第3話 梁王惨殺の場


 張不疑は諸国を流浪し、ときには関中かんちゅうへと入ったりした。関中は漢の直轄地であり、行政の最大の単位は国ではなく、郡である。王ではなく役人がこれを統括するなど、その統治方法は旧王朝の秦の統治体制を真似ている。これがいわゆる「郡国制」だが、劉邦は「国」の統治者も自分の親族で固めることによって、王朝全体の安定統治を狙っていた。


 長安へ入ると、そのことがよくわかる。開発はどの都市よりも進んでいて、地方からの人口流入が激しい。諸侯国はまだどこも戦乱期の影響を受けており、農地の復興から始めている状態と比べると、その盛況さは雲泥の差だ。

——父上が長安に積極的に関われば、確実にいまよりいい生活が送れるというのに。

 そう思った不疑は、ここで仕官しようかと考えた。しかしよく考えてみると、それでは地方の状態がよく見えない。王朝全体を俯瞰するためには、ひとつの組織に属さず、できるだけ自由な存在でいることが必要だと考えた彼は、結局仕官せずに父親の故地を訪ねてみようとしたのである。


 父の張良は韓の遺臣であった。不疑はしかしその韓の土地をいまだ訪れたことがなく、これを機会に訪ねてみようとしたのだった。

「もともとの韓の土地は陽翟ようてきだから、その一帯を訪ねるのがいいだろう」

 不疑は誰にともなくそう呟くと、南東に歩を進めた。函谷関かんこくかんを抜けてしばらく行くと、そこにかつての周王朝の首府である洛陽らくようがある。漢はこの旧都洛陽を「雒陽」に改名した。五行思想による火行に由来するとされる漢が、火の天敵である水を忌み、さんずいを取り払ったのである。

 不疑はこの改名が気に入らなかった。五行思想は父親の張良が信奉している道教に相通ずる思想としてこの時代に流布していたが、不疑はそれらの思想よりも伝統を重んじる傾向があった。

「名を変えることで天下が泰平となるのなら、いくらでもすればよい。しかし、そんなことは現実的にありえない。本当に水を忌むのであれば、洛水そのものをせき止めればよいではないか」

 そのようなことを考えると、この洛陽という古都に悪事が起きるような気がしてならない。長く築き上げられてきた伝統を打ち壊すことで、人々が望まぬ結果がもたらされるような予感がしたのである。


 その不疑の予感は当たらずも遠からず、といったものであった。彼が洛陽を訪れたとき、ひとりの要人が囚人として収監されているという噂を聞いたのである。

——要人? 誰か。

 調べてみると、囚人の名は「彭越ほうえつ」であった。韓信・黥布と並ぶ漢建国の軍功三傑のひとりである。

——なんということだ。あの彭越でさえも、捕らえられるのか。


 彭越はもともと漁師をしていて、不漁の際は盗みや追い剥ぎをして暮らしていた男であった。その彼が秦末の動乱期に、地元の青年たちに推挙されて小さな反乱軍の頭目となったわけだが、ときには斉、ときには魏の味方をして楚の領土を侵した。ひたすらに自分の土地を守ろうとするための行動であったが、それが結果的に漢の利益につながったのである。劉邦は彼を魏の宰相に任じ、以後その近辺の土地をほしいままに拡張することを認めた。彭越の根拠地は大梁たいりょうという当時では楚が支配していた地域だったからである。

 漢によって権利を保障された彭越は粉骨砕身の働きをみせた。草莽に身を隠し、影のように敵城に迫ってこれを落城させた一方、危機が迫ると風のように立ち去る戦法で楚の項羽を悩ませたのである。

 結果的に彭越は大きく自身の領土を拡大させることに成功し、諸侯国としての「梁」を建国することに成功した。彼はこのことによってあらたに梁王を号することになったわけだが、それを認めるよう劉邦に進言したのは、他ならぬ父親の張良であったという。


——父の話によれば、独立心が強く、扱いにくい男だとのことだった。

 漢が楚を垓下がいかに追い詰めようと彭越に軍への参加を求めた際、彼は欲深なところを見せつけ、その求めに応じなかったという。そこで張良は劉邦に梁王としての地位を確約してやることを提言し、それによって彭越は重い腰を上げた、という経緯があった。

 しかし漢が統一国家として形成されたあとは、特別問題視される行動はしていない、と聞く。諸侯王としての地位を約束されてからは、少なくともそれ以上の欲を示すことはなく、皇帝に臣従する態度を見せているようであった。

