第6話 江南炎上


 黥布はまず手始めに賁赫の一族を捕らえ、これをすべて殺害した。この男は、一度決めると残虐になれる。軍人という職務と、自分の人間性を分けることができる人物であった。

 しかし一般的な評価は異なる。

「あの黥布にして、当然のことよ」

 賁赫には同情するが、相手が黥布だったから仕方ない、というのである。この評価は、状況が黥布側に優勢な場合、極めて有効に働く。彼を怒らせたのだから仕方がない、怒らせた方が悪いのだ、という世論に転換するのである。つまり、民衆というものは強者に靡くものなのであった。


「このわしは、民に慈悲深い王者ではなかった」

 黥布は、挙兵を境に自分のことを「余」と言うことをやめた。王者であることより武将でありたいと望んだ結果なのだろう。

「だがしかし、わしがこの江南を愛してきた事実には変わりない。土地だけではなく、そこに住む者も含めてだ。よそ者が支配するなど、あってはならない」

 そのような言葉は、群集の心理を高揚させたことは確かである。しかし、具体的な内容は乏しく、支配者がよそ者でも官吏が優秀でさえあれば、どこの土地でも統治は可能である。また、黥布はこの土地の民を愛したと口では言いながら、賁赫の一族を殺した。殺された賁赫の一族の中には、五歳にも満たない幼児が含まれていたのである。


 不疑はこの一件が、どうにも気にかかって仕方がなかった。あまりにも無情であるように思えたのである。

「不憫かもしれぬが、将来復讐されてはたまらないから仕方がない。幼児にしても恨みを抱えながら成長する人生が幸福だとは言えぬ。可哀想だからと言って、ひとりだけ世に残すわけにもいかん。いったい誰が世話をするというのだ」

 つまり、殺した方が本人にとっても幸せだというのである。それは確かに事実かもしれず、不疑としても明確に反論できる論拠があるわけでもなかった。なんとなくそう感じる、というだけでは論じることの出来ない問題であった。

「これからわしは、無数の人間を死に追いやることとなる。感情に左右されてしまえば出来ないことだ。……決断した以上、徹底しなければならない」

 黥布の言葉は、実際に本格的な戦争を体験したことのない不疑にとって、どれもが「重み」を感じさせるものであった。


 挙兵を宣言した途端、すべてが重厚になった。黥布の表情からは明るさが消え、顔に刻まれた刺青が縁取られたように目立ち始めた。江南特有の日の明るさが減り、りくの空は曇り、すべてが灰色に包まれた。街路を行く人々の姿は、皆背を丸め、急ぎ足になった。彩られていたものがすべて無彩色に転じた。


 年齢を感じさせなかった呉翏でさえも、急に老け込んだように感じた。肌の艶が衰え、顔には憂慮の色が目立った。


 そう、憂慮の色だ。すべてが憂慮の色に包まれている。不疑は、この空気の中で自分がどれほど耐えられるか、自信がなかった。明日にも自分がこの憂慮の色に染められてしまうだろう。いや、すでに染められているのかもしれない。


 そう思うと、気が滅入った。戦いは覇気に満ちた者が勝つというが、一般の民衆や街全体に覇気が満ちるはずもなく、それは当事者たちだけの問題であった。民衆は自衛の手段を持たない。それを考えると、この城市に住む人々の多くは、明日にも死んでいるかもしれないと思い至った。


 軒先で何やら話し込んでいる男女がいる。夫婦らしいが、会話の内容は定かではない。しかしそれは関係ない。おそらく二人とも三日後には死んでいるだろう。


 子供が泣きながら一人で歩く姿を見た。迷子だろうか。いずれ死ぬから、関係ない。


 女性向けの装飾品を並べた小さな店を見つけた。この状況下で稼ごうとする店主の意気込みに恐れ入った。が、どれだけ稼いでも無駄なことだ。どうせ死ぬのだから。


 郊外に足を運ぶと、農作業にいそしむ人々の姿があった。土と堆肥をかき混ぜ、水を与えて種を蒔く。しかし収穫することは出来ないだろう。彼らは死に、農地は敵に踏み荒らされるからだ。


