第15話 ワガママなひとたち
東京に戻ってからは、冴子は目まぐるしい日々を送っていた。
まず、大学に行きながら子供二人を育てられるかという問題が一番だった。
冴子は経済的に判断した結果、育てられると目論見が立ったので笹井と一緒に法律的に二人の後見人になるべく手続きをし、家庭裁判所からそれが認められた。
一番は、冴子が大学卒業後、きちんとした生活基盤を作ることにあるが。
まずは大学に通えるように、和之の保育園が問題になるのだが、それはあっさり解決した。大学側が冴子を「社会人学生」として扱うことで優先的に保育園に入ることができたのだが、問題は静香だった。欠員がなかったのである。
静香は生まれたばかりで、受け入れ月齢に達していないことと、空きがないと無理ということで、入園は認められなかった。代わりに順番待ちリストに組み込まれ、それまでは冴子は静香を連れての登校を認めてもらえた。
学校は、冴子のバックアップを積極的に行ってくれた。研究室のアルバイトも3月からの出勤だと申し渡され、2月中に、受けられなかった試験の追試や、レポートをこなすことになったが、冴子は手続きや子育てで睡眠不足になりながらもやり遂げた。
森の言葉によると、小沢の下で長続きしたバイトはいないということらしい。だから、小沢と決裂したなら、他学部の教授のアルバイトに入ってくれとまで言われた。そんなふうには見えないことに冴子は驚いたが、今までのバイトは、最短で即日、最長で二日でクビにしたらしい。森と杉下が声をそろえて教えてくれた。
ドンダケワガママナオッサンナンダ、と何度心の中でつぶやいたことか。
そう愚痴をこぼされた。これは杉下からだ。
確かに、注文の多いご老体だとは思うが、冴子にとっては、弁当屋の受付でごねる客の方がわがままだ。
特に難しいとは思えない人なのだが。
そういうこともあって、小沢の助手の仕事が保証され、在学中の2年間は小沢の助手という返事ももらった。ただし、3年目は大学職員ということで、空席があれば採用、空席が無かったり、職務怠慢と見なされればこのままパート扱いでの採用となる、という状態だと説明された。
弁当屋のアルバイトも、和之の送迎に支障がない範囲でシフトを組んでもらって都合をつけてもらい、一番は、和之が精神的に安定できるようにと生活を中心に据えた。
和歌も源之助も、真理も、冴子をバックアップしてくれた。特に真理は自分に子供ができないことを悩んでいて、その分、静香を可愛がってくれたのである。
「本当に、研究室にベビーベッドを置くとは思いませんでしたよ」
杉下がカラカラ笑いながら抱いていた静香をベッドに寝かせた。
「生後3か月にならないと受け入れられないと聞いた時はもう、お先真っ暗でした」
「そうですねぇ、森課長は、当分保育園の空きがなさそうなので、借りてきました、って、当然のようにここに設置してしまったので僕は驚きましたよ」
「出来るだけ、ご迷惑にならないようにしますので」
「子供は泣いて訴えるのが商売です。腹減った、おむつ替えろ、子供がそう言う要求ができなくなったり、親が耳を傾けなくなったら親子関係はオワリです。教授はそういうところを大事にする人ですよ」
静香が寝たことで、杉下は自分の仕事を、冴子は小沢から頼まれた資料整理を始める。小沢は冴子が卒業したら名誉教授として大学に残る予定だという。だがその前にライフワークだった現代経済についての論文を完成させたいと日々執筆にいそしんでいる。冴子はその論文を清書したり、資料を集めて添付したりと忙しいが、デスクワーク中心なので静香がいても大丈夫だった。
「就職はどうするのかと、教授が心配していたよ。2年間は大学で働かなきゃいけないだろうが、その後の就職の保証はない。僕はあと2年の契約があるから君が卒業したらこの研究室を離れることになると思う。いずれ、ここに戻って来るとは思うけれどまだ先の話だ。教授が名誉教授になればこんな広い研究室は貰えないだろうから、もしも研究助手として大学で働くなら共同研究室付になると思う。だからと言って、一般企業に就職するのは君の条件的にあまり開かれた道ではないだろうと。笹井さんは何と?」
「そうですね。笹井さんは地元に帰って来るという選択肢はある、と言っています。両親が残した家はそのまま残してあるので、三人で住むには問題はないし、第一皆さんのバックアップがあるので精神的には少しは楽になると思うんです。でも、和之を思えばあちこち動くのはどうかと思って」
「じゃぁ、こっちで就職を?」
「オーナーが二号店を出したいっていう野望を抱いているんです。野望は野望です。リサーチも土地選定もこれからなんで、どうなるかは分かりませんが。でもそう言う考えで動いているので正社員にならないかって。あ、不動産屋のおっちゃんも手を上げていました。卒業したらおいでって」