——会いに行くべきだ。

 だが、洛陽には彭越逮捕に立ち会った皇帝も滞在しているという。どちらに先に会うべきか、不疑は迷った。

——仮に彭越を弁護するつもりであれば、先に彭越の言い分を聞いた上で、それを皇帝にぶつけるべきだ。先に彭越に会わねばならぬ。

 不疑は獄舎に向かった。



「不疑と申すか。あの張良どののご子息……。いや、留侯とお呼びするべきだったな。それでこの虜囚のわしに何のご用か」

 彭越という男は、すでに老人であった。それゆえ年若い自分に対して尊大な態度をとるものと思われたが、囚人として刑罰の恐怖に怯えているのか、かしこまった態度で応じてきたのが、不疑には意外に思われた。

「父上の命令で中央の動きを探っているのです。何しろ、地方には長安の動きが伝わらないものですから」

 彭越はそれを聞き、鼻を鳴らした。

「そうか。そうであろうな。わしも早くから気をつけておけばよかった。やはり留侯は知恵者と言うべきだ。わしは実際にこうして捕らえられるまで、自分にそれほどの危機が迫っていることを知らなかった。逮捕されるなど、降って湧いたような話だった」

 老人の口からは、激しい後悔の念が押し出されていた。不疑はそのことに心を動かされながらも、話を続けた。

「梁王さまは、建国の功臣のひとりであると窺っております。それがどうしてこのような目に遭ったのか、ご説明願えませんか」

「話せば助けてくれるか。もし助けてくれたら、相応の褒美をつかわそう。梁の国内に封土を与えることも可能だ」

「私自身が納得できるような事項であれば、できる限りのことはいたします」

 ここで不疑は簡単に助けるとは言わず、それに条件付きの返答をした。相手が囚人であり、立場が弱いことを逆手にとって、正当な論理を押し通そうというのである。若い相手なのであしらいやすかろうと思っていた彭越が、やや落胆した様子が見て取れた。

「……皇帝陛下は、わしを梁王に封じた。それはたいへん栄誉なことだが、ある種のしがらみが伴っている。簡単なことだが、わしは王といえども皇帝の臣下に当たるので、その命令を聞かねばならない。わかるであろうな?」

「ええ。わかります」

「ならば話そう。皇帝は北の地で陳豨が兵を起こしていることを憂慮し、自らこれを鎮圧しようと戦地に向かった。そこでわしにも参戦せよと命令が下ったのだが、わしはそれを病気と称して断り、兵を送るだけにとどめたのだ」

 彭越は、しがらみがあることを承知していて皇帝の意に背いたという。自らの栄達と、子孫の代までの安定を望むのであれば、彼の行動は自らを危機に陥れるものでしかなかった。しかし彭越があえてそのような選択をしたのはなぜか。

「陳豨の乱は淮陰(侯)が仕組んだ計略だ。奴は王朝としての漢の姿が自らの理想と異なるものとなりつつあることを憂いて、計画を実行した。北の地で陳豨が騒動を起こしている間に、奴は長安を占領しようとしたのだ。残念なことに計画は事前に露呈してしまい、奴は誅殺されてしまったが……」

「梁王さまは淮陰侯の計画に賛同されているということですか? あるいは淮陰侯の替わりに梁王さまが皇帝親征の隙を窺い、長安を占領しようと……?」

 彭越はかぶりを振った。囚人であり、刑罰に恐怖を抱いている彼が、そのような謀反を企てていたとは不疑も考えなかった。

「わしにそこまでの度胸はない。正直な話をすれば、わしは自分の領地が平和でさえあれば、漢という王朝など、どうなっても構わないと思っていた。楚と戦って勝ち、安住の地を得た以上、もはや戦う必要は無いと思っていた。だが、皇帝はわしを放っておかず、まだ戦いの場に引きずり出そうとする。しかも、かなり高圧的な態度で、だ。……わしはあのとき、淮陰の気持ちがわかったような気がしたのだ」

 劉邦は皇帝として王朝を守ることに必死なのだろう。しかしそれは劉邦自身の欲から生まれた責務であり、韓信や彭越にとってはいい迷惑なのかもしれない。

 劉邦が、ことあるごとに彭越のような異姓の諸侯王を廃し、劉姓を持つ者を王に据えようとする理由はここにあった。異姓の者は彼ら独自の王国を維持することに必死で、王朝全体の平和を見ようとしない。個々の平和と安定が全体の安定につながることは自明の理であるが、それが実現するにはとてつもない時間が必要で、すでに老齢にある劉邦の存命中には無理な話かもしれなかった。そのため、劉邦による王位のすげ替えは、上からの急激な改革であった、と言えそうである。

