第2話 意味不明に翻弄される冴子 


 冴子は東京から見れば、ちょー田舎の小学校に通っていた。


 当時の国鉄、今のJRなんて鉄道はない。私鉄の単線鉄道があるだけ、しかもそれは冴子の街から少しだけ離れた港町を結ぶ単線一両編成の電車で、ちょっと拓けた市の中心部、観光地のB市に行くにはバスで峠を二つ越えねばならない。


 冴子の住むB市K町から中心部のB市B駅までは約50分の道のりだ。一方、県庁所在地のあるA市までは、峠を一つ越えて、その先は延々田んぼが続く田園地帯を1時間20分かけてバスで行くことになる。


 つまり、冴子の住む県は当時は田舎だったのだ。今も田舎だが。



 そんな田舎にも、六年一貫の、私立中高等学校がある。


 冴子の母は、優しいところはあるが、意外とさっぱり物事を割り切ることがある。

 兄であり長男の耕造は、優秀を絵にかいたような男で、普通に勉強ができて、絵の才能もあった。公立中学に進学して高校受験をさせても、そこそこの高校に進学するだろうと思えるほど、優秀だった。


 しかし、冴子は違った。兄に比べると、とんでもなく国語の成績は良かったが、他の教科はぼちぼち。運動はできなくてマラソン大会は「お尻から数えて」一番! 水泳は、溺れない程度に泳げるけど、早くはない。にとどまっている。


 すでに中学に進学した耕造は、水泳部のカッパとして、「K中の河童」の名前をほしいままにしている。


 ピアノを弾かせれば、ちゃりらりらん、と弾ける兄と、ズンドコドッコ、の妹。なかなかの凸凹コンビである。


 家の中では仲が良いし、当人たちは何とも思っていないが、母は思っていた。



「冴子はこのままK中に行ったら確実に落ちこぼれて下手をすれば県内随一と言われる落ちこぼれたちが集まるF高校に進学するようになるじゃないか」


 小学生にしてその兆しがあると見取った母は、じゃぁ最初から私立中学に入れてしまえ、と考えた。余程ずっこけなければその中学は高校入学を保証しているし、成績が良ければその先の女子大学の推薦ももらえる。付属ではないが、姉妹校だから優遇されていて、ちょっとだけ成績のハードルが一般生よりも低くなる特典があったからだ。


 冴子の家から学校まで、乗り継ぎ時間を含めずに1時間20分。乗り継ぎ時間や家から駅までの時間を考えると1時間40分。1時間半を超える通学時間になると、通学時間順に学校の寮に入れる権利を得られる。それでも優先権は時間順になるから、もしかしたら寮には入れないかもしれない。そんなことも考えつつ、両親と相談したうえで、冴子は入寮希望の欄に丸を付けて願書を提出することになった。



 結果、月曜日に合格通知が届いた。合格はしたが、入寮はできないとわかって、冴子は悩んだ。金曜日までに決めなければならない。とすると、木曜日には親に返事をしなければならない。さんざん悩んだ挙句、通学するということで入学を決めた。


 いや、本人がそう決心したのは水曜日の夜だったのだが、母はきれいさっぱり、合格通知を受け取った翌日の火曜日に入学金を支払っていた。


 行かないと決めたらどうするつもりだったのかと問い詰めたら、「間違えて合格通知が来てた」なんて連絡が来る前にお金を振り込んだ、だと。


 なんかなぁ、自分の子供のコト、信じてないわけ?って、ちょっとすねた。




 長い通学時間。家からK町バスセンターまでは自転車で10分。バスセンターからB市バスステーションまで50分。そこから、学校直通のスクールバスで20分から30分。


 本好きの冴子にとって、往復の2時間40分は読書の時間であり、勉強の時間であり、睡眠時間であった。6年間、この時間に助けられたといって過言ではない。


 B市バスステーション発のスクールバスに乗るためには、バスセンター7時発のバスに乗らなければ遅刻する。死守しなければならない時間だ。だから、冴子は入学直後からこのバスの主となった。


