第5話 叛逆の理由


 黥布は気まぐれに呉翏を呼び寄せ、酒の相手をさせる。しかしそれは毎夜のことではなく、あくまで彼の気が向いたときだけである。その野性的な外見に反して、黥布はそれほど女好きではなかった。これもやはり過去に親族を皆殺しにされた影響だろうか、と不疑は考えたが、黥布に直接尋ねるわけにはいかない。触れてはいけない問題だと思ったからである。


 一方、呉翏がそのような黥布の態度に不満を示すこともなかった。むしろ彼女は黥布が自分を自由にさせてくれていると思い、護衛をつけずに城外へ出かけることもしばしばあったくらいである。

 あるとき彼女が体調を崩し、医者にかかることとなった。最初のうちは呼び寄せて診察させていたが、やや具合がよくなると自ら医者の家を訪ねて診てもらうようになった。生来の行動欲が、彼女にそうさせたらしい。


 だがさすがにこのときも付き添いなしに、というわけにはいかず、侍中の賁赫ひかくという人物が供をすることになった。その理由は、賁赫の家が医者の家と向かい合っていたからである。もともと顔見知りだから何かと都合がよかろう、その程度の人選であった。


 賁赫は呉翏のお供として医者に丁重な贈り物をし、診察が終わると三人で酒を飲み交わした。賁赫による侍中としての丁寧な対応であったが、一説には呉翏がそのような場を設けることを望んだ、とも言われる。彼女の社交的な性格が、そのようにさせたのだった。


 一方黥布は、呉翏が体を壊したことも、医者にかかっていることも知らない。自由な行動を許していたこともあるが、呂后から彭越の肉が届けられたことを受け、それどころではなかったのだろう。

 不疑は呉翏と面会した際に、黥布にこのことを告げるべきではないか、と提案したが、呉翏は、

「構わないのよ」

 と、取り合わなかった。彼女曰く、このようなことで王さまの気を乱したくない、私自身も縛られたくないのだ、と。相手にされないことで黥布に腹を立てている様子は微塵もなかった。


「中大夫賁赫さま(侍中の官名)が、お医者様へのお礼も存分に取り計らってくださいます。私は少し風邪をこじらせただけだから……」

「それなら良いのですが。ですが私としては、いまは淮南王さまのご様子が気がかりなのでございます。できることなら体調を整えて淮南王さまのおそばにいていただきたいと思います」

 それを聞いた翏の表情が、深刻なものになった。そうすると幼さが消え、意外に大人の女らしい雰囲気が漂うことに、不疑は気付いた。

「やはり、政変の兆しがあるのね。貴方も関わりがあることなのでしょう。先日、宮中の噂を耳にしました。不疑さま、あなた審食其に狙われているのですってね」

 不疑は絶句した。返す言葉が見つからず、しばらく呆然とした。呉翏は、その様子を見て不安に駆られたのか、不疑の手を取りながら話し出した。

「あなた、大丈夫なの? 審食其という男について私は詳しくは知らないけど、皇妃さまの取り巻きだということくらいは知ってる。そんな人に命を狙われるなんて……。あなた、何をしたの?」

 不疑はどぎまぎとしながら、とりとめのない答えを返した。

「……私自身は何もしていません。ただ、私は留侯張子房の息子であるので、その行動を常に監視されているのです」

「監視されているだけ? 命を狙われているわけではないの?」

 不疑は翏に握られた手が気になって、一層落ち着きを失った。

「今のところは……。淮南王さまの影響力の強さによって、彼らもこの地には入ってこられませんから」

 不疑がそこまで言ったところで、翏は手を離した。

「私は、あなたがこの地に来たことで王さまに災難が降りかかるものと思っていたわ。どうもそういうことではなさそうね。……安心したわ」

 不疑は翏のその物言いに、若干落胆したような口ぶりで応じた。

「……ご迷惑はおかけしません」

 手を握りしめられ、やや興奮したのかもしれない。不疑は、翏が自分を心配したのではなく、黥布のことを気にかけていたことに、嫉妬に似た感情を覚えた。

 しかし、それを表に出してはいけない。彼は観察者であり、当事者たちと深く関わるわけにはいかなかった。


「淮南王さまのお気持ちを癒やしていただきたいのです。漢建国の三大軍功者のうち、あのお方が生き残っている最後の一人となってしまいました。そのお立場は、あまりにも微妙であると言わねばなりません」

「他の二人は謀反を起こしたから罰せられたのでしょう? 王さまは、そのようなことをしないわ」


 不疑は翏の態度に呆れた。黥布を信じていることはわかるが、あまりにも状況を把握していない。

「淮陰侯は周囲から圧力をかけられ、謀反を起こすしか自らが生き残る道がありませんでした。梁王は謀反の罪をでっち上げられ、無実の罪を着せられました。陥れられたのです。淮南王さまにも同じような運命が迫っている、と申し上げねばなりません」

