第5話 幼なじみ
その日豊梅は稽古帰りの小菊を近くの甘味処に誘い、お汁粉を食べながら小菊の話を聞いた。
「そう菊花さんにもいい人が出来たの」
小菊は嬉しそうに頷く。
「へえ、大坂の薬屋さん、なんや幼なじみみたい。忙しいてお座敷はまだ一度しかよんでくれはらへんのやけど、姉さんも満更ではないみたい。おかあはんも今度はいける思うて期待してはるし。はよ引いてくれはったらええのに」
「またそんなん言うて、菊花はんが去んようになったらあんた、誰に連れ回ってもらうの」と豊梅はたしなめた。
「うちの店には他にも姉さんいっぱいいてるもん」と小菊は頬を膨らませた。
「そうかて菊花はんは祇園で三指に入る舞上手え。まだまだ小菊も教えてもらうことはあるんと違うの」
小菊は拗ねた様子でお汁粉をすする。
「芸の道は厳しおす。可愛いだけではあきまへんえ」と豊梅がからかうと小菊は苦笑いし、つぶやいた。
「せやけどあの人、新選組出入りの薬屋さんかもしらん」
「出入り」
「へえ、うちが初めて会うた時に新選組の人と一緒やったから。ほら、ああいうとこってたぶん斬ったはったで仰山軟膏がいるのと違うのかしらん」と小菊は無邪気に笑いながら白玉を口に入れた。
豊梅は黙っていた。
そういえば池田屋で前夜に泊まっていた薬屋が事件後に姿を消し、彼が新選組を引きこんだのではないかという噂があった。
勿論ただの客で事件に恐れをなして逃げたかもしれず、また菊花の相手がそうなのかも分からない。
しかしひっかかる。
「そんでその人、香袋のこと、知ってはるの」
「へえ、あの人、お返しを薬屋さんにたくしてきはったから」
小菊はうかない顔の豊梅を不安げにのそぎこんだ。
「あかんかった」
一度調べなければと思いながらも豊梅は微笑み、首を振った。
「ええんや、大丈夫と思うえ」
小菊はほっとしたように笑ったが、豊梅に「それであの人とは首尾よく会うてるの」と聞かれると気まずそうに首を振る。
「お座敷にもよんでくれへんのどす」
「小菊があんまり可愛らしいて気後れしとるんやろか」とからかうと、小菊は少し首をかしげ
「たぶん菊花姉さんのせいや」
「ああ」と豊梅はため息をついた。
美人で舞上手でも口が悪いせいか、菊花を避ける客はいた。
「ほな、君尾はんに頼んであんただけ近藤の座敷によんでもらおか」
「君尾はんて長州はんだけやのうて近藤はんにも贔屓にしてもろてるの」と小菊は目を丸くした。
君尾は長州をはじめとして多くの志士と親しく、また何度も彼らを助けた勤皇芸者として評判だった。
「勝手にあっちが熱上げてるらしいえ」と豊梅は冷ややかに答える。
一昨年の四条の顔見せ興行の時に無理難題を小屋側にふっかけた新選組隊士とやり合った君尾に好意を抱いた近藤は何度か座敷によんでいるらしい。
「すごいわあ」と小菊は感心した。
その無邪気な顔を見ながら豊梅は少し胸が痛んだ。
小梅の仇うちの手伝いがしたいと言い出したのは小菊だが、新選組の幹部殺しという重大事を芝居の演目のように考えている風でなにか子供を騙しているような罪悪感があった。だが一方で早く吉田の仇が討ちたいと焦ってもいる。
今まで助けてくれる者を探したが皆口では威勢のいいことをいいながら新選組の沖田と聞くと腰が引けた。頼みの長州人はお国の大事でそれどころではないし、もともと口は達者だが腕はたたない者が多い。
そんな中でようやく手伝うと言う者が現れた。先日見廻り組の隊士を斬った沼田という浪人だった。この機会を逃したくない。
