第5話
「君、見たかね、あの子の顔を」
ホテルへの帰路を悠々と歩み乍にグレイが言うと
大島は深く頷いた
「折檻など受けたのでしょうに、忌々しい」
「おそらくは其の通りだろうね。あの子の眼は同じ歳の頃の子供の其れとは随分と違って-さぞ、酷い目に遭わされて来たのだろうね」
瞬き、溜息一つ。グレイは大島を見遣る
大島もまたグレイをじっと見遣った
「君、大島」
「はい」
「一つ思い切って助けてやろうかね。功徳、と云うものだ」
グレイの言葉に大島の表情は晴れやかとなる
買い受けを諦め帰路に着いた時点で、彼が少年を手に入れる事を諦めたのかと思って居た
何より、奴隷として少年を手に入れる物であるとばかり思っていたのであるから
「其れは良いですね」
大島はぐ、とグレイの方へと身を乗り出した
「で、何か御名案は有りますかな」
「さればそれが無いのでな」
「では、いっそ暴力でやってしまっても善いのでは」
そう言うや大島は自身の拳を固め、逞しき腕を挙げて見せる
-大島は日本にて大工を務めて居た。身体の力は十二分であり、荒事も又、得意としているのである
大島の申し出にグレイは静かに、首を横に振った
「可いとも言われないが、此の辺では元来英人を怖れて居るのだからね」
「それならば」
構わぬのではあるまいか、拳にて彼の少年を救うのも容易いのではあるまいかと
大島が尚目を輝かすのを見て、グレイは軽く手を振って見せた
「平穏な談判がもし行き届かなかったなら、其れも已むを得ないが-我々が叩き潰されると云う考えも棄て切れないだろうに」
「何を。船長、俺の力を御認めではありませんかね」
渋い顔をして見せる大島に、グレイは肩を竦める
「別に其う云う訳では無いさ……後、ホラ、君-名で呼べと言ったろうに。」
「嗚呼、すみません。グレイ」
頭を軽く掻きつつ言う大島に、グレイはふ、と愉快気に笑みを浮かべた
「併し、グレイ。御名案が無いでしょうに、少年を救い出す策は-」
「ああ……」
大島の疑問に対し、何事かを言い掛けてグレイは深い考えの有る様子でぴたりと言葉を止め、其れからポンと手を打った
「ウム、名案」
「船長-グレイ、好い考えは浮かびましたか」
「アア、まあ-」
グレイは笑みを湛えて、軽く頷く
そうして、微笑を浮かべて大島に言った
「言ってしまっては、面白く無い」
何とも気を持たせる様な一言を残し、船長は其れ以上は何も語らなかった
そうして二人は旅宿・カープホテルへ戻り
晩餐を命じてゆっくりと食事を摂った
食事を口に運び乍に、大島はちらちらとグレイの顔を幾度と無く見遣る
其の間にも他愛無い言葉は交わされるのであるが
先刻グレイの口にした『名案』の意を一言として知らされぬまま
大島は悶々として居た
「-大島」
食後に茶を嗜み乍、グレイは大島へと問い掛けた
「君、たしかマグネシアを持って居なかったかね」
「マグネシアですって?」
大島は不思議そうに目を瞬かせて答える
「マグネシアなら薬品、いや服薬用のではありませんが、写真用の物を確かに持っていますが」
確かに写真趣味を持って居り、写真を撮る為の其れならば多く持って居ると
大島が答えると、グレイは満足気に頷いた
「うむ、其れだよ。持って居ると思ったよ。そいつをちょっと私に譲ってはくれないかね」
「写真など撮られるのですか」
「-ああ、まあ『記録』だろうね。出来るだけ沢山欲しいんだ」
ならば、と大島は頷き
食後、部屋へ戻った際に、グレイへとマグネシアの函(はこ)を十二函手渡した
さてグレイは写真の趣味が有ったろうかと、些細な疑問などを浮かべつつ
其の日は其の儘-大島も、グレイも眠りへと着いた
-其の、翌日
「此の国のミント・ティーも良いね、何とも爽やかじゃあないか」
朝食の席に出た土着の物である茶を味わい、感慨深くグレイが呟いた
「そうですね」
大島も小さく頷く。自国の緑茶にもよく似た物であると
そうしながらも、大島は見目分からぬ風にはして居るが
少しばかりそわそわと、何事かを胸に抱える様に在った
やがて、二人の前にそっとデザートの皿が置かれる
「おや」
グレイは目を細めて笑んだ
「こいつは-ビスケットじゃあないかね。こんな場所で珍しい物だな、さては気を利かせてくれたのかね」
「ビスカウトですか」
「アア、そう云えば君の国では其の様に呼んでいたかね」
皿に盛られた小麦粉と砂糖、牛乳を混ぜて焼き上げた菓子-ビスケットを見て喜々とするグレイの様子に
大島は表情を少し、ほんの少しばかり曇らせて
そうして皿の上のビスケットを暫く見つめ
そうっと、本当にそうっと
全く人の目に付かぬ様な所作にて、急ぎハンケチに巻いてポケットに仕舞い込むと
茶を飲み干して、静かに席を立った
「む、どうしたね。何処かへ行くのかい」
「ええ、少し……散歩などしてみようかと思いまして」
「一人でかね」
「ええ、出来ましたら一人にて」
「そうかね。併し君、亜剌比亜語は当然、西班牙語さえ分かるまい」
「大丈夫ですよ、何か御座いましても-」
そ、と大島が自身の拳を握って見せる
グレイはフフ、と含み笑いを漏らし、行って来いとばかり頷いた
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