「では……あなたはそれを阻止するために、この地に来たというの?」

 不疑は、言葉に詰まった。彼は喋りすぎたのである。自分の幼さを実感した瞬間であった。

「いえ……残念ながら、私にそのような力はありません。ただ、帝室の横暴さを記憶にとどめ、それを将来の武器にするために、ここに来たのです。申し訳ありません……これ以上のことは申し上げられません」

「そうなの……」

 詳しい内情を告げずに切り上げた不疑であったが、かろうじて呉翏には事態が深刻であることは理解して貰えたようだった。彼女は決意したかのような表情を見せ、

「わかりました。できるだけ王さまの前で、明るく振る舞いましょう。私に出来ることは、そのくらいでしょうから」

 と、述べた。

 不疑は、わけもなく心が軽くなったことを感じた。



 それから数日の間、呉翏は意識して黥布の傍に立っているようであった。そのことを褒めたり、あるいは咎めたりはしない黥布であったが、本来なら刺青の影に隠れて見えない彼の表情は、和らいでいた。少なくとも、不疑はそう感じたのである。

——この調子で、何も起こらなければよいのだが……。

 不疑は、本気で何も起きないのではないかと考えた。呉翏の明るさは、その存在だけで場を和ませるのである。まったく、天下を実際に動かすのは男であっても、その男を統制するのは女である、とまで感じた。

 しかし感情のもつれというものは、意外なときに、ちょっとした弾みで引き起こされるものである。このときも黥布と呉翏の間には幸福に満ちた空気が存在し、波乱が起きる予兆などはまったく見受けられなかった。

「王さまは、よい臣下ばかりで幸せでございましょう」

 ともに昼食をとりながらの会話で、呉翏はそのような話題を選んだ。

「よい臣下? ううむ……誰のことを言っているのだ?」

 黥布には具体的に思い当たる人物がなかったらしく、怪訝そうな表情で聞き返した。一方の呉翏には特に変わった話題を提供した意識はなく、快活な調子でこれに応じた。

「誰それが特別に、ということではございません。皆さん良いお方ばかりです。特に中大夫の賁赫さまは、職務に忠実ですし、人当たりも良くて心配りが出来る、本当に良いお方です」

 呉翏は賁赫に世話になったため、その栄達を望んでこのようなことを言ったことは、容易に想像できることだった。しかしこのとき、黥布は違う捉え方をしたようである。

「……なぜ、お前が賁赫の為人ひととなりなどを知っているのか」

 やや機嫌を損ねた様子が黥布の表情からうかがえたので、呉翏は説明の必要性を感じた。そこで、自身が体調を損ねて医者にかかった際のいきさつを、すべて黥布に話した。

「余の知らぬところで、お前は賁赫と仲良くしていたわけか。そういうのを、世間では密通というのだ」

 思わぬ黥布の反応に、呉翏は慌てた。

「やましいことは何もしていません。賁赫さまは、ただ親切にしてくださっただけです」

 やりとりを傍で聞いていた不疑も、これには驚き、

「淮南王さま、何もそのような一方的なご判断をなさらずとも……」

 と仲裁を試みた。だが事態の緊迫に気が焦り、口上はしどろもどろなものにならざるを得ない。

「一方的だというのであれば、公平を期すためにもう一方の話を聞くまでだ。賁赫をここに呼べ! 奴の口から真実を聞こうではないか」

 黥布は強く言い放った。意外なことに彼はこの問題に執着し、曖昧な決着を許さなかった。呉翏も不疑も、なぜ彼がこれほどこだわるのか、理解できなかった。

「王さま、私は決して不貞などしておりません」

 呉翏の顔が青ざめている。もはや泣き出す寸前であった。

「たとえそうでも、賁赫に下心がなかったかどうかはわからぬに違いない。だから、それを聞き出してやるというのだ」

 しかし、このとき賁赫は病気と称して姿を現さなかった。配下の者たちが彼の自宅まで呼びに行ったが、すでにそこはもぬけの殻だったという。

「逃げただと!」

 こうなっては、もはや事態は収拾不可能である。動機はどうあれ、賁赫は自らの潔白を主張することなく、逃走した。結果的に呉翏よりも黥布の方が、人を見る目があったということになったのである。


 それを自覚した呉翏はついに泣き出した。地に跪き、詫びて言う。

「私を罰してください」

 黥布は配下に対して、逃げた賁赫を追うように命じると、呉翏に告げた。

「男の下心を見抜けぬとは……このうつけ者め。以後は宮殿の外に勝手に出ることを禁ずる。常に余の目の届くところに居よ」


 黥布は呉翏を下がらせると、深くため息をついた。傍らの不疑は、どう声をかけるべきか迷ったが、結局話を蒸し返すしかなかった。

「どうして、その賁赫という男の行動が怪しいと思ったのですか」

 しかし黥布は首を横に振って、否定の意を示した。怪しいという確証は何もなかった、ということであろう。

「……単なる余の嫉妬心だ。あえて言うならば……女に取り入って栄達を望もうという男にろくな奴はいない、という思いもあるが……。いや、それは後からつけた理由に過ぎぬ。余は、もうこれ以上他人に奪われたくないのだ。財産や土地はあとから取り返せるが、人の心はそうはいかない。知っていることと思うが、以前に余は大事にしていた者たちをすべて失ったことがある。心ばかりか、命そのものを……。また同じような経験はしたくないという思いが、嫉妬につながったのだろう」