豊梅はもやもやとした思いをもてあましながら小菊と別れるとその足で君尾のいる島村屋に向かって歩きだす。
君尾は豊梅の計画を聞いて不安がり、なかなか承知してくれなかったが最後は根負けした。
だが肝心の近藤はなかなか芸州から帰って来ない。ようやく小菊が君尾の計らいで近藤の座敷によばれたのは暮れも押し詰まった頃になった。
この日、菊花は一人で座敷を回ったが、どこでも「なんや小菊はおらんのか」と言われ、忌々しい思いをした。
あんな小娘でも人気はあり、自分が連れているつもりで逆ではなかったかと顔には出さないながらも傷ついた菊花の最後の座敷が山崎だった。
久しぶりに会う山崎は町人姿で菊花を見ると嬉しそうにした。
だが菊花は挨拶もせず、不機嫌そうに山崎の横に座ると酌をする。
「なんやえらい機嫌が悪いな、どないした」
「へえ、うちはいけずの捨どすさかい」とつんけんと答える。
本当は山崎の顔を見て涙が出そうだったのだが、代わりにあたった。
山崎は気にする様子もなく
「寒かったやろ、まあ一杯どうや」と杯を菊花に返す。
菊花はしばらく杯を睨んでいたが手にし、山崎がつぐと一気にあおった。そして山崎に杯を突き出すと
「もう一杯」と言った。
山崎は黙ってついでやる。
そうして三杯ほど立て続けに飲み干した。
「もう一杯」とさらに求める菊花に山崎は銚子の代わりに銀細工の平打ち簪を差し出した。
水仙の花が細工されたその簪をながめ、菊花はケチをつける。
「冷とうて凍えそうや、鼈甲にしてくれたらよかったのに」
「そうか、水仙もお前も銀の方が似合う思うたんやが」
菊花は簪を手にし、銀の水仙をそっと頬にあてた。凜とした水仙は菊花の好きな花だった。どんなに寒い日もすっと立つ香り高いこの花のようにありたいと思いながらも、ひんやりとした感触にまた涙が出そうになり、菊花は簪を頬から離すと髪にさしていた蒔絵の簪を無雑作に抜き、銀のそれを挿して、よろよろと立ち上がった。
「帰る」
「じゃあそこまで」と山崎も立ち上がる。
「いらん」と言いながら、菊花は山崎を振り返り、聞いた。
「今度、いつよんでくれる」
山崎は嬉しそうに
「明日また呼ぶ、来てくれるか」
「へえ、うちは暇どすさかい、いつでもどうぞどうぞ」と菊花は自嘲気味に笑うとよろけた。
山崎が慌てて後ろから支える。
「ほんまに送ろか」
「新選組なんぞに送られたら怖うて怖うて」
「鈴」
その名で呼ばれるの何年ぶりだろうと思いながらも菊花は余計なことを言った。
「そうや、あんたは侍や威張っていたけどこの間のお座敷の幕府のお偉いさんは新選組みたいな人斬りは侍の下の下や言うてはったえ」
山崎は唇を噛み、出した手を引く。菊花は言い過ぎたと思ったが口は止まらない。
「その証拠にお殿様みたいな偉い人ほど刀は抜かぬのやて、笑うやろ」
笑うというのはその青びょうたんのような旗本が刀を抜かないのではなく、抜けないのが見るからに明らかだったからだが、山崎にそんなことは分かる訳もなく気まずい空気が二人の間に流れた。
その後に考えなしの小菊がいつものように小首をかしげながら無邪気に
「ほな、赤穂のお侍はんらは下の下で吉良はんが上どすか」とたずねて、旗本が言葉に詰まり顔を赤くしていたのがおかしかったと、菊花は続けたかったのだが俯いた山崎に続きが言えずに
「ほな」と言うと部屋を出て、襖を乱暴にしめた。
後悔で酔いがさらにまわり、足取りの覚束ない菊花はお茶屋を出たところで浪人にぶつかった。