 しかし急激な改革は、常に当事者たちの反発を生むものである。不疑は彭越の「淮陰の気持ち」という言葉に、強くそのことを感じた。

「しかし、皇帝はわしの思惑を読み取ったのか、使者を通じてひどく叱責した。病気などという言い訳など通用しそうもない雰囲気だった。そこでわしは直接皇帝のもとへ出向いてひとこと詫びを入れようと思ったのだが、部下の扈輒こちょうがそれを許さなかった。今行けばきっと捕らえられる、謀反した方がましだ、と」

「それを実行なさったわけではないのでしょう」

「ああ、その通りだ。わしは扈輒の意見に心を揺さぶられはしたものの、実際に謀反を起こす勇気など無かった。それはそうだろう? 安住の地を求めて戦い続けてきたというのに……やっとそれを得ながら、自分から戦いを引き起こすなどおかしいではないか? 結局わしは病気と称したまま、なにもしなかった」

 これによって不疑は、彭越に造反の意思なしと判断した。



「ですが……なにもしなかったというのに捕らえられたのはなぜです? やはり参戦しないというのが罪にあたるというわけですか」

 不疑は改めて質問した。彭越を弁護しようにも、その逮捕原因がはっきりしないことには、それも難しい。

「それは……配下で太僕たいぼくの男が、わしの大事にしていた馬を誤って死なせてしまったのだ」

 不疑は彭越の返答の意味がよくわからなかった。

「は?」

「太僕とは君主の乗る馬と車の管理をする役職だ。その太僕が主人たるわしの馬を殺すなど……毒草を食わせてしまったらしいが、始末に負えん。わしはその男を処罰しようとした」

「ええ。それで?」

「処罰を恐れたその太僕の男は、長安に走ってわしと扈輒の密談の内容を告げ口したのだ。皇帝の耳に入るように……。そこでわしは捕らえられたというわけだ。まったく不意を突かれた」

「なるほど……」

 似たような話を聞いたことがあった。


 淮陰侯韓信は騙されて捕らえられたが、そのきっかけとなったのが自身の家臣による密告であったという。韓信は不正をしていた家臣を罰しようとしたが、その家臣の弟が長楽宮に走り、呂后を相手にその謀反計画の一切をぶちまけたというのだ。小さな悪事を働いた者が、その罰を恐れ、自らを守ろうとするあまり、天下をも動かしてしまう悪い例であるといえよう。


「皇帝陛下が洛陽にいらしているとのことですが、それは陛下が梁王さまの逮捕に自ら指揮を執ったということなのでしょうか」

 不疑は話題を変えたが、彭越はこれに不機嫌そうに相槌を打った。

「どうもそのようだ。わざわざ、な」

「それだけ重要な人物と思われているのでしょう。それでしたら、私が陛下に拝謁をお願いして梁王さまの無実を訴えたいと思います」

「無実……無実と言ってくれるか。わしは確かに謀反の話題に耳を貸したが、実際に謀反を起こした事実はない。ただ、皇帝はわしのような異姓の王を除きたいがため、ありもしない罪をなすりつけているのだ。どうか極刑を避けられるよう、皇帝を説き伏せてほしい」

 このとき不疑は、彭越の無実を確信していた。それゆえ相手が皇帝であっても、道理を説けば話が通じると信じていたのである。

「承知いたしました」



 不疑は洛陽に留まる皇帝劉邦に拝謁を求め、許可を得た。本来屈託のない劉邦の性格がそれを実現させたといえそうだが、実際のところは成長した張良の息子の姿を一目みたいという彼の好奇心がそうさせたのだろう。

