夏の宵にコンと鳴く

猫屋ちゃき

夏の宵にコンと鳴く

 疲れて、疲れ果ててたどり着いた神社の階段で、詩緒しおは目を閉じた。

 眠れなくてもこうしてしばらく目を閉じていると、疲れが少し和らぐのだ。忙しい日々の中で見つけたちょっとした裏技で、仮眠すら取れない激務のときはよくこうして目を閉じて休む。

 でも、効果があるのは肉体的な疲労の場合だけだったらしい。

 気持ちのすり切れは目を閉じたくらいでは癒えてくれず、気がつくと涙があふれていた。

 岩の間から水がしみ出るように、涙は閉じた瞼の間からどんどんにじんでくる。そのうち目の縁に溜まったものが、睫毛を伝って頬や唇に落ちていく。

 それでも詩緒は、意地で目を開けなかった。涙を拭わなかった。

 目を開けて涙を拭ってしまえば、泣いていることを認めることになる。傷ついて、心が痛くて、それで泣いてしまっているのだと。

 あくまで疲れてここに座っているだけ。疲れが少しでも癒えたら、また歩きだすのだ。

 そんなふうに自分に言い聞かせながら、詩緒は頑なに目を閉じて涙を流しつづけた。

 そのうちに、まどろんでいた。



 チントンシャン トンチンシャン チトシャン ……



 たゆたう意識の向こうで、詩緒は祭り囃子ばやしの音を聞いた。

 その音は、遠ざかったり近づいたり、つかみどころなく聞こえている。

 それを聞くともなしに聞きながら、詩緒はずっと昔の、子供の頃の不思議な出来事を思い出していた。



 そのときも、詩緒はこの神社の階段で泣いていたのだ。

 親の転勤で引っ越してきた町。

 ど田舎とまではいかないけれど、排他的で、閉鎖的な場所だ。それは子供の世界ではより顕著で、詩緒は引っ越してきてすぐ、あっという間に爪弾きにされた。

 爪弾きにされるだけなら、まだよかった。毎日いわれのない暴言を浴びせられ、無視され、せせら笑われた。

 子供の閉じた小さな世界の中でそれはとても由々しきことで、日々詩緒の心はすり減っていった。

 そんなある日、どうしても耐えられなくなって、まっすぐ家に帰りたくなくて、詩緒はこの神社に駆け込んだのだ。

 まつられているのかいないのか、よくわからないくらい寂れた神社だった。でも誰にも会いたくない詩緒にとっては都合がよく、たまたま見つけて助かったという思いだった。

 家に帰れば、母がいる。母の前で泣けば悲しませる。父の耳にも入って心配される。

 それが嫌で、詩緒には泣ける場所が必要だったのだ。

 ひんやりとした石の階段に座り、詩緒はさめざめと涙を流した。

 自分を哀れむための涙ではなく、悲しいのだと誰かにわからせるための涙でもなく、ただ必要にかられての涙を。

 傷つき、パキパキとひび割れた心を修復するそのために、詩緒は思いきり泣いていた。

 すると、聞こえてきたのだ。



 チントンシャン トンチンシャン チトシャン



 怖いような、そちらへ行ってみたいような気がして、詩緒は音の出処を探った。でも、聞こえたと思うと遠ざかり、近くで聞こえるのに姿を見ることはできない。

 もしかして、音は階段をのぼりきった先、神社の境内のその向こう、森から聞こえるのだろうかという気がしてきた。そう思うといよいよ確かめたくなって、詩緒は立ち上がった。ところが――。


「そっちへ行ってはいけないよ」


 凛と、よく通る澄んだ声が耳元で聞こえた。気がつくと、すぐそばまで誰か来ていて、そっと肩を抱かれていた。


「……誰?」

 

