三.秋祭りの準備(一)

 不思議な夢を見た翌朝。

 霧はすっかり晴れ、雲一つない青空が広がった。まさに秋晴れ。霊峰の山頂もくっきりと空に映えていた。

 ニーナと朝食をとったあと、僕はお宮に向かうまでの時間、昨日ロクのおなかの下で見つけた『お品書き』を菓子箱から出して眺めていた。

 ハガキ大の厚みのある紙に書かれているのは、僕が口にした事のある料理がほとんど。けれど、中には料理名からは想像できないものもある。

  その日の献立の最後には、必ず一つ野草の絵が描かれていた。

(紫陽花はわかる。これは――)

 ひとつひとつ花の名前を当ててみようと試みたけど、結局僕には名前のわからない花の方が多かった。

 お品書きを眺めていると、流れるような筆で書かれた繊細な字と、薄い色彩で描かれた淡い野草たちの絵からは、祖母の人柄が滲み出てくるようだった。

(ばあちゃん、本当にここを大事に思ってたんだな)

 僕はその気持ちを無駄にしたくないだけだ。

 この古民家が少しでも長く、祖母の思いと共にここにあり続けるように。

「カズキ。そろそろ行こうよ」

 朝食のあと、客間で何か作業をしていたニーナが、居間に顔を出した。

「うん。行きますか」

 僕はお品書きを菓子箱の中に戻して立ち上がった。


 ***

 

 ニーナがカメラを片手に境内を歩き回っている。時折近くのおじさんと話をしたり、メモを取ったり。『季刊霊峰』に載せる、連載コラムのための取材を進めているのだ。

 ニーナの頭の上に、昨夜見た半透明の耳は見当たらない。

(やっぱり少し酔ってたみたいだ)

 幻覚で猫耳を見てしまうとか。僕はそんなに猫が好きだったっけ。

 僕の視線に気づいたニーナが手を小さく振った。それに振り返して、僕は手元に視線を戻した。

 藁の匂いが立ち込める境内で、数人の祭り当番のおじさんと僕は、大きな注連縄しめなわを作っているところだった。

 この日はさすがに。総代である分家のおじさんも参加して、何かと指示を出していた。おじさんはこういう時、俄然やる気を出して張り切るタイプのようだ。

 僕の力はここでも頼りにされた。藁束わらたばを継ぎ足し継ぎ足し長くして、捻じった藁が元に戻らないようにしっかり持っていなければならない。これは思った以上に大変な作業だった。

 こうやって技術は受け継がれていくのだろうけど、地元の若者ではない、僕みたいなのが受け継いでも意味がない。藁束を力いっぱい捻じりながら、僕はそんな不信心なことを考えていた。

 このお宮に祀られている神様。ご神体は霊峰だ。祀られているのは――なんていう神様だったっけ。

 ご祭神も知らない僕が、総代の名代として祭りの準備に関わってるなんて、少し怖い。神様の罰が当たりはしないかと心配になってしまう。

 田舎のお宮は、それだけ、神域というものを感じさせる厳かな雰囲気が漂っていた。

 この日はまだ、白い狐も三毛猫も現れる気配はなかったけれど、僕はどことなく怯えて過ごしていた。

 宮司さんは不在のようだ。神職の人手不足から、宮司は複数のお宮を掛け持ちしている。さくらさんも例外ではなく、この日は受け持っている別のお宮に行っていた。宮司さんがいない社務所は、本当にむさくるしくて味気なく思ってしまう。

「遅れてすみません」

 注連縄に最後の捻りを加えようと力を込めた時、社務所の引き戸が開けられるのと同時に、静かな声が部屋に入って来た。

「おお、ゴローさん。待ってたで」

 祭り当番のリーダーである鈴木さんが、その声の主に声をかけた。僕は初めてみる顔だった。少なくとも当番の集まりでは初めてだ。

「すみません。やっと仕事抜けられて……」

 ゴローさんは静かな声のまま、申し訳なさそうに頭をかいた。

「仕方ねえ。ゴローさんは町の役場に勤めてんだから」

 当番のおじさんのうちの一人がそう言って慰めた。

「注連縄の最後だけでも手伝ってくれたらいいさ」

「はあ」

 ゴローさんと目が合った。不思議そうに僕を見ている。

「ああ。和希は総代さんとこの親戚で、総代さんの名代を務めてくれているんだ」

 リーダーの鈴木さんが、そう僕を紹介した。

 ゴローさんは「ああ」という顔をして、

「お世話になります。森野といいます」

「あ、どうも。永森です。よろしくお願いします」

 僕とゴローさんは丁寧に会釈し合った。

 それを見たおじさん連中は大笑い。鈴木さんはゴローさんの背中をバンバン叩いている。

「どっちも真面目だなあ。ゴローさんも和希も、もっと気楽にいこうや」

「はあ」

 ゴローさんは困ったように笑った。きっと彼も、おじさんたちの間で苦労してきたに違いない。

 藁のせいか砂埃のせいか、鼻のムズムズが止まらなくなってきた頃、ようやく完成した。簡単に注連縄を作るっていうけれど、なかなかの重労働だった。

 そのあと数人がかりで、鳥居の上に真新しい注連縄を取り付けた。その脇では、ニーナが楽しそうにパシャパシャ写真を撮っては、「すごいすごい」と繰り返している。

 その時も分家のおじさんが、左が下がっているだの、上がり過ぎているだの、他のおじさんたちから煙たがれないかと心配になるくらい、いろいろ指図していた。

 当番のおじさんたちは気にならないのか、もうそういう人だと諦めているのか。指図を受けて笑いながら作業を続けている。

 なかなかのチームワークだった。

 おじさんたちが雑談を始めたのを見て、僕はまた長い参道を境内へと戻った。

 ここは登山道への入り口にもなっているから、ちらほら登山客も歩いていた。普段まったく人がいないお宮とは思えない。

 境内に戻ると、ゴローさんが竹箒で、散らばった藁を片付けていた。

 僕はもう一本、社務所の壁に立てかけてあった竹箒を持って、ゴローさんがまだ掃いていないほうから掃き始めた。そんな僕の様子に、ゴローさんはちらっと視線を送って来たけど、またすぐ手元に意識を戻したみたいだった。

 その後しばらく、僕たちは黙々と、竹箒を動かし続けた。

(ゴローさんやおじさんたちは、狐や三毛猫、見たことあるのかな)

 訊いてみたい気もするけれど、あると言われても、ないと言われても、どちらの反応でもちょっと怖いと思ってしまう。

 結局声をかけることができないでいると、

「永森さんはいつまでここにいるんですか?」

 ゴローさんが箒を動かしたまま、不意に話しかけてきた。

「え? えっと。たぶん年末くらいまでかと」

「お仕事、何されてるんでしたっけ」

「あー。僕、今は無職なんです」

「そうですか」

 そこで会話は途切れ、境内にはまた、竹箒が地面を掃く音だけになった。

 僕が無職だと知って、彼が何を思ったのかはわからなかったけれど。

(何か平和だなあ)

 このまま不思議なことが起こらなければいい。僕は心の底からそう願った。

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