 黥布が楚から漢に鞍替えした際に、親族をすべて失ったことは、不疑もすでに何度か耳にしている。しかし今さらながら、その経験が黥布自身に及ぼした影響の強さに驚かされた。


「一度聞いてみたいと思っていたことなのですが」

 不疑は、口を開いた。この質問への答えを聞ける機会は、今しかないと感じたのだった。

「一族を失うことになって……漢を恨む心はないのですか? 楚に属したままであれば、安泰な地位を保てたと思いますが」

 黥布はこの質問に対して、またも苦笑いしたようであった。刺青によって表情が隠されていなければ、もっと彼の自嘲的な表情が拝めたことだろう。

「恨んでどうなる。過去に余が仕えた楚は、すでに滅びた。そのまま仕えていれば、余もともに滅んでいたことだろう。漢に仕えることによって、余は家族を失ったが……自分自身は生き残ることが出来た。すべて失ったが、まだ自分自身だけは残っている」


 ここで黥布は言葉を句切り、ひとしきり自分の頭の中を整理している素振りを見せた。

「しかし自分だけ生き存えたことは、ある意味では地獄だ。余は、見た目ほど冷酷な性格ではない。失った親族のことは、常に余の胸の内に暗いもやとなって存在している。苦しいのだ。……よって、余はいつかこのことに対して決着をつけたいと望んでいるのだが、まだその方法は見つかっていない」


 黥布の嫉妬心も、理解できたような気がした。しかしこのあと賁赫の事件は単なる男女の愛憎の問題以上の展開を見せる。不疑は、ほんの小さな出来事が世界を震撼させることもあるのだ、と痛感したのだった。



「賁赫の足取りは掴めたのか」

 配下の者たちに問いかける黥布であったが、自分の怒りの原因が嫉妬に過ぎないことを知っている以上、見つけたあとの処置に困っている様子であった。

 しかし、報告を受けた彼の表情は、次第に険しさを増していった。

「賁赫め……」

 そう呟いた黥布は、さらに追うよう部下に命令すると、机の前で頭を抱えた。

「どうなさったのです」

 頭を抱えた王の姿を直視するには気が引け、不疑は階下から声をかけた。

「不疑どのか。……困ったことになった。賁赫は長安へ逃走しているとのことだ。どうやら、余のことを討つよう朝廷に訴えるつもりらしい」

 不疑は驚きのあまり声が出なかった。きっかけは些細な出来事であるにもかかわらず……賁赫は果たしてそこまでするのか、と。

「下心を見透かされて破れかぶれになったと見える。だが、余にとっては大きな痛手だ」


 もともと黥布のような異姓の王の存在を快く思っていない朝廷に、討伐の口実を与えることになる。そもそもは呂后が彭越の肉を燻製にして挑発したことから始まったことだが、国境の警備を厚くし、軍備を増強したことなどを、すべて朝廷に対する叛意だとされれば、いくら否定しても無駄なことだろう。

「叩けば埃が出る、とはこのことだ。余は、申し開きなど出来ないだろう」

「と、いうことは……?」

「いざとなれば、戦うしかない」

 黥布は迷いを振り切るように言った。


 黥布配下の武士たちが必死の思いで賁赫を追ったが、賁赫は駅ごとに馬を乗り換え、一足早く長安へ潜入した。無論長安城内では黥布の権威など使い物にならず、武士たちは賁赫追求を諦めざるを得ない。こうして自由の身となった賁赫は、急ぎ朝廷に書状を奉った。黥布の謀反を訴えたのである。


——淮南王黥布には謀反の証拠がある。ことを起こす前に処断した方がよろしい。

 そのような内容の書面を受け取った皇帝劉邦は、周囲に意見を求めた。帝室の意を忖度する者たちは、ここぞとばかりに黥布討伐を進言する。しかし劉邦自身は、決して戦乱を望んでいるわけではない。皇帝が異姓の王を潰そうとしていることはわかっていても、その優先度を実際に理解している者は非常に少なかった。


 その数少ない理解者のひとりが、相国しょうこく蕭何しょうかである。彼は、ことさら事件を過小評価して、事態を穏健に収めようとした。

「なに、今の黥布に叛乱する理由などありはしません。おそらくは彼に恨みを持つ者が、事実を捏造しているに違いありません。賁赫などは牢にぶち込んでおき、密かに淮南に使者を送り込んで事実を調査するのがよろしいでしょう」

 蕭何などにとっては、賁赫こそ憎し、であった。帝国内には無駄な騒乱を巻き起こし、自分の身を立てようとする輩が多く存在する。しかも多くの場合、動機は極めて個人的なものに相違ないのだ。賁赫もその類いだと直感したのである。


