第18話 和之小学生になる

 毎朝、早くに起きて朝食を作り、自分と静香のお弁当を作ると子供たちに支度をさせ、和之は小学校に、静香は大学の敷地内にある保育園に送り届ける。

 大学を卒業するまでも大変だったが、卒業した後も変わりなくドタバタと忙しい日々だ。


 無事に大学を卒業した後、冴子は大学職員として臨時採用され、大学に残って働いている。もちろん、それが条件だったからというのもあるが、森をはじめ、他の職員からあの気難しい小沢教授の仕事を引き受け、あれこれこなす姿は文句なく認められていたからだ。


 小沢は、名誉教授ということで週に3日大学に通ってきている。今後5年間は大学に籍があり、大学院生の授業を受け持つというのだが、冴子はその助手というポジションで小沢の研究を手伝い、小沢がいない時は二人の、別の教授の手伝いをしている。


 杉下は、社会人向けの講座を半年、一週間に一度担当するとかで、週に一度は出勤してくるが、しかし、軸足は予告通り隣の西南大学に移った。

 そして、杉下は住居を冴子と同じマンションに移した。空き部屋の関係で、杉下が住むのは上階の家族用フロアだが。


 小沢の仕事を手伝うからと言って、毎週杉下と会えるわけではないし、同じマンションに住んでいるからと言って顔を合わせるわけではない。ただ、週に一度か二度、和之と静香と一緒に晩御飯を食べるだけである。

 二人の交際は静かに密かに続けられていた。


 平日は、仕事が終われば静香と一緒に和歌が住むマンションに向かう。

 和之は小学校が終わると、校内にある学童保育に行く。

 そのあとは和歌が住む、学校前のマンションに帰るのだ。


 ぐっと年齢を感じさせるようになった和歌は、このごろ手助けすることが多くなってきた。源之助も、真理も同じマンションで暮らしてはいるが仕事や子育てで目が届かないこともある。

 だから、冴子は月曜日から金曜日まで、毎日和歌のマンションで夕飯を作って和歌と子供たちと一緒に食べる。日中は真理と和歌が分担して買い物に行き、大雑把な下ごしらえをすると、仕事から帰って来た冴子が調理し、和歌や源之助と真理と子供達とで賑やかな夕食となるパターンだ。本当は自分たちだけで夕飯としたほうが良いことはわかっている。だが、和歌はそろそろ台所仕事ができなくなってきていて、仕事の具合で源之助と真理と冴子が介護と子育てを何とかしようと思うと二家族一緒のパターンが都合がよいことに気が付いたのだ。


 夕飯が終われば子供たちはそのままに、弁当屋の後片付けと翌日の仕込み、帳簿管理など、冴子はみんなと一緒にパキパキ働く。

 弁当屋に正式に出勤するのは週に3日。後片付けや早朝の仕込など、単発のものもあるが、こまごまとした雑用に近いフォローは源之助には必要で、源之助もそうして欲しいので週に何時間、という形で出勤時間を設けてパート扱いにしてくれている。

 大学のほうは、ほぼフルタイムに近い日もあったりするが現実的にはパート扱いの臨時採用でそれなりの収入はあるが身分的には社会保障がない不安定な状態だった。就職したいが、実際の大学内の職員採用はなく、森も頭を悩ませていた。


 そうした生活が続いた3年目、奨学金条件の勤務を満たしたが、臨時採用のままという更新時の雇用契約条件が提示された。

 今回は3年間の臨時採用だったが、提示された条件は次回更新は一年後、以後一年契約となるものだった。

 社会的な保証もない、一介のアルバイト条件で時給的にはいくらかのプラスアルファがあるものの、正社員採用を期待していた冴子にとっては酷な返事だった。ただ、有利なのは静香の保育園に関して便宜を図るということだけである。

 大学側は冴子の仕事ぶりを高く評価しているが、だが世の中の経済状況は芳しくなく、新規採用の職員募集はしていない、というのがその理由だった。森もずいぶん頑張ったらしいが、大学側としては正社員募集は厳しいとの判断だったという。しかも、今後の新規採用の見通しも厳しいらしく、冴子は考えさせてほしいと答えた。


