第17話 私は認めない
その翌日、笹井圭介が上京してきた。今日は仕事が終わってから要が圭介と一緒に冴子の部屋にやってきて、三人で夕飯中である。
和之ははしゃぎつかれて眠っているし、静香は圭介の腕の中でご機嫌である。
「ビッグニュースがあったんだが」
「倫世さんがマンションの買い手が見つかったって」
「条件が良いから、調査中なんだが、まず大丈夫だと思う」
「良すぎる条件だから調査したってことなのか?」
要がそう言った。
「白川夫妻がな、あのマンションを買いたいと言ってきた。倍額、とまではいかないが、破格の上乗せ付きで」
「え?」
「年末から始めている事故の示談交渉の事なんだが」
「はい」
「毎月一万円、白川正明が53歳になるまで、金額にして400万に満たない額だ。そこが最低ラインだと伝えた時、向こうは大変驚いてね。毎月毎年反省してもらいたい、だから少額で良いから送金することで自戒してほしい、そういう意味だと耕造君と冴子ちゃんの気持ちを伝えたんだ」
笹井は頭を上げた。
「震災のこともあって、話を進めるべきなのかと向こうの弁護士が躊躇してね。君の精神的負担を心配していた。でも、白川夫妻も、正明君も、耕造君っと冴子ちゃんの意図をしっかり理解してくれている。だから、僕は話を進めて良いと言ったんだ。二人が出した最低ラインの条件がどういった意味を持つのか、それを理解してくれれば示談もOKだと言ったら、彼は頭を下げて感謝していたよ。こちらが特段争うつもりはないし、慰謝料を釣り上げるつもりはないと知ったから余計にね。毎月、毎年反省してほしいと思う気持ちは理解できると頭を下げてくれた」
耕造も冴子も、二人を亡くしたことの怒りを忘れてはいない。だが、そこに捕らわれて自分たちの幸せを逃しては両親の望みではないと自覚している。それは、相手方も同じこと。
起こしてしまったことはもうどうにもならないが、その事実を背負って人としてきちんと生きてゆくことが償いになる。
加害者である白川正明が結婚することも、子供を持つことも、今後運転することも、酒を飲むことも、何も制限は設けない。ただ、自分の考えで、きちんと生きてほしい。毎月、毎年、送金することで自分たちがどれだけ怒っているか、どれだけ大切な人を殺されたのかという思いを、考えてほしい。
耕造と冴子が願ったことである。
あの日、飲酒運転してしまった弱い心を二度と持たないでほしい。結果、どうなったかということを忘れないでほしい。
両親は53歳で亡くなった。だから、自身が53歳になるまで、月に一度で良いから毎月送金することで反省してほしい。
笹井がその言葉を夫妻の前で彼に届けた時、白川親子三人は号泣した。
「怒りの深さが、よくわかります。僕は当然のことをしました。逆に、寛大すぎて本当に申し訳ない。本当に申し訳ない」
白川正明は、恐らく、裁判になって実刑となるだろう。体が回復し、退院したことで事故調査が進み、そろそろ起訴されるかもしれない、そんな時期だ。だからこそ、事故のことは示談に持ち込んで、少しでも裁判に有利にしたいという夫妻の目論見もある。いろいろ考えはあるだろうが、と笹井はそう言った。
白川夫妻は、相場よりも高い額の慰謝料を提示したらしい。
それは、一連の木場兄妹の行動に感銘してできるだけのことをしたいという願いでもあり、耕造夫妻が亡くなったことで、残された冴子を心配してのことだった。
だが、常識外の金額を提示されては、お互いに困ることになる。だから白川の弁護士は、マンションを抱き合わせてきた。
「マンションの価格は通常相場の6割増しの金額だ。相場以下でしか値が付かないと思っていた私たちにとっては、相当の金額だ。プラス、相場の慰謝料と言ったところかな。悪い条件じゃないし、金銭的にも問題がない」
笹井は、ふう、と深呼吸した。
