第2話 捨

 冬の寒い日だった。

 野犬が来た時、水の枯れた田圃で遊んでいた子供は十数人ほどいた。

 一はその中で一番の年嵩だったわけではないが、怯える小さな子供達を見て妙な義侠心をおこした。年の割に大柄な一は口下手で越してきて1年になるが、いつも子供達の中で浮いていたから、良いところを見せようとしたのもある。

 一は、犬に声をかけて、一人、皆から離れて駆けだした。

 犬は一を追った。一に飛びつき、最初は甘えたように甘噛みでじゃれついていたのが、だんだん興奮して噛みが強くなる。振り払おうと焦った一は田圃のぬかるみに足をとられ、転んだ。何度も転び、泥だらけになりながら犬から逃げようとする一を遠くで子供達が笑う。

 惨めだった。こんなはずではなかったと思った時に野犬と目があった。

 次の瞬間、脇腹を喰われた。


 隣でそこまで話を聞いた女は冷たい指で斉藤一の脇腹の傷にそっと触れた。

「怖い思いしたんどすな」

「怖いとは、違う」と斉藤は答えた。

 図らずも道化を演じた惨めな思いと、犬の目が一の胸をいつまでも疼かせた。

 興奮して半ば白目だったが、自分をだしにしようとした一の中途半端な義侠心を責めるような哀しい目だった。いや、哀しいというのも陳腐で

「どう違うん」という女の問いに斉藤は黙った。

 後日、野犬が撲殺されたと聞いて、安堵よりも哀れで涙を浮かべた一は母親になぜ泣くのかと聞かれた時もやはりうまく答えられなかった。

 襖の向こうで咳払いがした。

 女を贔屓の客が待っているのだろう。

「行ってこいよ」と斉藤は行った。

「俺はいいから」

「またそんないけず言うて」と言いながらも女は蒲団から出ると身づくろいをした。

「帰ったら嫌どすえ」

 そう言いながら出て行く女を見送ると斉藤は起き上がる。着物を着て、店を出た。

 冷え冷えとした道を歩いていると嫌な思いがよみがえった。

 あの野犬は自分だった。犬がじゃれたのも、自分が駆けだしたのも寂しさからで、思わぬ笑い声に惨めになった自分は犬を振り払おうとして殴ったかもしれず、それは噛みついた犬も同じではなかったかと、後になればなるほど思えてきた。怪我が癒えた後も子供らに溶け込めたわけでもなく、まもなくまた引っ越したがそこでも同じで、それは十で通いはじめた剣術の道場でもそうだった。

 もともと人付き合いが駄目なたちなのだと諦め、ただ剣術に打ち込み腕をあげた斉藤は十八になると、御家人株を買った父の勧めで旗本御家人が多く通う道場に代わった。

 その道場で兄弟子の一人からひどい苛めをうけた。

 兄弟子は神君家康公以来の家名が自慢の貧乏旗本で、道場では古株のわりには上達のみられない男だった。そのせいか入門当初から師匠に見込まれた斉藤を目の敵にし、父親が御家人株を買ったと聞くと、嫌がらせをした。

 格式こそ高いが、大道場で揉まれる覚悟もないような者が多い道場だったから、稽古に明け暮れた斉藤にかなう相手はほどなくいなくなった。師匠も感心し、養子の話も打診された。すると相手は斉藤は女にだらしがないとか、金に汚いとか、でたらめを吹聴する。そのうちに斉藤の剣の才を認めてくれていたはずの師匠までもが養子の口を別の弟子に回すなど冷ややかになった。

 御家人の次男三男は養子の口がなければ先はない。だから剣術でも学問でも何か取り柄をもち、それがなければ血縁、縁者を頼り、最後は金で養子先を探した。だがすでに斉藤家に金はない。それで父は息子の剣の腕を見込み、縁故の出来ることを願って敷居が高いのを承知で、そこの道場に入れたのだが、道はあっけなく潰された。

 もともと口が重いたちで師匠や回りに理不尽を問うこともなく、鬱々としながら道場で竹刀を振る大柄な青年の相手をする者もいなくなる、面白くないから道場から足は遠のいた。