 水路に荷を乗せた船が行き交う。荷の多くは野菜だが、届ける意味はない。この城市の何もかもが明日にも滅び、人々は死滅するのだ。


 すべて妄想であった。たとえこの淮南国が戦場になろうとも、そこまでの事態に陥る危険は少なかろう。不疑はそのことを頭ではわかっていたが、憂慮の色に染められたこの空気が、そう思わせるのだった。


——自分は戦時には耐えられない男かもしれない。

 繊細すぎる感覚が、自身の矮小さを意識させた。このような状況にも毅然として振る舞う黥布を、彼は尊敬さえもした。

「独立といっても、淮南一国だけではすぐ潰されてしまう。よって勢力の拡大が必要だ。わしは旧来の楚地を回復し、それを拠点にしようと思う」

 黥布は力強く言い放った。彼の言う楚地とは、もともと項羽が支配していた土地を指す。つまり、淮南国に楚国、けい国を加えた地域である。


 楚・荊はもともとひとつの国であり、漢が大陸を統一した当時は、これを韓信が諸侯王として治めていた。しかし彼が淮陰侯に降格させられたのち、その国は二分され、西部の楚国を劉交りゅうこう、東部の荊国を劉賈りゅうかが王として治めている。

「地理上、まずは近い荊国を襲うべきだろうな」

 そう述べた黥布は、兵力を結集して荊国に攻め入った。



 荊国の王、劉賈は皇帝劉邦の従兄弟であり、楚漢の争いでも功績を挙げた人物である。つまり単に親戚だという理由ではなく、正当に功績を認められた結果、王位を授けられた人物であった。しかし、韓信や彭越、あるいは黥布などに比べると、その功績や影響力は甚だ小さなものであると言わねばならない。


 その功績とは、楚の重鎮を寝返らせて、漢に味方として引き込んだというものである。その対象は大司馬の周殷しゅういんという人物であったが、この人物を説得して寝返らせたことにより、漢は楚を垓下に囲み、この戦いに勝利したのである。

 垓下で包囲された項羽は、敵の陣営から聞こえてきた楚の歌に衝撃を受けた。敵であるはずの漢軍の中に、楚人が多く含まれていることに驚いたのである。世に言う「四面楚歌」の場面だが、劉賈の功績はこの出来事の一因としてあげられる。

 しかし劉賈は楚の大司馬周殷を説き伏せる任務を一人でこなしたわけではなかった。つまり協力者がいたわけだが、その協力者こそ黥布だったのである。


「劉賈の態度次第では荊国は滅びることになるな。昔の同僚のよしみでこちらに味方してくれると万事ありがたいが、無論そうはなるまい。漢に義理立てして必死に抵抗するだろうよ。しかし言わせてもらえば、劉賈などわしの敵ではない」

 黥布は自信満々に言ってのけた。不疑が内心で怯えていることになど気付かない様子である。

「では、荊国は滅びることになるのですか」

「さっきわしは『奴の態度次第では』と注釈をつけたが、実際のところ荊国の滅亡はもはや既定の事実だ。態度でどうこうなるのは、奴の命の方だろう。劉賈が死を賭してまで漢に義理立てして戦うかどうかが見物だ。あるいはそれによってわしの漢に対する見方も変わるかもしれない」

 黥布はこの戦いに関して、負けることをまったく考えていなかった。それが慢心ではないことが、間もなく証明されることとなった。


 淮水を東へ辿ると、南岸に盱眙くいという城市が存在する。対岸には韓信由来の淮陰があり、かつては項羽の傀儡による懐王が首府を置いた土地である。川や湖が入り乱れるように位置するこの城市は守備に適しており、劉賈は荊王としてこの盱眙に首府を置いた。しかし黥布は委細構わず、盱眙を攻めようと布陣したのである。周りを川が流れていようが、山に囲まれていようが、城市そのものを囲んでしまえば問題とはならない。