「おい、気をつけろ」と怒気のある声に菊花はつんと顎をあげ、「お互い様やないの」と言い返した。
「なに、年増がよろよろと」
菊花の頭に血が上った。決して身なりがいいとはいえない相手を軽蔑したように見て
「お武家のくせに身のこなしの鈍いこと、お腰のもんもさぞ手入れがされてはるんでっしゃろなあ」と返した。
「なんだと」
浪人は菊花を突き倒すと刀に手をかけた。
「成敗してやる」
店から飛びだした山崎が菊花を庇い、浪人の刀にかけた手にすがり、頭を下げた。
「堪忍どっせ。酔うた芸妓の言うたことでっさかい。すんません、悪うございました」
「どけ」と浪人は山崎を蹴飛ばした。
山崎は菊花を庇いながら動かない。
「ほんまに堪忍」
「どけ言うのがわからんか」
浪人は山崎の胸ぐらをつかみ、殴った。山崎は無抵抗でやられながらも菊花の前から動かない。
菊花は歯がゆい思いでいらだった。
新選組だと名乗ればこんな酔っぱらい、いっぺんで逃げ出すだろうに。よほど言ってやろうかと思ったが、すぐに町人姿の山崎は刀を持っていない、もし新選組と名乗って斬られたら、そう思ったとたん今度は体が震えた。
頭に血が上った浪人に蹴られ続けて、ぐったりとしてきた山崎を少しでも庇おうと菊花が身を乗り出しかけた時に
「もう勘弁しはったらよろしいのと違いますか、お侍はんが無茶したらあきまへんえ。お相手はのびてしもうてるやおへんか」とおっとりと言いながら、止めに入った者がいた。
豊梅だった。
浪人は無抵抗の山崎と豊梅や周りの野次馬の冷ややかな視線に興ざめした様子で
「町人ふぜいが」と吐き捨てるように言うと背中を向け、歩き出した。
しばらくすると山崎はけろりとした顔で立ち上がる。
豊梅が「大事おへんか」と気遣うと山崎は
「へえ、おおきに、助かりました」と礼を言いながら、菊花を振り返り
「大丈夫か」と聞いた。
豊梅が存外元気そうな山崎に戸惑っていると菊花は
「ええんや、なれてるから」と言った。
「なれてるて」
「この人の家はえらい厳しうて、おまけにこれがごっつうあかんたれやったから昔から厳しい折檻なんてしょっちゅうやった」
菊花は震える声を誤魔化すようにつっけんどんに話す。
「そやな、柱にくくられたり、蔵に放り込まれたりはしょっちゅうやった」と言いながら、山崎は菊花をのぞきこみ、「歩けるか」と聞いた。
「当たり前や」と言うと菊花は立ち上がろうとして顔をしかめた。つきとばされた拍子に右足を少しくじいたらしいのとまだ体が震えて力が入らなかった。
「無理そうやな」と言うと山崎は菊花をひょいと抱き上げる。
菊花は驚いた顔で山崎を見た。
「あら力もありはること」とこちらも驚く豊梅に
「そうそう、針山並みに針さされてたこともあったな」と山崎の顔から目をそらして照れ隠しのようにしゃべり続ける菊花に
「針山は言い過ぎや、どんな親かと思われる」と山崎は言い、
「すみまへん、親父は鍼医で」とあきれ顔の豊梅に説明した。
豊梅は思わず笑った。
「なにがおかしいの」と菊花がつっかかる。
「そうかて、まるで夫婦のかけ合いや」
菊花は顔を真っ赤にすると「下ろして、みっともない。歩く」と言い、
「我慢し、店まですぐや」となだめながら山崎はすたすたと歩きだす。豊梅は複雑な思いで二人を見送った。
薬屋との会話はいつもの菊花ではなかった。つっかかってはいるがとげとげしさはない。ああ、この二人はほれあっているのだと微笑ましい反面、羨ましさと寂しさが入り混じる。自分にもこんな風に口をききあう相手がいた。
