第3話 いけずの菊人形

 西本願寺の屯所に帰ると斎藤は沖田の部屋に寄った。

 煎じ薬の匂いがする。

 沖田は布団をかぶって寝ていたが、誰かついていたのか行灯に灯りがある。

「おい」と斎藤は声をかける。

 沖田は布団から顔を出すと斎藤を見上げた。

「ああ老けた若者だ」

 斎藤は沖田を睨んだ。

「私が言ったのじゃない、原田さんが」「ほら」と斎藤は沖田の言葉を遮り、懐紙を渡す。

 沖田は不思議そうに受け取ると無雑作に広げた。小さな香袋が転がり落ち、上品な匂いがふっと香る。

「これは」

「弁慶さんによろしくとさ」 

 沖田の顔が赤くなった。

「なんだってまたこんな物を」と斎藤の手前、困惑したようにそれでも嬉しそうに香袋を見ていたが、近づいてくる足音に慌てて布団の中に隠した。

「なんだ、斎藤。こんな遅くに病人のところに」と井上源三郎が顔を出し、不機嫌そうに言った。井上は近藤、沖田と同郷で試衛館の頃から年の離れた弟弟子の沖田の世話をやいていたから、組長になった今も具合が悪いととまめに面倒をみていた。

 斎藤は肩をすくめると井上に頭を下げて部屋を出る。出際に思い出したように振り返ると沖田に言った。

「桔梗やだとさ」「えっ」と沖田が聞き返す。

「桔梗や。詳しい話は山崎さんに聞け」

「桔梗やってなんだい」と井上が沖田に聞く。

「ちょっと仕事の」と沖田は言い訳をしながら布団をかぶった。

「仕事ってなんの」とさらに井上に問いつめられ、しどろもどろになる沖田の様子に笑いをこらえながら斎藤は障子をしめた。

 沖田は幼い頃に親に死なれて内弟子に入った近藤勇の道場で大きくなった。いわば貧乏道場の試衛館が家庭ではあるが、育ちはいいと斎藤は思っている。

 この場合の育ちの良さとは居場所を得て育った者の余裕のようなもので親や身分、金銭の有無ではない。居場所が定まらずに育った者はどこかしらすさむ。あの菊花もそうだ、と思いながら、自分も人のことを言えた義理ではないと斎藤は思った。

 母は自身の生まれを気にして、しつけに厳しく、左ききだった一には特に厳しかった。

 父もほとんどを渡り中間で過ごしたこともあり、次男の彼に剣術で身を立てて欲しいと願い、やはり厳しくあたった。双方から厳しくされた一は人に馴染むことが苦手で親にも漠然と、うとまれていると感じていたから、旗本を斬った時、父に斬られると思った。だが話を聞いた父はすぐに京の知り合いの道場に文を書き、一を逃がした。苦しい家計の中から旅費を出し、渡してくれた母の小さな手を思い出し、斎藤はため息をついた。

 あの時、はじめて父母の情が身にしみ、自分は疎まれていたわけではなかったことに気づいたが遅かった。それ以来父母に会っていないし、万が一のことを考えて文も出していない。

 菊花が訪ねて来たのはそれから二日後だった。

 斎藤が巡察から帰ると、えらい美人が沖田と斎藤に会いに来たと林信太郎が騒いでいる。

 監察にいるこの山崎の従兄弟は仕事はそれなりにこなすが性格は寡黙な山崎と違い、浪速のお調子者で、とにかく賑やかだった。

「斎藤さんも隅に置けまへんなあ。あないな別嬪とどこで知り合いました?」と聞く。

 斎藤は面食らった。

 真っ先に頭に浮かんだのは小菊だったが、なぜ自分まで指名されたかわからない。

 林は困惑した斎藤の顔を見て

「ああ、斎藤はんはあて馬か」と失礼なことを言う。

「目の大きな十五くらいの娘か」という斎藤の問いに

「いや、もっといってる。色が白うて細面の」

 斎藤は悪い予感がして

「整い過ぎた美人か」と聞いた。

「そうそうお雛様みたいな。わしとしてはもっと可愛らしいのが好みやなあ。丸顔でふっくらして、目はまん丸で笑うとえくぼがこの辺に出来て」

 信太郎の話に終いまで付き合わずに斎藤は足早に二人が向かったという境内の大銀杏の元に向かった。

 はたして沖田と菊花がにらみ合っていた。

「言っていることがわからない。厄介事とはどういうことです」

「どうもこうもそのまんま」

 地味な小紋に丸髷と商家のお内儀風に装った菊花はつっけんどんに言う。

「おとといみたいに、つまらんこと根にもって往来でいちいちからまれたらかなわんのどす。これよがしに新選組や名乗るから店の者は難癖つけられた、どないするいうて大騒ぎ。なんせおたくらのお行儀の良さは折り紙つきどすさかいなあ」