 城門は固く閉ざされ、堀に架かる橋は跳ね上げられたままであった。つまり、劉賈はかつて同僚であった黥布に与せず、朝臣としてこれと戦う意志を見せたのである。

「籠城すると見せかけ、どこかに兵を隠しているかもしれぬ。周辺に注意しながら、城門を破壊せよ」

 黥布の指示が飛ぶと同時に、城壁の上から矢が浴びせられた。荊国の兵は、ここで淮南軍を一兵ずつ潰すつもりである……そう直感した黥布は、伏兵の危険はない、と判断した。

「劉賈は、戦術に長けた男ではないな。迎撃の仕方が年寄り臭い」

 劉賈は劉邦の従兄弟であるが、劉邦よりも年上である。黥布はそのことを言っているのであろうか。

「老練だ、という意味ではなく?」

「兵数ではさして差がないゆえ、正攻法にこだわっているのだろう。正面を固く守って、我々の勢いが衰えるのを待とうとしている。だが、往々にして正攻法には無駄が多い。わしが劉賈だったら、堀の水の中にでも伏兵を忍ばせておくのだがな」

 さすがにそれは無理ではないか、と思った不疑であったが、意外にも黥布は本気のようであった。

「しかし、油断は禁物だ。こちらが楚兵であれば、あちらも楚兵。どちらも精鋭ということであれば、指揮官の差が勝負を決することになる」

 黥布はそう言うと、城内に火矢を浴びせかけた。

「相手が勇猛な兵であるほど、我慢できずに自ら門を開く。我々は仕掛けるだけで、待っていればよい」

 楚兵のすべてを知り尽くす黥布には、その弱点も見えているのだった。しかしこれは、極力自軍を疲れさせず、その損耗を抑えようとした戦略であるとも言える。敵が正攻法にこだわっていると見抜いた瞬間に、それを判断できる冷静さは流石だった。


 黥布はかつて楚軍に在籍し、項羽の下の将軍であった。そのころに下された命令が、秦の投降兵二十万を抹殺せよというものであった。これは史上稀に見る残酷な虐殺劇であったが、それは任務を遂行した黥布の能力が並外れていたからこその評価である。

 二十万の秦兵たちは、あくまでも兵であり、武器を持たぬ一般の民ではない。したがって黥布はあえて夜中に作戦を決行し、彼らを断崖へと追い詰め、谷底へ叩き落としたのである。あたかも無抵抗の弱者を残酷に陥れたかのように評価されているが、それは正しくない。秦兵には抵抗する力があり、武器もあったが、黥布はそれを未発のまま終わらせたのである。周到に計画を練り、味方の血を一滴も流すことなく任務を遂行したのだ。

 感情で作戦を遂行せず、合理性と効率性を追求した戦い方である。黥布が劉賈の戦い方を年寄り臭いと評価した理由は、このあたりにあるのだろう。


 まもなく城門が敵の手によって開かれた。この機を待っていた淮南兵たちは猛烈に襲いかかり、逆に城内への侵入を果たしたのである。



 なおも黥布は火矢の投入をやめない。城内を燃やし尽くし、敵兵の逃げ場をなくす。劉賈に命じられて最初のうちは投石などをして対抗していた盱眙城の民衆は、そのうち姿が見えなくなった。ある者は逃げ去り、またある者は燃え尽きてしまったのだろう。


 炎の中で突き進む黥布の姿は、鬼神のようであった。あらゆるものを燃やし尽くしながら不敵に笑うその姿は、敵味方を問わず、兵を恐怖させた。

「劉賈を探せ! 奴はどこだ」

 黥布は剣を片手に宮殿の中へ悠然と足を進め、兵がそれに続いた。宮殿内もすでに火の手が回り、息をするのも苦しく、危険である。

「裏口から逃げようとしているな……そうはさせん」

 降りかかる火の粉を剣で払いながら、奥へと進むとそこに宮女の一団を見つけた。黥布は兵に命じてそれを殺しつくし、自らも剣を振るった。するとその先に劉賈その人が居たのである。


