第4話 淮南国動乱の兆し


 首だけになった彭越の目が閉じられていないことに不疑は気付いた。それが見つめる先は何なのか……。そのような感傷的なことを考えざるを得ない状況である。

——埒もない。すでに梁王の目には何も見えぬに違いないというのに……。

 彼は寸前で本人から逃亡を強要されたため、どのような状況で首を落とされ、その間際に何を言ったかがわからない。逃げなければならないことは事実だったが、後悔を感じたことは確かだった。

——とりあえず、父上にこのことを報告せねばならないだろう。

 そう考えた不疑は、留に戻ることを決意した。


「審食其に目をつけられている? 彼はもと呂后の世話係で、呂后が楚の捕虜となっていた際、共に捕虜となって身の回りの世話をし続けてきた男だ」

 父親の張良はそう言うと、なんとも渋い表情を見せた。不疑が留を離れて約三月になろうとしていたが、穀物を断ち続けてきた期間もそれと同じである。もしかしたら、彼の苦渋の表情はそのことにも原因があったかもしれない。


「梁王彭越が殺されたか……」

 張良はため息まじりにそう言うと、息子にさらなる情報の提供を求めた。しかし、結果として不疑が得た情報はそれしかない。彼は言葉に詰まった。

「……どうすればいいのでしょう」

「呂后が淮陰侯に続いて梁王まで殺したとすれば、次の標的は淮南王しかない」

「淮南王……黥布げいふどのですか」

 不疑のみならず、漢に生きる者ならばすべてが知る人物である。韓信、彭越、黥布……漢の誇る三大軍功者のひとりで、楚出身の豪傑であった。

「知っておろうが、黥布とは彼の本名ではなく、もともとの名を英布という。顔に黥(いれずみ)があるから、皆が彼のことを黥布と呼ぶのだ。この大陸が秦の統治下にあったとき、彼は罪を犯して顔に黥刑を施された。しかしその後、項羽のもとで軍功を挙げ、王に封ぜられている。韓信、彭越が亡き者となった今、用兵力で彼に勝る男はもはやいない」

 豪傑にして顔に刑罰のあとを残す男……荒くれ者という印象を拭えないが、今や王という高貴な存在であることは確かである。楚から漢に転向した際、劉邦は自分と同じ調度品を備えた屋敷を彼のために与えたという。それだけ劉邦が漢のために欲しくてたまらなかった人物なのであった。


 その黥布の身が、今や危険なのだという。状況が変わったからといって、帝室とは恥じらいもなく変節するものだと不疑は思わざるを得なかった。

「父上は、淮南王の叛乱を期待なさっているのですか。それともそれは王朝の平和を乱すものとして阻止したいとお考えなのですか。いったいどちらなのでしょう」

 これは不疑がもっとも聞きたい質問であった。このあたりのことについて、父親は多くを語ろうとしない。道引などというよくわからない行為に熱中したりするなど、不疑にとって張良は捉えどころのない父親であった。

 しかしこのとき、張良は珍しく明白な回答をした。その回答には、彼自身の迷いが含まれており、不疑は事態の複雑さを実感せざるを得なかった。

「今後の見通しとしては、黥布の決起は必ず起きるだろう。起きなければ呂后が彼を挑発し、起こすように導くはずだ。決起が成功すれば帝室は滅び、漢の世は終わりを迎える。出来ることなら、避けたい。しかし呂后は、あえて黥布に叛乱を起こさせて、それを鎮圧することにより漢の世を継続させたいと考えている。私としては、呂后の思惑通りの展開は望むところではない。結果としてあのお方だけに権力が集中することは、望ましくないからだ」

「皇帝陛下はどう動くでしょうか」

「すでに陛下は呂后の政略の駒と化している。この動き……もう止められぬ。我々に出来ることは、次の世代を担う人物を育てることしか、もう残されていないのかもしれぬ」

 張良は、その特徴的な淡々とした口調で語るのだった。したがって彼の発言の内容は、不疑に無責任な印象を与えた。

「次の世代ですか……」

「……年齢からいって、お前は呂后の死後も生き続ける世代だ。今これから、呂后のやることをすべて記録し、頭の中に記憶せよ。そうすれば彼女の死後に、主権を奪い返すための大義名分が持てる」