「ほう。子房の息子が成長したな。朕の息子は貴公より年上だが、いつまでたってもひとりで物事を決められん。朕は、あやつを太子の身分から外そうと思っているのだ」

 不疑は父親の述懐が真実であることを確認し、あらためて驚きを禁じ得なかった。

「恐れながら、そのようなことを決められて大丈夫なのでしょうか。皇妃さまがそれを黙って受け入れるとは、私には思えません」

 無神経な劉邦は、この質問にまったく動じる気配を見せなかった。

「皇妃が何を言おうと関係ない。わしは皇帝だからな」

 不疑はその尊大な態度に納得した。おそらく皇帝が存命な限りは大丈夫だろう、と。しかし問題はその死後であった。だが、いまはそのことを話しに来たのではない。

「陛下。臣(わたくし)が今日参ったのは他でもありません。ここ洛陽に捕らえられている彭越の沙汰について、でございます」

 劉邦は怪訝そうな顔をして、不疑の真意を探ろうとした。

「彭越は確かにいま洛陽に捕らえているが……それをお前がどうしようというのだ?」

 不疑は謙虚な態度でこの質問に答えた。

「臣がどうこうしようというのではございません。ただ、陛下が彭越をどうしたいのか、そのことが知りたいだけなのです」

「……では率直に答えよう。わしは、いや朕は、梁に彭越とは別の王を置きたいのだ。異姓の者ではなく、劉一族の者を、だ。なぜかと聞かれる前に答えるが、わしの一族にさほどの功労者はおらぬが、だからこそ御しやすいというのがその理由だ。彭越は漢の建国に多大な貢献があった英雄だが、そういった人物ほど王朝を転覆させる能力がある。能力のある者に多大な土地を与えてしまうと、その野心に火をつけてしまう結果になりかねない。よって、除きたいのだ」

 劉邦はその言葉の通り、率直に自身の考えを口にした。しかしそれで不疑が完全に納得したわけではない。彼はとっさに頭の中に浮かんだことを、このとき口にした。

「淮陰侯を誅殺したのも、それが理由ですか」

 途端に劉邦の表情は不機嫌になった。

「韓信を殺したのはわしではない。皇妃が勝手にやったことだ。確かに韓信の能力は危険であったが、あいつの功績はただ者では真似できないほど大きい。趙との戦いで見せた背水の陣、脱出を図ろうとする項羽を戦いの場に引きずり出して殲滅した垓下の戦い……どれも用兵家として超一流の仕事であった。その功績をわしは充分に感謝していたし、それに報いたいという気持ちを持っていた。だが皇妃はわしの気持ちをも無視して、強引に将来の危険を取り除いてしまった」

 劉邦は不機嫌な割に口数が多い。それだけこの件に関する後悔が尽きないということであろう。

「ですがこの不疑が思いまするに、彭越も似たような功績を持っています。ここで彭越に死罪を言い渡してしまえば、漢は功労者に冷たく、血縁者にだけ甘いという不名誉な評価を受けることになりましょう。陛下のご親族に諸侯王の地位を与えることは天下の安定につながりましょうが、功績者をおろそかにすると不満が生じます。それは、結局謀反の動きへと変化します」

 劉邦はそれを受け、考え込むような仕草を見せた。




「不疑よ、お前は確かに子房の息子だな。提案する内容が父親と似ておるわい。漢が楚を破って大陸を統一した間もない頃、わしは配下の者たちの功労に対して、どう報いればよいのか、決定が遅れていた。配下たちは報酬が貰えずに不満を募らせていたが、そのときは朕も忙しくてなあ……。彼らが不満を募らせていることに気がつかなかった」

「はあ……」

「あるとき配下の武将たちがたむろして何かを話し合っている姿を目にしたわしは、子房にあれは何事かと聞いたのだ。すると子房は、『陛下にはご存じありませんでしたか。あれは謀反を相談しあっているのです』などと答えたのだ。そこでわしは子房に、どう対処すべきかを問うた。すると子房は、わしが平素からもっとも憎んでいる男に褒美を与え、諸侯として封じなさい、と提案したのだ。そこでわしはそのようにすると、配下の者たちは皆、あの男でさえ封じられたのだから、と安心したのだ」

「以後、謀反を語らう場面には遭遇しなかった、ということですか?」

 劉邦は頷いた。そして彼は語を連ねる。

「朕が漢を大陸に設立した際、諸侯王として封じた異姓の者たちは、七名いた。楚王の韓信、梁王の彭越、淮南王の黥布、趙王の張耳、韓王の信、燕王の臧荼ぞうと、長沙王の呉芮ごぜいだ。彼らは皆英傑であったが、それぞれに危険だ。韓信を誅殺してしまったいま、彭越を助けることで他の者が安心することなど……あり得るだろうか?」

「燕王臧荼はすでに謀反してその座を追われ、陛下の御親友の盧綰ろわんどのが新たな王として君臨されていますから、謀反の心配はないでしょう。また、趙に関しましてもすでに代替わりして張耳どのから張敖どのへ、さらに陛下は張敖どのを宣平侯に格下げされて如意さまを王に据えておられます。韓王信は匈奴との戦いに敗れ、捕虜となったあとに亡命していまや匈奴の将軍です。長沙王呉芮は以前より陛下が信頼を置いている野心少ない人物……とあれば、いま彭越以外に危険を伴う人物といえば、淮南王黥布くらいのものでしょう。淮南王を手懐けるとすれば、彭越の赦免は必須です。ここで彭越を許さず、殺してしまえば黥布は必ず叛乱します。しかし陛下が望んで彼と戦いたいというのであれば、私もこれを黙殺いたしますが」

