君は、朝露だった
聖願心理
君は、『江草朝露』
ジリジリとまだ、鬱陶しく蝉の鳴き声がする、夏休み明けの怠い朝。
ふああ、と欠伸を漏らし、俺は担任が教室に来るのを退屈気に待っていた。
その後の非日常を知らずに。
「転校生を紹介します」
担任は教壇に立つとすぐに、そう言った。当たり前だが、教室はざわつく。夏休み明けの気怠さなんて吹っ飛んでしまい、クラスメートは新しいものへの興味で一杯になった。
俺にだって多少の興味はあったが、期待した分だけ残念な思いをすることくらい知っている。だから期待していない、と思い込むことにした。
からから、とドアが開く音がする。皆の視線はドアに釘付けになる。どんな奴が来るのか、と目をキラキラさせながら。
教室に入って来たのは、綺麗なストレートの黒髪と雪のように白い肌が特徴的な、儚い雰囲気を持つ、想像以上の美少女だった。見たことない制服を着ていて、それがより彼女の雰囲気を引き立たせていた。
おお、とクラスメートが感嘆の声を上げる。だけど、少女の美しさに圧倒されそれ以上の声はでない。男女問わず、だ。
彼女は担任の隣に立つと、凛とした声で自己紹介をした。思っていたより、声が低かった。でも、芯に響くような声は心地よかった。
「
そう言って微笑みを浮かべた彼女は、何故か消えてしまいそうなそんな感じがした。
☆
朝露がクラスメイトから一目置かれるようになるまで、時間はかからなかった。
当然だ。見た目も良いし、勉強も運動もできるし、気がきくし、冗談も通じた。何より彼女の笑顔は、異性だけでなく同性までも虜にする、不思議な魅力があった。
朝露のことが好きだ、という奴は後を絶たなくて、告白するチャレンジャーも多かった。だが、朝露は全部丁寧に断ったと言う。
「
そんな手の届かない存在の江草朝露。普通の高校生である俺に接点はないな、と思っていたのだが。
「大輔、聞いてる?」
人生とは不思議なもので、俺の隣には江草朝露がいて、俺の名前を呼んでいた。
「聞いてるよ、朝露」
授業は終わり、俺たちは駅に向かって歩いている。俺も朝露も電車通学で、しかも降りる駅も一緒だった。共通点はそれだけだけど、それ以上に何の理由もいらなかった。要するに、それがきっかけで登下校を共にしているのだ。
「今日も告られたんだって?」
「そうそう。なんでみんな、私に懲りずに告白するんだろうね?」
「そんなの決まってるだろ」
見た目も性格も良いからだ、なんて照れ臭くて言えなかったから、俺は誤魔化すようにそう言った。言わなくても、朝露には通じるはずだ。彼女はそこまで鈍感じゃない。
「私なんかより良い人なんて、沢山いるはずなのにね」
「そうなのか?」
「当たり前でしょ」
呆れたように、朝露は言う。
『私なんかより良い人なんて、沢山いる』。
これは朝露の口癖みたいなもので、告白されるたびに、俺にそれを漏らしてくる。
普通に聞くと嫌味にしか聞こえないが、朝露の言い方は重々しく、本当にそう思っているように聞こえるから、恨めない。
朝露は異様に、自己評価が低い。自分でも、自分の長所を理解しているのにもかかわらず、だ。
彼女曰く、『そんなもの、何になるの』、だそうだ。
違和感を持つほどに低い自己評価だが、異様に高いよりはましかと思う。そう思うことによって、俺はその違和感を誤魔化している。
その違和感に気がついてしまったら、俺たちの心地いい関係が壊れてしまう気がするから。恋人じゃない、気を遣わなくて良い、この関係。
「他の奴にそんなこと言うなよ。嫌味だと思われるぞ」
「わかってるって。こんなこと、大輔にしか言わないし」
「ならいいんだが」
ここまでが、お決まりの流れ。
「あ」
俺の言葉を遮るように、朝露が声を漏らした。何か重要なことを思い出したような声だが、俺は知っている。
朝露が思い出したことは、大したことではないと。
「どうしたんだ?」
でもとりあえずは聞いておく。
「ねえ、この後時間ある?」
「まあ、あるっちゃあるけど」
「じゃあ決まり」
「何が」
「季節限定のアイス、今日までなんだよ。食べに行こう」
「またか」
そんなことだろうとは思った、と溜息を吐く。
「またかって何よ、またかって」
「だって、いつもそうだろ」
「いつもじゃないもん」
「初めて会った日もそうだっただろ」
「それは……」
朝露が転校してきた日。俺と朝露の初めての会話。俺たちの接点となった言葉。それは、彼女のある一言だった。
『この辺りに美味しい珈琲が飲める所、知らない?』
☆
朝露が転校生してきた日、俺は学校で一言も話すことなく、その日を終えた。話してみたい、という気持ちはあったが、平凡なしかも異性の俺が話しかける隙なんて、これっぽっちもなかった。