「黥布よ、貴様は世の悪評に違わぬ男だ。抵抗できぬ女たちをこうも簡単に殺し尽くすとは……。今貴様が殺した者たちの中には、この国の妃もいたのだぞ」

 黥布は感情を見せずに、これに答える。

「恨みを残しては、何かと都合が悪い。女が子供を産めば、将来の復讐の種になる。貴様こそ、女たちに守られて何をしようとしていたのだ」

 劉賈はこの発言に激怒した。

「脱出させようと血路を開いていたのだ!」

 黥布はしかし、劉賈の怒りにまともに付き合わなかった。

「戦争ともなれば、抵抗できぬ女でさえも殺さねばならない。そんな事態を招いたのは他でもなく貴様だ。おとなしく協力すれば女たちはおろか、貴様自身も命を失うことはなかったというのに」


 そこで黥布は兵に弓を引かせ、逃げ場を失った劉賈に向けて一斉に射かけた。しかし劉賈は身を翻して逃走し、黥布たちを驚かせた。


「もう宮殿が焼け落ちるころだ。追いかけながら脱出することにする」

 劉賈は自ら切り開いたという血路を、自分ひとりのために利用した。しかしそれを黥布の一団が追跡のために利用したということは、なんとも皮肉な話であった。

「早く兵をまとめて逃げればよかったのだ。なまじ対抗しようとするから、こうなる。すべてを失うのだ」

 盱眙周辺は川や沼沢が多く、これが劉賈の逃走を妨げた。防衛に適した土地だが、ひとたび敵の侵入を許すと、逆に離脱が困難となる。劉賈は盱眙の隣県である富陵ふりょうで包囲され、数十の矢を体に浴びた。

 劉賈は敗死し、その遺体は炎に焼かれた。しかし首だけは黥布の手にある。これがあらわになったことで、兵は抵抗を諦めた。荊国は黥布の手に落ちたのである。


 劉賈は城門を閉ざして防備に徹するのではなく、情報を得て淮南軍の進路を塞ぐべきだった。野戦に持ち込めば、沼沢が多い盱眙周辺では思うように進めず、淮南軍は苦戦を強いられていたはずだ。また、隣国である楚や斉などに協力を依頼し、侵入してきた淮南軍を包囲すれば、状況はもっと違っていただろう。

 しかし挙兵を宣言してからの黥布の行為は素早く、劉賈に時間を与えなかった。これこそが勝因だろう。黥布は決断するまでは悩むが、決断してからの行動が恐ろしく早い。


 長安にも黥布挙兵の報が入ったが、それはすでに劉賈が敗死してからのことであった。



「黥布が挙兵? 荊国が陥落? 劉賈が死んだだと?」

 蕭何は立て続けにもたらされる報告に目眩を覚えた。謀反が戦争になった瞬間を、彼は初めて目の当たりにしたのだ。呂后は果たしてここまでの事態を予測したのか。あの女の策略のせいで、忠臣がひとり、この世を去ったのだ。

——黥布にしても、対抗されれば殺すしかなかったであろうな……。

 そう考えると、誰を責めるべきか、この責任は一体誰が負うべきものか、思案がまとまらなかった。彼はしかし呂后に相談することはせず、未だ病床にいる皇帝にこのことを報告した。

 劉邦の病状は深刻なものではなかったが、老齢ということもあって無理がきかないようであった。思うように体が動かないことに対する苛立ちと、情勢も思うように運ばないことに対する怒りが、皇帝を包む空気に渦巻いているかのように、蕭何には見えた。

「……黥布が兵を挙げて叛乱だと? 蕭何よ、以前お前が言っていたこととは違う結果になったな。どうしてだ」

 蕭何はうつむき加減に答えた。

「言いにくいことですが、皇妃さまが独自に黥布の元へ調査団をお送りし……謀反の兆しありと断罪してしまいました。捕らえた賁赫を釈放して将軍へ任命するなど、あえて敵対する姿勢を見せたことで、黥布はついに腹を決めてしまったようです」