「陛下におきましては、韓信や彭越が誅殺された際のいきさつも覚えておいででしょうが……あのときも自らの身だけを守ろうとする輩が、自分の罪を彼らに着せる形で事態が推移したのです」

 劉邦は不機嫌な表情を示した。口をへの字に曲げたらしいが、それは彼の長い髭によって隠され、はっきりとは見えなかった。

「韓信誅殺については、すべてわしの留守中に処理された出来事であったし、彭越に関しては彼の太僕がまことしやかな報告をよこしたので、わしはそれを信じたのだ」

「韓信は、自分の家令が不正を犯していることを知り、罰しようとしました。その刑を恐れた家令の弟が、彼の謀反の計画を密告し、すべてが明らかとなったのです。この私も彼の誅殺に手を貸しましたが、その行為が今でも正しかったのかどうか……確信が持てません。少なくとも陛下がご帰還になるまで、判断を保留した方が良かったのではないかと……今でも自責の念に駆られています」

「韓信の狙いは、后と太子を虜にすることだった。后は自分の命が狙われていることを知って、半狂乱の状態だったのだ。表面上は大物らしく、落ち着いた態度をとっていたが……やったことは半人前の仕業よ。后めの半端な仕事のおかげで、わしの国家構想は崩れつつある。わしは、確かに異姓の者が王を称することを好まないが、建国に功績があった者については、充分な報酬を与えたいのだ。そうでなければ、彼らが満足するわけがなかろう? 彼らの保有する武力は国を作る力もあるが、同時にそれは国を破壊する力でもある。そのような理屈がわからないわしではないのだ」

 蕭何は首肯した。

「ええ。わかります」

「しかし、后めはそのことをわかっていない。楚を滅ぼし、項羽を倒して、ようやく戦いが終わったというのに、あやつはむやみに人を粛清しようとする。皇妃たる自分よりも功臣が重宝されることが許せないからだ。まったく女というものは……わしは后を止められぬ。蕭何、どうしたらよかろう?」


 蕭何はもともと温厚篤実な人柄であったが、それでも思い出すと怒りで体が震えるようなことがある。呂后に命じられて淮陰侯韓信を処刑の場に引きずり出した経験は、まさしくそのひとつであった。

「私にも皇妃さまは止められません。淮陰侯誅殺を阻止できなかった私です。いざ皇妃さまがその気になってしまえば、もはや止めることは不可能でしょう。しかし皇妃さまが決断する前に、陛下が先手を打てば……対応は可能かと思われます」

「……先手を打つ? どのような」

「黥布はりく(地名)に縁の深い人物です。彼を六侯となさるがよろしいでしょう。封地は削られますが、帝室がまだ彼を見捨てたことにはなりますまい。事情を話し、陛下のお考えを彼に理解させることが重要です。おそらく、彼は我慢してくれるでしょう」

「ううむ……」



 蕭何の発案によって、淮南国に朝廷から使者が送られた。その任務は、内偵と黥布の説得である。しかし使者は、戦略上のことなのだろう、すぐに黥布を列侯に格下げする話を持ちかけたりはしなかった。

「この六を始め、淮南は緑豊かな土地ですなあ。長安はどちらかというと乾いた雰囲気でして、目に見える風景の色が淡いのです。砂っぽい長安よりも、人に優しい」

 使者は自らを朱石しゅせきと称した。黥布には初対面の人物であったが、非常になれなれしい態度が印象に残る男であった。しかし、黥布は気にしなかった。彼が朝廷からの使者として望む者は、過去に貸借の関係がない人物である。例えば、楚から漢への鞍替えの際に力を借りた随何などに来られて、昔のことを蒸し返されると非常に困るのだ。そのため、黥布にとって朱石は使者として望ましい人物であった。

「朱石どのは、生まれも関中なのか? この土地に来たことは初めてか」

 使者は、こくりと頷いた。彼は周囲を見回しながら、感嘆するように述べた。

「城門の前に川が流れておりましたが……あの川の両岸に並ぶ柳の姿が誠に美しい。夏はあの柳の下で川を見ながら涼みたい、と心から思います。ところでご質問の件ですが、私はまさしく関中の生まれで、いわゆる秦人です。秦が滅んだことは誰もが承知のことと思いますが、実際にその地で暮らしている人民にとっては、毎日が恐怖の連続でした。いつ殺されることかと思いましてねえ……」

 黥布にはこの男が暗に自分のことを非難しているかのように思えた。彼は、楚の将軍であった時代に、捕虜としていた秦兵二十万人を生き埋めにしたことがあったのだ。

「関所が次々に破られて、漢の兵が関中に押し寄せてきたときは、生きた心地もしませんでした。あのときの指揮官は……今は亡き淮陰侯でしたが、当時はただ恐ろしいという印象しかなく……」