「わしもそのようなことは望んでいない。陳豨の叛乱で手一杯の思いだからな。陳豨は韓信の意を受けて叛乱を起こし、匈奴の将軍となった韓王信を巻き込んで、手のつけられない勢力となり得た。わしは、そのような苦労はもうご免なのだ」

「だとすれば、彭越は赦免するべきです。実際のところ、彼は謀反など起こしておりません」

 劉邦はしかしそのことをすでに承知しているようであった。

「そのことは確認している。しかし所轄の官吏は、話をしたこと自体が問題だというのだ。つまり不敬罪を適用すべきだと。このたびの彼らの態度は非常に強硬で、なんとしてでも彭越に死罪を与えたがっているように見える。おそらく、朕の望みがそこにあるだろうと勘ぐっているのだ。彼らも出世に必死だからな」

「さもありましょうが、陛下のお気持ちはどうなのです。やはり彭越には死をもって償わせたいとお考えなのですか」

 劉邦はこれに対し、即答してみせた。つまり、皇帝の考えは単純明快なのである。

「いや、王位を取り上げ、領国から切り離すことができればそれでよい。ある一定の財産を与えたあと、平民に下ろすのがいいだろう。列侯の位を与えてもよいが、それではやはり謀反の可能性が残る」

 不疑はいささか落胆した。命を取られることはなくとも、平民に格下げとは彭越にとってあんまりではないか。

「平民ですか……」

「仕方なかろう。韓信は王位を取り上げられて淮陰侯となったが、それでも謀反を起こしたのだ。列侯の身分などを与えれば、領民を煽動して叛乱を起こしかねない。土地の領有などは、認めないのに限る」

「では、決まりですな」

「うむ。彭越は流刑だ。そうだな……流刑地は蜀(四川)がよかろう」

 不疑はその決定に必ずしも満足ではなかったが、少なくとも死罪は免れることに安堵した。彭越には、野望を捨てた静かな暮らしを勧めるほかないだろう。彼は、念を押すように皇帝へ尋ねるしかなかった。

「官吏は、抑えられましょうか」

「わしは皇帝だ。なんでもできる」

 皇帝は力強く答えた。



「近々、正式に決定が下されます」

「わしは、蜀に流罪か」

 不疑の言葉に彭越は落胆した様子であった。

「命が取られることはありません」

「それはそうだが……しかし腑に落ちぬ。わしは、確かに自分のために戦ってきたが、そのわしの行動が漢を利する結果になったことは明らかだ。死ぬ思いをして戦ってきたというのに、平民に格下げ、おまけに流罪だという。このような結果になるとわかっていたなら、なにもしない方がよほどましであった」

 確かにこれは彭越の言うとおりである。不疑は彭越の心情を思い、同情せざるを得なかった。劉邦は温情的な態度を示して死刑を取り下げたが、こちらからすればそれは当然だとしかいいようがなかった。

「ですがここで妥協しなければ、さらなる災いを呼び寄せることになりましょう。梁王さまには将来の復権を望んでいただくしかありません。いまは、ただ静かに暮らしていただきたく思います」

「それはそうするより仕方あるまい。しかし、わしは諦めぬぞ。どうにかして名誉を回復しなければならぬ」

 彭越の言葉は自然なものであり、その発想も無理のないものであった。しかし、ここに揺るがしがたい事実がある。不当な刑罰は、自然に謀反を生むのだ。

 しかしこの時点で不疑にできることはなかった。彼は監獄の彭越のもとから立ち去ると、その日の宿に向かった。


 洛陽の城内は古都ならではの細い路地が連なっており、建造物は軒先を重ね合うほどの近さで並んでいる。その軒先が路地に影を作り、影には暗躍しようとする人間が生息するものであった。

 不疑は路地に足を踏み入れたところで、見知らぬ男たちに囲まれていることに気付いた。

「何者か。何の用だ」

 男たちは無言である。不疑は囲まれながら状況を把握しようと試みた。背後に二人、右に三人、左に四人、目の前に三人……どれも筋肉質で大きな体つきの男たちで、格闘では敵いそうにない。不疑は父親より背は大きいが、どちらかというと線が細い。取っ組み合いをして勝てる自信は全くなかった。