「もしも、和之君と静香ちゃんとの生活に不都合が起きたら、責任もって相応の家庭を紹介しても良い、とも言ってきた。白川家にとって、スキャンダルになりそうなものはできるだけ早く処理したい、というのが本音だろうが、それとは別に、白川家の面々が本人含めて本当に君たちのことを心配している。謝罪の手紙も、預かっている」
事故以来、毎月本人が謝罪の手紙を送ってきている。笹井の事務所あてに送られてくるそれは、必ず冴子の手元に届いているが、冴子はまだ読む気になれていない。
今までに白川の両親からと二人の兄からも謝罪の手紙をもらっている。それらは目を通してはいるが、返信は一切していない。
笹井から届く手紙は、謝罪と冴子の暮らしを心配する手紙で、少しでも力になりたいと必ず書かれてある。家族を苦しめるために書いてほしくないから、今後は受け取らないと笹井経由で口頭で返事をしたばかりだ。
冴子は怒りを忘れたわけではない。ただ、外に出して良い感情ではないという、全くその通りのことで表に出していないだけだ。
笹井が白川本人と会ったのは、年末、暮れも押しせまった頃の病室である。ようやく医者からの許可が下りて警察の監視下にある彼と面会できたのである。
警察の許可を得て、両親と相手方の弁護士立会いのもと、耕造と冴子の条件を伝えに行ったのだ。
書面に書かれたその条件を見た時、白川正明はそのまま、申し訳ないと号泣した。
その姿を見て、笹井は長年の経験もあって、この青年は更生する、と思った。
「話を聞く限り、あの人はきちんと反省して、罪を償って、今度はちゃんとまっとうに生きるだろうと思う。もしかして、結婚して幸せになるかもしれない。それで良いと思う。本当に必要な罰があの人に届いてくれたら、それで良い。それ以上にあの人が苦しめば良いとか、両親を返せとか、そういう不条理なことは罰じゃなくて私が処理しなきゃいけない部分じゃないかなぁと。感情的にはなかなか難しいけどね」
さらりとそんなことを言って晩御飯に舌鼓をうつ冴子の姿に、亡き親友の面影がだぶる。
どーんとした男で、何物も許容しているようでその実、秘めたる力を内包していた男。大地のような男だった。
だから、生まれてくる長男の名付け親を頼まれたとき、迷うことなく大地に関係ある名前として「耕造」の名前を贈った。大地がいつまでも清らかであるように、栄えるようにと「冴子」の名前を贈った。
逆に、その男は人が集まるように、人を集めるように、そして何事も楽しくわいわいやっていけるようにと自分の息子に「要」という名前を贈ってくれた。
「扇子の中心にあるネジってな、カナメっていうんだってさ、初めて知ったよ」
若かりし少年のころ、初めて話しかけてきたその言葉がきっかけで40年来の親友となった。忘れてはいない。
「で、何で親父まで出てきちゃうんだよ。俺一人でも大丈夫だぞ?」
「弁護士としてではなく、直之の友人として話を聞きたい、と児童相談所の所長から連絡があった。養育に関して、裁判所の調査官にはきちんと話をしたし、それには学校側も角田さんたちからも話を聞いているから問題はないと思っていると。ただ、どうして光石夫妻がが最初から話に加わらなかったのかということは、家裁には資料がないからね、児相は調べられないんだよ」
「そうなんだ」
「向こうは、警察と児相にこの話を持ち込んだそうだ。冴子は子供二人を祖父母に会わせない虐待常習者で誘拐犯だそうだ」
「はい?誘拐犯だと?家裁は無視して?」
「どういうことになるのか、見届けなけりゃいけないと思ってね」
「私、どうすれば良いんですか?」
「普通にしてりゃ良い。聞かれたことにきちんと答えたらそれで良い。本当に誘拐犯だというなら、とっくに冴子は逮捕されているはずだ」
圭介はそう言って不敵に笑った。
翌朝。
いつものように朝起きて、和之とワイワイしながら朝ごはんを食べ、保育園に行こうと玄関のドアを開けると。
警察官の横山と児童相談所の清水がいた。
「おはようございます、木場さん」