 肩を抱いているのは、若い男だ。


「こわくない、こわくない。おキツネさんだよ」


 やたらに顔の整った男は、そう言って手でキツネを作ってみせた。


「……キツネさん」


 涼しげな目元をほころばせて柔らかく笑うその男の頭には、三角のふさふさ耳が生えていた。もしやと思ってお尻のほうを見ると、ふっさりとした尻尾が揺れていた。


「あの音について行ってはいけないよ。あれは狸囃子たぬきばやし。人の子が関わるものじゃない」

「はい……」


 キツネの男は、笑顔で話した。でも、紅をさした目元があまり笑っていないように見えて、詩緒は少し怖くなってうなずいた。

 本当は狸囃子がどんなものなのかとか、どうして関わっちゃいけないのか尋ねたかったけれど、とても聞ける雰囲気ではなかった。


「お前、泣いていたね。どうして?」


 男はまた優しい顔に戻って尋ねた。肩を抱いたまま座って、詩緒を膝の上に乗せてくれる。


「えっと……」


 今日泣いていた理由を説明しようと、詩緒は一生懸命言葉を探した。

 つらいことならたくさんある。でも、今日まで耐えられたことが耐えられなくなったのは何だったのだろうかと、そう考えたのだ。そして、ひとつのことに思い至る。


「……かわいくない、いらないって言われたの。それで、肩をドンッてされた……」


 詩緒は言いながら左肩を押さえた。まるでその部分が、まだ痛むとでもいうように。


「それはひどい。一体、誰にそんなことをされたんだい?」


 キツネの男は眉間に皺を寄せ、心底悲しくて怒っているという表情をしてくれた。そのことに、ほんのちょっぴり詩緒の心は救われる。


「クラスの男子。今日まで私をいじめたりしないで、あいさつとかはしてくれてたんだけど……そのことを冷やかされたのが嫌だったみたいで……」

「ああ、親にやられたのではなかったのだね。よかった。もしお前の親がそんなことをしでかす愚か者なら、お前をさらっておれのものにするところだった」


 男はそう言って詩緒の髪を撫でる。そして愛しくてたまらないというように、その髪に頬ずりをした。


「それにしても、ひどい子供だな。そんな悪者には罰を与えねば。お前を小突いた手を腐り落としてやろうか? お前の愛らしさがわからぬ目をえぐり取ってやろうか?」

「ううん……そんなこと、しなくていいよ」

「お前を毎日いじめる悪童どもも、こらしめなくていいのか?」

「い、いい」


 笑っているのに目がまったく笑っていないのに気がついて、詩緒は何度も何度も首を横に振った。これは冗談では無く本気だと、その目を見ればわかった。


「それにしても、その小僧の目は節穴だね。こんなにかわいいというのに。今すぐおれがもらってしまいたいほどだ」


 すり、すりと男は詩緒の小さな頭に頬ずりする。

 出会ってすぐの、しかもキツネ耳と尻尾が生えている男に頬ずりされるのは、普通ならすごく怖いはずだ。でも、詩緒は不思議と恐怖も嫌悪も感じていなかった。

 それはたぶん、他者に激しく拒絶される日々の中で、誰かに求められることが嬉しかったからだろう。


「……本当に? 本当に私のことをかわいいって思う? 私のこと欲しいの?」


 慰めが欲しかったのか、すがるように詩緒は尋ねていた。そんな詩緒の目を見つめて、男は深々とうなずく。


「もちろんだとも。お前はかわいい。おれはお前が欲しいよ」


 そう言った男の声があまりに優しくて、全身に痺れが走るみたいに嬉しくて、気がつくと詩緒は泣いていた。でも、今度の涙はしょっぱくなくて、あたたかかった。


「よしよし。今日まで、その小さな心でよく耐えたね。よくこらえたね。そんなお前に印をあげよう。おれのものだという印だよ。これをつければ、どこにいてもお前がおれのものだとわかる」


 男は詩緒の涙を指先で拭うと、前髪越しに額に口づけた。チュッと音を立ててすぐ離れたのに、詩緒は初めてのことに驚いて顔を真っ赤にした。


「これで自信を持つんだ。お前は誰にも欲しがられない子ではないよ。おれが欲して、おれのものにした子だからね。さあ、宵が来る前においき」


 まだ驚いて赤くなったままの詩緒を膝から下ろすと、男はポンと詩緒の背を押した。

 押された拍子に身体が前のめりになり、トントントンと階段を下りていってしまう。

 そしてそのまま、夕暮れの赤い道を家まで駆けて帰ったのだ。


 不思議な、それでいて優しい思い出だった。この思い出をおぼろげに覚えていたから、大人になった詩緒は傷つき疲れ果て、この神社に再びたどり着いたのだろう。


 あれからそう経たないうちに、詩緒はこの町から引っ越した。親が気を使ってくれたのか、仕事の都合だったかはよく覚えていない。でも、あのつらい日々から脱することができたのだ。それで、キツネ男のことも忘れてしまっていた。