——剣を抜くべきか。

 そう思い、剣の柄に手をかけた。その瞬間に目の前の男が口を開いた。

「抵抗はするな」

 どうやらその男が一団の頭目であるらしい。不逞の輩には違いないが、その視線には凄みが宿されていた。

「貴様たち、この私を誰か知らないのか。留侯の長子、張不疑だぞ。列侯の身分は人臣の極みであり、貴様らなどが気安く声をかけられるような存在ではないのだ。にもかかわらず無礼を犯せば、私には報復する権利が保障されている」

 不疑は力を込めて言い放ったが、男たちに動揺する様子はなかった。

「それは、父親の話だ。貴様の父親は列侯だろうが、貴様自身は違う。列侯の息子のひとりに過ぎぬ。我々はここで貴様を捕らえるつもりだが、それは列侯よりも高い身分の方の命令によるものだ。さあ、おとなしくしろ」

 頭目の男が目配せをすると、周囲の輩が襲いかかる動きをした。不疑はついに剣を抜き、振り払ってひとりを斬った。

「私に触るな。またひとり、死ぬぞ」

 しかし男たちは不疑のこの行為に烈火の如く怒り、棍棒などを振りかざして激しく襲いかかってきた。不疑はそれをかわしたり、剣で受けたりしながら次にとるべき行動を模索し続けた。

——逃げるべきか。

 だが列侯よりも大きな存在がこの襲撃を計画しているとなると、この場面を逃げ切っても次があるに違いない。だいいち、彼は自分がこのような扱いを受けることに慣れていなかった。大きな怒りを感じ、相手を打ち据えたいと望んでいたのである。

 しかし次第に腕や足に打撃を加えられ、抵抗が難しくなってきた。いよいよ危ういと感じたとき、彼は奇跡的に救われたのである。

 ひと筋の矢が頭目の男の眉間に吸い込まれた。男は物も言わずに倒れ、慌てた一団は結束を乱した。

「何をしている! そこを動くな」

 路地に怒声が響き渡った。危険を感じた一団は素早くその場を立ち去ろうとしたが、逃げ道を数名の武者によって塞がれ、彼らは立ち往生したのである。

「捕らえて連行せよ。命じた人物の名を吐かせるのだ」

 武者たちの指揮官とおぼしき男は、不疑に近寄り声をかけた。

「怪我をしているな。我々と一緒に来て養生した方がいい。医者を呼ぼう」

 その人物は、髪の毛や髭に多少の白い物が混じっていたが、まだ壮年と呼ぶべき年頃のようで、動きや体つきに力感がみなぎっていた。日焼けしたあとが目立つその肌には、歴戦の経験が皺の形をとって刻まれているように見えた。

「危ないところを助けていただき、ありがたく存じます。失礼ながら、あなたは……?」

 男は誇る風でもなく、静かな口調でこれに答えた。

「うむ。身分は穎陰侯えいせんこう。姓名は灌嬰かんえいという。若い頃は、淮陰侯とともに諸国の制圧に尽力した。しかし、君のお父上の功績には遠く及ばない。張子房さまは、最高の軍師であった」

「あなたが、穎陰侯灌嬰さまですか……」

 灌嬰は、配下の武者たちを指揮する傍ら、不疑の話し相手をしている。その様子には手際の良さが目立ち、まるで彼らが事件を起こすことをあらかじめ知っていたようであった。

「私を襲った者たちは、一体何者なのですか」

「詳しくは尋問してからでないとわからぬが、間違いなく審食其しんいきから命じられた者たちだろう」

 ここで灌嬰は、審食其という人物の名を口にした。不疑にとっても初めて聞く名前ではない。漢に派閥があるとすれば、紛れもなく呂后派の男である。

——ややこしいことになった。

 不疑は彭越を弁護することで、どうやら呂后を敵に回したらしかった。



 痛めた手足を擦りながら、不疑は灌嬰の相手をした。場所は、洛陽城内の公設宿舎である。

「いろいろな意味で、目立ちたくないのでな」

 列侯たる身分からすれば、もっと格式のある屋敷を仮住まいとすることもできるのであろうが、彼はそれを好まなかったという。だからこそ、審食其配下の者たちの動きを牽制することができたのだろう。

「陛下のお供でこのたびは洛陽を訪れたが、私自身の観点から申せば、今回の彭越逮捕には反対であった。しかし、我々はお上のなさることには逆らえないのだ。できるだけ穏便な方法で事態を収拾したいと思っていたところに、君が現れた」

