第6話 伏見

 年が明け、三が日も終わってまもなく、例の熊と呼ばれた若者が中井庄五郎、通称稲妻庄五郎と呼ばれる居合いの達人で小さい方が幼馴染みの前岡力雄だとわかった。

 中井は十九、その天才的な居合いの腕を見込まれて十六で京に上ったが、あまりに若いのと山里育ちの純朴な若者が何もわからないまま、志士達の人斬りの道具になることを案じた上平主税が一度、十津川に帰したが、十津川に逃げ込み剣術指南をしていた土佐の那須盛馬がその腕に惚れ込んで再び京に引っ張りだし、ちょうど腕のいい人斬りを探していた長州の品川弥二郎がひと仕事頼んだ。

「品川弥二郎」と土方がつぶやくと

「松下村塾の出で久坂などとよくつるんでいた男です。確かに加徳丸事件で久坂と名前が上がっていました」と山崎が話した。

「ああ、長州の過激派が薩摩の御用船を焼き討ちした事件か」

 元治元年一月、別府で薩摩の御用船加徳丸が長州浪士に焼き討ちにあい、そのさい殺害された薩摩商人大谷仲之進の塩漬けの首と薩摩が行う外夷との密貿易が物価高騰の一因だとする斬奸状が大坂南御堂に掲げられ、元長州藩士の二人がその前で切腹した。

 この事件のひと月前に長州は薩摩の長崎丸を砲撃し沈没させ、二十八名を死亡させ謝罪したばかりだった。そのため久坂と品川は再び薩摩に頭を下げぬため、悲痛な覚悟を見せることで世間の同情をかうために、二人に詰め腹をきらせた。

 そして目論見どおりにこの自決は世間の同情をひき、被害を受けた薩摩の評判を悪くする。

「一時姿を消していましたが京に戻ってきて動きのとれない桂や国元の高杉のかわりに情報収集や京大坂の連絡をしているようです」

 斎藤ともう一人、監察方の島田は土方と山崎の会話を傍で聞いていた。

「では村上の殺害も品川が頼んだのか」と土方は山崎に聞いた。

「おそらく」と山崎はうなずく。

「なるほど」と斎藤は刀を手に立ち上がりながら「で、今品川はどこだ」と聞いた。

「それがようわかりません」と島田が山崎のかわりに答える。

「ただ幾つかの足取りが二本松辺りで消えるのであの辺りの公家屋敷か、あとは」

「薩摩か」と土方は苦々しげにつぶやいた。

 御所の北側の二本松周辺は公家屋敷が主で藩邸といえば薩摩ぐらいしかない。

 先に述べた長崎丸砲撃、加徳丸焼き討ち、その他にも朝廷工作での確執などで薩摩は何度も長州に煮え湯を飲まされている。それが薩会同盟につながり八月十八日の政変での長州追い落としにつながった。

 その薩摩が長州人を藩邸に匿う。

 不可解極まりないことだが薩摩と長州の間に変化がおきているとしか考えられない。

 中井達がとっていった書状も薩摩と長州に関するものか、二藩の間を取り持つ坂本龍馬に関する可能性が高い。折も折、蛤御門の変の後行方をくらましていた桂小五郎が近々京に出てくるという噂があり、新選組もこの八日に大坂の八軒屋に出張して人別改めをすることになっていた。

 土方は斎藤に座れというと島田に

「品川に女は」と聞いた。

「祇園の君尾といい仲だと」と島田が決まり悪そうに答えた。

「君尾か」

 警戒の厳しい薩摩屋敷に匹敵するほど、幕史から何度も浪士を助け、尋問にもなれている君尾は手強い。

「中井達が品川と接触するのを待つのが得策かもしれません」と山崎は言った。

 土方はしばらく火鉢の炭をじっと睨んでいたが顔を上げ、斎藤に言った。

「斎藤、そういうことだ。品川を捕らえるには手間も時間もかかる。まずは三番隊を連れて大坂の人別改めに行ってこい。桂を迎えにくる品川に出くわすかもしれん。監察は十津川屋敷に一人張り込ませてくれ。中井達が品川から呼び出されるかもしれんし、連中がこれに味をしめて隊士を狙わぬともかぎらん」

 斎藤はうなずくと立ち上がる。続いて立ち上がった山崎に土方が声をかけた。

「山崎にはまだ話がある。悪いが残ってくれないか」

 部屋を出た斎藤が山崎を気にするように廊下で振り返ると一緒に部屋を出た島田が

「たぶん芸州に出す偵察のことかと思います」とささやいた。

「それは幕府の隠密がすることだろう、新選組の監察の領分を越えている」と斎藤が不満そうに言うと

「お上にはそんな知恵はないのと違いますか」と島田は言った。

「大坂で待機中のお旗本や御家人衆をみてても呑気で。万を越える兵を半年も駐在させて無駄飯食わせて、わしがお上やったらそれこそ昼夜をあかずに八軒屋の人別改めをさせますよ」

 冗談めいているが容赦がない。

 近藤土方はどんな危険な仕事も頼りにされているのならと近藤自身の芸州随行も含めて引き受け、時にはわざわざかってでた。

 新選組は幕府が弱体化したからこそ咲いた徒花で本来なら京の浪士の取り締まりも芸州随行も旗本御家人の仕事か、幕府が諸藩に命じる仕事であることを承知してのことだった。

 だがそれでも火中の栗をわざわざ拾いにいくような仕事ばかり目立つようになると身内の沖田はともかく、強さゆえに多用される二番、五番の永倉や原田、八番隊の藤堂は近藤土方の点数稼ぎに命がけで働かされているようで面白くない。藤堂などは近藤らを幕府に尻尾を振る犬だと言う。斎藤はそこまでは言わないがさすがに芸州の探索はやりすぎだと思った。

 そこへ伊東と篠原が来た。

「土方君はいるかね」と伊東が斎藤に和やかに聞いた。

「副長は今、山崎と話をしています」と島田が答えるとと伊東は残念そうに

「そうか、出直そうか、篠原君」と篠原を振り返った。

 体が大きく柔術を得意とする篠原は江戸から共に来た伊東派の筆頭であり常に伊東と行動を共にしていた。

「午後から出かけなければなりません。こちらは大事な用件なのですから山崎君に遠慮してもらえばいいではありませんか」と篠原は伊東に言う。

「大事かどうかは篠原さんが決めることではないでしょう」と島田が篠原にかみついた。

「伊東先生の仕事は国家の話だ」と自身も監察方ではあるが久留米出身で筋金入りの尊王攘夷の篠原が言い返す。

 監察方には浪士の探索と隊士の調査をする諸士調役があった。伊東派の篠原に土方は外の探索はあまりやらせない。必然、諸士調役の仕事が多くなる。篠原にしてみれば隊士の素行調査のような仕事に重要性は感じないし、探索の仕事の詳しい話も知らされないから監察の仕事自体が大したものではないと思う。

 だが斎藤や島田にすれば芸州で命がけの探索に出るかもしれない山崎に対して伊東の国家論などお気楽でしかない。

「ご立派なことだ」と斎藤が言えば

「篠原さんには探索の仕事がわからんのでしょう」と島田が続ける。

 むっとした篠原が「こそこそ嗅ぎ回ることが侍の仕事か」と吐きすてるように言い返し、

「なんだと」と島田がいきり立った。

「表にでろ」と篠原と揉み合いになると伊東が間に入ってなだめた。

「止めたまえ、二人共。篠原君、後でいい。それに探索も調役も隊には必要な仕事だよ」

 不承不承おさめる篠原の肩を軽くたたき、

「これでいいのだね、島田君」と島田を見た。柔らかい物言いながら鋭い眼光に島田はひるむ。

「そうだ、探索と言えば斎藤君、殺された村上君の下手人ば十津川郷士だと聞いたが」と伊東は振り返りながら穏やかにたずねた。 

 斎藤は伊東を見つめた。唐突な問いかけだった。

 確かに伊東は多くの隊士達に気を配り、慕われてはいたが、忙しいこともあり、やはり限られた。村上などは眼中にない部類だっただろう。

 それに村上の件に篠原は関わっていないはずで、もしかしたらそれがかえって伊東の気を引いたのか。

「ええ、まあ」と斎藤が答えると

「そうか、気の毒だった」と言いながら伊東は独り言のように

「無惨やな 兜の下のきりぎりす」とつぶやいた。

 脳裏に庭の片隅の割れた甕が浮かび、ぎょっとしたように斎藤は伊東を見た。

 伊東は何事もなかった顔で篠原を促し、戻っていく。

 斎藤はその背中を見たまま動けずにいた。土方が疑うように伊東は村上を売ったのだろうか。

 胸にもやもやしたものを抱えたまま三日後に斎藤は三番隊を率いて槍の使い手の谷三十郞率いる七番隊と共に大坂の八軒屋にいくために伏見に向かった。

 大坂では谷の弟の万十郞が新選組の大坂屯所の長を勤めていたが屯所にあてていた万福寺は天王寺にあったので彼らも天満の八軒屋まで出てきて新選組の常宿である京やで落ち合う算段になっている。