「人気者だなぁ」
「森課長は大学職員として残って良いのかどうかはまだ未知数だと言っていました。仕事ぶりを判断させてもらうし、必ずしも欠員が出るとは限らないからって。当たり前です」
「小沢教授が文句なく、君を気に入っているからね」
二人で話しながらも、手が動いている。
「それから、僕の所に来るという選択肢も、あって良いと思う。あ、生活環境が変わるから、僕が君のところに行こうか」
意味が分からなくて顔を上げる。
10秒ほど考えてしまった冴子が、え?と驚いた。
「僕は、君と和之君と静香ちゃんとで生活する覚悟はあるよ。ここの契約が終わったら、西南大学に行こうと思う。准教授として働かないかって誘われているんだ。今より給料は上がるし、契約年数も長くなる」
西南大学は、隣の駅にある大学でここからはバスで20分ほど、「おとなりさん」の大学だ。職員の待遇も良いと聞く。
「考えておいてほしい」
唐突ともいえる、事実上のプロポーズに冴子は頷くしかなかった。
微妙な空気加減の時に、小沢が大学の教授会議から戻って来る。
「お帰りなさい、教授」
声を潜める杉下に小沢がくすりと笑う。
「しーちゃんは寝ているのか?」
「はい」
「良かった。木場君にちょっと話があるんだが」
「はい?」
「しーちゃんを、養女に出すとか、考えてないだろうな?」
その言葉に、思考が停止する。
「養女、ですか?」
「教授会が終わった後、複数の教授から、和君としーちゃんを養女に出すつもりなのかと尋ねられた。本当か?」
「ないです。そんなの一体誰が?」
「具体的に、里親の選定段階に入っているとか、候補が何組かいるとか、和之君はもう決まっているとか、そういう話が出ていると聞いた、本当なのかと教授会が揺れている。教授会としては調査チームを出して、君からも話を聞くことになるかもしれない」
「待ってください。何でそうなるんですか?私はそんなつもりはないですよ?どこからそんな話が」
「それが…」
小沢は目を泳がせた。
「何人かの学校関係者に調査員と名乗って、君の素行を尋ねてきたものがいる、と報告が上がって来た。教授会では、森君が詳しい調査をすると言って一度結論を待ってほしいと止めてある」
「調査員、って、警察ですか?」
「いや、民間の調査員だ。複数の教授の話を総合すると、笹井弁護士の名前が出てきた。弁護士事務所の調査員だと名乗ったと」
冴子は首を振った。そんなことはあり得ない。確かに、笹井は当初は反対していたが、それも最初の三日のうちで、あとは全面的にバックアップしてくれた。今は自分が上京する代わりに、東京で働いている息子の要が様子伺いとして時々冴子のもとに遊びに来ている。
「笹井弁護士が養子の話を出した、だが君が反対して、こっちに二人を連れてきたという話になっている。私自身はそういう話を聞いていないし、笹井弁護士は君のバックアップをするし相談にものるということで学校に挨拶に来た。私の目の前で、二人を育てるといった木場君をバックアップすると言ってくれた」
そうなのだ。大学の手続きの関係上、冴子は笹井と小沢を紹介した。理解者は一人でも多い方が良いという笹井と、「未成年」の冴子が「未成年」の子供二人を引き取るということはどういうことになるのか、と小沢が案じたからである。
もちろん、小沢が納得できるだけの回答を笹井は用意していたが。
「声をかけられたのは教職員だ。適当に声をかけて話を聞いて、という感じだったらしい。本人は笹井弁護士の関係者だと名乗っている。弁護士事務所の調査員だと名乗った人物もいる。和君としーちゃんの居場所を特定しようとする動きがあるとね。事務局は当然不審者として彼らを扱っているし、子供たち二人の安全のため、学校周辺の警備を強化することにしてはいる。だが、養子の話が君自身が了承したことなのか、それとも笹井弁護士の話なのか、ただの不審者なのか、まずは確認しなきゃならんと思って…」
冴子は断ると手帳を開いた。相手は、笹井の弁護士事務所である。
笹井は全面的にバックアップしてくれた。二人を育てることに渋い顔をしたのは事実だし、養子という話がなかったわけでもない。だが、最後は理解してくれてバックアップしてくれたのだ。いきなり、こういった話になるのはおかしすぎた。
弁護士事務所には、笹井夫妻と事務仕事をする二人のパートさんしかいない。
「あら、冴子ちゃん、元気にしてる?」
笹井の妻の倫世が明るい声で応対してくれた。
「あのね、あとで圭介からも連絡があると思うんだけどビッグニュースがあるの」
「倫世さん」
「はい?」
「和之と静香を養子に出すって本当ですか?」
「は?」
