第8話 冴子の恋


 冴子の大学一年目は一般教養と専攻科目を勉強するための基本教養である専門科目の習得に尽きる。


 とはいっても、経済学部という半分文系、半分理系といういい加減な立ち位置なので融通が利く。あとの学年が楽になるように一般教養科目は一年生のうちに履修しておくのだという先輩からのアドバイスがあったので冴子はきっちり一般教養科目を履修し、空いた時間に必修の専門科目や、一年生でも履修できる選択必修科目や自由選択専門科目を履修することにした。


 それでも、平日の週に三日は午後に自由になる日ができる。この日はアルバイトにいそしむことになった。



 冴子にアドバイスをしてくれた男は、自由選択の専門科目で知り合った大学院生だった。履修しようかどうしようかと悩んでいた冴子に声をかけてくれたのだ。


「いやぁ、経済学部に女の子って珍しいからさ」


 珍獣か、私は。

 けれど、そうかもしれない。500人余りの入学者がいて、女子生徒の数が6人とはこれ如何に。


 自由選択ではあるが、経済学部の専門科目、ということで冴子がチョイスしたのは簿記である。本当は財務諸表とかの専門科目が良いのだが、それは3年次の必修科目になっていて、一年次は商業簿記初級、二年次は商業簿記中級と進むのがセオリーらしい。


 彼は院生として、この授業のセカンドティーチャーとして控えているらしい。つまり、簿記は脱落者が多いから、落とさないようにマンツーマンで指導できるようにとついてくれるということだ。


「そんなに難しい科目なんですか?」


「いや、普通科出身だと慣れるまで戸惑うというか。簿記は合わないと拒否反応を起こす学生が多いんだ。教えてくれる杉下先生はざっくばらんで教え方は上手だよ。会計専門の先生じゃないけどね」


「そうだね、専門的なことは彼に聞くと良い。なにしろ、公認会計士試験に一発合格だからね」


 後ろから声をかけてきたのは当の杉下だった。大学の専任講師で、他に幾つか授業を持っている。必修のクラス単位で受ける経済英語の担当もこの男だった。


「あ、君は経済英語の」

「木場冴子です」

「履修するの?」

「まだ決めていません。でも簿記には興味はあります」


「欠席すると後が辛いよ。だから出席しないと試験に合格しない。内容は簿記3級の内容を実技と理論で教える。詳しいことは授業でね」

「先生、そうやって厳しいことを言うから生徒が来ないんですよ?」

「少ない方が教えやすいじゃないか」

 杉下はそう言って教壇に立ち、準備を始める。

「だから月曜日の一限なんですか?」

「そうだよ。少数精鋭だよ」

 杉下はプリントの束をたん、と鳴らした。



 月曜日の一限、しかも出欠に厳しい授業はあまり人気はない。履修登録期間(またの名をお試し期間)に顔を出す生徒はいるが、その後は続かなかった。


 必然的に、残った者同士、顔見知りになる。杉下との距離も近くなった。

 月曜日の朝、混雑する電車を避けて杉下は朝早く出勤してきて、2号館にあるカフェテラスでコーヒーとホットドックの朝食を取る。


 冴子は、毎朝弁当屋のご飯の仕込みのために1時間ほど仕事をする。洗米作業や数日分貯めておいた、だしを取った煮干しや昆布をふりかけに加工したりするのもこの時間だった。

 この作業を終えて、事務所の鍵を閉めてそのまま学校に行き、一番朝早くから営業している2号館のカフェに行ってコーヒーとホットドックの朝食を取る。


 カフェテラスのベンチでぼうっとしながら朝食を取っていると、杉下が現れる。そんな毎日だった。

 最初は、あれ?と思うくらいだった。


 二度目、三度目、となり、それが自分の先生だ、生徒だ、と知るとお互いに言葉を交わすようになった。


「朝早いね」

「バイトが朝早いから、ここで朝食です」


 最初は他愛のない、そんな言葉で。

 時には食堂の追川さんが作ってくれた「試作品」を食べながら。


 梅雨を前に試作品のポタージュスープが出来上がるころには、杉下の出勤する月、火、木曜日の朝は自然と、月曜一限を履修する学生たちと杉下を慕う学生たちが朝食を取りながら情報交換する場所になっていた。


 杉下の授業を履修している生徒から始まった集まりだったが、学年関係なく、杉下がいてもいなくても10人程度が集まって雑談をして20分程度で解散する、不思議

な集まりだったのだが、自然とそこから冴子の人脈が増えて行った。


 前期試験前になると、杉下は試験前だからとその集団に顔を出さなくなった。

 週に三日、授業では2コマ、先生と生徒としての枠は決して超えていないというのに、あえなくなったら妙に寂しい。


 そのことで、冴子はようやく自覚した。

 杉下のことが、好きだと。

 だからといって何か変わるものでもないが。



 月曜日の一限の授業では脱落者が増えて7月末の前期試験を受験したのは10人だったという。


 後期に入ると、出席者は7人になった。見通しとして、今年履修して単位が取れるのはこの7人だろう、と杉下は笑った。


 毎週、授業内容のプリントと宿題と称されて課題プリントが渡される。月曜日の授業の課題プリントを、木曜日の午後6時までに提出して、翌週の月曜日に添削されたものを受け取る。油断するとこの学習ペースに追って行けなくなるという具合だ。けれど、今まで全く簿記に触れてこなかった冴子には新鮮で、添削課題は実践的だった。