「……また后か……。しかし荊王劉賈が殺されたとあっては、鎮圧するしかない」

「誰を総大将に任命すべきでしょう。私としては、淮陰侯も梁王も亡き今、適任者を見つけられません。もはや、陛下が親征なさるしか道はないかと」

 劉邦はため息をついた。

「わしか。わしは具合が悪い。いや……」

「どうかなされましたか」

「蕭何。いいことを思いついた」

「なんでございましょう」

「太子だ。えいを対象に任ずる。黥布と戦わせるのだ」

 蕭何は驚きを隠せなかった。

「なんですと? 太子を、あの黥布と?」



「他に誰がいる?」

 劉邦は言ったが、まだ国内には武将がいないわけではない。

「樊噲や灌嬰もおりますし、周勃もおります。酈商も健在です」

「陳豨の叛乱も鎮圧しなければならん。樊噲にはそちらを担当させ、灌嬰を太子の補佐に回そう。酈商は樊噲の補佐、周勃は留守番だ」

 あくまで太子を前面に押し出そうとする劉邦の意志である。蕭何はわけがわからなかった。

「陛下には、恐れながら太子をご廃嫡なさる意志がおありだと思いましたが……それでも太子に手柄を立てさせようとなさるのですか?」

 劉邦は不機嫌そうな顔をしながら、語り出した。

「蕭何よ。朕とお前とは付き合いも長いのだから、朕が言いたいことも本当はわかるはずだ。それなのにわからぬふりをして、あえて朕の口から本音を引き出したいというのか。お前は、ずるい奴だ。斬り倒すぞ」

「お許しを。ですが、私が推測する陛下の本音については、口にするのも恐ろしいことでございます。よってあえてそれをせずに話を続けさせていただきますが、太子を総大将に据えることは、結局黥布に天下を明け渡すことにつながりましょう。陛下にはそれでもよろしいのでしょうか」


 太子劉盈は性格が優しく、軍を指揮したこともない。そのような人物を総大将に据えるということは……結局劉邦は、乱戦の中で太子が命を落とすことを望んでいるのだった。しかし仮にその目的が果たされたところで、漢軍が黥布に敗れてしまっては、王朝がより大きな危機に瀕することになる。蕭何はその危険を説き、劉邦に翻意させようとしているのだった。

「灌嬰がうまくやってくれる。任せればよい」

「ということは、あらかじめ灌嬰に太子の件を言い含めておき、太子に危機が訪れたら、それを見過ごせと命じるおつもりなのですな。総大将の身に危険が迫るような状況で、戦に勝て、と……。とても実現できそうな策とは思えません。何しろ相手は黥布なのですから、危険すぎます」

 劉邦は明らかに機嫌を損ね、口汚く蕭何を罵ろうとしたが、体力が衰えている今では、それも思うようにいかないようであった。

「ひとまずお考えください。しかし早めにご決断いただかないと、黥布は次の行動を起こします。西進して楚に攻め込むか、北上して斉に攻め込むか……。これで終わりのはずがありません」

 蕭何はそのように告げ、ひとまず劉邦のもとを去った。そのうえで呂后にこのことを伝えたのである。


 呂后は黙々と蕭何の意見を聞き、その場では何らの回答も示さなかったという。しかし太子を廃嫡するばかりでなく、その命さえも失わせようかという皇帝の判断に彼女が心を動かさなかったはずがない。太子の存在は呂后にとって権力の礎であり、絶対に守らねばならぬものなのである。

——不本意ではあるが、このたびは皇妃さまのご判断に従うよりあるまい。

 蕭何はそのように思った。戦時においては常に糧食を絶やさず前線に送り、兵員の補給にも力を発揮した彼であるが、内政においては先送りや棚上げが目立ちつつある。大きな混乱を生むことなく事態を乗り切ろうとした結果であろうが、ここで彼が呂后の判断を仰いだことは、どっちつかずの意識の表れであった。人によっては事なかれ主義だと批判することだろうが、彼は絶対権者では無かったのだから、ある程度は仕方のなかったことであろう。

