君は、『朝露』
あっという間に夏が終わり、秋も終わりが見えてきた。
寒いような寒くないような、心地の良い気温で過ごしやすい。それでも段々と冬は近づいてくる。
「秋もそろそろ終わるね」
「秋という季節があるかどうかも怪しかったけど」
学校に向かいながら、朝露とそんな会話をする。季節が変わるごとに、俺との時間が増えるごとに、朝露の儚い雰囲気は強さを増していった。すうと色が全部消えて、空気に馴染んでしまいそうな、そんな感じがした。
しっかり繋ぎ止めておきたかったけど、そんなことができる勇気なんてあるはずがない。だからこうして、登下校を共にして、朝露との時間を大切にすることを意識した。
理由はよくわからないが、彼女はいつか何の音沙汰もなしに消えてしまいそうな気がする。
「あ、露だ」
道端の草を見て、朝露が呟いた。太陽の光を受けて、きらりと光っている露がそこにあった。朝露がしゃがんでそれをまじまじと見た。久しぶりに見るなと俺も朝露の隣にしゃがむ。
朝露は何も言わずに、ただ一点を見つめていた。その横顔は何かを考えているようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。ただ、その姿は何故だかわからないが、切なかった。
「朝露」
「何?」
俺の方を見ないで、草の上の露を見て、朝露は返事をする。
「朝露みたいに、消えてなくならないよな」
俺は朝露から感じる切なさに耐えられなくて、意味不明なことを聞いてしまう。自分でも何を言っているかわからなかったし、朝露はもっとわからないだろう。何言ってるの、と笑う姿が想像できた。
軽い気持ちで、朝露の姿を見た。朝露に笑われて、ごめんと笑いながら、でも少しだけ申し訳なさそうに、謝れば良いと思った。
でも、違った。
俺の想像した、朝露の姿はどこにもなくて。
目を大きく開けて、口をぎゅっと閉じ、笑顔なんてものはなかった。明らかに、動揺していた朝露がそこにいた。
どくりと心臓が嫌な音を立てた。
「……何の、話?」
震えた声で、朝露が言った。いつもの朝露じゃなかった。
「……なんでもない」
俺はそう返すのが精一杯だった。どくりと心臓は嫌な音をやめない。
「そろそろ行こっか」
そう朝露は素早く立ち上がった。そこにはいつもの笑顔があった。
でもそんなもの、違かった。いつもと同じはずなのに、どろっとした違和感がつきまとう。
朝露の深淵を覗いたようだった。どくりと心臓が鳴る。
この日以来、俺たちは一緒に登下校することはなかった。
☆
やはり、朝露の様子はおかしい。
俺が変なことを言った日から、ほんの僅かにでも確実におかしくなっていった。
何がおかしいのか、そう聞かれるとなんて答えれば良いのかわからない。言えるとしたら、儚さが増しているとしか言えない。
もう一度、朝露と話がしたかった。根掘り葉掘り聞くつもりはない。ただ、いつもみたいなからっぽな会話をしたい。
だが、タイミングがなかなか掴めなかった。朝露は人気者で、いつもそばには誰かしらがいた。これも不思議な話だが、学校で俺と朝露はほとんど会話をしたことがなかった。だから余計に、話しかけるのが気まずかった。
そんなある日のことだった。
朝露と話せないまま学校が終わり、早々に朝露は帰ってしまったので、どうしたものかと、電車を降り、家までの道を歩いていた。
「こんばんは」
曲がり角の向こうから、人がやってきた。漆黒のストレートヘア、真っ白な肌。制服ではなく、だぼっとした私服を着ていた。
「朝露」
江草朝露。俺がずっと話したかった、彼女がそこにいた。
「こうして話すの、久しぶりだね」
「そうだな」
久しぶりで緊張しているのか、たどたどしくなってしまう。
「今日はね、さよならを言いにきたんだ」
いつものように淡々と、なんでもなく、彼女が言った。
“さよなら”
その言葉がうまく飲み込めなかった。さよならってなんだ、どういう意味だと、俺は現実逃避の思考を繰り返した。
「どういうことって顔してるね」
「そう、なるだろ……」
朝露はいつもと変わらなかった。必死に笑顔を貼り付けていた。にこにこと不気味なくらい笑っていた。
「いつものことなの。そう、いつものこと」
「いつもって」
「転校なんて、いつものこと」
「ただの転校って、感じじゃない」
「やっぱ、大輔にはバレちゃうか」