 父は、驚くほど先を見据えていた。その場その状況での対応ではなく、二十年から三十年先の世を頭の中に描きながら、彼は考え、戦略を練っていた。

「……淮南王黥布のもとに参ります」

 不疑はもはや父親の言うことを疑わなかった。



 張良が軍師として活躍していた頃、漢は一貫して楚に対して劣勢だったという。しかし彼はその状況の中で長期的な戦略を練ったのだ。劉邦が自ら率いる本隊とは別に、韓信に一軍を授けて別行動をさせたのがそのひとつである。劉邦が楚の項羽を相手に防戦一方の状況であるとみせかけ、韓信に魏・趙・燕・斉と次々に周辺国家を制圧させ、結果的に楚を包囲する網を作り上げた。また、いよいよ項羽との対立が厳しくなると、彭越に梁国の保有を確約し、楚の後背を襲わせた。これによって補給路を断たれた項羽は、戦地での深刻な飢えの問題に直面することとなる。さらには楚の猛将であった黥布を漢に寝返らせ、項羽に帰る道を失わせた。この黥布の寝返りが張良による軍略の中でも最後のとどめだったと言うことが出来る。彼は一見すると劣勢と思われる状況の中で、最終的に勝つ方法をこのときから模索していた。


 今回の策もそれに違うことはない。おそらく黥布は滅び、呂后は権勢を一時的に強めるだろう。しかし、最終的には我々が勝つ。外戚に国政を翻弄される事態は、そう長く続かないだろう。

 ただ不疑が気をつけなければならないことは、駒が一人歩きすることである。

「黥布のもとには行ってもらうが、彼に仔細を知られてはならない。あくまで自然に……呂后があえて彼を叛乱させようと仕向けていることに気付かせてはならない」

「それではどういった名目で私は黥布のもとに行けばよいのでしょうか」

「私から紹介状を書こう。そうだな……お前は私の跡継ぎだから、その成長のために英雄のもとで勉強させたい、とでもしておこう。黥布も悪い気はすまい」

 不疑は観察者でなければならなかった。身に迫る危険を直接黥布に知らせることは、父親から厳に禁止されている。


「子房どののご子息か。父親より立派な体つきをしているが、やはりどこか面影がある。知的な印象を受けるぞ」

 事前に届けてあった紹介状が功を奏したのか、予想通り黥布は上機嫌であった。しかし顔に刺青がある彼が豪快に笑うと、誰もがそれに凄みを感じて一歩引き下がりたくなるのであった。

「子房どのにもここ二、三年お会いしていないが、ご健勝であろうな」

 しかし意外にも、黥布という男は気遣いが出来る男であった。彼は未だ若輩者に過ぎぬ不疑に豪華な椅子を用意し、それに彼が腰をかけるまで、自らは座らなかった。

「淮南王さまにこのような待遇をしていただけるなど、光栄の至りです」

 不疑は思わずそのように口走ったが、図らずもそれは相手に失礼な発言となったようで、黥布は苦笑いをしてみせた。

「余のことを、粗野な人間だと思っていたのだろう。若い頃の余は確かにそうであった。貧しく、育ちが悪かったのでな……。しかしあるとき、人相見に占ってもらったら『刑罰を受けるが、王となるであろう』と言われて、それから自分の人生を顧みるようになった。生まれ変わろうとしたのだ」

「あえて刑罰を受けるようなことをなさったのですか」

 黥布はこれを聞き、再び苦笑いを浮かべた。目の周りに掘られた濃紺の縁取りが、微妙に形を変えた。

「そういうわけではない。心を入れ替えようとしても、状況が許さなかったのだ。当時の余は、人から奪わなければ食っていく術がなかった。要するに……やむにやまれず盗みを働いた結果、捕まったのだ」

 彼の凄みのある外見が、ほんの些細な罪によって形成されたことに不疑は驚かされた。この人の人生は、はたしてその外見に相応しいものであっただろうか、と疑問に思ったのである。


 不疑が黥布に接して第一に感じたのは、男らしい優しさであった。豪快でありながら、包み込むように人をもてなし、いい兄貴分のような笑顔を見せる。捉えどころのない父親よりも、よほど親しみやすい人物であった。