 近藤の試衛館を知ったのはその頃だった。

 小さくて養子口などは縁がなさそうな貧乏道場だが剣術が好きなら流派も身分も問わないのが心地よく、斉藤は再び剣術に打ち込みはじめる。 ところがまもなく稽古帰りにふらりと立ち寄った呑み屋に声高に人の悪口を肴に呑むあの男がいた。

 最初は気づかなかったことにしようとした。だが男は斉藤がいるとも知らずに知人相手に自分が斉藤を貶めたことを自慢げに話し

「身元の確かではない者に道場で大きな顔をされると流派が汚れる」と言い、

「とんだ道化だ。養子口欲しさに必死になって剣術に打ち込むあの馬鹿の浅ましさを皆が陰で笑っているとも知らず、一本取るたびに偉そうにそっくり返りおって」と嘲笑った。

 頭に血が上った斉藤は男の後をつけ、人気のないところで斬りつけた。

 一太刀で相手はあっけなく倒れた。一寸ほど抜かれた刀が拵えだけは立派で中身は竹光だったのを今でも覚えている。

 あの時に自分の剣は地に落ちた。それまでは剣は鍛錬であり、上達することで人格も高まるのだと、たとえ師が掌を返してもどこかで信じていた。だがあれ以来、自分の中で剣は人斬り、生きるための方便になる。

 思い出話などするのではなかったと斉藤は舌打ちをした。芋づる式に思い出したくないことが出てきて気が滅入る。

 西本願寺の屯所に真っ直ぐ帰る気にもなれず、暮れかけた河原町をふらついていると「一さん、また一人でうろうろと」と声をかけられた。 

 振り返ると山崎蒸だった。

「先月見廻り組の隊士が斬られているから一人での行動は慎め言われてるやろ」

 大坂の鍼やの息子で黙々と探索方という隊の裏方の仕事に励むこの男は隊では斉藤の唯一ののみ友達だった。

「仕事かい」

「今帰りや」

「ちょうどいい。なあ、久しぶりに一杯つきあってくれよ」

 行商人姿の山崎は苦笑して首を振る。

「この格好では難しいな、あんたかてはよ屯所に戻らんでええんか」

 例え非番でも斎藤は急にかり出されることがあった。

「頼む、少しだけ」

 斉藤が粘るのは珍しいから山崎は折れた。

「しゃあないな、ほなちょっとだけ」

 二人は祇園近くの小さな呑み屋に行った。

 久しぶりに山崎相手に呑むせいか、斉藤は饒舌だった。

「なあ蒸さん。やはり京の連中は話し言葉を聞いているだけで西の長州や土佐の連中を贔屓したくなるんだろう」

「まあ、田舎者は田舎者でも可愛げはあるな」「やはりな」「そんでも一さんは明石藩の出や。たとえ江戸詰めにしてもお屋敷にはお国なまりがとびかっていたのと違うか」

「いや、俺が明石の下屋敷にいたのは四つくらいまでだったから。実は俺のお袋は商家の出でね。親父は一時扶持を離れていた時に惚れたらしい」

「ほう」と山崎はさして驚くこともなく相槌を打つ。

「小藩の下屋敷の足軽長屋でお侍でございっていったって知れているが下の人間ほど嵩にきる。お袋も苛められて気丈にしてはいたが家で泣いていたよ。親父はそれが嫌で、結局一つのところに留まらず、渡りをして小金を貯めて御家人株を買った」