 淀川は京大坂を結ぶ水運の道として重用され、特に始点の伏見から終点の大坂八軒屋への下りは流れにのって半日でついた。

 逆の八軒屋から伏見は時間も料金も倍かかったが、これも夜舟にのれば寝ている間につくと人気があり、このため旅人をのせて行き来する三十石舟は一日平均千五百人近く運んだという。

 水の都の大坂では大坂湾に着いた大型船から荷を受け取った上荷船と茶船が、河口から市中の細かい水路を使い、あちらこちらへ運んだ。

 このため監視の目が行き届きにくい。西国の志士達は陸路ではなく舟で大坂に入り、その後、淀川経由で京に向かうことが多々あったという。そのため幕府は警戒を強め、紀州、福井、小野、平戸の四藩に大坂市中の警備を命じ、八軒屋と伏見の船宿も幕史により度々手入れが入った。

 三番隊は予定より早く伏見の常宿水屋についた。舟が出るまで時間がある。

 隊士の多くは冬の冷たい川風を避け、他の客と同じように宿の二階で囲碁将棋や雑談で時間をつぶしたが斎藤は気分をかえてふらりと宿を出た。

京橋と蓬莱橋に挟まれた南浜町の船着場には船宿が並び、何艘もの舟が寒風に時折小雪の交じる中を行き来していた。年が明けて間もないが人足達は荷物の荷揚げで忙しそうだった。

 ちょうど一艘の三十石舟が着き、客が下りてきた。多くはない客の中にひときわあか抜けた女が一人いた。女は同乗だったやくざ風の男にまとわりつかれているようで、何か言い、ふっと振り向いたその顔を見て斎藤はげんなりした。

 菊花だった。

 あちらも気づいたらしく男を振り切るためだろう、こちらにやってくるといかにも親しげに

「お待たせしました」と言う。

 待ったもなにもあるかと思いながら斎藤は芝居にのってやり黙ってうなずくと後ろの男を見た。

 男は白けた顔で舌打ちするとふらふらとよそへ行く。

 菊花はせいせいした顔で

「しつこうてかなわんわ」と言いながら川風でほつれた髪をそっと撫でつけ、「ほな」と礼もなしに立ち去りかけてまだ離れた所からこちらを見ている男に気づくと足を止めた。

 斎藤はフンと鼻で笑い

「じゃあな」と言って立ち去りかけると菊花がついてくる。

「なんだ」と斎藤が言うと菊花は怒った顔で睨んだ。

「そんな顔をするから嘘だと見破られる」と言うと菊花は悔しそうに俯き、様子だけはしおらしくついてきた。

 斎藤は立石通りの方にしばらく歩き、振り返った。男はまだ遠く離れずついてくる。

「こんな女のどこがいいのやら」と思いながら仕方なしに菊花を連れて歩く。

 宿の案内のある立石通りなら駕籠もつかまるだろうと菊花に

「この先で駕籠を拾ってやるからそれで帰れ」と言った。

「ええわ、そないなこと」と断る菊花に

「蒸さんのためだ」と斎藤はぶっきらぼうに返した。

 菊花はつんとそっぽを向くと

「おためごかしなこと、日頃の下っ端扱いのわびのつもりかいな」と言う。

「下っ端って誰が」

「あかんたれの蒸や」

「馬鹿いえ、蒸さんは探索方として働く同士だ。失礼なことを言うな」

「そうかて探索いうたら目明かしや、たまに二本差しさせておだてて都合ように使っとるんやないの」

「本気で怒るぞ」と斎藤は菊花を睨んだ。だが菊花の口は止まらない。

「あんたはいつもお侍であの子はいつも丸腰で危ない橋渡って」

「蒸さんは棒術の使い手で剣の腕だってなかなかのものだ」

 菊花は皮肉めいた笑みを浮かべ斎藤の刀をあごで指し

「ほななんであんたと同じやないの」

 斎藤は詰まった。探索の仕事を卑下はしないし、山崎がその辺の平隊士より腕が立つことも知っている。だが芸州探索のことや篠原の言葉が心の中でひっかかり反論出来ない。

 菊花はたたみかけた。

「あれは子供の頃からアホやった。大将に気に入られたくて無理な使いっ走りするアホや。あんたらあの子のアホにつけ込んでるだけや」

「いくら何でも」と斎藤は遮った。

「そんな言い方をしたら蒸さんがかわいそうた」

 むっとした顔の菊花が言い返そうとした時、二人の後ろで大きな咳払いが聞こえた。

 振り返ると七番隊隊長の谷が隊士二人を連れて立っている。

「さすがは斎藤君だ。舟を待つ間にも忙しいことだ」

 谷はもともと五番隊の原田が昔世話になっていた大坂の道場主で原田の師匠だと吹聴していた。そこへもってきて弟の周平をかの板倉候の落とし胤だと近藤に売り込み、養子にさせたことで隊長の中でも自分は別格だと思上がり、日頃から態度が尊大で口うるさい。これで大坂にいる間しばらくねちねち言われると斎藤はげんなりした。

「乗り遅れるなよ」と谷は軽蔑したように言うと

「勘違いせんといておくれやす、うちは大坂の親に会うてきた帰りにたまたま」とまくしたてる菊花を無視して歩き去る。

「お前の親は」と言いかけた斎藤を菊花は振り返ると睨んだ。

「いや」と口ごもる斎藤に

「墓に入ってたかて正月くらい会いにいってやるもんや」と吐きすてるように菊花は言い、谷の去った方を見て「失礼やわ」と憤慨する。

 閉口した斎藤は近くにいた駕籠やに声をかけ「おい、この女を祇園まで頼む」というと菊花を駕籠に押し込み、大目の金を駕籠やに渡す。

「うちは」と駕籠から顔を出す菊花に

「とっとと帰れ」と言い、駕籠やに早く行くように言った。

 駕籠やも明らかに二人の仲を誤解したようで、にやりとして走り出す。が、すぐに止まり、駕籠かきの一人が戻ってくると

「これを」と小さな包みを差し出した。

「あほへ渡してくれと」

 斎藤は苦い顔で受け取った。懐紙に包まれて大鳥神社のお守りが入っている。

 山崎に渡してほしいのだろう。やはりあの女は苦手だと思いながら、ほんのわずかだが山崎が菊花に惹かれるのもわかる気がした。

わがままで口が悪くて思いこみの激しい女が時折見せる優しさに山崎は幼い頃から惹かれたのだろうと。

 結局八軒屋では大した成果は得られなかった。

 斎藤が大坂から帰った日に入れ替わりに山崎が芸州に旅立つ。斎藤は見送りがてら菊花から預かったお守りを山崎に渡した。

「おおとりさんか」と照れ笑いを浮かべ山崎はつぶやいた。

「おおとりって酉の市のか」と斎藤は首を傾げた。

「浅草にもあるがあれは商売の神じゃないのか」

 山崎が不思議そうに斎藤を見た。

「なんで商売や」

「熊手を売るだろう」

「熊手はえべっさんやろ」

「えべっさん」

「商売繁盛、笹もってこいの戎さんや。大鳥さんは日本武尊がご神体やから武運の神さんでその昔は平清盛が参拝し、織田、豊臣、徳川から社領を寄進されてる由緒正しい神さんやで」 