 灌嬰は穏やかな口調でそう話した。だが、その話の内容には不疑の関心を引き寄せるものが詰まっている。

「なぜ、穎陰侯さまは梁王の逮捕に反対だったのですか?」

 手始めに不疑はその点から質問を始めた。呂后から睨まれていることがわかった今となっては、できるだけ味方は作っておきたい。灌嬰が彭越の逮捕に反対だったという事実は、彼にとって一筋の光明であることに違いなかった。

 だが、質問を受けた灌嬰は、ひどく自嘲的な表情でこれに答えた。

「端的に言えば、二度同じ間違いを犯したくないのだ。私は以前、淮陰侯のもとで戦果を挙げた。垓下で項羽を包囲し、追い詰めて自害せしめたのは、紛れもなく私の部隊による最高の戦果だ。しかしそれらはすべて、淮陰侯の立案と計画によって成された結果だ。当時の私は彼のことを信奉していた。しかし……時の流れが……私は呂后の命を受けた相国蕭何の依頼によって、淮陰侯を騙した。造反を計画していた彼のもとに使者として赴き、騙して宮殿におびき寄せたのだ」

「……その結果、淮陰侯は誅殺されてしまった」

「その通りだ。使者として赴いた瞬間にも、私が彼を信奉していた事実に変わりは無かった。しかし当時の私は認識が甘かったよ。まさか皇妃が天下随一の功績者を誅殺するなど、思いもよらなかった。だが、今それは繰り返されようとしている」

 灌嬰は苦々しげにそう述べた。彼は、呂后が政治を攪乱していると言いたいようである。しかし声を大にしてそれを言うことはできないので、密かに手を回して先手を打とうとしていたのだ。

「しかし彭越を助けようとする君の動きも封じられようとしている。今回は寸前でそれを阻止することができたが、次回がないとは言えない。陛下に訴えて皇妃の動きを掣肘することはできるが……皇妃は増長して陛下の意見さえもまともに聞かなくなってきている。よって、陛下は太子を廃嫡することで、呂后の権力の礎を破壊しようとしているのだ」

 ここで再び太子の廃嫡問題が話題にあがった。しかし、不疑が思うに太子を廃嫡しても呂后が皇妃である事実に変わりは無い。だとすれば、そのような措置はただ恨みを生むだけであろう。呂后が恨みを晴らそうとすれば、皇帝との不和が生じて国政は混乱を極めるのではないか。

「陛下のご意思には賛同しかねます」

「それは私も同感だ。皇妃を罰せず、罪のない息子を罰するというのは、人道としてあるべき姿ではない。しかし陛下は楚との戦時中、妻に虜囚の屈辱を与えてしまったことに後ろめたさを感じているのだ。だから彼女には、面と向かって大きなことを言えない」

「だからといって……」

「うむ。いずれにしろ呂后のこれ以上の専横は妨げなければならぬ。陛下は彭越の王位を取り上げれば満足なさるであろうが、呂后は殺さなければ気が済まぬであろう。なにしろ淮陰侯を亡き者にしたことで彼女の気勢は上昇する一方なのだ」

 淮陰侯を誅殺することで、王朝の将来の不安を取り除いたという実績があることは事実である。事態の経過はどうあれ、淮陰侯が謀反を計画したことは事実なのだから……。皇帝は、呂后の独断に苦々しい思いを感じてはいたが、結果には文句をつけていない。しかし皇帝が意思をはっきりしなければ、これから先不安に駆られた諸侯たちは叛乱を起こそうと考えるのではないか。

「くれぐれも、彭越には暴発するなと言ってほしい。まもなく刑は執行されるが、甘んじてそれを受け入れることを君に説得してもらいたいのだ」

 灌嬰はそのように述べ、不疑はそれに頷いた。しかし、そのことは不疑自身もすでに承知のことである。彼は、彭越の名誉回復のためにも案を練らなければならなかった。



「呂后に頭を下げろというのか!」

 彭越はいらだたしげに叫んだ。不疑としても建国の英雄に頭を下げさせることなど、本意ではない。しかしすでに名誉を失っているのだから、見栄を張っている場合ではないだろう。

 幸い、呂后は長安から洛陽に向かう最中であるという。最低でも呂后に殺されないためには、頭を下げて取り入る方がよいであろう。淮陰侯韓信は呂后に毒づいた結果として殺されたのだから、彭越としてはその轍を踏むわけにはいかなかった。

