二.初めてのお客様(三)
「えっと……。ニーナさん、包丁使える?」
夕食の準備を始めた僕に、ニーナは手伝いを申し出てくれた。
「私が使えると思う?」
なら、なんで手伝うって言ったんだろう。
「じゃあ、ジャガイモの皮剥いてください」
「わかったわ」
ニーナもあまり料理はしないんだろう。ピーラーの扱いすら危なっかしくて見ていられない。
「でも、あなたも人のこと言えないわね」
ジャガイモの皮を厚めに剥きながら、ニーナが僕の手元を怖そうに見ている。
そう。僕もニーナに文句は言えない。だって、左手の猫の手もままならず、まるで薪割のように、人参をダンダンまな板に打ち付けているんだから。
ニーナが溜め息を吐いたのがわかった。
とりあえず、今日のところは食べられる物ができたらいい。
ニーナも同じことを思っているのか、
「お腹に入れば、すべて良しよ」
と、気楽なことを言ってくれる。
野菜を切り終わると、いよいよ肉を焼く。
ホットプレートの上でいい音を立てる肉に、ニーナはうっとりしている。
醤油とみりん、人参とタマネギをすり下りしたのを合わせた焼肉のタレを取り皿に注いで、あとは肉が焼けるのを待つだけだ。
僕は焼けるのを待つ間、さっき見つけたお品書きを見ていた。僕が想像できないような料理名もあったりするけれど、たいていは祖母がよく作ってくれた料理だった。
「でもやっぱり、これを僕が作るとか想像できないな」
ニーナは微笑んだだけで、何も言わなかった。
しし肉がいい感じに焼けて来た。
「よし。カズキ、食べよう!」
「うん。いただきます」
しばらく僕たちは、しし肉と野菜たちに舌鼓を打った。
しし肉は焼いても柔らかく、まったく筋がない。畑や田んぼを荒らして困る猪も、こうして美味しくいただけば立派なご馳走だった。
どこで見つけたのか、ニーナの側には地元の銘酒の一升瓶が置かれていた。少し辛口の、深みのある味わいが人気の日本酒だった。
「ニーナさん、それ、どこにあったの?」
「まあ、まあ。付き合いなさいよ」
「僕、そんな呑めないんで」
実際、お酒はある程度は飲めた。けれど、あまり好きではない。昔やらかした痛い失敗を思い出すからだ。ちなみに、煙草は体質的に合わないので一切吸わなかった。
「一杯だけ付き合ってよ」
「仕方ないなぁ。一杯だけですよ」
僕はしぶしぶグラスに三分の一程度お酒を注いだ。ニーナはその量が不満なのか目を細めたけれど何も言わなかった。
「それじゃ、出会いに乾杯ね」
「はあ」
ノリの悪い僕にかまわず、ニーナは一人で盛り上がっている。
「焼肉も悪くないわね」
ニーナは肉とお酒を交互に口に運びながら満足そうだ。
「そんなに喜んでもらえたら、ご馳走したかいがあったというものですよ」
「おばあさんの田舎料理も懐かしいけど、こういうのもいいわ」
「そうですか」
「カズキは、おばあさんの料理で何が一番好きだった?」
そんなことを訊かれても何も思い浮かばない。
「考えたこともなかった……」
祖母の料理で覚えていると言えば、田植えの時のやたら品数が多いお昼ご飯のこととか、稲刈りの忙しい合間を縫って作ってくれたおはぎのこととか。何か行事と関連付いた料理のことが多い。細かいメニューは正直あまり覚えていなかった。
「これだから、おとこのこは」
次第にニーナの
「はあ、すんません」
「カズキの作った美味しい料理、食べたいなあ」
「酔ってるからって無茶言わないでください」
「酔ってないわよう」
僕はさりげなく一升瓶を僕の背中の後ろに隠した。彼女はそれに気付かず、まだ僕に料理しろと勧めている。
(できるなら、とっくにやってるから)
料理に向いていないのは、自分が一番わかっているんだ。
「そのうちね。楽しみにしているわ」
最後のしし肉をニーナの皿に入れてやると嬉しそうに笑った。その拍子に、ニーナの頭の上に、ピョコンと二つ、三角形の耳が現れた。
「え?」
「どうしたの?」
僕があんまりまじまじと見ているので、今度は不愉快そうに口をすぼめている。
お喋りな上に、表情もコロコロとよく変わる人だった。
「ニーナさん。頭に耳が……」
「みみ?」
はっきり見えているわけではなかった。ニーナの後ろの壁が透けて見えるくらい、ぼんやりしている。
「ここ。ここに耳、生えていますよ」
僕が伸ばした手を、ニーナは酔っているとは思えないくらいの素早さで掴み、
「そんなことより布団敷いて」
と言って、食卓に突っ伏してしまった。
「うわあ。ちょ、ニーナさん?」
こんな所で倒れられたら困る。
「仕方ないなあ」
僕は客間に布団を敷いてから、ニーナを抱き上げて運んだ。彼女は細見だったけれど、その見た目以上に軽かった。
(ちゃんと食べてるのかな)
なんだか心配になりながら、ニーナを布団に寝かせた。
掛布団をかけてあげる時に見ると、彼女の頭の上の耳はもうなくなっていた。今となっては、本当に見えていたのかもわからない。
(久しぶりに飲んだから、僕も酔っちゃったかな?)
もしくは疲れがたまっているのか。
「片付けしたら、僕も寝よう」
今夜のお風呂はシャワーで済ませて、早々に眠ることにした。
土間の台所で洗い物をしてから様子を見ると、ニーナはすっかり熟睡しているようだ。
「おやすみなさい。ニーナさん」
なんとなく二階で一人寝するのが寂しくなって、僕は居間に自分の布団を持って下りた。
今まで人がいたせいか、昨日よりも温かく感じられる。
(初めてのお客がニーナさんで良かった……)
ちょっと変わっているところはあるけれど、この家のことを好きで、訪ねて来てくれたことが嬉しかった。
(僕だって、ここが好きだよ)
でも、ここで生きていく自信はない。
こうして、たまに来て、掃除して、おじさんの手伝いして……。
そのくらいがちょうどいいんだ。
眠りに落ちる前に、梟の鳴き声を聞いた。
ホウ……。ホウ……。
あの梟かな。
今度はどこの木の枝に止まって鳴いているのか。
穏やかな鳴き声は夜の闇を越えて、集落の人たちみんなに届いていることだろう。
明日は、霧が晴れるといいな。
そんなことを考えている内に、僕は眠りに落ちていた。
***
夢の中で、僕は優しい声を聞いていた。
『この子はあんたの孫には似つかわしくない、意地っ張りで、頼りない小さな子ども。けど純粋で、素直な所もある、いい子だよ。あんたと同じ魂の色をしている
眠る僕の額を誰かが撫でた。
声の主だろうか。
朗々と歌うように聞こえる声に、僕は夢の中で涙を流していた。
この年になって眠りながら泣くなんて。
でもそのくらい、その声も、その言葉も、額を撫でる手も、僕にとってはとても温いものだった。
『
繰り返される呪文のような優しい言葉に包まれながら、僕はそのあと朝までぐっすり眠った。
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