
「今、仕事がすごく楽しいの。そりゃぁ、子供達がいるからばたばたで大変だけど、毎日が充実してて、私このままで良いと思ってる。先生には、今まで何度も私の考えを伝えてきました。すっごく気持ちは嬉しいし、ありがたいと思っているけど」
「だから、私が木場の籍に入って良いと思っているし、両親や兄弟もそのほうが良いのではと考えている。家のことは心配ない。弟があとを継いでいる。私は放蕩息子なんでね。この年までプラプラしていたんだ、法的な結婚でも、事実婚でも、結婚話に両親は大喜びだよ」
笹井夫妻はため息をついた。
「やっぱり、二人のことが気になるのか」
「和之はそろそろ思春期です。自分の両親は震災でなくなって、叔母に引き取られたと言うことは自覚できていても感情的に整理がつくかと言えば、まだまだ時間がかかると思います。静香は生まれたときからいない分、戸惑いが大きいのもあります。そんな中、私が結婚するとなると、事実事象として認められても、現実に先生と暮らすのは厳しいんじゃないかと」
静香の小学校入学を機に引っ越したマンションはペット可のマンションで、小学校にも中学校にも近く、職場にも近いという、和歌の紹介で入ったマンションだ。オーナーは弁当屋の客の一人で、杉下との関係も知っている。角部屋の2DKを杉下が、その隣のファミリー向けの3DKを冴子が使い、不思議なことに要は上京するたびに杉下の部屋に居候していた。
マンションには来客用のゲストルームが完備されているというのに、である。
「何かあったのか?」
「何か微妙な立場になってて」
「微妙な立場って?」
「私の年齢と和之の年齢が合わないって話に始まって、保護者の間ではいろいろ。保育園時代のママさんたちが助けてくれているけど、極めつけはその話が校長に伝わって、校長室に呼び出されたのよ」
「はい?」
「ほら、未成年で和之を生んだことになるでしょ? 静香もそうだけど。それでシングルマザーで、隣には大学教授が住んでて仲が良くってって。この年で校長室に呼び出されるとは思わなかったわ」
事の発端は、このマンションに引っ越したことだった。
静香と同じクラスの子がほかに二人いるのだが、子供同士で両親の話になったとき、静香には父親がいない、母親の年齢が若すぎるという話になったらしい。
それを聞いていたのが、静香の担任の教師で、和之の担任である先輩の教師に家庭環境のことを聞いたらしいのだ。それをたまたま通りがかった校長が耳にして、この家族は大丈夫なのかという話になったらしい。
ちなみに、この教師二人と校長は小学校に新たに赴任してきた先生たちで、先輩教師たちは冴子の落ち着きっぷりに疑いもしなかったという。最も、書類を見て「叔母」と書かれていたので何か事情があってのことだと憶測したらしいが。
そして決定的だったのは、和之が子供たち同士の喧嘩に巻き込まれたことだった。
最初は、和之の同級生たちの、教材を見せて、見せないの他愛ない口喧嘩だったのだが、エキサイトして手が出る喧嘩になったらしい。二人を止めようとした和之に、今度はとばっちりが飛んで和之がけがをしたのだ。
その中の言い争いの中に、冴子への侮辱とも取れる言葉があり、和之はものすごく怒ってその友達に謝れと詰め寄ったらしい。担任が駆け付けた時には和之は鼻血を出しているような状況で、冴子は担任から呼び出されたのだ。
和之の上に馬乗りになった同級生は殴ったことを認めたし、そもそもの原因は教材のみせっこにあったことを認めたが、和之を殴った原因については口をつぐんだ。和之は殴っていない、冴子のことを罵ったことを謝れと詰め寄っただけと言い張った。
和之は単に相手にあやまれ、としか言わないし、殴った同級生のほうも和之を怒らせたの言葉がどんな意味を持つのかを分かっていなかったらしく、何を言ったかよく分かっていなかった、というのが事実だった。
ただ、周囲にいた同級生たちから二人のやり取りが冴子への侮辱の言葉があった事実が判明したのだ。
曰く、冴子は未婚のまま、どこの誰かも分かたない男の子供を産んだらしい、とか、杉下と「不適切な」関係にあるとか、果ては根も葉もないうわさ話程度のことまで。