——単純に陛下が善で、皇妃が悪、ということではない。それぞれの決断、行動の善し悪しを判別することこそ、重要だ。

 そう自分を納得させて会談に臨んだ蕭何であったが、呂后は彼に明確な返答を与えなかった。ただひとこと、

「対処します」

 と言うのみである。困惑した蕭何が場を立ち去れずにいると、呂后はもうひとこと付け加えた。

「相国にはもう任せておけませんと、先日言ったばかりです。忘れたのですか?」

 蕭何は要領を得ず、すごすごと退出した。


 その翌々日ともなると、留侯張良のもとに訪問者が現れた。

「会わぬ」

 道引にふけっていた張良はこれを追い返そうとしたが、家令は恐れおののいた様子で状況を説明した。

「それが……皇妃さまの兄君のご訪問で……建成侯呂沢けんせいこうりょたくさまがお見えでございます」

「呂沢……」

 呟いた張良は、ついに来たかと観念せざるを得なかった。いずれ利用されるときが来る、と過去に不疑を相手に話したことがあったが、それが今だと確信したのである。

 仕方なく張良は会談を決めた。しかしその場所は侯爵の屋敷ではなく、道引のための小屋である。貴人を接待するには粗末な施設であり、呂沢を憤慨させることも予測された。しかしこれは張良が決して道引をやめることはないという意思表示であり、呂沢はその説得から会談を始めねばならない、ということである。案の定、呂沢はその状況に戸惑いを見せた。

「噂には聞いておりましたが、まさか本当に穀物を断っておいでとは……。お体の具合はいかがなのですか」

 呂沢は劉邦とほぼ同年代の老齢と言ってもよい年齢である。その彼が自分より年下の張良をいたわるような発言をしたということは、このときの張良の姿がよほど弱っていたことの表れだろう。

「確かに今の体調は万全と言えません。しかし体を風のように軽くするためには、避けては通れない道なのです。どうか、お気遣いなさらぬよう」

 張良はあえて毅然とした口調で言い放った。呂沢が返答に窮するよう、細心の注意を払っている。

「しかし君は常にお上(皇帝)の謀臣たる身でありましょう。いまお上が太子を変えられようとしているというのに、どうして君はそのように自分の好きなことばかりして、枕を高くして寝ていられるのか」

 当然ながら、張良は呂沢によるこの物言いに気分を害した。しかし、相手は皇帝の外戚である。下手に言い返しでもすれば、彼自身が害される可能性があった。呂沢の後ろには、皇后呂雉りょちが控えていると考えておく方がよいだろう。だとすれば、張良は韓信や彭越と同じように、殺されることも覚悟しなければならないのだった。



「楚との戦時中において、陛下はしばしば困窮の中にあり、そのなかで私の策を用いられた。これは私にとっては幸いなことであったと言わねばならぬ。しかし、今や天下は安定し、陛下はその安定の中で……単なる愛憎のために太子を廃嫡なさろうとしているのだ。このような骨肉間の問題で私のような者が百人おったとしても、意見が通るとは思われない。無駄なことだ」

 張良の取り付く島もない言い方に、呂沢は明らかにたじろいだ様子であった。彼としては、張良は味方につけておきたい人物であったのだろう。親身になって欲しかったようである。

「どうか、そのように突っぱねた言い方をしてくださるな。どうか皇妃の意を汲んでいただきたい。このたび陛下は、挙兵した黥布を迎え撃つにあたって、太子を総大将に任じようとなさっておいでなのだ。いろいろな方面から考えても、適格な人選ではない」

 その言葉に張良は内心で動揺した。

——太子を黥布討伐の将軍に任命しようと……?

 まさか皇帝がそのような手段に出るとは思っていなかった張良であった。

——不疑め。何をしているのだ。報告が遅いではないか。

 そう感じたが、しかしこのとき不疑は黥布の側にいたのだから、これは筋違いである。彼は皇帝の側にも情報源が欲しいと、このとき感じたのだった。


 いずれにしても、これは呂沢の言うとおりであると認めざるを得ない。軍事未経験の劉盈をいきなり総大将に任ずるとは、太子廃嫡の目的は果たせても、国が危うい。漢軍が散々に破られ、黥布が皇帝を称する結果になりかねなかった。