あはは、と朝露は笑う笑う笑う。
「親がね、借金してて。逃げてるの」
「借金?」
「そう、借金。これでも今回は長くいれた方なんだよ?」
そうなのか、と言うしかない。他に何と言葉をかけて良いのかわからなかった。
「借金なんて……」
「しているようには見えなかった?」
「ああ」
「制服、この学校の着てなかったでしょ」
「でも、美味しそうに食べてたじゃないか。いろんなもの」
一緒に珈琲を飲んだ、アイスを食べた。他にも色々なものを。食べたり飲んだりした。
「見栄だよ、見栄。私は不幸なんかじゃないって、見栄。美味しいものを食べることで、自分を満たしてたの」
自分で、バイトしてお金を貯めて。そのお金で、美味しいものを食べて。そう、付け加えた。
そう思うと、納得ができてしまった。食べ物を大切に味わう姿が。幸せそうに微笑む姿が。頭に浮かんできて、重なって、離れなかった。
「見栄に付き合ってくれてありがとう」
「……そんな風に言わないでくれ。俺はそんなものに付き合った覚えはない」
そこだけは間違って欲しくはなかった。例え、朝露にとって“見栄”でも。俺にとっては違かった。見栄なんてくだらないものに付き合ってなんかいなかった。朝露といる時間をただ、大事にしていただけだった。
そこだけは、俺の気持ちだけは、間違えて欲しくはなかった。
「ごめん」
朝露が悲しそうに言った。泣きそうだけど、必死に涙を堪えていた。それは、俺も同じだった。
2人して泣きそうで、でも泣けなくて。泣いてはいけなくて。下唇を噛んで堪えた。
「あのさ、朝露」
「今回が初めてなんだよ」
俺の言葉をあからさまに遮った。俺の言葉を聞きたくない、そう言っているみたいだった。
「“さよなら”をわざわざ言うの、大輔が初めてなんだ」
「…………」
「やっぱり駄目だなぁ、特別な“誰か”を作るのは」
震えた声で、朝露は言う。目からは貯めておけなくなった涙が溢れ出した。
「好きになっちゃったよ」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、息を漏らすようにあっさり言った。
「好きになっちゃったんだよ、辛くなることがわかってたのに」
朝露の涙は止まらなくて。俺の視界も歪んだ。でもその中でも、朝露は朝露の形を保っていた。
「喋らないまま、終わりたくなかった。“さよなら”を言わないまま、別れたくなかった。でも、やっぱり会うと、切なくなっちゃう」
「朝露……」
「だから、お願い。何も言わないで。好きも嫌いも、言わないで。ただ、さよならだけを言って。私の我儘だけど、最後だから。最後だから、許して」
そう言われてしまっては、何も言えなくなってしまった。何も言えないまま、止まらない涙を受け入れるしかなかった。
「……さよなら、大輔」
そう言って、朝露は俺に背中を向けた。
何かを言わなきゃ、最後だと思いつつも何も言えなかった。
「……じゃあな」
そう、別れの言葉を絞り出すことがやっとだった。
朝露はそして、視界から姿を消した。
しばらくそこで、もうとっくにいなくなってる、朝露の背中を見ていた。
☆
翌日、朝露は転校したことを担任から伝えられた。
教室は予想通り騒がしくなり、どうしてと言う声があちこちから聞こえた。
『どうして、言ってくれなかったの』
『どうして、さよならも言ってくれなかったの』
その言葉を聞いて、俺はぎゅっと手を握りしめる。
結局、俺は朝露に言えなかった。
朝露に恋をしていったってことを。
結局、俺は朝露に言えなかった。
またどこかで会おうなって。
結局、俺は朝露に言えなかった。
それでも朝露に会えて良かったって。
言えなかったことはもっともっとあったはずだ。でも、言葉にすることができなくて、胸の中でもやもやするものを抱え込んだままだ。
言ったら言ったで、朝露に悲しい顔をさせていたので、言わなくて良かったのかもしれない。
未練と朝露の笑顔だけが俺の心に残った。
こうして、江草朝露は消えた。
蜃気楼のように。朝露のように。儚く、すうと薄くなるように消えていった。
その手をとることさえできなかった。
俺の瞳から、とっくに枯れたはずの涙が流れる。
そして。
君は、朝露だった、と。
そう思った。
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