 想像に反して、朱石は関中が漢によって征服されたときのことを語っているようであった。黥布は、わけもなく安心する自分の存在に気付き、吐き気がした。

——余の覇気も地に墜ちたものよ。過去の自分の行為に言及されることを恐れるとは……。

 そのような思いを抱いたが、まだ彼はそれを心の隅に閉じ込めることが出来た。それが可能な限り、戦うことが出来るだろう。

「私は未だ若輩者でして、前線で戦った経験がないのです。関中が漢の支配下にはいったとき、ようやく成年して宮仕えするようになりました。そこで運良く相国さまに見出されることとなったのです」

「相国? 蕭何のことか……ふん、なるほど」

 黥布はほとんど漢の内政に関わったことがない。それゆえ、蕭何と懇意であった事実はなく、その名を聞いても恐れることはなかった。しかし、彼には知っている事実がひとつだけある。

「相国蕭何は、かつて自分が見出した淮陰侯韓信の誅殺に手を貸したそうだな。味方だと思わせておいて相手を欺き、死に追いやる……。その対象が淮陰侯のみならず、この余にも当てはまる可能性は否定できまい。ひょっとしたら使者どのも、蕭何から何か言い含められて、余を欺こうとしているのではないか?」

 朱石には、そのようなことを言われても動じる気配がない。彼は、にこやかな笑顔を見せながら、次のように答えた。

「ええ、確かに言われていることはございます。ですがその前に、現状を把握しておきたいと思いましてねえ」


 現状とはつまり、黥布が今何を考え、どのような行動を望んでいるか、ということだろう。朱石は公然と、相手に向かってその腹の中を探りたい、と言っているのである。

「酒でも用意しよう」

 黥布はもともと決断が慎重な男で、物事を決めるまでに多くの時間をかける傾向があった。熟考に熟考を重ねるのだが、それだけに相手と駆け引きをするような会話は好まない。謎かけのような会話は、彼のもっとも嫌うものであった。

「朱石どのは、この六を気に入ってくれたようだが、淮南にはさらに良いところもある。寿春じゅしゅんは古来からの楚の首府であり、もとの名をえいといった。ここ以上に水が豊かな土地で、郊外には淮水が流れ、大きな湖もあるのだ。このためこの地は昔から農業生産が盛んで、飢えることが少ない。しかし淮水はたびたび氾濫することがあって、その治水をよくすることが施政者のつとめなのだ」

「なるほど」

 相槌を打ちながら、朱石は酒を口に運んだ。一口それを味わった途端、彼は感嘆のため息を漏らした。

「酒もうまい。水が良いからなのでしょうなあ。実にすっきりとした味わいで飲みやすいことこの上ない」

「気に入ってくれましたかな。お望みとあれば、帰りに土産として酒樽を持たせましょう」

 そう言いながら、黥布は屈託のない笑顔を見せた。それは、傍らで様子を眺めていた不疑にも初めてみせるような爽やかな表情であった。


——淮南王が何よりも大事にしているものは、この土地なのだ。彼は、この地を深く愛している。


 不疑がそう感じたのだから、おそらく察しの良い朱石は、そのことに気がついただろう。察しが良くなければ、使者は務まらない。

「この酒を樽ごといただけるとあれば、是非ともお願いしたいですな。関中のみならず、黄河の流域では、このような酒など味わえますまい」

 それを聞いた瞬間、黥布は実に誇らしげな表情を見せた。江南に生まれた楚人としての矜恃を、朱石はうまくくすぐったのだ。

「ここは美しい土地だ。余にとって、何物にも代えられない。戦乱の世を生き抜いてこの地に永住できることは、余にとって望外の幸せである、としか言いようがない」

「なるほど、淮南王さまのお気持ちがよくわかりました。そのうえでひとつお聞きしたいことがあるのですが」


 どうやら会話の主導権は朱石が握ったようであった。しかし、黥布はそのことに気付かない。

「伺おう」

「皇帝陛下が異姓王を廃し、劉姓を持つ親族を王位に就けようと画策なさっていることはご存じのことと思います。淮南王さまは、紛れもなく異姓王でございますが、ご自分のお立場についてどのような展望を持っておられるのでしょうか」


 いよいよ核心に迫る質問が、朱石の口から発せられた。不疑は、黥布がこれにどう答えるのか興味を持った。彼にはどうしても聞くことの出来ない質問だったからである。

「……展望と言われても、ひとことで答えるには難しい問題だ。しかし、そのことについては余も常に考えており、正直に言えば、頭を悩ませてきた。……まず第一に言うべきことは、余には世嗣せいしがおらぬ。これについては周囲からいろいろと意見されたが、あえて余はそれに従わなかったのだ。よって、英氏による淮南の支配は……余の代で終わることになろう」

「それは、皇帝陛下の意志を慮ってのことなのでしょうか?」

「そのことについては、結果的に余の考えが、陛下の意志に都合良く合致したと言うべきだろう。つまり余は、漢に味方することによって親族のすべてを失ったことに……ひそかに恨みを抱いている。しかし現在の余の地位は、そのことによって得られたものなのだ。この点については漢に感謝している。この美しい土地を治めることができるのだから……。余が世嗣を作らなかったのは、一人だけ生き残ったことに対する贖罪のつもりである。そして王を称しているのは、漢という王朝に余の献身を認めてもらいたいという意思の表れなのだ」