 菊花は遠く離れた阿弥陀門から不安そうにこちらをのぞいている男衆をちらりと見て大げさにため息をついてみせる。

「とにかく謝ってこい、謝ってこい言うてうるそうて。せやから仕方なしに来たんどすえ。ほんまに申し訳ございませんでした」と菊花は申し訳程度に頭を下げて言った。

「はい、これで面倒はなし」

「だからあんたに謝られる覚えはない」

「あんさんに無うてもうちにはある言うてますやろ。ほな、このことあの人にもきちんと言うといておくれやす。こっちも忙しい時を割いてきたんやし」

 そう言いながらつんと顎をあげ、踵を返した菊花は太鼓楼の方からやって来た斎藤に気がついた。

「三年坂のこと謝りましたえ」と言いながら斎藤を睨み、通り過ぎる。

「あれでか」

「ほな泣いてみせましょか」と菊花は皮肉な笑みを浮かべながら言い返す。

 沖田と斎藤は共に不快な顔をしながらも沖田は小菊を、斎藤は山崎を思い、こらえた。

 菊花はそんな二人を横目に悠然と立ち去りかけたが目隠し塀に佇む侍姿の山崎を見て足を止めた。

「もう少しなんとかならんか、鈴」とさすがに山崎もたしなめた。

「あれやったら喧嘩売りに来たのと同じやないか」 

 菊花は軽蔑したように山崎を見て言った。

「あんたもしようもない者になったこと」

 山崎は苦笑しながら

「お前が強うなれ言うたんや」と言うと

「二本差しが強い思うてるその性根が情けない」と切り捨てる。

「そうやって人にあたり散らしているお前はどうなんや」と山崎は返した。

「結局損するのはお前やないか。せっかくの別嬪がもったいない」

「うちは昔から嫌われ者や。誰かさんのように器用には変われへん」

 そう言い捨てると菊花はそっぽを向き、門を出ていく。山崎はため息をついた。

「ほんまに謝ってきたんかいな」としきりに聞く男衆をうるさそうにしながら菊花は帰り道を急ぐ。

 ああは言ったが、内心では痩せっぽちの泣き虫でいつも後をついて歩いていた蒸が今や背丈も自分を越え、がっちりとした男になっていることに驚いていた。

 だが細い目の丸顔は昔の面影があったし、久しぶりに鈴と呼ばれて菊花はここ数年思い出すこともなかった昔に引き戻された。

 確かに家業は傾き、両親はそれを立て直すことに必死でかまってはくれなかったがそれでも二人は自分を大事にしてくれたと、今は思う。

 桔梗やの自分の部屋の茶箪笥の上に古ぼけた小さな虎の張り子が一つ置いてある。

 大坂道修町の少彦神社の神農祭で配られる五葉の笹についてくる縁起物で父は一人娘のために毎年これをもらってきてくれた。神農祭は大坂ではその年の最後の祭りで止めの祭りとも呼ばれる。

 あの年も鈴に虎を渡してくれた父は、大晦日の前の晩にどうしても晦日の払いが工面出来ないと首をくくり、母も後を追った。

 自分一人を残して死んだ両親を鈴はひどく恨んだが、この年の虎は捨てられなかった。

 虎だけが両親の形見だった。

 部屋に戻った菊花は虎の頭をつついてため息をついた。

 それから着替える。

 地味な小袖は老け込むから嫌いだった。もう二十五になる。

 とうに祇園を出て子供もいる年なのに、菊花にはそんな話がない。

 踊りの上手い美人の愛想なしを面白がって酒席に呼んでくれる贔屓はいるが、身請けとなると皆、腰が引けた。

 芸妓仲間は「いけずの菊人形」と陰で自分を呼んでいる。意地悪のいけずと嫁にいけないをかけているのだが、かまうものかと菊花は思う。金もある程度たまった。もう店に借金もないから辞めようと思えばいつでも辞められる。