「余は、最初項王に仕え、のちに漢王……今の皇帝陛下に仕えた。幸いにしてどちらも余を珍重してくれたが、項王が余に課した軍務は、いわゆる汚れ仕事が多かったのだ。新安の地で秦の投降兵二十万を谷底に突き落として虐殺した。我々の盟主であった楚の懐王を長江のほとりで暗殺した。どちらも武人の心に暗い影を落とす仕事であった」

 つらかった、と言いたいのであろう。顔に刻まれた刺青のおかげで、彼は自身の器を越えた仕事をこなさねばならなかったのだ。

「ですが、あなた様は項王から王に封じられました。私の知る限り、項羽配下の将軍で王に封じられた人物はあなた様くらいだと……」

「確かに余の同僚には鍾離眜しょうりまつ季布きふ龍且りゅうしょ……それに范増はんぞうもいたが、誰も王に封じられてはおらぬ。余は、この顔に刻まれた刺青のおかげで汚い仕事を請け負うことにはなったが、それが評価されて王になれたことも事実だ。その意味で人相見は正しく余の将来を予言したと言えるだろうな」


 黥布の表情は、どこか自嘲的なものだった。そう感じながら彼を見つめると、不思議なことに刺青が悲しさを表現しているかのように見えた。

「やはり、淮南王さまはその……項王から与えられた汚れ仕事に不満を持ち、そのことが原因で漢に鞍替えすることになさったのですか?」

 不疑の問いは、黥布の悲しみの感情に追い打ちをかけるようなものであったが、意外なことに彼は笑ってこれに答えた。

「確かに迷っていた。項王から参戦の命令が届いても病気と称して断ったりした。あのときの余は将来に恐れを抱いていた。いいように使い回されたあげく、最後には項王に殺されるのではないか、と……。その迷いにいち早く気がついたのが、貴公の父上だ。張子房どのだよ」

 不疑は驚き、二の句が継げなかった。

「父上が……?」

「使者が書状を携えてやってきて、言葉巧みに漢に味方する利を説くのだ。余の気持ちはさらに揺れ動いて、いよいよ本気で漢に鞍替えするべきかと思うようになった。なにせ、子房どのは、漢王の名において余の当時所有していた地所をすべて保証する、と言ってきたからなあ」

「父上がそのようなことを……」

 感嘆したような表情を見せた不疑だったが、黥布はそうではない、とでも言いたそうに手を振りながら顔をしかめた。

「君の父上を賞賛しているのではないぞ。だからといってけなしているわけでもないが……。つまるところ余が言いたいのは、子房どのはやや強引だった、ということだ」

「と、いうと?」

「もう少し待ってくれたら、というのが本音だ。余が楚を見限って独立してから話を持ちかけてくれればよかったのだが……当時の余は迷って行動を起こせずにいたから、出兵を催促する楚の使者も屋敷に出入りしていたのだ。案の定、余の屋敷で漢の使者と楚の使者が鉢合わせすることになった」

「それは……想像するだけでも修羅場ですね。どう切り抜けたのですか」

「漢の使者……随何ずいかといったな。彼が強引に『王は漢に味方することにすでに決めた。楚の使者はお引き取り願おう』と主張したのだ。そんな形で漢に属することになったから、余は身ひとつで居城を抜け出す羽目になってしまった。その結果として、両親も妻子もすべて……肉親は殺されたのだ」


 結果として父は黥布を漢に引き入れることに成功したが、その過程には禍根を残したのではないか。まして現在の彼の境遇を思えば……彼は呂后に殺されるかもしれず、その可能性は、現時点では極めて高い。


 しかし不疑はその思いを態度に出すことは出来なかった。



「しかし漢に来て余に与えられた宿舎は、とても豪華だった。驚いた余が周囲の者に事情を問うと、漢王と同じ調度品がしつらえてある、とのことだった。このことを受けて余は、せっかく生き延びたのだから今後は漢の一員として戦おう、と決意したのだ。今のところ、その決意は報われていると言えよう」

 不疑はこの瞬間に、黥布という男の哀れさを感じた。できることなら、気付かせてやりたい。しかし気付いたところで彼は落胆するだけではなかろうか。

「漢ではこのところ粛清の動きがあります。淮南王さまには、すでに知ってのことだと思いますが」

 不疑がこの問題を提起したところ、黥布は目をむき、食いつくように言い放った。

「それよ。それが余の気がかりなことだ。都では淮陰(韓信)が殺されたというではないか。武を競い合って恐れるべきはあの男だけだと思っていたのだが、なんとも残念な死に方をしたものだ。謀反を企んで誅殺されるなど……」