「清水さんに横山さん、でしたよね。おはようございます」
「申し訳ない、弁護士の笹井さんがこちらにいると聞いたんだが」
横山は警察手帳を提示して、そう言った。
「どっちの笹井ですか?笹井圭介は父親の方で、笹井要は息子の方です」
「両人とも、です。連絡先があなたの住所と連絡先になっていて」
横山がそう答えた。
「かず君、要ちゃん呼んで」
その言葉に、和之が玄関を飛び出し、隣の部屋のチャイムを押した。
「かーなーめーちゃん、おはようございます、かずゆきです」
コンコン、とドアをノックすると、「ういーっす」と返事があった。
すぐにドアが開いて顔を見せたのはスーツ姿の要と、まだネクタイを締めていいないが臨戦態勢の圭介だった。
「早かったですね。すみません、すぐに行きます」
圭介は状況を理解した、と一度引っ込んだ。要も一度中に入った。
「古いお付き合いですか?」
「父の親友が笹井さんです。要さんとは、年齢は上ですけど、幼馴染というか、昔からバカやった仲というか」
「一つ、確認したいんですが」
「はい」
清水が冴子の方に向いた。
「要さんと、結婚する意志がおありですか?」
「ないです。彼には相思相愛の恋人がいますけど。それに、どうしてそう言った話になるんですか」
呆れたように冴子が答えた。
「私が誰かと結婚して、その人と四人で暮らすとか?」
「そういう可能性も、あるのかと聞きたいです」
「少なくとも、大学卒業するまでの今後2年間はありません。10年20年30年サイクルの中で可能性があるのかと言われれば可能性ありだと答えたいんですが、今は頭の中は二人の事でいっぱいです。仮に、将来そういう人物が現れたとして、ですよ? もしもその人が和之と静香の存在を疎んじるような人だったり、二人から賛成が得られなかったら、そういうことにはならないと思います。それで答えになりますか?」
清水が頷いた。
「資産家と財産目当てに結婚するんだとの話を聞いたというもんですから…。失礼しました」
清水はそう言って頭を下げた。疑問が解決したようで、清水は顔を上げると屈託のない笑顔で和之と接している。
何分と経たないうちに、隣の家から、ネクタイを締めた圭介と要が出てきた。
冴子は戸締りを確認してごみを持って彼らの後に続く。和之は圭介と手をつないで階段を降りて行った。
迎えの車に二人は乗って、冴子と和之と静香は保育園に向かった。
その日の午後のうちに、小沢教授のもとに笹井が訪ねてきた。
「笹井さん」
「すみません、お騒がせしました」
「で、どうなりました?」
「向こうさんは、捜査一課長と警察署長と児童相談所の所長とで大説教大会になっていますよ。あ、家庭裁判所の調査官の水戸さんでしたっけ? 4,5人いましたね。付き添ってきた弁護士も災難でしょう」
冴子が出したお茶を、笹井は一気に飲んだ。
「要は相手方の弁護士事務所に行きました。結構大手の弁護士事務所みたいなんで、話は早いと思います」
「どういうこと?」
「冴子ちゃんと子供たちに何かあってからでは遅いからね、向こうの弁護士事務所にも協力してもらって、近づかないようにという警告だよ」
「付きまとわないように、ってこと?」
「そうだ。まだ法整備はできていないから微妙なところなんだけどね。これから森課長のところに行って、今回のことを説明してきますが、教授、ご一緒しませんか? できれば杉下先生も一緒に」
「そうすれば説明が一度で済むからね、良いでしょう」
小沢が立ち上がった。
「申し訳ありません」
笹井はそう言って頭を下げた。
そしてこの日以後、光石夫妻との関係は断たれた。
笹井は定期的に光石夫妻を監視していたらしく、それから一年ほどは地元で生活していたらしいが、その後、夜逃げしたという報告が入ってきていた。
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