残念だったが当たり前のことだったので、妙な執着を持つことなく、学校を出た。どうせ、クラスメートなんだし、話す機会なんてすぐにやってくるだろう、そう思いながら。
その“話す機会”とやらは思ったよりも早くやってきた。
高校の最寄駅から3つ離れた駅で、俺は降りる。田舎の駅なので、こんな所で降りる人は、あまりいない。つまり、何が言いたいのかと言うと、見覚えのある人を見つけやすいと言うことだ。
少し離れた場所に、見覚えのある人影を見つけてしまった。
まさか彼女がこの駅で降りるなんて、この時間の電車に乗っているなんて、想像するはずもなく、つい声を漏らしてしまった。彼女に聞こえていたかどうかはよくわからないが、俺の視線に気がついたのだろう。目が合った。
目が合った瞬間、彼女はこちらにずんずんと近づいてきた。人違いじゃないかと周りを見渡してみるが、俺以外に人はいない。
長い黒髪を揺らしながら、彼女・江草朝露は近づいて来て、言った。
「この辺りに美味しい珈琲が飲める所、知らない?」
唐突な言葉。彼女の距離の詰め方。彼女からふわりといい匂いがした。
あまりに急なことすぎて、言葉を返すことなんてできなかった。
「おーい」
「……俺に聞いてるの?」
「そうそう、君に言ってるの」
他に誰がいるの、と不思議そうに彼女は言った。コミュ力お化けというものは、彼女みたいな人のことを言うんだなと思った。
「江草、朝露さん、だよね?今日転校してきた」
「うん。あ、そう言えば話したことなかったね」
当たり前の事実に今更気が付いた朝露は、くるくると右手の人差し指で髪を巻いた。照れ隠しなのか癖なのかよくわからなかったが、彼女に似合ってる気がした。
「クラスで見たことあった顔だから、驚いちゃって」
「俺の顔、覚えてたんだ」
「なんとなく、ね。顔と名前はまだ覚えてないんだけど」
「1日も経たないうちに覚えられる方が怖いよ」
「そう言って貰えると気が楽になるな。名前、聞いてもいい?」
屈託のない笑顔で、朝露は尋ねてきた。嫌でもなんでもなくて、純粋に嬉しかったから、俺は答えた。
「
すると朝露は、『樋口、大輔』と何回か唱えた。彼女の声が、俺の名前を呼んでいる。そう思うと、急に恥ずかしくなってきて、心臓がどくどくと音を鳴らす。
「樋口、大輔。よし、覚えた。よろしく、大輔。私のことは朝露でいいから」
そうして、少し意地悪そうに朝露は笑った。
これが、彼女と俺の出会い。
☆
そんなこともあったなぁ、と朝露はアイスを舐めながら言った。
夏限定のパイナップルのアイスを、一口一口味わいながら食べている。その幸せそうな朝露を見ながら、俺はバニラアイスを口にする。少し高めのアイスだからなのか、朝露につられてなのかはわからないが、いつもより濃厚で口どけが良い気がした。
「どうしてあの時、俺に声かけたの?」
「そこにいたから?」
「そうじゃなくて」
「どういうこと?」
理由はわかってるくせに、朝露はあえて聞いてきた。にたあ、と笑っているのがその証拠だ。
「珈琲が飲めるお店なんか、駅前にたくさんあるし、それに誘う人なんて他にもっといたはずだろ?」
そうだねぇ、と考えて、アイスをぺろりと舐める。味を覚えるように味わってから、彼女は口を開く。
「……話してみたかったんだよね」
「え?」
「教室で初めて見たときから、話してみたいなって思った。あそこにいた他の誰よりも」
たまたまだよ、とでも返されると思っていたのに、真剣で恥ずかしい答えが返ってきたので、どう返していいのかわからなかった。ただ、思考が止まった。少しだけ、頰が熱くなった。
「偶然駅であった時は、驚いたよ。まさか同じ電車に乗ってて、同じ駅で降りるなんて思ってもなかったから。だから勢いで話しかけちゃった」
「そうなのか」
「意外だった?」
「意外に決まってるだろう」
意外なわけがなかった。自分に最初から興味を持っていたなんて、考えるはずがなかった。そんなのただの自意識過剰だ。
「でも、思ってたような人だった」
「期待に応えられたようで、何よりだよ」
そう言って、俺はアイスを食べる。朝露もアイスを食べる。
会話は止まった。でも、その静かな間が心地良かった。
俺たちはただ、2人でアイスを食べていた。
「やっぱり、思ったような人だよ」
アイスを食べ終わった朝露はなんでもなく呟いた。
まだ、明るくて、日の落ちる気配はしない。蝉の声も聞こえる。汗が伝う。
夏の気配はまだ消えないけど、きっとすぐに消えてしまう。
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