その豊梅の背後に目つきの鋭い浪人が立つと小声で話しかけた。
「どうする、どうやら侍ではなさそうだが新選組に出入りする男だ、斬るか」
豊梅は首を振る。
「勘違いせんといておくれやす、沼田はん。うちは仇が討ちたいだけどす、誰も彼も死んでほしいのと違う」
「だが」
「斬ったら新選組が菊花はんの回りを探る、当然小菊もその中に入りますやろ。その方がまずいのと違いますか。それに生かしといたら使い道もありますやろ」
沼田は黙りこんだ。
豊梅はゆっくり振り返ると沼田に一分銀をそっと握らせてささやいた。
「さっきのお仲間に渡しておくれやす。お手間とらせてすみまへんどしたて。なあ、沼田はん。あんたの仕事はただ一つ、吉田の仇を討って長州はんから認められること」
豊梅は微笑んだ。
店前の行燈の淡い灯りのもとでその笑みはぞっとするほど妖艶に見え、沼田が思わず息をのんでいる間に豊梅は歩き出す。
今頃、小菊は沖田の座敷にいるはずだった。いけずの菊人形の恋なんぞどうでもいい。沖田が小菊に惚れることが肝心だった。
北風が一瞬強く吹き抜け、豊梅は身をすくめる。
「ほんまに大丈夫なんか」と近藤の座敷に小菊をよんでくれるように頼んだ時に君尾は執拗に念を押した。
豊梅の一つ年上の君尾は吉田稔麿と豊梅のことをよく知っていた。沼田と知り合ったのも君尾が親しくしている品川弥二郎の座敷だった。相手が新選組の沖田とあってなかなか沼田も最初は踏ん切れなかったが、品川が沼田に頼むつもりだった新選組の間者の始末を土壇場になって十津川郷士の中井達に変えたことや、その中井達が成功して刀をもらった話しを聞いて沼田は急に乗り気になった。
「沼田はんはなんか危なっかしうて。新選組の間者の件を中井はんらにもってかれてから自分らも新選組が斬りとうてしようがないようで」
「あの人かて志士どすさかい」
「そうやろうか、功を焦っているだけと違うか」
「それは高杉はんや久阪はんらも同じやおへんか」
「せやけど」と言う君尾の言葉を遮り、豊梅は鋭く言い返す。
「吉田はんは志が同じなら誰でも受け入れてはりました。その吉田はんの仇を討つ言うてくらはるんどす。ええやないどすか」
君尾はおっとりとした豊梅らしからぬ激しい物言いに驚き、口をつぐむ。
豊梅は君尾の表情に少しうろたえ、頭を下げた。
「堪忍どすえ、小菊はうちが責任もって守りますさかい、ほんまに」
君尾は首を振る。
「なあ、うちも舞妓の時に頼まれて島田いう幕府方のお人の気をひいたけど、そのお人が天誅で殺されはった時には後味が悪うてな、しばらく眠れぬ思いもした。あんたの気持ちはわかるけど小菊は後で辛い思いをするのと違うか、あんたはそこまでわかってるんか」
豊梅は君尾の問いに答えられずに逃げるように
「ほな、お願いしましたえ」と頭を下げ、その場を去った。
豊梅は身を震わせながら夜空に浮かぶ薄く小さな三日月を見上げた。
利用するのではない、自分は吉田のために、小菊は小梅のために、沼田は志のために新選組の沖田を斬る。
だが冴え冴えとした月はそんな豊梅の思いを拒絶するように冷たい。
豊梅は身をすくめると、とぼとぼと歩き出した。
その頃、小菊は近藤の座敷で沖田の前にいた。
店はすっかり正月の支度がすみ、華やかながらも年の瀬の静けさを漂わせていた。
「やはり酒は京だな」と芸州から帰って間もない近藤は言い、満足そうに杯を口にし、芸州の話をぽつりぽつりと君尾に話す。