「他にも趙では、張敖さまが王位を追われております」

「うむ。張敖は呂后の娘を嫁に迎えていて、その地位は盤石と思われていた。部下の者が皇帝弑逆を計画していたというが……替わりに趙王に立ったのは戚姫の息子である劉如意だというではないか。これは、呂后が権勢を失いつつあるということなのだろうか」

 不疑は首を振って否定の意を示した。呂后には次期皇帝である息子の盈がいる。彼の立場が盤石でありさえすれば、呂后の地位は将来にわたって揺らぐことはない。娘婿である張敖の格下げは、妥協の産物でしかないであろう。

「呂后は思いのままに振る舞っております。先日……呂后は皇帝陛下を言いくるめ、梁王彭越さまを刑殺なさいました」

「……なんだと。彭越を?」

「首だけの存在におとしめてございます」

「ばかな! やりすぎだ!」

 黥布の感情に火が付いたようで、不疑は彼を煽動する罪悪感を感じた。しかし、遅かれ早かれ彭越刑死の報は黥布の耳に入ることであり、彼としては不自然な形で黥布を誘導した意識はない。

「彭越が何をしたというのだ。淮陰のように実際に謀反を犯したわけではなかろう」

「口実を設けて処断したのです。梁王さまは直接呂后に頭を下げ、助命を請うたにもかかわらず……許すと見せかけ、殺しました」

「なんということだ」

 驚愕した黥布であったが、不疑が見る限り、自分に直接関わることではないと感じているようであり、差し迫る危機を感じていない様子であった。自分にやましいところがなければ、当然のことであろう。

「気分が悪い話を聞いた。気晴らしに狩りにでも出かけたいと思うが、不疑どのも共にどうか?」

「ご同行します」

「では、支度をしよう」

 黥布という男は、やはり武の道に生きてきた。政治的な策略が横行している中で、自身が採る策は、気晴らしのための狩猟しかなかったのである。彼に張良のような策士が幕僚として控えていれば、ある程度の対処は可能であったものを……しかし、立場上不疑はその役を買って出ることが出来なかった。


 狩猟は、実際の戦闘を模して行われる。兵を徴集し、それをいくつかの分隊として、それぞれに隊長を配置するのだ。指揮官としての黥布は最後尾につけてそれらを俯瞰する。勢子せこが鳥獣を追い込む姿は、戦闘で兵士が敵を罠に追い込むさまを連想させた。

——彼らは、獣を相手に戦闘をしているのだ……。

 黥布の隣で全体の様子を窺っていた不疑は、そのような印象を受けた。伝統的に強いと言われている楚兵たちの動きはどれも俊敏で、噂に違わない。緊張感に満ちたその姿は、単なる「狩り」のためのものではなく、まさに「布陣」を意識したものであった。

「……いざ戦いになれば、楚兵に勝る軍は、漢国内には存在せぬ。淮陰がもはやこの世におらぬとなれば、楚兵を指揮するに足る者は……天下広しといえどもこの黥布ひとりだ」


 おそらく誇張ではなかろう。韓信のみならず彭越も去った今、単独で対抗できる勢力は天下に存在しない。逆に黥布は韓信と彭越がいない今であるからこそ、その気になれば天下を奪える立場にあった。


「……恐れるものは、何もない……何もないのだ」

 自分に言い聞かせるように呟いた黥布の傍らで、不疑は冷や汗を流した。呂后の策略によって消される運命にあると思っていた黥布が、ともすれば天下を奪うことになるかもしれない。呂后は、黥布の戦闘力を正しく判断した上で挑発しようとしているのだろうか。そんな不安が頭をよぎった。

「不疑どのも安心しただろう。この戦力がある限り、この黥布に危険が及ぶことはない。思うに彭越は、年老いて気力が萎えたのだ。韓信は正義感が強いだけに、自分の感情を抑えきれずに暴発した。しかし、この黥布は違う。韓信ほど若くなくて青臭くもないが、彭越ほど年老いてはいない。気力、判断力ともに今が一番充実しているのだ」