「先に皇妃の意を汲んでいただきたいと申したが、どうか留侯には国が危機に瀕していると思って行動していただきたい」

 呂沢はここで協力しないと不忠であるとでも言いたげに、重ねて依頼した。こうなると、張良も知恵を絞らざるを得ない。

「では言うが、このような問題は私などが口でいくら諫めても、陛下は心を動かさない。そこで思うに……陛下には天下に招いて招けぬ人が四人ある。その四人とは、東園公とうえんこう綺里季きりき夏黄公かおうこう甪里先生よくりせんせいといい、商山の四皓しこうと言われる人々だ。ちなみに四人とも老人で、眉から髭まで白髪で覆われていることからそう呼ばれているのだが、建成侯はこれらの人物をご存じか」

「うむ。秦末の戦乱の世を憂い、陝西の商山に入ったという隠士のことだな。それ以上のことは詳しく知らぬが」

「秦末の戦乱期はすでに過ぎ去ったわけだが、この四名は未だに商山に入ったままで、世に姿を現していない。というのも、この四人は皆、陛下のことを傲岸不遜であると思い、漢の臣となることを頑として拒んでいるのだ。しかし陛下はこの四名をいずれも高義の士であるとして、幕下に招きたがっている」

「それをお上に紹介すればよいのか」

 呂沢は息せき切って問い返した。この男には安っぽい焦りが感じられる。国の将来を憂いているのではなく、妹である皇妃に罰せられることを恐れているのか。

——しかし、鈍い男だ。

 張良はそう思いながらも、説明を付け加えた。

「違う、そうではない。ぜひこの四名をあなたの賓客としてお迎えすることだ。金玉璧帛きんぎょくへきはくいずれも惜しまず、なおかつ太子に書簡をしたためさせ、辞を低くし、車を用意して……弁舌の士をもって現在の太子の困窮を説明させれば、かの四人も来ることでしょう。来たらばときどきこれを伴って朝廷へ入り、多くの者の目に触れさせれば、陛下は必ず奇異に思うであろう。そうなれば、陛下説得の一助になるかと思うのだ」

「ううむ……なるほど。太子の側に彼らを引き込むわけか」

「くれぐれも申しておくが、私は無関係ということにしておいて欲しい。これは、君らのような陛下と骨肉の間柄にある者たちの問題だ」

 呂沢は頷き、急に横柄な態度をとった。

「心得ておる」


 張良は小屋を出て行く呂沢の背中を見やりつつ、ため息を吐いた。道引の呼吸はすでに乱れてしまっていた。

——結局、呂后の権勢を後押しする形にしか持って行けぬとは……しかし、他にどうせよというのだ。国が敗れてしまっては、元も子もないではないか。

 そう思うと、次の手を打つ必要に迫られた。すなわち、一度得させた呂后の権勢を失わせるきっかけを作らなければならない、ということである。

 張良は次男の辟彊へききょうを小屋に呼びつけ、指示を下した。

「辟彊よ。お前はまだ幼いが、今から長安へ迎え。朝廷に入り、侍中としての職を得るよう取り計らってやる。そこで朝廷の様子を観察し、その一切を私に報告せよ」

 辟彊は明るく、甲高い声で返事をした。彼はまだ八歳に過ぎなかった。

「わかりました、父上」

「長安に着いたら、陳平のもとを訪ねるがよい。私から紹介状を書いておこう」

「はい」

「お前は頭がよいから、おそらく自分の身も守れると思うが……くれぐれも用心して外から観察することのみに勤めよ。宮殿の抗争に巻き込まれることのないようにな」

 幼すぎる辟彊まで危地に送り込まねばならないとは……と思う張良であったが、このとき彼は苦笑いを漏らした。まったく宮殿が危地だとは、時代も変わったものだ、と。



 黥布は六に凱旋し、劉賈の首をその城中に晒した。極めて残酷だが、敵対する者を糾弾すること自体は間違っておらず、これはこれで黥布らしいと不疑は感じたものである。劉賈の首を罪人のように晒すことで、自分たちに正義があると領民に思わせることが出来るのである。