 しかし黥布は、それを自らの代で終わらせようとしている。これは、潔い身の引き方だと言えるのではないか。

「もし、王さまがご存命なうちに身を引くご決心をされれば、この先も安泰な生活を送れましょう。新たに世嗣を迎えることも、可能です。どうか……王位を返上なさって列侯の地位をお受けなさいませ。相国は、六侯の称号をあなた様のためにご用意なさっております」



「……それも良いかもしれぬ」

 驚いたことに、黥布は朱石の提案を受け入れようとしていた。

「しかし、まだ決めたわけではない」

 当然であろう。黥布は、そこまで軽率な男ではない。

「世嗣の件はともかく、余は朝廷から『安楽に過ごせ』と言われることを欲している。武勇で身を立てたが、いたずらに天下に争いを求めるわけではない。朝廷が余を侯爵に貶めても、以後不当な介入をしないと約束するのであれば、余はその条件をのんでも良いと思う。……さしあたり朱石どのに伺いたいのだが、賁赫はどうなっているか」

 朱石は答えて言った。

「天下をいたずらに擾乱させる者として、牢に入れてあります」

「正しい判断だ」

 黥布は満足そうに微笑んだ。この様子では、本当に六侯という地位が彼に与えられることになるのではないか、と不疑は感じた。

 しかし、そう簡単にはいくまい、とも感じた。黥布自身が六の統治だけに満足するとは限らない。六侯に収まるということは、隣県の寿春を手放すということなのだ。彼が生まれ育ったのは六であったが、東周時代の古くから栄華を極めた寿春を、彼がそう簡単に手放すとは思えなかった。

 また、黥布に六侯の地位を与えるという策は、主に蕭何によって提案されたものらしいが、それが朝廷の総意を示しているとは考えられない。かつては、皇帝の決断が皇妃によって変更させられる事態もあったのだ。記憶に新しいところでは、彭越の処刑である。

「使者どのには、余が前向きに検討していることを相国に報告してもらい、そのうえで様子を見よう。余が決断したとて、この先何が起こるか予測は出来ないゆえ……」

 黥布はそう言って会談を締めくくった。この時点での賢明な判断であったが、結果的に事態はやはり彼の望まぬ方向に流れていったのである。


 長安の宮廷では、朱石の報告を受けた蕭何が、満足した微笑を浮かべていた。

「考えていたとおり、黥布は慎ましい男でした。自分の代で血統が途絶えることが明らかな以上、広大な土地を求める必要もないことに、彼は気付いていたのです」

 これに答えた皇帝の声はしわがれていた。

「確かなことなのか。黥布はもともと荒くれ者で、道理よりも野望を優先させるような男だと思っていたが……蕭何の見立てに間違いはないのか」

「黥布が本当に野心に満ちた男であれば、楚に属していた時代に項羽を倒して自らが覇王を称していたでしょうし、現在も陛下の下の地位に甘んじているはずがありません。私の目から見て、黥布はあれで自分の立場をわきまえている男だと思います。……ところで陛下、お声の調子が良くなさそうですが、大丈夫なのですか」

 劉邦は咳き込んだ。どうやら体調は本当に良くないらしい。

「蕭何、わしも年をとったよ。かつて広武山こうぶさんで項羽に射られたときは、気力で自らを支えることが出来たのだが、最近はほんの風邪のような症状さえ跳ね返すことが出来ぬ。あのころの体力が今、ありさえすればなあ……」

「陛下のお体は、今や陛下だけのものではありません。どうか、養生なさってください」

 劉邦はその言葉を聞き入れ、寝所に向かった。それを見計らったかのように、蕭何は呂后から呼び出しを受けた。嫌な予感がしたが、彼は断れる立場にない。皇帝を見送ったその足で、呂后の部屋へと向かった。


「皇妃さま……ご機嫌うるわしゅう」

 蕭何でも呂后と会う際は緊張するものである。それだけ、この女はとんでもないことを言い出すことが多いのだ。皇帝は、よくこのような女を妻としたものだと思わざるを得ない蕭何であった。

「淮南に送った使者が帰ってきて言うことには、黥布が列侯への降格を望んでいるとか。事実ですか」

 蕭何は、呂后の自分を見据える目を意識しながら、それを避けようと努力した。なるべく視線を合わせぬよう、床を見ながら答える。

「本人が進んでそうしたいといっているわけではなく、こちらから提案したのです」

 呂后は、それに対して吐き捨てるように言った。

「何を馬鹿なことを言っているのです。本人の意志はともかく、あの黥布は王朝を転覆する能力と、武力を保有しているのです。口実を設けて処断することこそ、王朝安泰の道なのですよ。なぜそうしなかったのですか」

 蕭何は、呂后の考え方に内心で呆れた。この女は淮陰侯を殺害したときと同じ論理で、黥布をも始末しようとしている。老齢となった皇帝の死後のことを考え、自分が王朝を支配するために障害となるかもしれない人物を排除することしか頭にないのだ。