「……そして保有する戦力も、ですね」

 不疑は心からそう言った。いや、そう言わざるを得なかったのである。

——これでも滅ぼされるときは、滅ぼされるのか。

 楚兵の圧倒的な組織力と、それを司る黥布の手腕を目の前にして、不疑は思った。しかし、韓信の用兵力は黥布を上回っていたということは一般的な評価である。にもかかわらず韓信が滅ぼされたことを考えると、黥布にも同じ運命が降りかかることは充分想像できた。

「淮南王さま、実はお耳に入れたいことがございます」

 不疑はついに我慢できなくなり、すべてを明かそうとした。父親の命令を破ることになるが、それでも彼がそうしたのは黥布の性格によるものだろう。表と裏がなく、開け広げな言動、性急に物事を決めることのない慎重さ、長年の連戦の結果身につけた爽やかな自信……知的であるとは言えないが、黥布は成熟した大人の男であり、強さと優しさを併せ持つ人物であったのだ。ただ、その顔に刻まれた禍々まがまがしい刺青のせいで、実際に接することない人物には誤解されているのである。

 不疑は、この男がただ滅ぼされていく姿を見ていられなくなり、すべてを明かそうとしたのだった。


 しかし、そのとき横やりが入った。黥布にとっては運の悪いことである。

「大王。長安の皇妃さまより贈り物が届けられております。ここにお持ちしました」

 家令の人物による報告に遮られ、不疑はついに言いたいことが言えなかった。



「呂后の贈り物だと? いったいどういう風の吹き回しだ」

 黥布は宮殿に戻ってからこれを開封することに決め、狩猟はその場で終了した。


——嫌な予感がする。

 不疑は感じたが、おそらく黥布も同じように感じたのだろう。配下の者たちが周囲にいる環境で、すぐに開封しなかったことがそれを示している。


 一行は早々に宮殿に戻り、狩りで得た獲物を山分けしたのち、解散した。黥布は、その場では不安を表情に出さず、持ち前の快活な態度で兵をねぎらった。淮南国の末永い繁栄のために兵たちの協力を仰ぎ、自身の努力を誓う。力強く、頼りがいのある王として、兵たちからも慕われている様子が見えた。

 しかし、それもそこまでであり、兵たちが去ると黥布は途端に不安を口にしたのである。


「不疑どのは客であるから、わだかまりなく本当の気持ちが言える。余は実を言うとこれを開けたくないのだ。呂后など……できることなら関わりたくない。皇帝を含め、朝廷そのものも、だ」

 不疑は応じた。

「お気持ちはわかりますが、帝室のご命令を無視してしまえば、彼らに口実を与えてしまいます。梁王彭越さまにしても、もともとは皇帝陛下の出兵依頼を無視したことで謀反を疑われました。淮南王様ご自身にしても、かつて項王の参戦指示を拒否したことで、いろいろとご苦労があったはずです」