隣で沖田は落ち着かない様子でいたが小菊に小声で
「今日はあの人は一緒じゃないのか」と聞き、小菊がうなずくと沖田はほっとした表情になった。
「近藤先生が若いお方を連れてきはるからうちも祇園で一番可愛いらしい舞妓にきてもろたんどすえ」と君尾が沖田に言う。
「ほう、確かに」としげしげと小菊を見る近藤の膝を叩いて君尾は軽く睨むと酒をすすめた。
「いややわ、局長はん、若い者は若い者同士やないですか」
小菊は少し緊張した面持ちで沖田にそっと酒をすすめ、
「先だっては可愛らしいものをおおきに」と櫛の礼を言う。
「うち、ずっとお礼が言いとうて、君尾姉さんに無理言うてよせてもろたんどす。そうかて菊花姉さんは新選組のお座敷はお出入り禁止やよって」
「そうなのか、どうして」
「あの斎藤はんいう方がえらい剣幕で二度とお前の顔は見とうない言わはって」
沖田は苦笑した。
「うちだけ名指しでよんでおくれやす。そやないとうち、沖田はんに会えしまへん」
そう言いながら小菊は大きな目を少し上目遣いに沖田の顔を見て、恥じらうようにすぐ目を伏せた。沖田も照れて目をそらす。
「私はこんなところで飲むような身分じゃないから」
「お酒は嫌いどすか」と小菊は顔を上げ沖田を見る。
「いや、嫌いではないけど」
「お仲間と飲みはらへんのどすか」と沖田の顔をのぞきこむ。
「いや、飲むけど」
「ほなよんでおくれやす」と小菊の指が沖田の膝に触れる。
大きな黒目がちの目に間近で見つめられて沖田は思わずうなずいた。
小菊はほっとしたような笑顔になると髪の簪を指し
「ほらこれがまねきどす」と沖田に言った。
確かに小さな名入りの看板が餅花や松葉とともに挿してある。
「ああ、これが」と沖田は笑い、
「本当だ、看板だ」
「これ、役者さんに書いてもらうの大変なんどすえ」
「そうなのか、わざわざ役者に書いてもらうのか」と感心する沖田に小菊は得意げな笑みを浮かべ、自分が贔屓の役者に書いてもらうためにどれだけ苦労したかを面白ろおかしく沖田に聞かせる。
「ほら小菊、なにか舞うてさし上げたら」と君尾が声をかけた。
小菊は嬉しそうにうなずくと立ち上がり前に出ると、沖田と近藤に可愛らしく頭を下げ、三味線の音に合わせて舞い始めた。
小首をかしげると花簪の餅花がゆらゆらと揺れて小菊の小さい愛らしい顔をより引き立てた。白い指も首も細くて人形のような可憐さ。
沖田は京にきて三年になる。好きになった娘もいるし、人に連れられて祇園や島原で遊びもしたが小菊のような華やかな存在はなかった。
幼い頃、姉が八重桜の花を幾つも糸に挿して首飾りをこさえたがその花のようだと沖田は思った。小さくて綺麗で、でも壊れそうで潰さないようにそっと掌にのせた淡くて丸い桜の花。
そんな沖田を不安げに君尾は見ていた。
「大丈夫だ」と近藤は君尾に言った。
「明らかにのぼせているがあれは変な惚れ方をする男じゃない」
君尾は近藤を振り返り、苦笑した。武骨なようでいて近藤は妙なところで気が利く。
「そうどすやろな、局長はんの一番弟子どしたものな」
褒めているのではない。近藤は故郷に妻がいて、さらに京の休息所に一人囲っているくせに島原や祇園に馴染みがいるという噂だった。
だが当人は悠然と
「もしあの舞妓が沖田にしつこくされて迷惑なら俺に言ってくれ。俺が引導を渡すから」と言い、杯を傾ける。
その近藤の沖田に向ける眼差しが弟に向けるように暖かく優しげで君尾は一瞬見とれた。