「なぜ、と仰いましても……」

「もういいです。相国には任せておけません」


 呂后にはすでに考えがあるようだった。皇帝が病臥している以上、彼女にはすべてを決める権限がある。

「淮南国に調査団を派遣します。あの黥布のことですから、調べ上げれば謀反の兆しのひとつやふたつ、容易に見つかることでしょう」

「その結果を口実に、彼を処断するのですか? 黥布がそれをただ受け入れるとは思われません。おそらく……戦争になります」

「だったらそれで構いません。韓信や彭越が滅んだ今となっては、黥布としては組む相手も居ないことでしょう。黥布単独の叛乱であれば、収拾も可能です」


——なんという女だ。

 蕭何はそう思ったが、呂后の施策は徹底している。韓信・彭越両名を殺しておいて、黥布だけに甘い処置はあり得ないという、功臣に対する一貫した姿勢が見受けられる。しかし蕭何などにとっては、これはあまりにも冷徹な判断であると言わざるを得ない。大きな功績を挙げたにもかかわらず、その能力のせいで国から捨て去られることが既成事実となってしまえば、この先誰が国のために身を削ってくれるというのか。


「陳豨の叛乱もまだ鎮めていないうえに、黥布も兵を挙げることになれば、漢に内乱の嵐が吹き荒れることになります。そしてそれを鎮めた者が、さらに能力を疑われて処断される……皇妃さまはそのような社会をお望みなのでしょうか」

 蕭何は思い切ってそのような質問を投げかけたが、呂后の回答にはなかなかの説得力があった。

「能力が恐ろしいばかりではないのです。いざとなれば国を転覆させるような能力を持った者が、必要以上に大きな権力を……つまり諸侯王という地位を得ていることが問題なのです」


 漢は楚との争いで建国に苦労し、大きな影響力のある人物たちに、諸侯王の地位を確約して味方に付かせた。それによって漢は勝利を得たが、呂后はその手法自体が間違っていたと言うのである。

「実際に戦略を立てた張良あたりが聞けば、憤激しそうなお言葉ですな。あの当時、漢が楚に勝利するためには、あの方法しかなかったと思われますが」

「私は戦時中は楚の捕虜の身に甘んじていて、実戦の地にたつことはおろか、陛下に適切な助言も与えられぬまま、終戦を迎えました。韓信が死ぬ前に放った言葉を、相国も聞いていたでしょう。『貴様の愚鈍さのせいで、漢は建国に苦労したのだ』……その通りだと思います。だから今、せめてもの償いのために戦後の処理を必死になって行っているのです」


 では呂后が捕虜とならずに漢軍と行動を共にしていたとしたら、王朝は今と違う姿をしていたのだろうか……蕭何は考えてみたが、すべては結果論に過ぎない。もし、あのとき状況が違っていたら……などと考えてみることは無駄でしかなく、時間の浪費である。

「黥布は過ぎた身分を得ました。それによって粛清されます。その過程が単なる処刑であるか、戦争を伴うものになるかは、たいした問題ではありません。将来の安泰のためには、今払わなければならない犠牲に、目をつむる必要があります」

「は……」

 蕭何は呂后の自己正当化に吐き気を覚えたが、無論彼には反論など出来ない。韓信のときと同じように、黙って従うしか道はなかった。



「何が起きているの?」

 呉翏は不安な気持ちを抑えつつ、不疑に問いかけた。

「王さまに聞いても、詳しくは話したがらない様子で……」

 実のところ、不疑にも詳細はわからない。ただ、状況から見て先日の朱石との合意が破棄されたようであった。朝廷から査察団が送り込まれ、宮殿は見知らぬ者たちで埋め尽くされている。書庫は荒らされ、棚はひっくり返され、庭は踏みにじられ……いずれも明らかに淮南王室を侮辱する行為であった。

「査察の結果次第では、淮南王さまが捕らえられることになるかもしれません」

「どうしてこんなことに……」

 呉翏は爪をかむような仕草をした。快活な性格の彼女には、滅多に無いことである。

「おそらく彼らは」

 不疑は呉翏を励ますように言葉を継いだ。無言ではこの場をしのげない、そのような空気が二人の間を漂っていた。

「淮南王さまの朝廷に対する謀反の証拠を探しているのです。……しかし実際にはそのようなものはない。にもかかわらず、彼らは見つけるのです。無から有を生じさせるかのように」

「もう逃れられないということね」

 呉翏がそう言ったとき、当の黥布が二人の前に姿を現した。二人は一歩下がり、頭を下げた。


 黥布はすっきりとした表情で言う。その口調には、すでに迷いがなかった。

「心配はいらぬ。少なくとも、彼らはこの地では何もせぬ。余がここで断罪されることはないだろう。なぜかと言えば、余が一声挙げれば、彼らは我が軍によって包囲されるからだ。楚軍の強靱さは彼らも知るところだろうからな」