 だとすれば斉藤は元御家人のはずだが彼は明石藩脱藩を名乗っている。だが山崎はなぜかとは聞かない。本人が話したくなれば話すだろう。

 ただ斉藤がどこにいても今一つ馴染まないのはそんな生い立ちが関係しているのではないかと山崎は思った。

 江戸で試衛館にいた割には斉藤には試衛館一派の色が薄い。天然理心流でなくとも永倉、原田、藤堂、そして死んだ山南には同じ釜の飯を食ったという雰囲気があった。

「だからでもないんだが、俺は店で売れ残ってめそめそしている女がいるとつい同情するというか、そんな女はまず振らない」

 山崎は苦笑した。斉藤は女好きだと隊では評判だった。

「それで売れてきたら店を変えるか、女好きの噂が立つわけや」「違う、売れてきたらあっちが俺を振る、振られるから新しい女を探す」と斉藤は言い、酒を呑む。

 斉藤は女を買う時も一人で行く。そういうところは土方に似ている。山崎は剣の腕は隊内では沖田と一、ニを争うこの風変わりな若者にしみじみと語りかけた。

「なあ、一さん。前から一つ言おう思ってたんやが。頼みがある」

「なんだい、あらたまって」

「あんたも知ってのとおり、わしは鍼医の子や」

 斉藤は怪訝そうに山崎を見た。

「隊の中でもこんな姿のわしを下に見る者もいる」

 山崎は自分の町人髷に手をやった。

 困惑気味の斉藤に山崎は続けた。

「けどわしはなりはこないでも侍らしい侍になりたい。侍らしい侍を手本にしたい。今、大坂には長征のために仰山の御家人旗本が滞在しているが、これから戦に行く気概はまるでない。この間もげらげら笑いながら女を追いかける者を見た。あんなんは侍やない。わしの手本はあんたや副長や。せやから副長やあんたの乱れたところも見とうないし、悪い噂も聞きとうない。頼むから女はほどほどにしてくれんか」

 斉藤は俯くと

「俺なんか」とつぶやき、きまずそうに酒を呑む。

 照れているとわかっているから山崎は斉藤をからかいながら話を変えた。

「贔屓にしてるんやから頑張ってもらわな。ところで贔屓いうたら京の御所贔屓に対して大坂の者はたいてい太閤贔屓や、知ってるか」

「ああ、聞いたことはある。変な話だ。太閤も家康公もこっちの生まれじゃないくせに片や人気者で片や嫌われ者だ」

「昔、近所におった薬種問屋の主人もえらい太閤贔屓で贔屓が過ぎてようやく授かった女の子を太閤さん真似て表に一旦ほかしはってな」

「ほかす?捨てたのか」

「そうや、捨て子は強く育つとかで、秀頼さんもほかされてお拾と名づけられたそうや」

「なるほど」

「ところがその子は強うなりすぎてえらいお転婆になった。そのせいか、もとは鈴いう可愛らしい名もあったのに誰もその名で呼ばんと捨、捨と呼ぶ。ほんでまた皮肉なことに捨が大きうなるにつれ店は傾く。ほんまやったら乳母日傘で大店のいとはんとして大事に育てられ、お茶やお花の稽古三昧、ゆくゆくは婿養子もろうてあんじょう暮らしていくはずが大人達は商売の立て直しに必死でお嬢はほったらかし。で、捨は俺ら近所の悪たれを率いて毎日駆けずり回る」「強いな」

 山崎は笑った。

「強かった。ほんま、強かったで。ガキ同士の殴り合いでも負けたところを見たことがない。下手に庇うと怒るし」

「じゃあ今頃亭主はさんざんだろうな」と笑った斉藤に山崎は「そうやな、どないしとるやろ」とふっと遠い目をし、「何せ二親が首くくってしもうて、どこぞに売られていったさかい」と続けた。

 思わず黙りこんだ斎藤の向かいで山崎はぼんやりと杯を見つめつぶやいた。

「最後まで泣きもせず。わしなんかいっつも泣いとったのにな」

 捨の両親の葬儀の日、近所のよしみで手伝いにいった姉を探しに捨の家の台所を覗いた十二歳の山崎蒸は大人達の心無い会話を聞いた。

「ほんまにもう、一時はここらで一、二といわれた大店が」「あれが生まれてから恐ろしいほどの悪運が重なったと思わんか」

「ほんまや。捨は疫病神や。こんなことなら子無しの方がよかった」「子を授かって運を使い果たしたんやろか」「ほかされた時にどこぞの貧乏神とすり替えられたのかもしれんで」

