三話

 冬の宙は何処までも見える。そんな気になるほど澄みわたり、遠く遠く星が見える。音も消えた静かな夜を、昔から寝不足になるくらい一人で過ごした。

「あれがリゲル? 本当に白いんだね」

 けれど今日はもう一人。屋根に座った海野さんが、自前の星座早見板を膝に乗せて星を見上げている。その横で僕は時折、解説をする。

「じゃあ、あの対角線にある赤いのがベテルギウスだ」

「そう」

「その下がベアトリクス?」

「違う。ベテルギウスの右がベアトリクスで、下がサイフ」

「へえ。面白い名前だね」

 海野さんは「金運が上がりそう」とくすくす笑った。

 背筋が凍る。この笑顔に僕の時間は蹂躙された。やんわり断りつつも活動記録を返して貰おうとした時の「見せてくれないと、燃やしちゃうよ」という脅迫は、あまりに直接的すぎて笑顔だけでは誤魔化しきれないと思う。

「ほら、見たでしょ。もう、帰りなよ」

「ねえ、この早見板ってさ、なんで北の右側が西なの? 東でしょ?」

 ため息を吐いて、僕は彼女の早見板を空へ掲げる。

「本当はこうやって使うんだ。地球を見下ろすんじゃなくて、地球から見上げるから、西と東が逆になるんだよ」

「なるほど! どうりで使いづらいと思った」

 そうして彼女は、さらに星座を見つけてはしゃぎ始めた。

「帰らないと冷えてくるよ?」

「じゃあ、その毛布、貸してよ」

「それだと僕が寒いでしょ」

「他にないの?」

「無い。あっても君には貸さない」

「そんなこと言っていいの? 活動記録はまだ私が持ってるんだよ?」

 それを言われてしまうと叶わない。彼女に毛布を渡すと冬の空気が身に染みる。

「ねえ。何でオリオン座が見たかったの?」

 熱心に宙を見上げるものだから何気なく聞いてみると、彼女は我が物顔で活動記録をめくった。指し示したのはオリオン座の神話について書いたものだった。

「これを見てちょっと気になったの。素敵だなって」

「なら、織姫と彦星の話は?」

「うーん……。嫌いじゃないけど、自業自得だし」

「オリオンは自業自得じゃないの?」

「最後は違うでしょ?」

「まあ、そうか」

 さすがに寒くなって来て、額縁を持って梯子へ向かう。

「どこ行くの?」

「中に入る」

「それじゃあ望遠……額縁は使えないよ?」

「使わないんだよ」

「どうして」

「君が居るから」

 素っ気なく返すと、彼女は黙ってしまった。振り向くと彼女はうつむいている。本日、二匹目の苦虫を噛み潰す。

「……もしかして、とっても迷惑?」

 明かりの無い屋根の上、どうやら彼女は笑っているようだった。

「いや、そうじゃなくて……!」

「いいよ。気使わなくて。ありがとう」

 こちらを向いた彼女はやはり笑顔を浮かべていた。けれど、『くすくす』という表現はもう似合わない。彼女は立ち上がると、こちらへ歩いてきて、ノートを差し出した。

「本当に邪魔しちゃった。ごめんなさい。お返しします。ありがとうございました。だから、どうぞ、続けてください」

 彼女はそのまま梯子を降りていった。扉の開く音がして、彼女が去っていくのが見える。微かに手を目元へ運ぶようにも見えた。

 唇を噛みながら、元居た場所へ額縁と戻る。いつにもまして宙へ焦がれた。なのに、額縁の定位置は、が埋めていた。

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