 忘れていたはずなのに、傷ついた詩緒は気がつくと電車を乗り継いでこの神社を目指していたのだ。




 目を開けても、まだ祭り囃子は聞こえる。近づいてはいけない、狸囃子の音が。

 どこから聞こえるのだろうと、詩緒はついあたりをキョロキョロしてしまった。


「あの音についていってはいけないよ」


 凛と、澄んだ声が耳元でして、詩緒ははっとなった。振り返ると、すぐ後ろにあの涼しげな美貌の男がいた。


「キツネさん……」

「ああ、おキツネさんだよ」


 ふさふさの尻尾と耳は相変わらずで、手でキツネを作ってみせて笑っている。それがおかしくて、詩緒はつい笑ってしまった。


「お前、また泣いていたね。また誰ぞにいじめられたのか?」


 男は心配そうな顔をして、詩緒の目をのぞきこむ。その目に浮かぶ優しさが嬉しくて、詩緒ははすんと鼻をすすった。


「……長く付き合った彼氏に浮気されて、その上『お前なんかいらない』って言われたの……」


 結婚資金を貯めるために頑張っていたのになあとか、結構尽くしたのになあとか、でも結局相手の女の子の若さの前には無力だったなあと思うと、またじんわり涙が出てきた。

 たかが恋愛だけれど、信頼を築くためにかけてきた時間や労力を振り返るとつらいものがある。それに何より、相手を大切に思っていた部分を踏みにじられたようで、胸が痛い。


「そうか。それは悲しかったな。それにしても、物の価値がわからん男だ。くたばればいい」


 男は眉根を寄せ、詩緒の心に寄り添うようなことを言ってから、その口で辛辣な言葉を吐く。それがおかしくて、嬉しくて、詩緒はまた声を立てて笑った。


「どうする? その愚かな男を滅してやることはできるが」

「ううん、しなくていい」


 きっと本当にこの男がやってくれるということがわかって、詩緒は首を振る。そう言ってもらえただけで、ずいぶん気持ちが楽になった。

 何より、そんなことを言ってくれるのは自分を欲してくれた人だ。それが嬉しい。


「では、何かお前の願いを叶えてやろう。かわいいお前の胸がすくように」


 美貌の男は、真剣な顔で言う。

 子供のときに見たときは不思議な格好だと思ったけれど、今ならわかる。男は真っ白な水干すいかんを着ているのだ。耳のせいか、烏帽子えぼしはかぶっていない。それでも十分、格というものを感じられる。

 男は、大人になった詩緒の目には神様のように見えた。ちょっぴり軽装の神様だけれど。


「あなたは、神様ですか?」


 答えなんてどうでもよかったけれど、詩緒はたずねていた。幼いあの日、傷ついた詩緒の心を救ってくれた男のことを知りたくて。


「お前がおれを神とするならな。誰が神かということは実はさほど重要ではない。人の子にとって大切なのは、己が誰を神とするかということなのだ」


 男はやはり、よくわからないことを言う。それでも、詩緒はよかった。


「それで、お前の願いは何だ?」

「……幸せに、なりたいです」


 少し悩んで、詩緒は答えた。

 男はきっと、手を腐り落とさせたり目をえぐったりするほうが得意だろう。でも、詩緒の中に誰かを不幸にしたいという願いはなかった。


「あい、わかった。お前が望むなら、その願いを叶えよう」


 男は困った顔をするかと思いきや、晴れやかに笑ってうなずいた。このくらいの願い、お安い御用というわけらしい。


「お前、名は?」

「詩緒です」

「では詩緒、これからおれの言うことにきちんと返事をしなさい。それで詩緒は幸せになるからね。――詩緒、おれのものになるか?」


 男の不意打ちの質問に、詩緒は目を見開いた。でも、意味がわかってうなずく。


「はい」

「『はい』ではだめだ。返事は『コン』と言いなさい」


 頬を染める詩緒に、男は柔らかく笑って言う。だから詩緒も笑ってうなずいて、「コン」と返事をした。


「これから、どうしますか?」

「おれは、詩緒とずっと一緒だ。詩緒を幸せにするために、詩緒の望むことをして、詩緒の嫌がることは決してしない」


 当たり前のように答えるけれど、それはなかなかできないことだ。でも、きっとこの男なら言った通りにしてくれるのだと信じられて、詩緒の胸はあたたかになる。

 ただ、大切にして欲しい――その願いを叶えてくれる相手なのだと、無邪気に信じることができたのだ。


「じゃあ……帰りましょうか」


 顔を赤くしたまま、詩緒は思いきって男の手を取る。男はとろけるような甘い笑みを浮かべて、その手を握り返した。

 それからふたりは、手を繋いで石の階段を下りて、宵のはじまる道を仲良く連れ立って歩いていく。

 夏の明るい星々が、そんなふたりを照らしていた。


 聞こえていた狸囃子は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

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