 斎藤は狐につままれたような顔をした。

「どうやら西と東では神様の商売も違うらしい」

 山崎は笑い出した。

「なるほど幕府と長州で話がまとまらんはすや」

 斎藤も苦笑いすると

「じゃあ気をつけて、無理するな」と言った。

 山崎は表情を引き締めるとうなずき、何か言いかけて言葉をのんだ。芸州探索が楽な仕事ではないことは確かだが、京が安全かと言えばそうではない。新選組にいること自体が死と隣り合わせだった。

「ほな行くわ」とあえて軽い調子で言い、山崎は出立した。

 その後に新選組はもう一度、今度は伏見で人別改めをしたがやはり品川も桂もひっかからなかった。

 ところがその二日後に伏見奉行所が寺田屋にいた坂本龍馬を捕縛しようとして逃げられたという報が届く。

 伏見の人別改めとたった二日違いに土方は自分たちなら逃がさなかったとくやしがったが後の祭りで、同日近藤は再び芸州に向かう老中小笠原長行らの随行を命じられ、一月末に伊東を連れて京を出立した。

 今度の芸州行きは長州に石高の取り上げと藩主の蟄居隠居等の処分を告げるためだが、実は坂本が寺田屋に踏み込まれる二日前、つまり新選組が二度目の人別改めをしていたその日に薩長同盟が成り立ち、そのため長州は頭を下げるどころか俄然戦をする気でいることを幕府は勿論近藤も、薩長に何かあると感じていた土方も知らない。

 伏見の薩摩藩邸に逃げこんだ坂本龍馬は二月のはじめには京の薩摩藩邸に移ったらしいが幕府の出兵要請をのらりくらりと断る薩摩の藩邸の警備は厳しく、坂本は勿論、同邸に潜んでいるらしい品川の動きも全くつかめないまま、時は過ぎる。

 その間に村上の後に三番隊の伍長になった大石鍬次郎の弟で一橋家の家臣大石造酒蔵が谷の配下の今井と祇園石階段下で斬り合い、殺される事件(この事件は後に跡継ぎのない大石家の跡目問題へと発展し近藤土方を悩ませる)と 勘定方の河合が金を紛失して切腹させられる事件が立て続けて起きた。

 大石の事件では双方が相当に酔っており、最初に刀を抜いたのが造酒蔵だという証言もあり、一橋家からも組からも今井に責めはなかった。しかし長男の自分の代わりに家を次いでくれた弟を殺された鍬次郎は当然おさまらない。さらに谷が例の調子で今井の肩を昂然ともったためにことがこじれた。

 隊内でも今井と大石の肩をそれぞれ持つ者がいて険悪な空気になる。斎藤としても大石を気の毒とは思うが事情が事情なので仇討ちをさせるわけにもいかない。最後は土方が大石をよんで、大石家の継承に力をかすからとなだめた。

 その後の河合の事件も気の毒な話で、五十両の紛失は河合の使いこみではなく、盗まれたもので大事にしたくないばかりに密かに実家に穴埋めの金を頼んだ次第で、ことがばれて切腹が決まった後も最後まで飛脚を待つ姿は哀れで、その上介錯人が不慣れで三度も失敗し、修羅場になれた隊士でさえも目を背ける惨事になった。

 そんな中でも不逞浪士が集まっているという情報で隊士の奈良出張もあり、そうなると京が手薄になり、斎藤の三番隊の出動も増え、品川や中井を追いかける暇もなく一月二月は過ぎ、三月になった。


 菊花は山崎の身を案じながらも女将の

「この頃あの人たずねてきやはらへんけどどないなってるの」の問いには

「忙しいのとちがいますか」と素っ気なくこたえていた。

 それでも気分の浮き沈みは激しく、振りまわされる小菊はかなわない。女将はさすがに見かねて時々小菊と菊花を別々に座敷をまわらせた。

 春宵に一人、早いお座敷に向かう菊花は無性に淋しくなり、白川沿いの柳にぼんやりともたれ、小声で

「ねんねんころいち 天満の市 大根そろえて 舟に積む 舟に積んだらどこまで行きやる 木津や難波の橋の下」と口ずさんだ。

 こぶしが咲き、桜がほころびはじめたとはいえ風は冷たい。

 季節が華やいできてもたずねてこない山崎のことが気にかかる。気にはかかるが新選組の座敷はないし、たまに噂で耳にしても監察方の話などあるはずもない。仕事で来られないのか、愛想が尽きたのか、生きているのか、死んでるのか、考えないようにしても頭から離れなかった。

 そして子供の頃や浪人から自分を庇ってくれた山崎を思い出すと切なく、素直でない自分を後悔し、なんの頼りもよこさない山崎を恨んだ。だがもう会わないと言ったのは自分で寂しそうに帰った山崎の後ろ姿を思うとまた胸が痛む。

 重い溜息をついた菊花は足元で動いた大きな影に驚いた。

 下の川に降りる小さな船着場に大きな男がうずくまっている。

 菊花がおそるおそるのぞき込むと男は寝ぼけた顔でこちらを見上げた。

「驚いた、天女様がおりてきたかと思った」

 男は気の早い花見酒で酔いつぶれていたのか、大あくびをして伸びをすると川の水でざぶざぶと顔を洗った。

 髭面で着物も粗末な浪人に菊花は少し身を引いたが男はもう一度菊花を見上げて髭を濡らしたままニコリと人懐っこい笑みを浮かべた。

「ああ、目が覚めた」

 菊花は冷ややかに熊のような男を見下ろした。男は無邪気に

「続きを歌うてよ」とせがんだ。

「聞きとおしたらお座敷によんでおくれやす」

「座敷じゃ子守唄なんぞ歌うてくれん。艶っぽい歌ばかりで眠うなる」

「そら大人のお座敷どすさかい」と素っ気なく答えながら菊花は男が髭面だがよく見るとまだ幼い顔をしているのに気づく。

「あんさん、おいくつ」

「二十九」

「嘘」

 男は頭をかいてうなだれると「十八」と答えた。その様子に思わず菊花は微笑んだ。

「でも立派な武士じゃ」と男はむきになる。

「せやけど」お座敷に芸妓を呼べる身分ではないだろうと言いかけて山崎に言ったきつい言葉が思いだされて菊花は口をつぐんだ。

 男が見上げている。

 そのまなざしに子供の頃の山崎を思いだした菊花は

「ほな、ちょっとだけ」と言うと男に背を向け柳にもたれ続きを歌う。

「橋の下にはかもめがいやる かもめ捕りたや 網ほしや 網はゆらゆら由良助 橋の下にはお亀がいやる お亀捕りたや 竹欲しや

竹が欲しけりゃ竹屋に行きやれ 竹はなんでもございます」

 男はうっとりしたように聞き

「あんたは優しいな、ほんに天女様のようだ」と言った。

 菊花は涙が出そうになり、誤魔化すようにつんと顎をあげると

「うちはいけずの菊人形どす、熊は早う里へお帰り」と言い捨てると歩きだした。

 熊と言われて男は驚き、のっそりと岸にあがる。

「わしを知っているのか」

 菊花はすでに遠い。熊と言われた中井は悄然と見送った。

「やっぱり天女様だ」とつぶやくともう一度菊花の去った方を見た。すでに菊花の姿はない。「橋の下にはかもめがいやる」と中井はつぶやいた。子守唄の寂しそうな調べとやはり寂しげな菊花の横顔が妙に印象に残った。

「かもめ捕りたや 網ほしや」

 たそがれの中、口ずさみながら中井はとぼとぼと歩きだした。

 その三日後、菊花はある座敷に小菊とよばれた。客は西国の侍達ときいて気は進まなかったが、女将も回りも山崎を大坂の薬屋だと思っている以上断る理由もない。商売は商売と割り切って出かけた。座敷に入ると君尾と豊梅が来ていて賑やかに座は盛り上がっている。挨拶をして顔を上げた菊花は客の六人の侍の中にあの童顔の熊がいるのに気づいた。

