第9話 冴子の恋 その2
「君たち知り合いなのか?」
「吉宗教授から、そろそろ会場に行かないかとお誘いしに来たんですが、お取込み中ですか?」
すっと真顔になって小沢に尋ねた。こういう切り替えは父親譲りだな、と思う冴子。笹井要は空手をしていた時のまま、凛としてる。
「いえいえ、学生として課題の提出が終わったので私はこれで帰ります。まっしぐらにアルバイトに行きますからご心配なく」
「おう、外は暗いから気をつけろよ。まぁ、大丈夫だと思うけど」
同じ空手道場に通っていたから、それなりの防御は取れると知っているので容赦がない。
「じゃぁ私はこれで失礼します。杉下先生、ありがとうございました」
一礼して研究室を出て行った。
残った男は最敬礼で頭を下げた。
「すみません、木場の父親と自分の父親が親友なので、あいつとは子供のころからの知り合いなんです。この大学にいるとは聞いていたんですが、まさかここで会うとは思っても見ませんでした。あいつ、何かやらかしましたか?」
その顔は妹を心配する兄のようだ、と小沢は苦笑する。
「いやいや、課題を提出しに来ただけだよ。真面目で優秀な学生だから問題を起こしたわけじゃない」
「良かった。ああ見えて、そそっかしいというか、抜けているというか。面白いやつなんですけどね。あ、自己紹介が遅れました。吉宗教授の教え子で、弁護士の笹井要と申します。教授は下のカフェで学生たちと話していますので、準備ができたらそちらにいらしてくださいとのことです」
小沢は立ち上がって帰る支度をする。とはいっても、ほとんど支度が出来ているので、杉下を待つばかりだが。
杉下は提出された課題をカバンの中に入れ、上着を手に取った。
「彼は杉下君、私の教え子でね、君と同じで将来有望な卵だよ。年も近いから、話も合うんじゃないかと吉宗教授に誘われてね」
小沢は杉下を紹介した。二人はぎこちなく挨拶を交わしたが、予想以上に仲良くなったのは言うまでもない。
笑ってしまったのは、最初の話題として二人の間で話されたのは、冴子の話だったからだ。
冴子の兄より一つ年上の要にとって、冴子は年の離れた妹のようなもので、しかも自分は一人っ子なので兄を持つ冴子がうらやましかった、という話に始まって、気が付けば忌憚ない意見を交わしていた。
杉下は要よりも二つほど年上で、27歳だと知ったときは要が驚いていた。大学院卒業して割合すぐに講師職を得るのは文系では珍しいからだ。
それだけ優秀なんだよ、と小沢は自慢げにそう言った。
「じゃぁ、笹井はその子とは結婚しないのか?親父さんが親友同士ならそう言う話だってあっただろう?」
同席した吉宗教授が悪戯っぽくそういう。ピクリと、杉下の指が動いた。
「ナイナイ、絶対にないです」
要は即座に否定した。今すぐ、というわけにはいかないが、この年末年始、両親に紹介したい女性を連れて帰省するつもりでいるのだ。
「妹としてなら、見れるんですけどね。結婚する相手は違います」
「ということは、相手がいるんだ」
小沢がそう言った。すっと視線を逸らせば、肯定したも同じだ。
「じゃぁ、杉下君は?」
「いや、私には…」
そう言って、とある女性の顔が浮かんで顔を赤らめた。
「年寄りの冷や水か」
ふぉふぉ、と吉宗が笑った。
11月に入って、大学で風邪が大流行した。丁度学園祭が終わった直後で「騒ぎつかれた」ということもあるのだが、火曜日の雨上がりの集まりの朝は、杉下だけがカフェテリアに来ていた。
「学祭疲れですかねぇ」
「そうみたいですねぇ」
杉下はカフェテリアのマスターと言葉を交わす。
彼はここの軽食コーナーの担当で、ソフトドリンクとホットドック、時間制限があるがフライドポテトとカップ唐揚を販売している。
「おはようございます。先生、マスター、早く、こっちこっち」
「木場君?」
「虹が出てるの!」
飛び込んできた冴子の声に、二人がその方角を見ると、朝日に照らされた、見事な虹が出ている。
「きっと今日はいいことがある、ウン」
「お前は年寄りか」
マスターが笑いながら冴子の分のホットドックを用意し始めた。
「ホント、綺麗だな」
「そうですね」
杉下と少しの間だけ肩を並べて虹が綺麗だと話しながら鑑賞していると、登校してきた他の学生がちらりと見て顔をほころばせる。
ほんの2分か3分のことだったが、杉下にとって、それがかけがえのない時間だと気が付く。
隣に冴子がいなかった時よりも、冴子がいた時の方がなんとなく心が落ち着く。
雨上がりの虹に心を奪われたように、自分の気持ちは冴子に向いているのかと杉下は気が付いた。
同時に。
この気持ちは封印しなければならない、といましめる。
少なくとも、彼女はまだ学生で、ましてや未成年だ。気を付けるに越したことはない、と。
目の前にいる彼女は、まだ未来の可能性を秘めているのだから。
秋も深まって来た夕方の事。
午後7時が閉店なのだが、今日はその前にすべてが売り切れたので、アルバイトと従業員が閉店作業をしていたが、冴子は厨房で明日の煮物の仕込みと、源之助は彼らと自分の4人分の「まかない」を作っていた。