 しかし、呉翏はこれに不満を漏らした。

「積年の恨みがあるわけでもないのに……怖い」

 確かに不疑も恐ろしかったが、謀反が形になっていくさまを間近で見ることは、不謹慎な言い方をすると、楽しかった。

「敵対した時点で恨みは生じるものです。結局、荊王劉賈は自国を守る能力において、淮南王さまに劣っていたということでしょう」

「あなた、まだ幼くてかわいいと思っていたけど、そんな言い方をするのね。私は、荊王さまが可哀想だと言ってほしかったのよ」

 呉翏は黥布の残酷さに嫌気がさしたのだろうか。しかし、そのような考え方で行動を踏みとどまると、負けるのはこちら側なのだ。

「可哀想だと言ってみても、結果は変わりません。淮南王さまは、すでに追い詰められています。つまり、帝室に殺されないためには戦うしかない状況にあります。あのように敗者の首を晒す行為は……決して淮南王さまの個人的趣味ではないのです」

「どういうこと?」

「あれをすることによって、敵対しようとする者の意志を挫くことができます」

 呉翏はその言葉に感銘を受けた様子を見せなかった。

「じゃあ、王さまが戦いに負けたら……晒されるのは王さまの首になるわけね。帝室に敵対する者はこうなるのだ、などと言われて……ああ、恐ろしい。すべて狂っているわ」

 彼女はそのまま立ち去ってしまった。

 狂っているとわかっていても、立ち止まれない……それが戦争の本質だろう。その原因が謀反であるとすれば、不毛さはなおさらである。反逆者は時代の波に飲み込まれながら、自らが主導していると勘違いし、抜け出せない深みへはまっていく。抜け出すためには戦い続け、勝利するしかないのだ。

 黥布は、まさに深みから抜け出そうとして戦い続ける男であった。彼はこのとき、楚国討伐を宣言した。


「楚の現在の王は、劉交であったな。確か皇帝の弟だ。母親は違ったと思うが」

 黥布は軽く品定めをするように、劉交という男について語った。

「儒者だと聞いたことがあります」

 不疑もこれに応じた。その声には、やや落胆した調子が含まれる。なぜなら、儒学とは極めて革命に不向きな学問だからだった。

「儒学とは、帝王にへつらい、その権力をさらに増強させようとする学問だ。劉交のやつは皇帝の弟だから、その意思はさらに強いだろう。降伏を説得しても難しいだろうな」

「おそらく」

 不疑は頷いた。本来であれば彼は観察を義務とするはずであったが、このところ黥布の謀臣のような存在になりかけている。彼もそのことを自覚していたが、やはり抜け出せないのであった。

「荊国の兵を合わせ、兵力は倍となりました。援軍が来ないうちに攻め込めば、占領は難しくないでしょう」

「楚を合わせれば、江南に覇を唱えることが出来る。そうすれば念願の独立を勝ち取ることも可能だ。下邳かひを攻め、劉交を虜にしよう」

 もはや止まることは出来ない。黥布は突き進むことしか出来なかった。


 楚王劉交は劉賈が籠城した結果、滅んだことを知っていた。彼は兵を鼓舞して出兵を促し、じょ県とどう県の間で淮南軍を迎え撃つ態勢を整えた。その際彼は軍を三分し、それぞれが助け合い、かつ敵の意表を突く作戦を遂行しようとした。

 しかし、それに異論を唱えた者がいる。

「黥布は兵を使うのがうまく、民衆は日頃から畏怖しております。それに兵法にも『諸侯が自国の領域で戦えば壊滅しやすい』とあります。今、軍を三分すれば、敵が我が一軍を破ると、他の二軍はみな敗走するでしょう。互いに助け合うなど、望めないことです」

 正論であろう。しかし、劉交はこの進言を受け入れなかった。彼はよく整えられた、先に至るにしたがって細く尖っていく顎髭を撫でながら、思案を重ねたという。

 実は、劉交のもとには朝廷から策が示されていた。彼はその策をもとに、極力損害が少なくて済む戦法を選んだのである。


 進言の内容のとおり、黥布によって一軍が破られると他の二軍は散り散りになって逃げ去った。黥布は勢いに乗って楚国領内を突き進んだ。一見するばかりでは、誰にも止められない勢いだったように見える。


 しかし、彼は踊らされているのであった。

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