「おお、きたきた」

 薩摩の中村半次郎がにこにこしながら中井を振り返る。

「熊どんの天女様のおでましだ」

 中井は顔を赤くして俯いた。

「おまんは年増が好みか」と土佐の那須新吾がからかう。

 小菊が驚いたように菊花を見上げ

「菊花姉さんも勤皇芸妓どしたんどすか」と聞く。

 菊花は顔が引きつったものの

「菊花はん、皆さんお待ちかねどすえ、こちらが薩摩の中村はん、こちらが土佐の那須はんでこちらが」と君尾が和やかにその場にいた面々を紹介するのを上の空で聞き、申し訳程度に頭を下げ、こわばった顔でなんとか微笑む。

「で、すでに見知ってはるこちらが」と君尾が中井をさすと

「熊です、十津川の中井庄五郎といいます」と中井は緊張した面持ちで菊花をまっすぐ見つめた。

「こう見えて若いのに腕が立つ。大きな声で言えぬが新選組も斬ったことがある」と那須が中井の肩を叩き、笑う。

 菊花はぞっとし、表情が険しくなる。

 それに中井が驚き、しょげたようにうつむく。

「なんだ、その顔は」と中井の相棒の前岡がむっとしてかみついた。

「愛想のない」

「うちは人斬りは嫌いどす」と菊花は言い放つ。

 座が一気に白けた。

「堪忍どすえ、お姉はんのええ人は薬屋はんどすさかい」と小菊が座をとりなそうと、しどろもどろに言い訳をした。

「きっと斬らはるより貼る方がええんどす、それだけどす」

 中村半次郎がそれを聞いてゲラゲラと笑いだした。

「そうか、そうか、お前はんの姉さんは斬るより貼る方が好みか、こりゃあいい」

 そう言うと小菊の顔をのぞき

「おまはんはほんのこてむぜか」とからかうように言った。

「ほんの、こてむ」

 小菊は不思議そうに小首を傾げ、その愛らしさに不機嫌だった前岡も思わず見とれる。

「中村はんはあんたはほんまに可愛いらしい言うてくれてはるんどすえ」と豊梅が笑いながら言うと

「おおきに。お世辞でもうれしおす」と小菊ははにかみながら微笑み、その笑みに引きこまれるように前岡は前のめりになった。

「可愛い、本当に可愛い」と繰り返す前岡を那須が

「こりゃ落ち着け」とたしなめると座に笑いが戻る。

 盛り上がる座の片隅で座っている菊花にすまなさそうに中井は謝った。

「すまん、わしはもういっぺんあんたに会いたかっただけなんだ」

 菊花は冷ややかな目で中井を見、黙ったまま銚子を手に中井に酒をすすめる。

 中井は菊花を見つめ恐縮した様子で大きな体を縮こませて杯を出し、ついでもらうと緊張した顔で飲み干し

「うまい」とぼそりと言う。

 菊花は無表情に酒をすすめる。

 中井は人を斬ったのをうとまれたのかと哀しくなった。

 しょげた中井が差し出した杯には酒はなみなみとつがれ、やがてこぼれた。

「あら、堪忍え」と菊花は懐から懐紙を出し、中井に身を寄せて拭いながら小さな声で聞いた。

「斬った新選組て誰どす」

 中井は驚いたように菊花を見た。

「最近の話どすか」

「いや」と中井は首を振る。

「去年の秋だから」

 それを聞いて菊花の表情がほっとしたようにゆるんだ。

 中井は戸惑い、菊花をまじまじともに見つめた。

「あんたのいい人は薬屋じゃないのか」

 菊花は答えずにほんの僅かだが微笑みながら再び酒をすすめる。

 中井は杯を飲み干し、菊花の顔を見ながらおそるおそるもう一度杯をだす。

 菊花は酒をついでやりながら

「早う里にお帰りやす」と言った。

 中井は哀しそうに菊花を見た。

「わしが田舎者だからか」

 菊花は首を振る。

「あんさんに人斬りは似合いまへん」

 中井は困ったようにつぶやく。

「困ったな、わしの取り柄は剣術だけで」

「本当に強いお方は刀を抜かぬもんどす」

 中井はまたしょげた。

「おのみやす」と菊花は中井に酒をすすめる。

 中井は困惑したように杯をだしながら菊花の人形のような横顔を見ているうちに切なくなり、ごしごしと目をこすった。

「ゴミでも入りおしたんか」と菊花がのぞきこむ。

 中井はうつむいて首を振った。

 傍で見ていた那須が何か言いかけるのを君尾は無言で押しとどめる。

「しかし」

 どうせ振られたのだからと言いかけるのを君尾は小声で制した。

「そっとしといておあげやす」

 そう言いながら君尾は二人に優しいまなざしを向けた。

 たとえ叶わぬ恋でも中井を菊花とゆっくりさせてやりたい。

 幸いいけずの菊も相手にする気はなくとも邪険に扱う気もないらしい。

「そうや菊花姉さん、なんぞ舞うてくださいな。中井はん、菊花はんは祇園でも指折りの舞上手どすえ」と君尾は言った。

「ほな、うちが三味線を」と豊梅が言う。

「それより金毘羅ふねふねしまひょ」と菊花は急に明るく中井にもちかける。

「せっかくのお座敷どす、楽しんでいっておくれやす」

 中井はぼうっと菊花を見つめ肯いた。

「面白い、やはり酒は楽しく呑まんといかん」と半次郎も乗り気になる。

 突然明るくなった菊花に戸惑う君尾に小菊はため息をつきながらささやいた。

「気にせんといておくれやす。薬屋はんが最近会いにきいへんのでこの頃いつもこの調子で上がったり下がったり」「そうなの」

 豊梅は前々から話は聞いていたからはしゃぎだした菊花にあわせて支度をする。

 やり方が分からないという中井の代わりに半次郎と君尾が、金毘羅ふねふねをはじめた。 

 金毘羅ふねふね 追い風に帆をかけてしゅらしゅしゅ

 賑やかな唄と三味線にあわせて歓声の中二人が手を出し合う。菊花は中井に寄りそい、笑いながら楽しそうに説明をした。

 それを痛々しいと思いながら豊梅は笑顔で三味線をひく。男に振られかけてる女と女に思いの届かない男。それでも賑やかに興ずる姿は祇園では珍しくはないが二人の様子は傍で見ていてせつかった。

 賑やかな嬌声は遅くまで続いた。

 すっかり酔いつぶれた中井はふと気づくと誰かの膝枕で寝ていた。

 どきりとした中井にあの子守唄が聞こえる。

「橋の下には鴨がいやる かもめとりたや 網ほしや」

 中井が目をさましたとも知らず菊花はささやくようにうたい、子供をあやすように中井の背中をトン、トンと優しく叩く。

 中井は開けかけた目を閉じた。とろりとした幸せでこのままこうしていたいと思った。

「網はゆらゆら由良之助 橋の下には」

 唄が途切れ、中井の頬に暖かい水滴がほろりと落ちた。

 思わず見上げ、涙ぐむ菊花と目があった。

 気まずくなって起きた中井に菊花は

「早く帰りよし お仲間はとうに帰らはりましたえ」とあっさり言うと立ち上がった。

「あんたのいい人は薬屋なのか、新選組なのか」と中井は思わず聞いた。

 襖をあけた菊花は振り返らずに

「うちは人斬りは嫌いどす、あんたも早う里にお帰りやす」と言うとすうっと部屋を出た。

 残された中井はぼう然と見送り、うなだれた。

 山崎がようやく芸州から帰ってきたのはそれから十日後の桜が散りはじめた頃だった。

 留守中にたまっていた仕事を片付け、昼過ぎから祇園にむかう。

 久しぶりに菊花を座敷によんでいた。

 今度こそ喧嘩別れしないでゆっくりしたいと、店は祇園の片隅の静かな茶屋を選んだ。

 夕刻にはまだ早い時刻に、菊花は来るだろうかと案じながら一人杯をあけていた山崎は、ふと開け放した明かり障子の先、二坪ほどの中庭の中央に植えられた小ぶりだが満開の垂れ桜の先の、向かいの廊下を渡る君尾に気づいた。