 だがやはり強がりだった。

 あの長州の桂小五郎の相手として有名な三本木の芸妓幾松は二十そこそこ、薩摩の小松帯刀にひかされた祇園の名妓お琴は十八。勤皇芸妓として評判の君尾にしても二十一。

 二十前後でひかされる芸妓がほとんどだった。勿論、皆がそうではないし、祇園で生きると決めて残る者もいないではないが、不安がないといえば嘘になる。

 菊花は頭を振った。考えてもしようがないことだ。とにかく髪を結い直してもらいに出かけようと部屋を出た菊花は隣の部屋で鏡をのぞきこむ小菊に目を止めた。

 新しい貝紅から紅をさし、嬉しそうにうっとりと眺めている。舞妓は出だしの頃は下唇にしか紅をさせず、一人前になってはじめて上下に紅をさすことを許される。小菊も数日前にようやく許されたばかりだった。だから微笑ましいといえば微笑ましいのだが、菊花は小菊の手にある紅にひっかかった。それは名の知れた店の最上級のものだった。

「また分不相応な紅やな、どないしたん」

 ぎくりとした小菊は慌てて紅を拭い、貝紅を隠す。

「もろたんどす」「誰に」

 小菊は俯いた。

「お客様にかえ」

 そう言いながら菊花は馴染みの客を頭の中で並べながら、小菊に最上級の紅をおくるような粋人を探す。

 だが小菊自体がまだ子供子供していて大方の男達もそのあどけなさを愛していたから艶めかしい紅をおくるような者は思いつかなかった。第一、自分と座敷を回っている時に小菊がそんな物をもらっている様子はなかった。

「言うとおみ、誰にもろたん」

 大人しくみえて頑固な小菊は俯いたまま答えない。菊花は脅しにかかった。

「ほな、おかあはんに言うわ、可愛い小菊に虫がついた、お気をつけやすて。おかあはん、腰抜かしてあんたは稽古と座敷以外は禁足や。稽古帰りの甘味の寄り道もできへんなあ」

「何で紅一つでそないないけず言うの」と小菊は大きな目をうるませて言った。

 菊花はにんまりと微笑む。

「妹分のあんたが可愛いからやないの。小梅の二の舞はしてもらいたないんえ」

 小菊と親しくしていた小梅はおなじ祇園の川野やの舞妓で、長州の若侍と惹かれあい、その若侍が池田屋で死んだのを嘆き、形見の脇差しでのどをついて死んだ。子が出来ていたとも噂されていた。

 小菊は上目遣いに菊花を睨み、そっぽを向いた。

 その横顔が憎々しく菊花は小菊の頬をひっぱたく。小菊は大袈裟に悲鳴をあげた。

 騒ぎを聞きつけて下から女将が上がってきた。

「なんの騒ぎや」

「おかあはん、菊花姉さんがまたうちをいじめる」と小菊は叫ぶと女将の後ろに隠れた。

 小菊は女将の遠縁の娘だった。女将はゆくゆくは店を継がせるつもりで養女にしてかわいがっていたが、それではどうしても他の抱えの芸妓舞妓にしめしがつかないし、本人にも良くないので、女将は遠慮なしの菊花を小菊につけて座敷を回らせた。

 女将は菊花は口は悪いが根は悪くないと思っている。自分が芸妓で舞妓の菊花を連れて座敷を回っていた時も青ざめた顔でつっぱっている様子が痛々しいと何度も思った。決して器用ではないが負けず嫌いだから踊りも三味線も人一倍努力する。ただそれを褒めても素直に喜ぶ様子も照れる愛嬌もない。人形のような顔立ちはそれでなくてもお高くとまっているように見えるから、芸妓仲間に憎まれる。女将もだいぶ庇ったがそれでもあちこちでいじめられ、菊花はどんどん頑なになった。