「ビッグニュースってそれですか?」
「違うの、違う。何か誤解してる。あのマンションの買い手が現れたの。今調査中だから詳しく言えないんだけど。そうじゃなくて養子に出すってどういうこと?冴子ちゃんあなた二人を養子に出すつもりなの?」
「いや、そうじゃなくて、笹井さんが養子に出すって」
「何それ?」
様子が変だと感じた小沢が、電話を取り上げた。倫世とは面識があるので話は早かった。小沢はてきぱきと、教授会での一連の出来事を倫世に報告した。
顔色を変えたのは、倫世の方だった。すぐにそんなつもりはないし、予定もない、第一、冴子の同意がないのにそんなことはしない、笹井と連絡を取る、と即答し電話を切った。
「笹井弁護士もその話はないと否定したぞ?」
「とにかく、教授は事務局に行って、木場がそう言ったことはないと否定したと報告を。私は念のため、保育園に連絡します。もしかしたら連れ出す予定なのかもしれない」
「和之君を?」
「君は今はここにいた方が良い」
その時だった。ドアがノックされた。
「警備室の尾崎です。小沢教授、失礼します」
男の声でひと声かけられ、ドアが開けられた。
「おう、尾崎君」
小沢と顔見知りだったらしく、体格の良い男が顔を見せた。
「入ってください」
尾崎に促され、入って来たのは保育園のエプロンを付けた女性と和之だった。
「亜子先生、和之?」
和之は何も言わず、冴子に飛びついてきた。冴子は何も言わず、和之を抱きしめる。怯えた顔の和之がほっとしたように深呼吸したが、怖さを忘れるように冴子をぎゅうぎゅうに抱きしめた。
「すみません、私は何がどうなっているのかよくわからないんですが園長先生の指示で和君を連れてとにかく木場さんの所に避難しろと言われて」
「尾崎君、君は何か聞いているかね?」
「年配のご夫婦が来られて、木場和之の祖父母だと名乗りました。迎えに来たので引き渡してほしいと。だからすぐに門警備についていた課長が警備室と、園内にいた園長に確認を取ったんです。で、確認のため、私に園長のもとに行けと指示が飛んで、そのご夫婦の対応は課長と、応援要員に任せて、俺は園長の指示で直接木場さんか教務の森課長に和之君を引き合わせろと。園長は様子がおかしいので緊急事態だと。和君は必ず木場さん本人か森課長に引き渡せと言われたので、まずは木場さんの所に、と思って。園から連絡があるまで二人を守れと園長から厳命されました」
小沢は内線電話を取ると教務課に連絡を取る。
教務課は騒然としていたが、森は、とにかく冴子と和之と静香の安全を確保してくれ、と小沢に頼んできた。祖父母だと名乗る男女が保育園に現れ、和之を強引に連れ帰ろうとしてもめているという。その電話を、小沢は冴子に引き継いだ。
「取り急ぎ確認したい。光石一郎という男性と、美奈子という女性は君の知り合いかい?和之君の祖父母と名乗って、和之君を引き取ると言ってもめている。養子にするとかしないとか、そう言った発言もあった」
「あー、私が知っている光石一郎と美奈子本人かは別ですが、そういう人物に心当たりがあります。姉の、両親だった人達です」
「お姉さんの両親?会ったことはあるか?」
「一度も顔を見たことはありません。兄たちの結婚に反対して、高校生だった姉を勘当して卒業式にも来なかった。結婚式も来なかったし、姉の成人式にも来なかった。孫が生まれた時も顔を見にも来なかったし、ウチの両親が死んだときも、兄夫婦が死んだときも、ただの一度も顔を見せに来たことはありません。迷惑ですから、警察呼んで帰ってもらって結構ですよ」
「それから、あの人たちが言っている養子の話は、ないということだね?」
「ないです。私は二人の母親です。手放すことなんて考えていないし、笹井さんもその話はないと」
「わかった。とにかく、今は研究室にいてください。あとはこちらで対処します」
森が請け負ってくれた。
「保育園の亜子先生と警備室の尾崎さんがいらしているんですが、お二人には帰っていただいて良いですか?」
「小沢教授と替わってください」
森の指示で小沢と電話を替わり、二人は何か打合せしてから電話を切った。
「尾崎君は亜子先生を保育園まで送り届けてくれないか?そうしたら仕事に戻ってくれと。園長判断と森課長の判断で警察を呼ぶそうだ。それ以後のことは私が引き受ける。ここは私と杉下君がいるから」
「わかりました。よろしくお願いします」
「かず君、ちょっとだけ我慢してね」
亜子先生はポケットの中から数枚の折り紙を取り出して和之に渡した。
「うわぁ」
和之はそれを見てひとりで遊びだす。
「ありがとうございます」
「では気を付けて」
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