 酒肴を運んで来た仲居が山崎の視線に気づき、慌てて障子を閉める。

「なんでや、ええ女やないか。桜と美人と絵のようや」と山崎は仲居に言った。

「堪忍どすえ、道ならぬ恋をしてはるんで」と仲居は笑い、見え透いた嘘をつく。

「焼き餅焼きのお内儀のいる大店の旦那とかい。うらやましいなあ」と山崎も嘘にのる。

「嫌やわあ旦さんかていい人をここで待ってはるんでしょう」

「私のは幼馴染みさ。これが虎並みに気が強うて気が強うて」と山崎は大袈裟にため息をついて見せた。

 仲居はくすくすと笑う。

「明日もここで呑んでたら通るやろか、もう一度あのしだれ桜ごしに拝ませてくれへんか」

「さあどうどすやろ」

「なあ頼むわ、紹介してくれとは言わん。見るだけでええ、道ならぬ恋の邪魔はせえへん。もう一度あのしだれ桜ごしにべっぴん拝ませてくれ。この通り、目の保養や」と拝み倒す山崎に仲居も思わず気の毒そうに

「もういっぺんはないんどす。相手の方はしばらく遠方にいかはるとかで」

 つまりはここで逃したら当分品川は捕まらないということか、山崎は内心動揺したがそれを隠していかにも残念そうに

「そら気の毒に別れの桜かな、もうおがまれへんのか」とがっくり肩を落としてみせた。

「へえお気の毒に別れの桜どす」と仲居は苦笑した。

 と、突然ばたばたという足音と共に菊花が姿を現した。

 息が上がっているが、平静を装い見下したように山崎と仲居を見おろす。

 仲居は「ああ虎」と口を押さえ,慌てて下がる。

 菊花は仲居をにらみ、見送りながら

「なんやのん、虎て」

 山崎は苦笑しながら仲居のしめた明かり障子を開ける。

「しだれ桜がええ言うてただけや、見てみ」

 山崎の前を通り過ぎ、明かり障子の前に座り込むと桜を眺めた。

 艶やかに結い上げた髪にはあの銀の簪が挿してあるが銀はやはり春には寂しげで今度はとろりとした色あいの鼈甲にしようと思いながらもこの店のどこかに品川がいることが頭から離れない。

「元気にしてたんか」

 山崎は自分を誤魔化すように菊花に尋ねた。菊花はこたえない。

「すまんな、ちょっと芸州くんだりまで行ってたんで」と山崎が長い留守の言い訳をはじめると

「また遠いな、車前草の仕入れかいな」と菊花は振り向きもせずにしらっと言う。

 さすが薬種問屋の娘だと山崎は思わず笑みをもらした。芸州産の車前草は昔から生薬にいいと評判だった。

「まあそんなとこや」

 菊花は何か言いたげに山崎を振りかえったが山崎が見つめるとそっぽを向き

「うちは平気やった」と言う。

「うち、そろそろ芸妓やめて踊りの師匠になろか思うとるんえ」「やめるんか」と山崎が驚くと「贔屓は減るし、なんや物騒な世の中になるし」と菊花は言いながら山崎ににじり寄り、銚子をとると酌をした。

「そうか」

「小金もたまったし、いつでも店は出れるんえ」

「やっていけるのか」

 山崎は性格のきつい菊花に芸妓も厳しいが踊りの師匠はもっと厳しい気がして案じた。

「芸の道は泣かせてなんぼや」と菊花は返した。

「お前はようでも教わる方がかなわんやろ」

 菊花は山崎を睨む。

「ほな、うちにどうせい言うの」

「わしと所帯もたへんか」と、山崎は思い切って切り出した。芸州に行っている間ずっと考えていたことだった。

「幹部は外に家を持てる、わしも持てる。暇を持て余すいうんならそれこそ踊りの弟子を少しとったらええ。気が紛れるやろ」  

 菊花は息をのんで山崎を見つめている。

「わしはまた近いうちにもういっぺん芸州に行かなあかんけど、それが終わったら少しはゆっくり出来る。そうや、家を探しておいてくれ。金は出すよって」

 芸州と聴いて菊花の顔色が変わった。

「芸州ってまた長州はんとの戦場か、なんであんたばっかり」と銚子をおきなから憤然と菊花は言った。

「えっ」と戸惑う山崎を睨み:

「あんたばっかり危ない所へ行かされるんどす」ときつい口調で聞く。

「戦をしに行くんやない、ただ」と話す山崎を遮り、

「ほな、何をしにいくの」

「わしは偵察に行くだけや、戦は幕府軍がする。その様子を見てくるだけや、危ないことはない。心配せんで待っておってくれたらええねん」

「危ないことないて戦やろ、他の人はいかへんの」

「いかん、行かんけどそれは」となだめる山崎の手を払いのけ

「あんたは騙されているんや」と菊花は言った。

「違う。ほんまに見に行くだけや。だから」

「あんたの帰りを待つくらいやったら来ん弟子を待って気ぃやんだ方がましや」と菊花は叫んだ。

 気圧された山崎を見すて、部屋を出ようと立ち上がりかけた菊花の手を山崎はぐっとつかむと抱きよせる。

 ここで菊花を離したら二度と会えなくなる気がした。しかしその一方で今なら品川がいる、早く斉藤に知らせないという焦りが山崎をさいなんだ。

 はじめは抗っていた菊花が山崎の腕の中で大人しくなり、二人はしばらくお互いの温もりを確かめあうようにじっとしていた。

 やがて山崎は言った。

「ちょっとここ出よか」

 菊花は山崎の腕の中でしばらく黙っていたが笑い出した。

「なんで、桜が綺麗や言うたやないの」

 そして山崎の顔を見ると

「なんぞ都合の悪いことでも」と聞いた。

「いや」と山崎は菊花から目をそらした。勘づいている、あの目は仕事と自分、どちらをとると聞いているようだった。

 芸州に行っている間、ずっと菊花に会いたいと一日千秋の思いで今日この日を待っていたはずだった。なのに、ここから祇園の会所まで最短で行けるのはどの道だとか、会所に人はいるかとか、そこから隊まで連絡が行くのにどのくらいだとかそんな算段が頭から離れない。いや、それよりもここで菊花に騒がれて品川に逃げられたらという不安までが情けないことに頭をよぎる。

 菊花は泣き笑いを浮かべ、簪を抜くと畳に勢いよく刺した。

「帰る」

 菊花は立ち上がった。

「捨」

「二度と会わへん」

「捨」

 座敷を飛び出していく菊花に取り残された山崎はため息をついた。

 どうして会う度にこうなるのか。

 とりあえず斉藤に知らせなければならない。菊花とのことはまた機会をつくるしかなかった。

 その頃、君尾は一番奥の座敷で品川弥二郎と会っていた。

 今年で二十四になる弥二郎は薩長同盟にこぎ着けたことが自信になったのか、高杉、久阪、吉田、伊藤と才気溢れた松下村塾塾生の中で今ひとつ純朴だけが取り柄のような男であったのが一回り大きくなったように見え、君尾は思わず笑みをこぼした。

「似合わぬか」と弥二郎はいかにもおろしたてといった風の絣の着物と仙台袴に手をやる。

「いいえ、とてもようお似合い」

「桂さんが薩摩と対するのに貧乏くさいのはよくないとわしの分まで用意してくれしゃったが何せ世話になっとる薩摩の連中が質実剛健であまりよい格好はせんけ、行李にしまいっぱなしになってしもうて」

 弥二郎はぼそぼそと言い訳をしながら照れたように笑った。君尾はその笑顔をしみじみと見ながら

「似合うてますえ、大きな仕事をされて男ぶりが上がったのとちがいますか」とほめた。

「またまた」と弥二郎は手を振ると酒を口に運ぶ。

 君尾は長州が京を落ちてから桂を支えて弥二郎がこつこつと働いてきたのを見てきた。

高杉のように派手でなく、桂、久坂のような才人でもない。剣の達人でも一時京にあふれていた論客でもない。ただ桂の言うがままに忠実に働き、うまくいかなければ諦めずに打開策を探る。そうはいっても伊藤のような気の利いた才覚はないから不器用なりにしぶとく粘るという懸命さが、とかく目立ってひと旗上げたい浪士が多い中で君尾には好ましかった。

