9,レゾンデートル

 片瀬さんに続いて、私もシャワーを浴びる。ここでは水資源が貴重なため長時間の水の使用は避けなければならないけれど、自宅では浴槽で脚を伸ばし、5分ほど何も考えずぼんやりする時間を設けている。そうして少し心を落ち着かせているのだ。けれど、ここではできないのか……。ううん、そうでもないか。トリートメントを髪に馴染ませている間、お行儀は悪いけれど、このベージュのタイルに座り込もう。そう決めた私はダマスクローズという最高級のバラの香りがする備え付けのシャンプーを適量手に取り、十本じっぽんの指の腹で頭皮を丁寧にマッサージしてゆく。ツボを押しながらマッサージすれば、頭皮を健康に保てるほか、眼精疲労にも効果的なのだ。


 あぁ、なんて良質なシャンプーだろう。甘美で華やか、引き締まっているのに雑味のない洗練された高貴な香り。そわそわ感が緩和かんわされて、深呼吸をすると深い眠りへ誘われそう。


 今日は本当に色々なことがあった。風邪を引いて学校を休むと決めて、先生に連絡を入れて、毎晩読書のし過ぎで寝不足だったから、久しぶりにゆっくり眠れて。目が覚めたら体調はすっかり良くなっていて、片瀬さんがプリントを届けに来てくれた。


 片瀬さんはクラスの中心人物の一人で、転入初日、ぱあーっとキラキラした笑顔で私に真っ先に話しかけてくれた子だ。当時からいつまでだろう、つい先ほどまで彼女の異常に高いテンションにどう対応すれば良いのかと戸惑っていたのに、いまでも完全とは言えないけれど、それがほとんどなくなった。


 思えば、私が片瀬さんを巻き込んだのだ。私が一緒にゲームをしようなんて誘わなければ、こんなことにはならなかった。にも拘わらず、彼女はイヤな顔ひとつ見せず、そのうえハロウィンイベントでひるんだ私に手を差し伸べ勇気を与えてくれた。


 せめて彼女だけでも現実世界へ帰せたら。片瀬さんだって、急に知らない世界へ連れられさぞ困惑しているだろう。しかもゲームの世界なんて、システムトラブルが発生したらどうなってしまうのか、想像するだけで恐ろしい。仮にそれが起こらなかったとしても、無事に帰還できる保証はない。戦闘や事件事故に巻き込まれる可能性が日本より遥かに高いのは間違いないだろう。


 ふと思う。私たちがこの世界へ誘われたのは必然ではなかろうか。森羅万象には様々な宇宙や天体、世界が存在していて、その中の地球という星には多種多様な動植物が生息している。生命活動に必要な水、空気、土、他一切。その中に私たち人間が在る。人間にも様々な思想、風習、習慣、体格、性格、適性があり、必ずしも適材適所とは限らないけれど、各々が背負う責務を遂行すいこうして、ある程度バランスの取れた社会を形成している。それはきっと、各々に存在意義レゾンデートルがあり、ジグソーパズルのように無駄のない世界となるように何か強大な、絶対にあらがえない力が働いているからではなかろうか。


 その概念がこの世界でも共通するとしたら、私たちの存在意義は何か。またはそのようなものなど有りもしないのか。情報があまりにも少ない現段階で結論付けるのは難しい。旅をしながらじっくり推論してゆこう。


 けれど一つ、確実なものがある。良くも悪くも、これは人生の転機。事の運び方次第で、新しい何かを得られる筈だ。ゲームクリアの条件が『豊かで平和な世界の創造に一定の貢献を』ということは、この世界は恐らく未完成で、尚且つ永遠に完成しない。もしかするとプログラムなどという概念さえ存在しないか、私たちもプログラムの一部に組み込まれているのかもしれない。そう、すべては私たちプレイヤーの手によりアップデートされてゆくのだろう。


 さて、コンディショナーを流してトリートメントを馴染ませ、ぼんやりタイムに入ろうかな。あぁ、まどろみへ誘う香りに癒される。


「ふぅ~」


 肩の力が少しだけ抜けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る