「こんばんは」
聞きなれた声に、冴子は顔を上げる。
「小沢教授?」
「ああ、申し訳ないです、今日はもう閉店です」
源之助がオムライスを成形しながらそう言った。
「うわぁ、困ったな」
「え?冴子の先生?」
「教わっている先生の、先生です。奥様が風邪ひいて倒れたので、食事に困っているんですよね」
「いや、私は杉下君に帰りにここに寄るようにと言われて」
「ちゃんと取り置きしていますよ」
冴子が指差したのは、予約を受けたのだと言って取り置きしているオーダー弁当だった。お年寄り向けに、オーダーのおかずで好きな量をチョイスできるようにしている、昼間限定の商品だった。
「ご飯は柔らかめです。おかずは煮物中心に、消化に良いものをチョイスしてあります。レンジで温めてくださいね」
「で、いくらだい?」
「杉下先生がお支払いになったので必要ありません。奥様には散々お世話になったのでこれくらいさせてくださいって、伝言を預かっています」
「木場君…」
「念のため、明日も用意しておきましょうか」
源之助がそう言った。
「家が近けりゃ、配達もしますよ」
「いやいや、車通勤とはいえ、ここから30分はかかる。助かるよ、ありがとう」
「いえいえ、ありがとうございます」
ささっと持ち帰れるように袋に詰めて、アルバイトの子が手渡した。
「ありがとう、木場君」
「先生気を付けて」
小沢は店の前に止めた車に乗って、さっそうと帰って行った。
「格好いいな。ツーシートのスポーツカー乗ってるなんてさ」
「ああいうふうに年を取りたい、とは思いますけどね」
やせ型の小沢はひょろっとした外見とは違って、身体は鍛えてあるし、意外とダンディだ。学会があるときはピシリとスリーピースを着こなし、授業の時はラフにポロシャツというときもある。60代だ、とは耳にしていたが、それにしては肌のハリ艶が若かった。
そんなことがあった週の木曜日、一緒に月曜日一限の簿記の授業を受けている2年生に頼まれて、冴子は彼の分と自分の課題を提出するために小沢研究室を訪ねた。
「失礼します」
「おう」
杉下は返事を返したものの、別の生徒の質問に答えている最中だった。
「あ、木場君、頼みたい用事があるからちょっと残ってて」
「はい」
提出用のボックスに課題プリントを入れると、顔見知りの院生が手招きした。
「小沢先生ぶっ倒れちゃって。この間、チョイス弁当取り置きしてくれてただろう?その話だよ」
「え?教授も奥様も、ですか?」
「みたいだよ。杉下先生、今日は教授の車で出勤してきたから、もしかしたら昨日から泊っているのかもね」
指導を終えた杉下が冴子を呼んだ。
「急ですまないが、二人分の弁当を用意してくれないか?小沢教授と奥様が風邪で倒れちゃって」
「良いですよ。で、杉下先生お粥作れます?」
「それは大丈夫。何とかお粥とかうどんは作れているみたいだから。でも買い物はいけないし、食事の支度はできないしで週末は苦労したみたいだね」
「わかりました、適当にチョイスしておきます。おかず中心に、柔らかい物系が良いですよね。あ、試作品があったっけ。配達します?それとも取りに来ます?」
「悪いから取りに行く。授業が終わってからだから、そうだな、4時半くらいに」
「わかりました、用意しておきます。教授と奥様の大好物って、わかります?」
「この間持って帰った里芋とかがずいぶんお気に入りだったようだけど」
「あ、あれか。わかりました。じゃぁ用意しておきます」
弁当二人前を請け負った。
約束の時間に、小沢の車を店舗前の駐車場に入れる。
数人の近所の老人たちが買いに来ていた。
「こんにちは。あの」
受付に立つと若い男の従業員で、しかも店舗の奥には冴子の姿はなかった。
「木場君に弁当を頼んでおいたんだが。杉下か、小沢の名前で予約してあると思うんですが」
「あ、杉下先生ですよね、いつも木場がお世話になっております」
源之助が厨房からひょいっと顔を出した。
「あ、オーナーの源之助さん、ですよね。木場がゲンちゃんというから…」
「ゲンちゃんで良いですよ。あいつ、さっきシフトが終わったんで帰らせたところで…」
源之助はおかずのみの弁当二人前を受付に渡す。伝票に書かれてある金額で、レジの若い男が清算する。
「木場さんなら、風邪にはビタミンCなんて言いながら部屋にすっ飛んでいきましたよ。毎度ありがとうございます」
お釣りを出しながらそう答えた。
「良かった間に合った!」
店の外にいたのは冴子で、手にはミカンの入ったレジ袋を提げていた。
「ガキかよ」
源之助がぼそっとつっこむ。
「でも教授はそういうところも評価していますよ。子供っぽいと見せかけて、実はツボを突いた答えを返すこともあると」
「そうですね」
源之助はある意味納得していた。
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