「坂本様のお加減はいかがどすか」

 坂本は寺田屋に踏み込まれた際に怪我をしていた。

「うむ、すっかり元気だが右手の親指の付け根の傷は深かったせいかまだ動かしづらそうだ。もしかすると不便なことになるやもしれぬと医者も言うてな」

 弥二郎は気の毒そうに盃に目を落とす。

「まあ」

「だが薩摩にはよい湯治場があるそうだから,きっとよくなる」

「そうどすな」

「そうそう、明後日薩摩に発つ前に熊に会いたいと坂本さんに頼まれた。つなぎをつけてくれないか」

「庄五郎はんに」と君尾は首をかしげた。

「お仕事どすか」

「いや、ただ会って話がしたいと。同郷の那須さんが一度十津川に帰された熊をまた引っ張りだしたことや、俺が間者の始末を頼んだことを話したら心配されてな、以藏のことを思い出したらしい」

「そうどすか」と君尾は頷いた。

 狼のような以藏と熊の中井ではあまりに印象が違い、坂本は面食らうだろうとおかしく思いながらふとはじめて武市の座敷で会った以藏の目を思い出した。

 あの時はまだ優しい目をしていた。君尾は以藏が最後に捕らえられ、ひかれていく時の暗くすさんだ目も思い出す。

「坂本様に怒られたんでっしゃろ」と君尾は弥二郎に酌をしながら言った。

 弥二郎は少ししょげながら

「怒りはしなかったがわけの分からん若い者を簡単に人斬りにしたらいかんと言われた」

「そうどすか」

「あれは仕方がなかった。あの手紙には桂さんの予定が書いてあった。新選組にしれたら西郷さんに会えんようになる。そしたらまた話は一からやり直しで戦に間に合わん。どうしても確実に奴を斬らなければなかった。それには沼田じゃ無理だったろう」

「沼田はんは熊の坊やよりそないに腕はおちますか。なんや見た目だけやったら沼田はんの方が強う見えますけど」

 体は大きく髭だらけても中井は顔が幼い。それに比べれば沼田は精悍な顔つきでいかにも場慣れしているように君尾には見えた。

 弥二郎は料理に箸をのばしながら

「わしにはようわからぬが桂さんがそう言うんやから」

「桂はんはあの二人を知ってはるんどすか」

「道場でそれぞれを一度だけ見ている。でも天下の練兵館の塾頭にはそれで十分らしい」

 君尾は豊梅の企てを思い、不安になる。

「そないに沼田はんはあきまへんか」

「らしい」と弥二郎は竹の子の和え物を口に入れ、うなずく。

「けど見廻組のお人を斬ってはる」

「新選組は腕で入るが見廻組は旗本御家人のかき集めだ。腕の立つ奴ばかりとは限らんさ」

「ほな、新選組の沖田は斬れまへんな」と不安を紛らわすように軽い口調で問う君尾に弥二郎は笑いながら答えた。

「無理無理。桂さんは沼田の腕はせいぜい平隊士どまりだと言っていた」

 青ざめた君尾は思わず高まる不安に胸を押さえてうずくまった。

「どうした君尾」と弥二郎は驚いて君尾の背中をさすりながら抱き抱えるようにしてのぞきこんだ。

「うち、あの子らを止めんと」

「あの子ら」

 その時に表でばたばたと人が駆け込む足音がした。君尾はとっさに障子を開け、裏庭に弥二郎を押し出した。

 こんな時のためにあらかじめ庭の植え込みの奥の隣の屋敷との生け垣に小さな芝戸を設けてある逃げやすい部屋を用意してもらっていた。

 斉藤が襖をあけた時にはすでに君尾一人だった。

「あら、お部屋間違うてはるのとちがいますか」 

「品川は」

「さあどなたはんのことどすやろ」

 斉藤は唇をかんだ。君尾の後ろ、あいた障子の向こうの庭の先につつじの植え込みとさらに奥に隣の屋敷との生け垣が見えた。 

 君尾の横を通り過ぎ、庭におりて植え込みの裏を見ると開いたままの小さな芝戸があった。

 一足違いで逃げられたのは明らかだがこんなことに慣れている君尾を問い詰めてもどうにもならないし、隣の屋敷の家探しをしても相手はとうに町に出ているだろう。後は薩摩屋敷に先回りして駆け込む前の品川を捕らえるしかないがそもそも薩摩屋敷に戻ってくるかさえ怪しい。

 非番だったのにわざわざ知らせてくれた山崎に申し訳なく思い、店を出て応援を屯所に頼み、さらに回りを探索したがやはり捕まらなかった。

 焦る斉藤の元に翌日、十津川屋敷からさらに驚くべき報告がきた。

 斉藤の隊の隊士が十津川屋敷の中井達に連絡をつけにきてそのまま逃げたと言うのだ。

 割れた甕の言い訳をした内田という若い平隊士で村上と違い、性格は明るく、隊士同士の付き合いもあり、斉藤を慕って道場でも屯所でもよく話しかけてくる若者で、前日からたまたま母親の具合が悪いとかで非番をとって隊にいなかった。

 斉藤はもちろん、監察もまったく気づかず、その分衝撃は大きかった。

 十津川屋敷に張り込んでいた島田は品川捜索のために引き上げかけて、内田を見た。何か連絡にきたのかと物陰から足を踏み出した時にちょうど警備から帰ってきた郷士の一団がやってきた。

 内田は塀に身を寄せて道をあける。

 郷士達は互いの話に夢中になっている者、不審げに内田を見る者と様々だが特に内田に声をかける者もなく次々と門の中に消えていく。

 だが島田は刹那だが内田が郷士の一人に何かを手渡したように見えた。

 郷士達が門内に消え、何事なかったかのように歩きだした内田に島田は声をかけた。

「おい」

 内田は振り返ると笑顔を見せた。

「島田さん、ちょうどよかった。斉藤さんはこちらに来ていますか」

「今、何か渡しただろう」と島田は単刀直入に聞いて相手の反応を見た。

「えっ」と内田は当惑した顔で島田を見た。

 島田は刀に手をかけた。

「私はただ斉藤さんに会うためにここに来ただけで、母の具合がどうにもよくなくて、もう一日非番をいただきたくて」

 島田はそういう内田の目を見ては気持ちがゆらぐ。そこへ今度は門から郷士の一団が出てきて、道を空ける形で退いた内田と島田の間を通る。すると内田は十津川屋敷の門に向かって走りだした。島田は慌てて後を追うが間の郷士達に遮られて追い切れない。もたもたしている間に内田は門内に駆け込んだ。

 不意打ちをくらい、内田は通した門番達も島田の前には立ちはだかる。

「何者だ」

「今駆け込んだ奴に用がある」と島田は叫んだ。

「あいつを出してくれ」

「先に名を名乗れ」

「新選組だ」

「新選組が何の用だ」

「だから今、うちの隊士が駆け込んだ」

 揉み合っていると中井と前岡を従えた年長者が出てきて言った。

「その無礼者ならすぐに裏から出ていったわい」

「裏から出ただと」と聞き返す島田に

「そうじゃ」と肯き、

「それでもお疑いなら協力いたそう。屋敷内を隅々まで改めるがよろし。ただし」

 見つからなかったらどうするという無言の睨みに島田は渋々ひきさがった。

 夜になって中井達が薩摩屋敷に入ったと屋敷を見張っていた林信太郎から連絡がきた。それまでにそれらしい接触は十津川屋敷や中井達になかったから、内田が連絡役だったとしか考えられない。とすれば村上の死もはたして伊東が長州に村上を売ったのかどうかも怪しい。