「わかっている。……ただ、余の本音はそういうことだ。気は進まないが、開けてみることにするか」


 そこで黥布自ら包みを解き、中身を取り出してみたところ、出てきたものは大きな、食用に加工された肉であった。

「おお、これは……」

 肉片は大きく、ひとりの腹を満たすには充分な量だと思われた。また、保存が利くよう塩漬けされており、表面をいぶしている。

「美味そうな肉だが、なぜこれが余の元に贈られてきたのか?」

 黥布はいぶかしそうな表情で不疑に問うたが、もちろん答えは不疑にもわからない。

「箱の底に書状があるようです」

「ああ、そのようだ。すまぬが、読んでみてくれぬか」

 黥布は貧民から王まで成り上がった男であったため、残念なことに学がなかった。文字を読めぬことはないが、難しい文章は苦手であったらしい。

「承知しました」

 しかしその書状には、驚くべき内容が書かれていた。一読して顔を青くした不疑は、思わず書状を床に落とした。

 木片が奏でる乾いた音が、室内にこだました。

「いったい、何が書かれていたのか?」

「うう……言葉にするのも苦しいのですが……この肉は、梁王彭越さまのものでございます」


 不疑はようやくそれを言葉にして伝えることが出来た。それだけに彼の受けた衝撃は深く、容易に信じられるものではなかった。

「なんだと! 彭越の肉を切り刻んで燻製にしたというのか! 呂后め……よくもこのような……悪趣味もいいところだ……残忍すぎる」

 あまりの不快さに首を振りながら吐き捨てる黥布であった。

「なんという女だ」

 書状には、彭越の謀反行為に対する刑罰がこれである、と記されていた。つまり、謀反を起こせばこうなるのだ、諸侯は帝室に従わなければならない、と警告しているのである。


「余は、戦場においては数々の残虐な行為をしてきた。おそらく、楚漢の争いの中で、もっとも残虐な男であっただろう。しかし……その余でさえも一個人に対してこのような仕打ちを与えた経験はない。まったく呂后の残虐さは我々の常識を外れている。……そんな常識外れの女がいる帝室に従わねばならぬとは、な……。余は軍人であるが故に残虐な行為もあえて行ってきたが、道理がわからぬわけではないのだ。尊敬できる相手であれば、喜んで膝を折る。こんな脅迫めいたことをされずとも」

「明らかに脅迫です」

 不疑は黥布の言葉に頷きながらも、注意を喚起した。彼は次に呂后が狙う相手が目の前の黥布であることを知っているのである。初対面で好感を抱いた男に、このような最期を迎えて欲しくなかった。

「わかっている。国境の警備を厚くして、不審な輩が行き来しないよう手配するつもりだ。それにしても……彭越は哀れだ。本来であれば漢の建国に多大なる貢献をした人物として、子々孫々まで祀られるべき男であったのに……」

 黥布はそういうと、自ら庭先に穴を掘って彭越の肉片を埋めた。

「もはや魂は宿っていないかもしれないが、建国の功臣として彼をここに祀ろう」



 兵を密かに集め、国境付近に配置して不測の事態に備えた。彭越を祀り、その功績をたたえた。それらの行為が、帝室から見れば叛意の証であることは想像できる。しかし同時にそれらはいずれも自然な行為であり、誰かが誇張を含んだ密告でもしない限り、問題となるようなことではない。


 黥布は、このことを自虐的な表現で言い表した。

「帝室から見れば、余の行為のすべてが叛逆の意思の表れだ。何をしても好意的な目では見てくれまい」

 確かにその通りであり、不疑は何も言い返すことが出来なかった。

「どうせ認められぬのであれば、帝室の思惑など忖度しても仕方がない。地方の領主として、ただ自分に出来ることをするだけだ」

 これを聞いた不疑は、事態がよくない方向へ動き始めていることに気付いた。黥布が自分だけのために動こうとするなら、その動きは結局謀反につながり、天下は乱れる。黥布が率いる楚軍は確かに精鋭だが、王朝全体を転覆させるには数が足りない。独立を夢見ても、結局は敗れるのだ。

「このたびの呂后の常識外れな行為を……陛下に直接訴えてみては? 参内して皇帝陛下に拝謁してみてはいかがでしょうか」

 黥布にそう提案してみたが、彼の返答は短く、かつ悲しみに満ちたものだった。

「……無駄だよ」

 確かに皇帝劉邦は、黥布や彭越のような異姓の者が王位を維持している現状を好んでいない。いずれは彼らに替えて、自分と同じ劉姓を持つ親族にその地位を継がせようと画策していた。

「かつて斉王や楚王の地位を得た韓信は、陛下の思惑によって淮陰侯に格下げされましたが……陛下ご自身はそれ以上のことは望んでいません。淮陰侯を殺したのはあくまで呂后であり、陛下ではないのです。淮南王さまが王位への執着をお捨てになれば、この先も平安な将来が確約されるのではないでしょうか」

 不疑は黥布を説得しようと試みたが、結局黥布は首を縦に振ることをしなかった。

「皇帝が自らこの地に足を運び、そのような相談を余に持ちかけてきたら考えないこともない。しかし、おそらくそのようなことはないだろう」


 黥布には建国の功臣としての意地があった。彼は楚と漢の戦いの最中に血族を皆殺しにされ、現在の地位はその代償だと考えていた。王位を欲したから親類縁者を殺されても我慢したのではなく、親類を殺されてもそれを耐えたことで王位を授かった、と考えていた。野望が先にあったわけではなく、あくまで結果として王位を得たと考えていたのである。