「そう言う子は続くよ、興味ある子だからね」


 杉下の言う通り、残った7人は毎回お互いの出席を確認しながら授業を受けていた。時々具合が悪くて欠席したりすると学生同士で教えあったり、時には杉下を交えてのレクチャータイムになったりする。朝の時間、先輩たちがあれこれと教えてもくれたりした。

 だが、基本は自分がしっかり出席して提出物を出すしかない。

 提出用の課題プリントをもって、冴子は杉下の研究室に向かう。


 今日の午後6時までに提出、ということをすっかり忘れていたのである。一度はアルバイトシフトに入った冴子だったが、思い出して秋の暗くなった通学路をもう一度登校して提出しに来たのだ。


 講師には講師控室があるのだが、杉下は国際経済学の小沢教授の門下生であることから小沢の研究室に間借りしている。だから行き先は小沢の研究室だ。


 時々、小沢と顔を合わせるが、普通の話好きなお祖父ちゃん、である。研究者としては日本トップクラスなのだが、偉ぶったところは全くない、温厚な人物だった。


「失礼します、遅くなりました」

「おう、来たな。君が最後だ」

 杉下が破顔した。時計は、午後5時30分を過ぎたところだ。


「うわぁ、すみません。提出忘れていました」

「おや、意外だね」

 小沢がコーヒーを飲みながらくすりと笑った。


「木場君はそういうところはしっかりしている印象があるからね」

「そうですね、真面目な学生のイメージがあったんで、病気で倒れたのかと思いましたよ。でも今朝の必修の経済英語には出席していましたからね」

「バイトのシフトが急に変わったんで、今日は急いで帰らなきゃいけなくなって、それで忘れたんです。すみませんでした」

「いや、時間には間に合っているから大丈夫だよ。それより、バイトは終わったの?毎日朝の時間に入っているのは知っていたけど、夕方は初耳だね」


「中抜けさせてもらいました。社長がそういうところ、理解ある人なので。本当は今日は休みだったんですけど、シフトの子が風邪で休んじゃって」

「へぇ、バイトって何をやってるの?今時の子って、何をやるの?」

 小沢は興味があるらしい。

「私は、下のバス停の、あ、保育園前のバス停のところにお弁当屋さんです」

「ああ、マンションの一階の?キッチンパレット、だったっけ」

「ああ、あそこの切り干し大根シリーズ、美味しいですね。切り干し大根のきんぴらとか、煮物とか。オーナーが変わって一時期、味が不安定になったのに、春から美味しくなって持ち直した」

 小沢がしみじみとそう言った。


「何しろね、年寄りの私が食べられるくらいに落ち着いた和食弁当も出すようになりましたしね。若者向けの油っこい弁当も良いですが、煮物や魚中心の和食日替わりも美味しいですよね」

「ありがとうございます。それ、私が作っています」

「は?」

「厨房担当というか、夜の仕込み担当なんで、何かしら作ってますよ、私。特に煮物は。夕方から仕込みを始めて、冷蔵庫で一晩寝かせるものもあるんですよ」

 小沢も杉下もポカンとしていた。


「意外だなぁ、弁当屋でバイトか」

「実家が弁当屋なんで、段取りがわかっているから楽なんですよ」

「週3で通っている俺はもうだめだな」

「では、私もダメな部類ですね。あ、でも君を見かけたことはありませんねぇ」

 杉下がくすくす笑う。週に三回通っているということは、仕事があって大学に来る日は全日弁当ということだ。


「お昼の時間帯は大学にいるのでほとんどいませんし、いても厨房にいるのでわからないと思います。でも、嬉しいです。毎日食べても飽きない味を、バランスよく、っていうのが社長の考えなんです」


「そうじゃないよ、あの弁当屋があるから、こっちの大学のコマ数を増やしたいと言ってだな」

「あ、教授、それはだめです」

 慌てて杉下が小沢の言葉を否定した。


「良いよ良いよ、いずれは君は僕の後を継ぐんだ。ひいきの食堂や弁当屋があったって不思議じゃない、そうだろう?」

「そうですけど」


「だから、今日の飲み会にも参加しなさい。法学部の連中ばっかりだと食わず嫌いはいけない。今日のメンバーは教授だけじゃなくて、教授の教え子の現役の弁護士もいるそうだから何かの役に立つかもしれない。顔つなぎだよ」


「へぇ、教授たちも飲み会ってあるんですか」

「ああ、秋から教授が一人増えてね。今日はその教授と教え子でウチの講師の富沢先生と、ずっと若いんだが優秀な弁護士が遊びに来たとかで、男ばかりの飲み会だよ」


 ドアがノックされた。ほら、お誘いだよ、と小沢が笑い、杉下がドアを開けた。

「失礼します。法学部の吉宗教授の代理で来ました」

「は?何で兄ちゃんがここにいるの?」

「げ、キバコ」

 スーツ姿の男がぎょっとしていた。

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