 冴子が見ても、世の中は不況で新卒での就職も厳しい状態だった。一方の源之助は最初の青写真から大幅に計画を変更したものの、きっちり利益が取れる商売をするほうを選び、2号店の準備を整えているから冴子に正社員として会社に迎えたいと言ってきた。

 真理が、二人目の子を妊娠した影響もある。


 冴子は源之助と2号店の青写真を描きながら、契約期間終了の8月末を契機に、転職と言う形で源之助の会社に入社して、正社員の道を選択した。


 静香の保育園の在籍には支障がないのでそのまま通園することになった。在職職員関係の保育料割引から、保育料の年間負担額が多少は増えたが、それでも一般の保育園に通うよりも格安で、そして何より近いということは力強い味方だった。


 弁当屋の仕事一本にすると、冴子はがぜん水を得た魚のようにアクティブに動き始めた。

 2号店は、お惣菜専門の店である。

 定番のおかずをグラム単位、一人前単位で販売する手間のかかる商売だったが、これがなかなかの売れ行きで、売り上げは順調に伸びていた。店の立地もよく、アクセスしやすいので客は思った以上に集まり、地域の人気店になったのだ。


 最初の店の弁当販売は変わらない。昼間の弁当売りを中心として、安定した売り上げを誇っている。源之助が2号店を切り盛りする中、冴子は弁当屋で働く正社員やパートの人たちを徹底的に鍛えて切り盛りするだけの実力を短期間で教育した。

 それが終わると、冴子自身は「じゃぁ私は外に出るわね」と、車に弁当を積み込んでさっさと配達販売するようになったのだ。

 今まで来てくれていた常連さんが、足腰が弱くなって通えなくなったので、じゃぁ近くまで配達に行こう、という宅配弁当である。


 最初は同じマンションに住む数人の独居老人が注文を出すので、何時にロビーね、という配達の約束が最初だったのだが、それを見た他の老人や、家族が「私も」と名乗りを上げて結構盛況なのだ。

 日替わりの「肉弁当」か、「魚弁当」か、「野菜弁当」の3種類しかなく、しかもご飯はオプションで「なし」や、「並」盛りと「大盛」と選べることから評判は良かったのだ。

 もっと言うと、その注文方式も良かった。

 電話やファックスで当日の朝10時まで受け付けるのだが、定期契約者や常連の誰かから連絡がなかった場合、アフターフォローとして冴子は逆に連絡を入れることにしている。

 一人暮らしの高齢者で、今日は具合が悪くて弁当は無理だという高齢者には時にはおかゆを差し入れたこともあった。

 そういったことが積み重なって、会員制ではあったが、高齢者向けのエリア限定宅配弁当事業が立ち上がったのだ。

 最初は一人暮らしの高齢者に、次第に高齢者向けの事業所、いわゆるデイケアセンターからの受注が入るようになったのだ。


 そこから、事業は急成長したし、安定もした。

 エリア限定とはいえ、宅配弁当事業と、店舗販売と、惣菜販売の三本柱にしたのである。店舗は二店舗のみ、手が届く範囲だけという源之助の主義にのっとって、ある程度の浮き沈みもあったが、源之助の「味覚」と冴子の経営感覚は見事受け入れられた格好だった。


 会社の事業を拡げ、安定させるために動きつつある中、静香は小学校入学を迎えた。これを期に、冴子は杉下とも話し合って転居した。

 弁当関係の事業が軌道に乗って、設備にも限界が来ていたこともあって、会社としては大きな決断だったが、今まで弁当屋の事務所部分と奥のプライベートエリアを取りはらって、店舗奥側を全面キッチンとしたのだ。

 代わりに、新たに事務所部分を店舗の二階に設けることになり、冴子が今まで住んでいた場所は事務所と繋がった、社員の更衣室エリアになることに決まったからだ。


 年老いたムサシは新しい環境に不慣れな部分はあるが、それでも新居で楽しそうに暮らしている。

 このごろ、ムサシは寝ていることが多く、耳も遠くなったが老犬ライフを楽しんでいる。月に一度、要や笹井夫妻が尋ねてくると尻尾を振って愛想を振りまく姿も変わらない。



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