「叩いたんえ、菊花姉さん、うちの顔を叩いたんえ」と小菊は女将に訴える。

 赤くなった小菊の頬を見て女将はため息をついた。

「その子、分不相応な紅を誰からもろたんか言わんのどす」と菊花も負けずに女将に言いつけた。

「分不相応」と女将は厳しい目で小菊の手にある貝紅を見た。

「どういうことや、どこの旦さんからもろたか言うとうみ」

「旦さんと違う。豊梅姉さんに」と小菊はうなだれながら白状した。

「豊梅、川野やさんのかい」

 豊梅は三味線を得意とし、ふっくらとした頬と切れ長の目の優しげな美貌の人気芸妓で同じ店の小梅をかわいがっていた。

「小梅ちゃんにあげよう思うて用意してはったんやて。供養にもなるから遣うてって」

 女将はさすがに気の毒そうな顔をした。しかし菊花は

「縁起でもない、捨てよし」と切ってすてた。

 小菊の大きな目からみるみる涙があふれ

「せやから言いとうなかった」と言うとわっと泣き出す。女将は思わず小菊を抱き寄せ

「言い過ぎや」と菊花をたしなめたが菊花はつんと顔をあげ部屋を出た。

 部屋を出ながら微かな不安が胸をよぎる。

 豊梅はやはり池田屋で死んだ吉田稔麿といい仲だと評判だった。長州贔屓の芸妓達は身をていして彼らを新選組や幕府の追ってから守った。それは大人しげな豊梅も同じでおっとりとして優しげな眼差しで微笑む姿が観音様のようだと言われる豊梅がああ見えて実は気性が激しいのではないかと、昔三味線の師匠から聞いたことがあった。

 豊梅の三味線の音色は静かだが深い。あんな風に情が込められるのはあれがそれだけ激しいものをうちに秘めているからではないかと。

 菊花は振り返った。

 女将の腕の中で泣きじゃくる小菊のうすい肩はまだ幼くいかにも子供だった。

 今度、豊梅にあったら言ってやると菊花は思った。

 まだ恋に恋する小娘に自殺した舞妓の恋を綺麗事のように吹きこむのは止めろと。それでなくとものぼせやすいあの年頃は天下国家を動かすという浪士の言葉に舞い上がり、それが悲恋ともなれば自分を芝居の人物のように追い込む。

 だが本当に相手を思うなら男は女に安らぎだけを求めずに先のことを考えるべきで、女に後を追わせるような不甲斐なさで天下国家を語る男など菊花に言わせればくずだった。

 こんなことを思いながら髪結いに行くと女将がちょうど豊梅の髪の仕上げの最中だった。

「あら、菊花はん。野暮はすんだんか」「へえ」と答えながら豊梅を睨む菊花だが、豊梅はおっとりと鏡越しに

「あら菊花姉さん、上品なこと。どこぞの大店の御寮さんかと思いましたえ」と褒める。

「そらどうも」とつっけんどんに返しながら別の髪結いにうながされて豊梅の隣に座った菊花は単刀直入に

「うちの小菊にかまわんといて、迷惑や」と言った。

 豊梅は小首をかしげる。

「そらどういう意味どす」

「まだ子供やさかいにあほな勤皇芸妓に憧れる。あほがあほにあこがれたかてろくなことにならんさかい」

 豊梅は眉をひそめてきいていたが不意に微笑むと

「ああ、紅のことで怒ってはるの。お気に障ったんなら堪忍どすえ。あれはほんまに小梅の代わりに仲良しやった小菊に使うて欲しかったんどす」

 豊梅はそう話しながら女将の渡してくれた合わせ鏡で髷を眺めて

「綺麗にしはってくれておおきに」と女将に頭を下げる。

「とにかく」と言いかける菊花に豊梅はかぶせるように

「そうかて小菊は可愛い。素直やし、なによりあの大きな目の愛らしいこと。鈴のはったいうんはあの子の目や。あないに可愛らしい舞妓はそういてへん。小梅の仲良しでのうてもつい構うてやりとうなるんどす。なあ女将さんも小菊は可愛らしさでは祇園一や思いますやろ」「せやな、確かにあの子は可愛い」と答えながらも女将は仏頂面の菊花の顔色をうかがう。

 菊花は黙っていた。豊梅は立ち上がりながら

「せっかくあないな可愛らしい子を妹分にしてはるんどす。もう少し構うてあげたらよろしいのに。まあ菊花はんのように周りを気にせんと生きていけたら楽でよろしいけど」とやんわりと嫌みを言った。

 女将ははらはらとし、菊花の顔には怒りで血が上る。

 豊梅は頓着せずに去り際にもう一度、菊花を振り返り

「せやけど姉さん、首が長うてええわあ、うらやましい」と褒める。

「うち、菊花姉さんの舞にお三味線合わせるの好きどすえ。姉さん、後ろ姿もええんやもの。舞うてる時のこう斜め後ろのうなじから背にかけての流れを見ているだけで綺麗すぎてなんや切のうなるんどすえ。また一緒のお座敷になりとおすな、ほな、お先に」