 三番隊はじめ探索方総動員で内田を探したが内田の居場所はわからなかった。

「つまりは伊東ではなく別の間者が村上に気づいたってことか」

 土方は斉藤に皮肉を言った。

「お前の下なら村上も動きやすいとおいていたのだが動きやすいのは村上だけじゃなかったわけだ。道理で三番隊に品川は捕まらないわけだ」

 言外に大坂や伏見の人別改めも筒抜けだったのではないかと言っている。

 斉藤は俯くと膝の上の手を握りしめた。

 確かに世話焼きの井上や面倒見のいい原田、永倉や勘のいい沖田なら自分の隊におかしいのがいることに気づいたかもしれない。

「我々監察の責任でもあります」と山崎が斉藤をかばう。

 山崎は山崎で内田のことは勿論、品川を取り逃がしたのも自分に責任があると気にしていた。

 あの時、菊花のことに気持ちが引きずられて店の周囲の確認がおろそかになった。そのためにみすみす品川に逃げられ、間の悪いことに斉藤の隊から間者が出るという失態が重なった。

 土方は山崎を睨んだ。

「勿論そうだ、だが今はこいつの話をしている。斉藤、もう少し回りに気を配ったらどうだ。どうもお前は我関せずで回りに配慮が足らない」

 斉藤は自分の間抜けさにも腹が立ったが伊東という眼鏡違いに腹を立てているように見える土方も不快だった。

「俺が不満なら平に落とせ」

 土方はむっとした顔で斉藤を睨む。

 山崎が間に入った。

「一さん」

「とにかくしばらく謹慎していろ」と土方は斉藤に言った。

「品川は取り逃がす、隊から間者は出る、理由はそれだけあったら十分だろう」

「ついでにあんたが目の仇にしている伊東の鼻をあかせなかったって加えたらどうだ」

「やめろて」と山崎が斉藤を止めて土方にとりなす。

「副長、品川の件はほんまに自分の詰めが甘かったせいですし、内田の件も」

「自分のせいだと思うのなら取り返せばいい。斉藤の謹慎とは別だ」と土方は言うと立ち上がり部屋を出ていった。

 残された山崎は悄然と斉藤に頭を下げた。

「すまん、わしのせいや」

「あんたのせいじゃない」と斉藤は苛立ったように言った。

「ただあんたにゃ悪いが副長は村上が哀れだなんて思ってない。村上も俺もあんたもただの将棋の駒だ」

 山崎はしばらく黙っていたがぽつりと言う。

「手駒やったらええやないか、捨て駒とは違う」

 斉藤は不可解な面持ちで山崎を見た。

 山崎は気持ちを切り替えるように顔をなで

「とにかく悪かった。この借りは必ず返すから」と言うと立ち上がる。

「どうする」

「中井達の動きをはる。連絡がきたならまた誰かを狙っているかもしれへん」

 菊花はいいのかと問いかけて斉藤は言葉をのみこんだ。

 そのまま黙って出て行く山崎を見送り、ふつふつと湧いてくる怒りを解消するために斉藤は道場に向かった。

 隊に二人も間者がいながら気がつかない自分の間抜けさ、土方の身勝手さ、山崎の従順さ、なにもかもが腹立たしい。

裏庭を抜けていく途中にあの甕がまだ植え込みの下に転がっているのが見えた。

 この三カ月、自分は何を為ていたのだろう。

 村上のことなど何も知らなかったくせに仇をうつ気になって、手を下したのは中井達だとわかっているのに品川を追いかけていた自分が、つまらない義侠心で野良犬のおとりになった幼い自分と重なり、苦い思いがこみ上げる。何処でもなじめないと感じながらも三番隊で隊長として責務を果たしてきたつもりだったが二人も間者が出たことで気持ちは大きくゆらいだ。結局自分はあの頃と何も変わっていない。いつだって一人よがりだ。

 斉藤は甕の前で立ちつくした。

「謹慎だそうだな」と後ろから声をかけられて振り返ると谷三十郞だった。

 斉藤はうんざりした。次に出てくる言葉は予想がついたから頭を下げて逃げるように歩きだす。その背中に

「女にかまけているからだ。よい腕を持っているのだからもっと精進すればよいものを」と谷は言った。

 大きなお世話だと相手にせず、道場に向かいながら広縁からこちらを見ている藤堂と目があった。

 何か言いたげな藤堂の視線を避けながら斉藤はますます自分が惨めになった。

 一方、君尾に沼田の腕は駄目だと告げられた豊梅は八坂神社の境内でほとんど散った桜を見上げていた。

 吉田がいない二度目の春が終わる。

「年々歳々 花相い似たり 歳々年々 人同じからず」

 学問好きな吉田が教えてくれた古詩の一節だった。

 本当にそうだと思う。

 花は春がくれば咲き、芽吹く。だが人は戻ってこない。豊梅は悲しい思いで俯いた。

 沖田は小菊にぞっこんでいつでも引っ張り出せる。沼田も仲間を集め終えて後は沖田を誘い出すだけなのに、やめろと君尾は言う。「しくじったらあんただけやない、小菊もえらいことになる。あんた、うちに小菊に害は及ばさないと約束したよし」と君尾は珍しくきつい口調で豊梅に言った。

 確かに小菊に迷惑はかけられない。だが諦めきれない。

 吉田が殺されてから仇をうつことだけを考えてきた。やっと、と豊梅は思う。やっと仇がうてる。

 新選組に出入りしている者で密かに懇意にしている者の話だと秋から暮れにかけては具合が悪そうだった沖田は年明かけから頻繁に見廻りに出るようになり体調が良さそうだったが、二月は新選組でもいろいろあり、無理をして疲れが出たのかこの頃はまた時折寝込んでいると聞いていた。

「労咳やったら無理せんでもいつかは」と君尾は言外に豊梅に仇討ちを諦めるようにと匂わせた。

 所詮、君尾には他人事なのだ。

「豊梅」と声をかけられて豊梅は振り返った。沼田だった。

「日は決まったか」

 豊梅は俯いて黙り込む。沼田はけげんそうに豊梅の顔を覗き込む。豊梅は顔を背け、

「あんさんでは無理やと」とだけ言うと倒れそうな自身を支えるように桜の幹に手をついた。

「どういうことだ」

「君尾姉はんが桂はんがあんさんでは平隊士がせいぜいやと言うてはったと」

 沼田は青い顔で豊梅を見つめた。

「無駄な殺生になる、小菊もえらいことになるからやめよし、したらあかん言われて」

「馬鹿言え」と沼田は声を震わせた。

「桂に何がわかる、俺は奴と手合わせしたこともない」

 長州の大物に駄目だと言われたことに沼田は深い失望と怒りを感じた。

 尊王攘夷の熱に浮かされて小藩を飛び出し京に来て十年近く、土佐や長州の志士の使い走りからはじめていっぱしの志士の気でいた。いや、そろそろ一人前だと認められたかった。あんな十津川のぽっと出の小僧がやすやすと認められ、幕府の役人に追われながら必死に働いてきた自分が役にたたないと一言で片付けられる、その理不尽さが納得出来ない。

 豊梅は俯いたまま黙っている。

「俺は」と激昂のあまり言葉にならない沼田を豊梅が振り返り見つめた。切れ長の目が潤んでいる。

「うちは沼田はんを信じてますえ」

 沼田は思わず豊梅を抱きしめた。

「たぶん吉田も信じてる思います、けど」と豊梅は言葉をきらし、涙をこぼした。

「大丈夫だ」と吉田は自分に言い聞かせるように言った。

「俺が大丈夫だというところを見せるから信じてくれ」

 あてはない。あてはないが沼田は中井に負けたくなかったし、豊梅をがっかりさせたくなかった。

 十日後の明け方、非番明けの谷三十郞は頭痛に悩まされながら祇園の馴染みの女の家を出て屯所に向かっていた。

 普段なら無理はせず、体調が悪いと使いを出すのだが、今日は土方に意見されて諦めた大石がまたぐずぐずと言いだし、そのことで近藤が大石をよんで諭すというので是非同席したかった。