「では、今後何も起こらないということですか」

「いや、そうは言っていない。おそらく彼らは長安に戻ったのち、報告するだろう。どういった報告をするのかは見当も付かぬが、ありもしない謀反の証拠を事実として報告するに違いない。朝廷はそれを口実に余を逮捕するだろう。そのときはこのような査察隊ではなく、れっきとした軍隊がこの地にやってくるに違いない。いずれにしても、余のとる道は定まった」

 呉翏の顔が蒼白となった。彼女は神妙な面持ちで黥布に問いかけた。

「では……戦うのですね」

 黥布はこの問いに対して、迷うことなく答えた。

「そうだ。淮南の総力を結集して、漢から独立すべく、兵を挙げる」

「独立……」


 不疑は、思わず声をあげた。黥布は、謀反を独立という言葉に置き換えた。やると決めた以上、大胆に行動する姿はいかにも武人らしく、黥布という男の印象に合っているかのように思えた。

「まあ、いずれにしてもあの者たちが帰って、報告した内容による。しかし、その前に決めておかねばならぬ問題があるのだ。呉翏、お前のことだが」

 突然話題の中心に置かれた呉翏は、驚きを隠しきれないようだった。

「私のことなど……なにか決めることがございましたでしょうか」

「世嗣を設けなかったことは余の都合によるもので、お前には申し訳なく思っている。よって、今後は行動の自由を許すことにした。ここ淮南は戦火に荒れ、余自身も遠征することで宮殿にはいられなくなる。どこか安全な場所を探し、あとは自由気ままに過ごすが良い。国元へ帰るが良かろう」

 これは紛れもなく、黥布その人の優しさから出た発言であっただろう。若く経験の乏しい不疑にはそうとしか受け取れなかったが、当の呉翏はこの発言に涙を流した。

——なぜ、泣くのか。

 不疑と黥布はそろってそう感じた。二人とも女の気持ちを真に理解していないのである。

「王さまが私のことを、邪魔だと感じておられるのであれば仕方ありません……ですが、もし許されるのであれば、今後もおそばに居させてください。私は剣を振るうことも、弓を射ることも出来ませんが……これまで王さまのお心をお慰めしてきたつもりですし、これからもそうありたいのです」

 しかし、戦時中に心の安らぎなど必要あろうか……呉翏の言うことは理解できるが、実際に彼女が黥布の役に立てることは少ない、と不疑には思えた。

「項羽は垓下で漢に追い詰められた際、愛妾の虞美人を敵に奪われることを恐れ、これを自ら殺したのだ。戦時下に女を連れて歩くと、そのような選択を迫られることもあり得る。余は、それを避けたいのだ」

「戦時下でお役に立てないときには、どうぞ私を殺してください。ですが、今の段階で放り出されてしまっては、それこそ殺されることと同じです。……宮殿で過ごしてきた私に……一人でどう生きよ、と王さまは申されるのですか」

 呉翏がそう言って泣くので、黥布はやむなく彼女の残留を認めた。しかしその過程は稚拙であり、黥布は呉翏に「留守を頼む」と言っておけばよかっただけの話であった。

 だが、黥布が自分なりに呉翏を守ろうとした発言であったことは確かである。このことは、黥布が戦時下で人間性を失っていなかったことの証明となった。


「不疑どのはどうする。留に戻るか?」

「いえ。お邪魔でなければ、もう少しお供させてください。父親からはすべてを見届けて報告するよう言われておりますので……」

「しかし、危険が伴う。それと……」

 黥布は言いかけてから口を閉じ、他人から見えないところに会話の場所を移した。

「余の蜂起は成功しない確率が高い。その場合、余はこの世を去ることになる。もちろん最善は尽くすつもりだが……不疑どのには是非とも生き残っていただき、この黥布という男の最期を後世に知らしめてもらいたい」

 不疑は黥布の物言いに驚いた。

「何を仰るのです」

「もともと君の父上である留侯は、それを望んでいるのだ。現在は、呂后の力が我々を上回っていて、……いずれ皇帝が崩御されたときも、その力関係は変わらないだろう。つまり、皇帝の死後は呂后の世になる、ということだ。しかし、それは覆さなければならぬ。そのときに不疑どのが実際に見たこと、記録したことが役立つのだ。……留侯は、それを狙っておられる。だから、君は余すところなく現実を記録し、なおかつ生き残らねばならない」

 黥布の言葉は、不疑にとって非常に重いものであった。自分に課された責務が想像以上に重いものであったことの衝撃。彼は、黥布や呉翏の最期を看取らねばならぬ立場であった。


 朝廷からの査察団は間もなく撤退し、その数日後には黥布の国境警備の態度が中央に対する異常な警戒を示すものであるという見解が示された。これに伴い、黥布に叛乱の兆しありという賁赫の意見が正しく評価され、彼は釈放された。放免された賁赫は、近く実現するであろう淮南国征伐の将軍に任命され、そのことが広く王朝内に発表されたのである。


 これを受け、ついに黥布は兵を挙げた。

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