 まぁ、田舎の事なので、何度か同じバスに乗れば朝の面子は分かる。


 始発から乗って来るOLさんは、右側後ろから2番目の席でお化粧をする。お化粧をしていない日は、時々朝ごはんを食べているか、手帳を見て仕事の段取りを考えているのが普通。この人は途中で降りる。


 M高校の男子生徒は、始発から乗って来る生徒と、このOLさんと入れ替わりに乗って来る生徒の二人。仲良しさんで、昨日のテレビの話をすることもあれば、宿題の数学や英語の問題を教えあったりしている。


 毎週何曜日、と決まった曜日に乗って来る、病院に行くために利用してくるおっちゃんとおばちゃんが数人。


 最初の峠にある工事現場で働く若い男と中年の男のコンビが二人。


 冴子が加わって、始発バスは5人から6人でスタートするが、終点のB市バスステーションに到着するころには立っている人もいて満杯になる。


 だから、誰かが乗って来なかったりすると、お互いにあれ?という顔になる。運転手もそうだ。M高校の男子生徒が猛ダッシュしてきたときには、運転手は一度閉じたドアを開けて車を停めた。


「学生さんが走って来てるからちょっと待ちます」


 それから30秒と経たないうちに、


「すみませーん、ありがとうございます、おはようございます」


 駆け込んでくるM高校の男子生徒に乗り合わせた全員がほっとする。


「良かったね、兄ちゃん」


 杖をついたおっちゃんがそう声をかけた。


「今日から期末試験なんで絶対に遅れちゃいけなかったんです。助かりました、ありがとうございます」


 男子生徒は嬉しそうにお礼を言った。数十秒遅れることより、学生が乗れたことに乗客皆がほっとしている。


 のどかな風景である。



 冴子がこのバスに乗り始めてから2年と半年ほどすると、工事現場に向かう男が一人だけになった。残ったのは若い男である。


 この頃、冴子は源氏物語を読みふけっていた。学校の授業でちょっと話に出てきた源氏物語を、国語の教師が平安時代の「甘ーいロマンスを書いた小説」だと評したからである。


 ただし、現代の甘いロマンスと、平安時代の甘いロマンスは違います。と教師は言った。詳しくは高校の授業で習うだろうから、と言ったのだが、本好きの冴子としては読んでみたくなったのである。


 図書館から借りた源氏物語の現代訳の本は、厚さ5センチはあろうかという、しっかりした装丁の本で重かったが、冴子を魅了した。



 バス発車前には、すでに源氏物語を開き、読み進める冴子。


 光源氏は仲間たちと雨宿りをしながら女人談義をしていると…。



ツンツン、ツンツン



 冴子の左腕に、違和感が走る。あれ?



ツンツン、ツンツン



 真後ろに座っているのは、工事現場で降りる若い男。


 バス席は、進行方向に向かって2人掛けの椅子が左右に並んでいる。冴子は左側のいつもの席に座り、窓にもたれかかるようにして読むから、椅子と壁のすき間からちょっかいを出している、ということになる。


 後ろの若い男が、だ。


 もう源氏物語は頭に入ってこない。女人談義どころではない。



 しかし。


『次は、山峠南、山峠南です。お降りの方は降車ボタンを押してください』


 停留所案内が流れると、ぴたっと止まって、そして山峠南で男は降りて行った。



 次の日も。


ツンツン、ツンツン


 その次の日も。


ツンツン、ツンツン



 バスの時間を一本早くして、午前6時50分のバスにした。

乗って来なかった。


 次の日、やはり6時50分のバスにした。


ツンツン、ツンツン


 バスの時間を、もっと早くした。始発、午前6時40分。

乗って来なかった。


 次の日、始発にした。


ツンツン、ツンツン



 そんな一週間を終え、頭を抱えた。

なんじゃ、こりゃ。

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