第3話 意味不明に翻弄される冴子、鉄槌をかます


 謎のツンツン行為に、辟易していた冴子だが、誰にも相談できなかった。

 ただ、家族には相談した。だから、時間を変えてみるとかカバンでガードするとかの案は出た。母も兄も知恵を絞ってくれて、それを実行したけれどもうまくはいなかかったのである。


 痴漢とは言い難い。なにしろ、相手は折りたたみ傘の先でツンツンしている。直接触れているわけではない。しかも、雨の日は乗ってきても傘が濡れているからツンツンしてこない。

 力加減も調節してきている。痛い、程ではない。子供がねぇねぇ、遊んで、と袖を引っ張るような感じだ。

 だが、気持ち悪い。

 この先、源氏物語は出会った夕顔が亡くなり、傷心の光源氏は幼い紫の上と出会うのである。小説的には面白い山場の一つになる。


 というのに、翌週はランダムに乗ったというのに、全てツンツン乗車された。月曜日から土曜日の、向こうが乗って降りるまでの15分くらいの時間が非常に煩わしいことこの上ない。

 だが、相手にするには馬鹿らしいし、バスの時間の事もある。

 3週目。もとに戻って、7時のバスに乗ること三日。

ツンツン、ツンツン

 今日も元気に三日目である。

『次は山峠です。お降りの方はお知らせください』

 アナウンスはあるが、ここでの乗降者は通院のために不定期に乗って来るおっちゃんだけだ。今日は水曜日、おっちゃんが乗って来る。運転手は軽快にバスを操作し、峠道の坂道に突っ込む。峠道と言っても、この先はほぼ一直線のゆるい山越えなので運転する方も乗っている方も軽快である。

ツンツン、ツンツン

 こちらも軽快であるが。


 北山に来た、光源氏がふと外に目をやると…。

ツンツン、ツンツン

 とても可愛らしい少女が泣いていて、その少女は…。

ツンツン、ツンツン

 バスが山峠に止まって、いつものおっちゃんを乗せた。

ツンツン、ツンツン

 冴子は、読んでいる本をぱたんと閉じた。


 周囲は、いつもの朝である。

 L高校の女子生徒は今日は英語の単語帳を広げている。

 こっちのOLさんは化粧の真っ最中だ。

 P高校の男子生徒は二人で数学を教えあっているし、こっちのカップルは、朝から仲良く朝ごはんを食べている。

 通院のために乗っているばぁちゃんは、睡眠時間を確保していたが、常連のおっちゃんが乗って来たのでおはよう、と挨拶している。

 みんな、それぞれの時間を楽しんでいる。


 みんな、ごめん。


 冴子はすっと立ち上がって振り向くと、卓球のバックハンドストロークの要領で、源氏物語のぶあっつい本で後ろの男の頭をはたいた。


すっぱこーん。


 思いっきりはたいたわけではない。

 だが、思いっきり良い音がした。エンジン音にも負けていないその響き。

 脳みそ入っていなかったのか?

 すっとフォームを解くと、さっと前を向いてすとんと座った。


 何が起きたか、全員がわからなかった。

 分かったのは、冴子が若い男を叩いたことだけである。

「痴漢したんだ、サイテー」

 アイシャドウを引きながらやや大きな声で呟いたのは、OLさんだった。彼女はわずかな停車時間でさっとアイシャドウを引く達人である。

「ホント、ひどい」

 カップルの女生徒が同調した。イチャイチャカップルだが、礼儀正しい二人は弱者にはすぐ席を譲る。

 いたたまれなくて、冴子は本を抱えたまま小さくなった。


 大事な大事な図書館で借りた本を、武器にしてしまった。やっちゃったよ。

 しかも源氏。現代語訳だけど、めくるめくロマンス。

 なのに、変な奴撃退の道具にしちゃったよ。

 ごめんなさい紫式部。


「学生さん、大丈夫?」

 運転手がマイクで呼びかけてくる。座席確認用のバックミラーから見える彼は真顔だ。冴子はちょっとだけ顔を上げて、頷いた。

 ほっとしたような顔をした運転手は、続けてギロリと若い男を睨む。

 冴子からの反撃に呆然としていた男は、はっとして目を伏せた。

 バックミラーには、男をすごい勢いで睨みつけるOLさんやカップルの二人や、痴漢と聞いてぎっと睨んでいるばぁちゃんとおっちゃんの顔が映っている。

 男の監視は彼らに任せて、運転手はドアを閉めて車を発車させた。

 山峠から、山峠南までほんの1分か2分くらいの距離なのだが。

 若い男は皆に睨みつけられたまま、山峠南の停留所で降りた。

 男が降りた後で、それまで右側に座っていたOLが席を移って来た。

 冴子が気が付いてからずっと、彼女は右側キープの鬼である。

 心遣いに、頭が下がった。

 ようやく、源氏物語若紫の巻に集中できるようになったけれど、ドキドキが止まらなくて結局本は読めなかった。


 冷静になることは必要だが、時には牙をむくことも必要だと悟った冴子であった。

 キバコがキバコになった日である。


 ただし、牙を向けられた男は。

 翌日から、K町バスステーションで冴子の姿を認めるなり、さぁーっと物陰に隠れるようになった。

 同じバスにも乗ってこない。

 それってひどくないか?最初にちょっかい出したのは男のほうなのに。違う席に座れば良いだけじゃない?

 冴子はそう思っていた。



 後日談

 冴子の兄の耕造は、自分の部屋で仲間達と試験勉強をやっていた。

「そうそう、あいつ、本気でコクるとか言ってるんだ、例のバスの女の子。大体6時半着のバスで帰ってくるってさ」

「へぇ、で、あいつ毎日待ってるの?」

「部活の帰りに寄っているらしい」

「でもよ、その彼女、痴漢をばぁーんってぶっ叩いて撃退したって噂があるぞ?」

「本当かよ、それ?」

「だって、K町に住んでいるT女子中学の生徒で終点まで乗ってくるなんて数いないぞ?そこから自転車で帰っているということは、A小かC小の学区じゃないかって言ってた。いっつも踏み切り渡るからさぁ。中学3年生ってトコまではわかっているし。俺らの後輩の情報網使えば、誰かわかるかもよ?」

「私立行く奴なんて少ないわけだし」

「まぁ、やめとけ、って言っておけ。俺はあいつとはクラス違うけど一応忠告」

「耕造、彼女の事を知っているのか?知りあい?どこの誰?」

「A小出身、めちゃくちゃ本が好きでインドア派。野球は阪神ファン」

「うっそ、真面目に知ってるの?」

「妹だよ、俺の」

「え?え?え?」

「その痴漢は、座席の後ろ、壁と座席の4,5センチのすき間から折り畳み傘で突っついてきたんだ。座る場所変えても、時間を変えても追いかけてきて1ヶ月くらい悩みに悩んで、で、ぶったたいたんだと。俺、全部聞いて知ってるからさ」

「ええええええ?」

 兄よ、それを世間では引導を渡すと言う。


 冴子が6年間、誰にも告白されなかった理由がココにある。

 痴漢行為も意味不明だが、痴漢行為に報復したから告白をやめようとか、やめたほうが良いと忠告するヒトビトも意味不明だ、と冴子はすねている。

 何十年経っても、こうして赤提灯の話題にもなるくらいだ。本人は相当気にしているに違いない。

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