活動日誌『月』

 三センチメートル。

 一年の間に月と地球はそれだけ離れる。自転公転、潮汐力だったり角運動量とその保存則。理論を語ると専門的用語で埋め尽くされるし、僕自身も詳しくは理解できないのだけれど、簡単にいってしまえば、毎年少しずつ離れているということだ。

 月との距離が広がると常識というものが崩れてく。

 例えば、一日。角運動量保存の法則とやらで地球の自転が長くなり、一日が二十四時間では済まなくなってしまう。喜ぶのは閉店時間が貰えるようになるコンビニくらいだろう。

 例えば、一月。地球との距離が延びてなお外周を回るというのなら、必然、月の移動距離が延びることになるから、月の満ち欠けが約一ヶ月では足りなくなる。月齢周期を元にした一月ひとつきという単位はおよそ三十日でなくなるか、矛盾を抱えることになり、カレンダーを作る会社が困ってしまう。

 例えば、隕石。月が受け止めていた隕石の多くが地球へと降り注ぎ、地球がクレーターだらけになる。隕石の収集家は喜ぶかもしれないけれど、未知の細菌なんかが居ようものなら宇宙戦争の始まりである。

 まあ、地球と月の間の空いたおよそ四十万キロの距離の前では、三センチなど取るに足らない長さだけど。

 人は長く生きても百年前後だ。それでも三メートル。誤差の範囲だ。

 きっと誰もがそう思う。偉い研究者様だってそう思っていたに違いない。

 けれど、自然は人の予想を軽く裏切ってしまった。

 専門的理論の計算式で出した距離は、自然の状況ですぐに変わる。年速三センチメートルはあくまで昔の平均値。今はもうそんなにゆっくりしていない。

 月が急速に遠ざかり始めた二年前、各国の研究施設は慌てて対策を練り始めた。月が無くても地球を維持出来るようにする研究だったり、火星に移住する計画だったり、巨大な宇宙船に住む作戦だったり。まともそうでまともじゃない発想が群れを成し始めたあたりで、時間もなかったから、不完全な一つが採用された。月を地球方向に戻すという、単純で安易な理屈の案だった。

 地球から見える月の姿はいつも同じ片面だ。月の自転速度と地球に対する公転速度の都合そうなっている。だったら、月の裏側にロケットエンジンでも着けて、ロケットよろしく地球めがけて近づけようという話だった。

 無茶な話だ。月の質量を考えろという話だ。単純計算でもロケット一垓機分は必要になる。そんな大量のロケットを作ろうというなら、全世界の国家予算をかき集めても足りないはずだ。それに隕石対策も必要になってくる。案を出した人はまだ良いとしても、それを本当に採用して世界規模のプロジェクトにしたお偉いさんは、阿呆に違いない。──そして、僕もその阿呆の一人である。

 国際月間距離維持法が施行されて以来、義務教育の内容は大きく変わった。昔ながらの科目の他、宇宙飛行士と同等の訓練を行い、ロケットエンジンの仕組み、建設、燃料の補給、作動、修理方法など、ありとあらゆることをたたき込まれる。そうして、学期ごと行われる試験で一定の成績を取り、身体検査に通過してしまうと、下駄箱の中に綺麗な空色の手紙が届く。中身は『Congratulations!!』の文字と宇宙へ送り出される日程で、その日から最終調整用の寮に入らなければならない。そして、日が来れば、卒業扱いで宇宙へと送り出される。彼らはロケットの材料と燃料、それから先に働いている人たちの食料とともに飛んで、今のところ二度とは帰って来られない。自分の乗ってきたロケットも月面ロケットエンジンの一機として加わるからだ。でないと、月面ロケットが完成する前に月がどこかへ行ってしまう。学校ごとに細かい差はあれ、おおむねどこも同じはずだ。要するに、ロケットエンジン管理技師の養成所である。だからみんなみんな阿呆である。一垓なんて数字は、地球の総人口より多いし、技師はいくら居ても足りようがない。

 天文学部に僕以外いないのは、もしかしたらそのせいかもしれない。顧問だって、居るのか居ないのか、何ともいえない立ち位置にいる。

 あんなにも綺麗な宙の穴は、今では地獄の象徴だ。

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