 豊梅はにっこりと菊花に微笑み出ていった。どう見ても二十の豊梅の方が大人だった。だが菊花は収まらない。

 あんな女になにが分かるのだ、あんな調子だから妹分を死なす羽目になると憤慨し、女将がふる当たり障りのない噂話にも上の空だったが

「それより菊花はん、誰か好い人でも出来たんか」といきなり女将にのぞきこまれて、どきりとした。

「なんでどす」と平静を装おいながらとぼける。

「そうか」と女将は菊花の髪を梳かしながらいった。毎日のように舞妓や芸妓の髪に触れていると手触りや色艶の微妙な違いに敏感になり恋愛の有無までわかる時がある。

「なんやそないな気がしたもんやから」

 肩をすくめた菊花の脳裏に一瞬山崎がよぎり、訳もなく腹立たしくなった。

 あんなあかんたれが一瞬でもよぎったことが嫌らしい。

 菊花は鏡の中の自分を睨んで言った。

「うちより豊梅はんはどうどす」

「あの子は当分色恋はないやろ」と女将は答えた。

「気丈に振る舞うてるけど親しい者を亡くした影が残ってる。小菊にかまうのも寂しいのやろ、大目に見てやりよし」

 菊花は顔をこわばらせたまま黙っている。その頑固さに苦笑し、女将も黙って髪を結っていたがぽつりと菊花がもらした言葉に手を止めた。

「こないな商売してたら影は誰にもあるやないの」

 豊梅をなじるようでいて何か寂しげな響きに女将は思わず菊花の白いうなじに目を落とした。

 鏡の中の固い表情と違い、そこはいかにも華奢で弱々しい。

「まあそうやけど」

 女将は再び手を動かしながら、豊梅はいつからこの毒舌の芸妓の後ろ姿の儚さに気づいていたのだろうと考えた。

 この薄い背中にも年と共に肉がつく。やがてぽってりとした丸い肩になり、幼いぽっちゃりとした小さな手がつかまる。菊花もそんな時が早く訪れたらよいと女将は思った。だが口にしたら菊花は余計なお世話だと言うだろう。豊梅が言ったように菊花には頑なに回りと関わろうとせずに自分だけを頼みにしているところがあった。

 だがなんの商売もそうだが祇園は特に各々が関わりあい、助けあって商売をしている。そして芸の出来や美貌の有無でなく結局はそれを心得ている子が早くにひかれ、幸せをつかむのを女将は見てきた。

「さあ出来たえ」と女将は言うと菊花の背中を優しく叩いた。

 つんとすまし顔で立ち上がった菊花は

「おおきに」と申し訳程度に頭を下げた。


 それから数日後、山崎は桔梗やに菊花をたずねた。

 大坂の薬屋の若旦那がたずねてきたと言われて出てみたら山崎で

「普通はお座敷に呼んでくれはるものやけど」と菊花は冷ややかに言い、行商人でも侍でもない、町人姿の山崎をじろりと見た。

「堪忍や、今忙しうてな。近いうちに必ず座敷に呼ぶさかい」と言いながら山崎は菊花に持ってきた笹を渡した。笹には小さな張り子の虎がぶら下がっている。

「神農さんの虎や、懐かしいやろ。大坂出たついでにもろうてきた」「またしょうもないもんを」と菊花は受け取りながら文句を言う。

「二条にかて神農さんはあるわ」

「二条の神農さんには虎はないやろ」 

 菊花はぶら下がっている赤い首輪の虎を睨む。

 山崎は微笑み、「ほな」と踵を返す。

「もう帰るん」と思わず菊花が言うと山崎は振り返り、

「今度は座敷に呼ぶから」

「呼ばんでもええわ」

「ほな呼ばん」

 菊花は怒って山崎を睨む。

「うちをからかってるんか」

 山崎は肯き、笑いだした。

「なんでやろな、からかいとうなるんや」

 菊花はつんとそっぽを向いた。その視線の先に連子窓から二人をうかがっている小菊と女将がいた。

「ちょっと」と菊花がかみつく。

 女将はそそくさと奥に消え、小菊が気まずそうな顔でたちつくしていると、山崎が思いだしたように懐に手を入れて小さな包みを取り出すと連子窓の奥に差し出した。

「忘れるとこやった、沖田はんからや」

「ほんまどすか」と小菊は嬉しそうに受け取り包みを開けた。

 梅をちらした赤い塗櫛だった。

「可愛らしい」と喜ぶ小菊を横目に菊花は嫌みを言う。

「若い子はええこと。年増は厄除けの笹しかもらえへん」

 山崎は苦笑し、

「次はもっとましな物を持ってくるわ」と言うと帰っていった。

 菊花はしばらく山崎の背中を睨んでいたが、フンと鼻をならすと家に入った。だが笹と虎は大事に胸に抱えられ、茶箪笥の古い虎の横に置かれた。

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