和之がけがをしたので学校に迎えに来てほしいと言われ、冴子は迎えに行ったのだが、そのまま校長室に案内されたという。
「それで、お前はなんて答えたの?」
「ありのままを」
「校長は何と?」
「同情されちゃったわ。そういうことじゃないんだけどなぁ」
「でも、なんで今になって?」
「保護者と教師の不倫関係が明らかになって、先月、その教師と保護者が突然学校からいなくなったのよ。子供を残して。つまり、駆け落ちしたってこと」
「は?」
「保護者も先生たちも神経ピリピリしてるの。いまだに二人の行き先がわからないし、連絡もないからまぁ大変なわけで。それでタイムリーに和之のけんかが起きてシングルマザーだとか不倫だとか不適切だとか、まぁ、子供に聞かせられない単語が出てきてピリピリしている部分があるのよね」
「それで子供たちは取っ組み合いのけんかをしたのか」
要がうんうんとうなずいた。
「和之が、『フリン』ってなに?って俺に聞いてきた。よくない言葉だとは思うけど、自分には意味が分からないからって」
それで喧嘩をしたのか、と杉下がごちた。
「中には私たち家族の形が『不適切』だと言っている保護者もいるらしいの。私は15であの子を産んで育ててるって。なぁにが不適切なのかって思うけどね」
「なるほどね」
順当に考えれば、和之と静香の年齢を考えると冴子は15歳で子供を産んだことになる、というのだ。そしてシングルマザーだということが拍車をかけている。
最も、校長も学年主任も担任も、子供にとってきちんとした母親かどうか、のほうが大事だと明言したが。
戸籍上、叔母に当たる冴子が二人を育てていることに校長は非常に同情を寄せてくれた。
だが、冴子は子供たちとの生活を楽しんでいるのだ。同情を寄せてもらっても困るというのものだ。
「今ここで私が先生と結婚したらますます憶測を生むことになるでしょ?」
「確かに」
「だから話し合って、今のままのほうが良いと。和之も難しい年ごろになりつつあるから、余計にそのほうが良いんじゃないかという意味もあるし」
「いっそ、冴子の養子にするか?」
「それも考えたけど、反対。素直にシングルマザーで良いかなと。とにかく、今は学校や保護者を刺激したくないの。ただでさえ和之が喧嘩したということで話が広がっちゃってて」
「ん?」
「和之は学校では超が付くほど優等生なのよ。もちろん、年相応のけんかやいたずらはするけど、あと一歩踏み込むと喧嘩になるっていう具合を見極めてさっと身を引くところがあるのに、今回だけは執拗に食い下がったんだって。それこそ担任も驚くくらいに。あんなに起こった和之君は初めて見ましたって、ね」
「お前どうしたの?」
「話を聞いて即その場で抱きしめてありがとうって言ったよ」
はぁ、と要は頭を抱えた。
「冴子が親ばかで安心した」
「本当に。前から親ばかだと思っていたけどね」
「親父もおふくろも、そういうところ、違うだろう?」
「違わない。ぶれていないから先生との結婚をためらうのは当たり前だ。それでよい。ただなぁ、冴子、余計なお世話かもしれないが、先生との子供を望むなら、早く決断したほうが良い。結婚年齢はいつだって良いが、出産年齢は制限がある」
「子供は、望みません」
さえぎったのは杉下だった。
「先生?」
「冴子には話しましたが、僕の体では子供は望めないんです。その、昔結婚したい女性がいて、検査を受けたんですがその時にわかって結局破談になりました」
「三人目や四人目のおかーちゃんするのは無理。そりゃ、子育ては楽しいし、和之も静香も大歓迎することはわかっているけど、仕事と子育てのバランス考えて、三人目や四人目のおかーちゃんする元気があるかと言われればちょっと今は厳しいかも。もちろん、先生との子供が授かったらそれはうれしいし、手放しで喜んで歓迎するけど、自然に任せるのが一番かなぁと」
「さえちゃん…」
冴子はニッと笑った。
「私、幸せだよ。そりゃぁ、世間が狭いといわれるかもしれないけど、幸せ。この先、仕事も子育ても和歌さんが遺してくれたネットワークも維持しなきゃ、だし」
それが、冴子のすべての返事だった。
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