「仕方あるまい」

 これによって彭越の態度は定まった。流刑地で叛乱を計画するのではなく、なんとか呂后に頼んで刑を減免してもらおうというのである。

 彭越は、流刑地である蜀への道中、ていという地で呂后の一団と遭遇した。

「梁王さま、今です。拝謁して跪くしかありません」

 不疑は彭越を急きたてて、強いて呂后の面前に立たせた。あろうことか、二人の面会は道端でなされたのである。

「皇妃さま……!」

 彭越の態度は深刻そのもので、後方で見ていた不疑はその出来に満足した。彼は跪いたあと涙を流すまでやってのけ、呂后もそれには驚きを隠せない様子であった。

「このようなところで呼び止めて……何用ですか」

 当惑した様子の呂后であったが、毅然とした物言いは健在である。見ているだけの不疑が背筋の凍る思いをしたくらいであったから、当事者たる彭越の緊張は推し量ることが出来ないほどであっただろう。

「このたびわたくし彭越は、陳豨討伐の任を受けながら病気のため参戦できず、そのため梁王の座を追われ、平民として蜀の地に流されようとしております。我ながら……この身があまりにも哀れで、皇妃さまのお慈悲にすがりたいのでございます」

「この私に、貴方に課された刑の減免に協力しろと言うのですね。少々厚かましくはありませんか。あまりにも突然すぎます」

 嫌味を言われた彭越であったが、当然このくらいで引き下がるわけにはいかない。彼は食い下がって罪の減免を申し出た。

「病気であることは事実ですが、わたくしは見ての通りすでに老齢です。前線に赴いても役立つことはありません。しかしそれが罪であるならば、平民となることは受け入れる覚悟でございます。が、できることなら蜀ではなく故郷の昌邑しょうゆうで余生を過ごしたいのです」

 その言葉を受けた呂后はひとしきり考え込む表情を見せたが、やがて何を思ったか一人得心するように頷くと、

「わかりました。いいでしょう」

 と言い放った。

 これを聞いた彭越は素直に喜びを表し、何度も汚らしい地べたに頭を擦りつけた。

「洛陽に向かうつもりでしたが、あなた方にもご一緒してもらいましょう」

 呂后のその言葉を聞いた際、不疑は自身の策が実ったことを誇りに思った。

——賭けに勝った。

 これにより、自身も呂后に睨まれることもなくなるだろう、そのときはそう思ったのである。


 だが、その思いは覆された。呂后は彭越を伴って洛陽入りすると、ひとり皇帝に面会を求め、次のように述べた。

「彭越は老いたとはいっても、勇猛さを自慢とした男です。今彼を蜀に流してしまうと、それこそ災いの種をまくことになります」

 これに対し、皇帝は尋ねた。

「では、后はどうするべきだというのか」

 呂后の答えは明確であった。

「殺してしまうに限ります」

「………………」

 一度は助命を決めた皇帝は、さすがに決断を迷った。しかし用意周到な呂后は、部下の者に彭越の新たな謀反計画が存在することを報告させ、この場面を押し切ったのである。

 結局彭越には死罪が言い渡された。


「不疑どの、逃げろ。わしの一族はすべて殺される運命にある。せめてもの願いは……君を巻き添えにしたくない。父上のもとに身を寄せれば、しばらくは帝室も手を出せまい」

「しかし……」

 不疑は彭越の顔をまともに見ることが出来なかった。自分がよかれと思って示した策が、彼を殺す羽目になってしまったのだから、当然であろう。

「お役に立てず、残念です」

 生に執着していた彭越であったが、このときはさすがに覚悟を決めたのだろう。もはや見苦しく騒ぎ立てることはしなかった。

「すでに一度助けていただいた。こうなることは、運命だったのだろう。早く洛陽を離れて身を隠せ。すでに君は審食其に目をつけられている。報告が呂后のもとにもう届いているかもしれない」

 官吏たちが現れ、二人の会話はそこで中断された。彭越は目で不疑を追い立て、立ち去るよう促した。やむなくその場をあとにした不疑であったが、すぐには洛陽を立ち去ることが出来ず、しばらく自分に出来ることはないかと無駄な知恵を働かせていた。


 しかしやがて刑場の前の門に彭越の首が晒されていることを知ることとなった。衆生監視の中、彼はそれを見ても声を出すことが出来ず、ただひたすら心の中で叫ぶばかりであった。


——こんな馬鹿な! このような暴挙、許されるはずがない。王朝権力の私物化とは、このことだ!

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