近藤は君尾を一度口説いて断られた後もこうしてたまに座敷に呼ぶ。だがただ酒を飲み、時勢の話をして君尾の話を聞き、帰った。
奇妙な男だと君尾は思う。好かないが遊び方は東国の田舎者にしてはきれいだった。
「そん時は頼みますえ」と君尾は近藤に酌をしながら言った。
「なにせあの子はまだ恋もしたことのない子ですよって」
そう言いながらも君尾は自分がひどく汚いことをしているようで気がふさいだ。豊梅の思いはわかる、わかるがやはりこんなことに手をかすのではなかったと、君尾は後悔した。
一方、山崎は桔梗やに着くとそのまま菊花を抱えて二階の部屋まで上がった。おろおろとついてくる女将や男衆も気にせず、部屋で菊花を降ろすと
「大丈夫か」と言った。
菊花は顔を背け、「平気や」と言うと部屋をのぞきこんでいる女将や男衆を睨む。
女将は気をきかせて皆を下へ追い立て、自らも
「いつでも声をかけとくれやす」と山崎に言いおいて、下へ下りた。
山崎は軽くうなずくと菊花のひねった右足をみる。
「たいしたことなさそうやな。腫れもそないにないし、これやったら大人しくしてたら二日ほどで歩けるやろ」と言いながら懐から出した薬袋から軟膏を取り出し、足首に塗ると手ぬぐいを手際よく割き、足首を固定するように強めに巻いていく。
菊花は仏頂面でそっぽを向いていた。足の痛みより、山崎が斬られたらと思うと体が震えて腰が抜けたとは言えなかった。
「けどほんまに口のきき方、気をつけんと命にかかわるで。女やったら見逃してもらえる思うたら大間違いや。言われた方はお前が思うとる以上にカチンとくる」「器の小さいこと」「またそれや」
山崎はため息をつく。ふと目をあげた先に茶箪笥の上の二つの虎があった。
自分が渡した五葉の笹のついた虎ともう一つはひどく古ぼけた虎だった。
「仲良しやな」と笑顔で虎に手を伸ばした山崎は
「あんた、新選組やめられるか」と突然問いかけられて振り返った。
菊花が山崎を睨んでいる。
「なんやいきなり」
「うちが軽蔑するんわ、天下国家がどうのとご託を並べて女に安らぎだけ求める男や。女一人も幸せに出来んで天下国家が笑わせる、祇園にはそんなくずに惚れる女が大勢いてるけどうちは違うえ」
山崎は困惑したように菊花を見つめた。
「うちに会いたかったら新選組辞め。やめられへんのやったらもう会わん」
「無茶いいなや」
「うちは本気や」と強い口調で言いながら不意に涙がこぼれ、菊花は顔をそらした。山崎に抱えられている間、その温かさに安堵しつつも切なくて苦しかった。
山崎は困った。
返事のしようがない。菊花の言いたいことはわかるが新選組は捨てられない。
「ほなまた座敷によぶさかい」とぼそりと言うと逃げるように立ち上がる。
「よばんでええわ」と菊花は甲高く叫んだ。
「二度とよばんといて」
階段を下りると女将が困惑した顔で頭を下げた。二人の細かいやり取りは聞こえなくとも、よばんでええわと言う菊花の叫びは当然下にも届いていた。
「なんやあの子また失礼なことを」
山崎は黙って首を振った。
「怪我をして気が高ぶってるだけなんどす、見すてないでやって下さいな」
「わかってます」と山崎は言った。
「昔からよう知ってますから」
山崎はそう答えながら暗い顔で桔梗やを出た。
見捨てるつもりなんぞないが菊花は当分会ってくれないだろう。
山崎は二階を見上げ、ため息をつくととぼとぼと歩き出した。
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