 蒸は思わず飛び込むとそう言った女を殴った。台所は大騒ぎになった。

「どこの子や」「鍼医のところのあかんたれや」つかまれ、たたかれ、姉につまみ出された戸の外に捨がいた。

 捨は憎々しげに蒸を蹴飛ばして叫んだ。

「あんたなんかに同情されたないわ。弱虫に同情されても悔しいだけや」

 蒸はべそべそ泣きながら捨を見た。強くなりたいと思った。誰にも負けないくらいに強くなりたい。

「蒸さん、そろそろ帰ろうか」

 斎藤の声で山崎は我に帰った。

「あんたの女の話につられてしょうもないことを話してしもうた」

「俺の女の趣味も悪いがあんたのもあまり良くないや」と斉藤が混ぜっかえした。

 店を出た先で二人は若い男に先導されて先を急ぐ芸者と舞妓の二人連れにぶつかりそうになった。

「ごめんなさい、堪忍どすえ。急いでますさかい」と軽く頭を下げて通り過ぎかけた芸者と斉藤は目が合い、お互い「あっ」と声をあげた。

 菊花だった。

 つんとすました顔を見ると斉藤は余計なことが言いたくなった。

「お前を呼ぶもの好きがいるとはな」

 菊花は斉藤達の出てきた居酒屋をさも貧乏くさそうに見ると

「へえ、お蔭様でお金持ちは仰山おいでどすさかい」という。

 斉藤が怒りに身を震わせている隣で驚いたように菊花を見つめていた山崎が言った。

「お前、もしかして捨か」

 捨と呼ばれて、菊花はぎょっとしたように山崎を見た。

「捨、いや鈴。鈴やろ、天満の。わしや、鍼医のとこの蒸や」

 山崎に詰め寄られて、菊花は困惑したように後ずさる。

「うちは」

「覚えとらんか、わしやがな。あかんたれの蒸や」

 斉藤もさすがに驚いた。

 その斎藤の袂に後ろに来た小菊がそっと何かを差しいれる。斎藤が振り返ると小菊は菊花を気にしながら小声でささやいた。

「沖田はんに渡して下さい」

 斎藤が問い返す前に、息をきらせながら駆けつけた初老の男と先程二人を先導していた若い男が菊花と山崎の間にすべりこみ、頭を下げた。

「申し訳ございません。ほんに口のききかたの知らん者で、あとでこちらからきつく言うてきかせますさかいにご無礼の段はひらにご勘弁下さい」

 そう言いながら初老の男は若い男に二人を早く去らせるように目配せをした。

 どうやら二人は菊花達の置屋の男衆で菊花が侍と面倒をおこしていると聞いて駆けつけてきたらしい。

「ほんまに申し訳ございません」と初老の男は言いながら菊花の後を追おうとする山崎を体で遮り、

「迷惑料いうてはなんですが」と幾何かの金を握らせようとした。

「そんなんと違う」と言いながら去っていく菊花を目で追う山崎の横で斎藤は

「金ではない」と男を睨んだ。

「あの女には会う度に不愉快な思いをさせられる。どこの店だ」

 男は困惑した顔で返事をためらう。斎藤はたたみかけるように

「二度と座敷で会わぬためだ。あんな口の悪い女、ごめんこうむる。俺は新選組の斎藤一だ。そっちは」

 新選組と聞いて青くなった男は観念したように小声で

「桔梗屋でござります」と返した。

「よし、わかった。俺は呼ばぬ、そっちも寄越すな」と斎藤は言うと山崎に

「薬屋、行くぞ」とうながす。

 山崎はあきれたように斎藤を見ていたが、歩き出すと小声で

「薬屋やって、あんた。下手な芝居を。第一わしのためでもあんなとこで名乗るもんやない」と斎藤をたしなめた。

「蒸さんのために言ったんじゃない」と斎藤は言いながら、袂から何かを挟んだ懐紙を取り出した。広げると、白い絹に紅葉や銀杏、松葉の吹き寄せ文様が刺繍された小さな香袋だった。

「それは」

「舞妓が沖田に渡してほしいとさ、うらやましい」

 山崎は思わず笑った。

「笑いごとじゃない。俺も可愛い舞妓のお酌がよかった」

「捨も美人やないか」

「口が悪い、悪すぎる」

「昔からや」

「あんなのがいいのか」

「蓼食う虫も好き好き」

 斎藤はあきれたように山崎を見た。沈着冷静な男が珍しく浮かれている。

 きっと子供の頃よほど好いていたのだろうと斎藤は思いながらも、万が一あの女が山崎の女房になったら、たった一人の呑み友達を失うと憂鬱になった。




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