 しかし黥布は極めて野性的な外見を持っていたので、人々はそのように考えなかった。よって彼の本質を知る者は、同時代には無きに等しい。

——損な役回りを運命として義務づけられた、悲しい男だ。

 後日、不疑は黥布のことをそのように評した。


「心配には及ばぬ。必ずしも叛逆することが決まっているわけではない。すべて……時流による。そのときどきの情勢に応じて対応するだけだ」

 黥布は言い、表面上は動揺した様子を見せなかった。しかしその心の中までは見通せない。周囲の者たちは、自分たちの首領がいつもより落ち着いた態度をとっていることに違和感を感じた。どことなく、落胆しているように感じたのである。



「いったい王さまはどうなされたのかしら? 呼びかけても心ここにあらず、といった感じで……不疑さま、お心当たりはございませんか?」

 ある日不疑に話しかけてきたのは、呉翏ごりょうという黥布の側室の女であった。翏という不思議な文字を名として持つが、これは鳥の羽音を語源とした文字らしい。それを意識してか、彼女は常に鳥の羽を髪飾りにしていた。

「心当たりというものはなにも……ただ、天下の情勢を気になされているだけだと思います」

「いま王さまがお気になさるほど、天下は乱れているのかしら? きっと、これから乱れるかもしれない、とお考えなのね。王さまのご様子を見ていると、なんとなくわかります。あれで案外思慮深いお方なの」

 翏の口ぶりは軽く、黥布の年齢に比べると幼くて不釣り合いな印象を受ける。しかしそれは事実と異なり、彼女の幼い印象は、その細い体型によるものが大きかった。

「もう少しで三十になるから、せめてそのときまでは平和な世の中であってほしいものね」

 不疑は、驚きを隠せなかった。鳥の羽をひらひらさせて軽い挙動が印象的な彼女が、もうすでにそんな年齢だったとは……。

「子を宿したことがないのよ。だからあまり太らないの。……側室は今のところ私だけだから、このままいけば英姓の淮南国は世継ぎが出来ずに終わりを迎える。王さまは、それを甘受しているらしいのです」

「ご自分の代で家系が断絶する、と? なぜ淮南王さまはそのようなお覚悟をなさっているのでしょうか」

「あのお方は、ご自分の価値に自信をお持ちになっている一方で、その危険にも気付いていらっしゃるのです。お酒に酔うと、必ず『淮南国は、わしで終わりだ』と言うのよ」

 あるいは引き際を知っていた、と表現するべきであろうか。黥布は自身の子孫を作らないことで、王朝の繁栄に貢献する意思があったのかもしれない。しかし、不疑には疑問が残った。

「漢の永続的な繁栄のために、淮南王さまは子を作らなかった、ということでしょうか。ですが、それが本気であるのならば、ご自分の代で王位を返上する方がよろしいかと……。その方が子孫を残せますし、わだかまりなく貴女様を愛することも出来ましょう」

「王さまには王さまの意地があるし、それを理解できない私でもないのです。王さまが子を作らない理由は、実のところ漢の繁栄や平和には関係なくて……あのお方は、楚から漢に転属する際に、ご家族すべてを失いました。その後悔を二度と味わいたくないというのが本音なのです。失うくらいなら、作らない方がいい……王さまはそうお考えです」

 やはり恨みか。引き際を知っているなどとんでもない。黥布は漢による平和などより、むしろその転覆を狙っているのか……不疑は、やりきれない思いを抱いた。


 呉翏は黥布のことを思いやり、同情もしていた。

「子を欲しい気持ちはあるけど……この時代の女の幸せは、子供を栄達させた母親が掴むものに過ぎないわね。そうだとしたら道具にされた子供も可哀想だし、自分自身も生き方を制限されるようで、つらいわ。私はもっと自由に生きたいのです。幸い、王さまは私の国元の家族にも精一杯の支援をしてくださるし、肩書きは側室でも、愛されている実感もあります」

 不疑はなるほど、とひとり頷いた。彼自身はまだ若く、男女の愛情の本質など知らずにいた。しかし、この女性の存在が黥布の激発を抑止できるのではないか、と確かに感じたのである。


 だが、それは結果的に間違いだった。黥布の激発は、この女性の存在こそが引き起こしたものだったのである。

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