 配下の今井を思うというより、大石がかんに障るからというのが正直なところだったがここで部下思いの自分を近藤に見せるのもいい。斉藤が隊に間者がいるのにも気がつかず任務を失敗した後でもある。新選組という烏合の衆の中では黙っていては埋もれてしまう。誠衛館や北辰一刀流の看板のない谷がやっていくためにはことある毎に存在を示さなければならない。そうでなくとも近藤が家はともかく天然理心流は沖田に継がせたがっていると聞いた。

 事実なら近藤家を継いだ弟周平の立場は微妙になるから近藤に真意を確かめなければならない。

 薬はのんだもののいっこうにおさまらない頭痛に顔をしかめながら足を早めた谷は祇園坂下で抜き身の刀を下げて立つ浪人を見て足を止めた。

 得意の槍こそなかったが何度も死地をくぐり抜けた猛者である。動じることなく浪人を睨みつけた。

「わしを新選組の七番隊長、谷三十郞と知っての待ち伏せか」

 沼田は谷の気迫に押されて動けず声も出なかった。

 以前に見廻組隊士をきった時は相手は背を向けていて無防備であまりに呆気なかったが今回は違う。金縛りにでもあったように手も足も出ない。

 谷は沼田の様子に大した奴ではないと見切り、嘲笑うと

「雑魚か、今日は見逃してやる、失せろ」と言った。

 雑魚と言われて沼田の頭に血が上った。わめきながらしゃにむに谷に突っかかる。

「馬鹿者」と谷は刀を抜きながら一喝した。その瞬間、谷の頭の中の血管が切れた。その衝撃に谷はよろよろと数歩歩み、沼田の刀をよけそこねて軽く脇腹を斬られて転倒した。 

 目をつぶって走り抜けた沼田は振り返り、倒れた谷を見て、呆然と己の刀に目を落とした。

 血がたれている。

 後はただ夢中でその場から逃げた。

 新選組の隊長をやった、そんな喜びが湧き上がってきたのはしばらくしてからだった。

 事件は程なく町方から屯所に伝わった。

 山崎と篠原、林が七番隊と共にすぐに確認に向かう。

 隊長が斬られたとなれば大ごとだが、谷を見た山崎はすぐに様子がおかしいことに気づいた。死体の上に屈み、一通り検死をした後で隣の林に

「病死やと大坂の万太郎さんに伝えてやれ」と言った。

 篠原が不満げに山崎に言う。

「傷があるだろう」「この程度の傷では死なぬ。死んだのに顔が赤黒い、たぶん卒中や」

「生き死にじゃない。谷さんが誰に襲われたかが問題だろうと言っている」

 山崎は篠原を見た。確かに篠原の言うことに一理はある。だが篠原が

「確かに谷さんは傲慢で隊内でもしょっちゅう揉めていた」と険しい顔で続け

「だがこんなやり方はよくない」と言い出すのを聞いて顔をしかめた。

「隊の誰かがやった言うんですか」と林が驚いて聞き返すと篠原は黙る。

 山崎は篠原を睨むと

「話にならんな」と言い捨てた。

「薄情だな」と篠原が言い返すと「仮にも槍の名人と言われた人をこの程度で斬り死にしたがるあんたの方が失礼だろう」と言い返した。

「そうかな、周平を局長の養子にしてから何かと隊のことに口をはさむ谷さんに副長はうんざりしていたのだろう。だから」

「そういうことは副長に面と向かって言うたらどうや、本人のおらんところで差し金やなんや言うのんは卑怯やないか」

 卑怯と言われて篠原は顔色を変えた。

「ならばそうするさ」

 聞けるものなら聞いてみろと言いかねない山崎の表情に慌てて林が

「待って待って下さいって」と間に入る。

「熱くならんといて下さいって、二人とも。はっきりしていることは谷さんは誰かに襲われた、けど死因は卒中や。この二つを副長に報告して」

 林は山崎と篠原の顔を見た。

「その後は副長の指示をまつ、疑問があったらその時に言えばええやないですか。ここで揉めるのはまずいですよ、隊士もいるし、事件を知らせてくれた町方も野次馬もいる」

 篠原はふいっと横を向くと困惑している隊士達に

「戸板を用意して谷さんを屯所に運んでくれ」と言うと自分の羽織を脱いで谷にかけて手をあわせた。それがいかにもわざとらしく山崎には見えて、苦々しい顔でそっぽを向くと横にいた林が

「らしくない、いつも冷静な蒸はんが何を苛ついてはるんです」と聞いた。

 山崎は黙って唇をかんだ。

 篠原は結局伊東にとめられたのか、土方に何かを問うことはなかった。刺客探しは近藤の命で行われたがこちらもつかまらなかった。

 ただ土方の意を受けた斉藤が谷を斬ったという噂がまもなく隊内に流れた。病死であることは七番隊の隊士も知っているし、死因は谷の名誉のために病死と公表されたにもかかわらず、そんな噂がまことしやかに流れるのは初期の局長芹沢鴨の死からある新選組内部の不透明さや暗部のせいでもあるのだが

「俺ではない」と斉藤も言わない。

 言ってどうなるものでもないことは江戸での経験から斉藤は知っている。

 だから日中は部屋で謹慎し、夜更けになると道場で一人素振りをした。

 格子窓から月明かりが差し込む以外はほぼ暗闇で、重い木刀を振っていると無心になれた。月の明るい晩には沖田が様子を見に来て、相手になってくれたが、沖田も特に話しはせずにふらりと来て、一汗かくと帰った。

 ある晩、やはり道場の入口に人の気配を感じ、沖田だと思い、振り向きもせず木刀を振っていると

「驚いたな」と藤堂の声がした。

 振るのをやめて振り返り、闇の向こうに目をこらすと藤堂らしい影が見えた。

「総司から真っ暗な中でやっていると聞いたが本当だった」

 藤堂はそう言いながら壁伝いに歩き、掛けてある木刀に手をのばした。

「もっとも俺も昔は同じように深夜に素振りをしたものさ」

 斉藤は黙って藤堂を見ていた。

 藤堂は手にした木刀を振り始める。

 びゅん、びゅんという切れのよい音がその太刀筋の見事さを物語る。

 斉藤はその音にうながされるように再び木刀を振り始めた。

 しばらくして木刀を振りながら藤堂が聞いた。

「なあ、どうして黙っている」

 斉藤は答えずに木刀を振る。

「谷さんの傷はどう見たってお前の手じゃない。それは篠原さんも言っていた」

「どうでもいい」

「どうして。永倉さんや総司、原田さんだったら、いや誰でも否定するだろう。なのにお前は斬ってもいない同志を斬ったと噂をたてられて黙っている。奇妙じゃないか」

「お前が噂を流したのじゃないか」と斉藤は切り返した。

 藤堂の素振りが止まる。

 斉藤は素振りを続けた。

「俺は、俺はお前が谷さんに嫌味を言われるのを見ていたから冗談で」と藤堂は口ごもったが言い訳だと思ったのだろう。

「悪かった。軽率だった」と素直に謝った。

「別にかまわん。噂は噂だし、あの人といろいろあったのも確かだ」

 藤堂は暗闇の向こうで黙っていた。

 斉藤も素振りを続ける。

「なあ、土方と伊東さん、どっちが信用出来る」と突然藤堂が聞いた。

「さあ」と斉藤は言った。

「俺はどちらも興味がない」

「興味がないことはないだろう。命をかけて行動を共にするのに」

「信用なんかどっちもしちゃいない」と斉藤は素振りを続けながら答えた。答えながらちらりと山崎の顔が浮かぶ。

「じゃあ何故人が斬れる」

「斬らなきゃ斬られる」

 藤堂は何かを言いたそうだったが再び黙り込んだ。

 斉藤は自分の答えが山崎に申し訳ない気がして気が滅入ってきた。素振りをやめてため息をつく。

「やっぱりお前は野良だな」と闇の向こうで藤堂が言った。

「送り狼の中には旅人を守る奴がいる。いつか俺達が新選組を出る時にお前はその送り狼になるからと伊東さんはお前を同志に入れたがっているが俺は反対だ。お前は空腹に任せて襲う方だよ」

 そう言い捨てると藤堂は木刀を片付けて足早に道場を出ていった。

 斉藤は暗闇を見つめた。


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