36  -悔恨の淵-


 蒲香でもこの地域は、魔素体大禍時に戦闘機による爆撃が行われた地域で、建物の多くが爆発に因り倒壊している。自衛隊が行き来する道路の周囲のみが整備されており、廃墟の大部分が手付かずのまま放置されている。

 バイクでの移動はエンジン音の問題で山を下り終えしばらく走った辺りで乗り捨てており、その後は魔犬に見つからないよう注意しながら走ってここまで、結良の傍までやって来た。

 崩れかけのブロック塀の陰から結良と有角魔犬の交戦を観察している明悟は、絶句するしかなかった。

 有角魔犬とそれに似た形状の魔素体の取っ組み合いを目にした最初の感想は「動きが速過ぎる」という驚きだった。単純な腕と身体の掴み合いなのだが、一つの動作を目で追おうとすると次の二、三つ目の動作が終わっているという具合で、一応はシフト・ファイターとして強化されている筈の明悟でさえも全く付いていける気がしない。指向性のある自由落下のような無軌道な俊敏性、既存の動物の動作とは質が違う様に思えた。有角魔犬のあの機動力、アレで戦車の砲撃が致命傷にならないと言うのだ、シフト・ファイターでさえも殺されかねないのはもっともな話だ。

 そしてもうひとつは、原田結良、と思しき魔素体の姿だ。シフト・ファイターの姿は一般的に、生身の人間に特撮ヒーローのようなコスチュームを身に付けた姿が大多数だとされている。ただ実際はコスチュームに力がある訳では無く、生身の肉体自体が魔素で強化(ないしは換装)されているのだ。

 今の結良の姿は殆ど魔犬そのものではないか。

 全長は目の前の魔犬同様三メートル前後か。魔犬の怪物形態モード・フリークスのように類人猿を思わせる前傾姿勢ではなく背筋が伸びているが、全身が魔素の黒い粒子に覆われて、異常な肉厚を帯びて人間の輪郭を消し去っている。

 そして全身の眼、有角魔犬の角に近い暗い紅色の虹彩を持つ瞳が、全身の至る所に形成されており、有角魔犬との戦闘の最中に於いてさえ左右や後方の様子を忙しなく眼球を動かし、観察している。明悟の姿も、もう見つけられている。視線の動きで明悟にもそれがわかった。

 全身の眼が、フル稼働している。

 明悟は身動きが出来なかった。一刻も早く結良の眼を閉じさせて方が良い。あの在り様は理屈以上に本能を蝕む、尋常である筈が無い。しかし今あんな、明悟の肉体性能を大きく超えた領域での争いに躍り出た所で結良の足手まといになるだけだ。

 あらゆる観点から今あの場に出て行かないという判断は正しい。しかし明悟は歯痒さで気がどうにかなりそうだった。今あの場に出て行かない冷静な判断力を持ち合わせている自分が恨めしくてならなかった。


 鶴城薙乃がこの場所に現れた事は、結良に少なからず動揺を与えた。

 だが目の前の、もとい視界の前方大部分を占める有角魔犬から意識を逸らす事は無かった。ただ、嫌でも視界に入ってしまうだけだ。

 有角魔犬の方も、視界に捉えているかはともかく聴覚か嗅覚かで薙乃の存在を察知している可能性が高い。攻撃対象が薙乃に移ってしまうとかなり拙い。意識を自分に向けさせ続けなければならない。

 薙乃の姿・表情が視界に入る。彼女は銃を両手に持ったまま身を引くし、じっと様子を見守っているようだった。薙乃は、自分の正体に気付いているだろうか? まぁ恐らく候補の最上位には上がっているだろう。結良は一瞬、自分が薙乃の眼にどう映っているのか、自身の異形を顧みてしまったが、それは呑み込む、そんなものは今は気にしていられない。目の前の敵に負けない、倒す。

 牙を突き立てられない様に、体重で押し倒されてマウントを取られない様に取っ組み合いをしながら、瞳の痛みが引くのを待つ。ひとつの眼球による衝撃波一発ではきっと有角魔犬は倒せない。普通に魔犬の様に頭部を吹き飛ばす事は出来ないだろう、経験則で何となくわかる。だから使える凶眼を全て束ねる。凶眼による衝撃波を一点に集中させて全力で撃ち抜く。それが一番確実な方法だ。

 そしてその瞬間が来た。痛みが引いた。

 身体の前面に付いた眼球は一斉に前面の有角魔犬に視線を向ける。喉元から突き出た鼻先を経由し正体不明の怒りに満ちた深紅の目から耳、そして目と近い色合いの赤黒い猛牛のような二本の角まで、有角魔犬の頭部を浮き彫りにするように立体的に捉える。

 結良は有角魔犬の両腕の二の腕に当たる部分を捕まえる。有角魔犬は全身での激しい動作で振り解こうとするが全身全霊で抑え込む。結良の腕を掴んで爪を立てるが、痛みを無視する。躍起になって振り解こうとしつつまた女性の悲鳴のような咆哮を上げる有角魔犬の頭部をつぶさに観察しつつ、念を編み上げる。

 それは憎悪。魔犬達に、有角魔犬にもたらされた災悪を思い出す。避難する人々を乗せた車両に飛び掛かる魔犬、魔犬に引き裂かれる自衛隊員、怨嗟に狂い絶叫する今は死んだシフト・ファイター、結良の隣で微かに震えていた栄美。

 駄目だ、これでは足りない。わたしの本当の憎悪はこれじゃない。

 結良は、何より自分自身に憎悪していた。薙乃や明悟さんはよくやってくれたと、君は悪くないと言ってくれたが、その言葉に納得し、甘えてしまいそうになる自分が何よりも怖かった。魔素体大禍で、自分の目の前で何人ものヒトが死んでいったのに、自分だけが生き残ったのがどうしても理解出来なかった。そして、重圧で押し潰されそうだった。自分だけが平穏な日常に押し戻された事が耐えられなかった。この異形は結良の精神性の顕れである。どんな事をしてでも、死んでいった人達の無念を晴らさなければ自分がどうにかなりそうだったのだ。

 頭の奥の部分がかちりと、致命的に噛み合う様な、正確無比に破断される様な感覚を覚えた。いける殺せる全てが噛み合った殺せる殺せ殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺殺

「……………!!!」

 声にならない絶叫が喉を押し拡げ潰す様に漏れ出た。

 身体の前面の眼球が余さず焼けつくような痛みを引き起こしたと同時に、視界の中心に在った有角魔犬の頭部は消し飛んだ。その衝撃で結良の掴んだ腕が痙攣するように後ろに引っ張られたので、結良は思わず手を放した。一瞬だけ棒立ちになった頭部を失った有角魔犬は、そのまま力無くその場に膝を付いた。

倒せた、らしい。

結良はそのまま尻餅を付いて座り込んでしまう。

 しかし勝利の実感は薄く、視界も思考もぼやけたまま、感覚は反応する事すら煩わしい程の深い痛みに押し潰されつつあった。

「結良ぁ!」

 遠くで、薙乃の呼ぶ声が聴こえる。

 右腕の目に注目すると、薙乃が長い銃を両手に持って結良の方に向かって走って来るのが見える(あれも本物の銃なのだろうか? 凄い)。一応有角魔犬は倒したはずなのだが、こちらに走って来る薙乃の様子と声には異様な切迫感が有る。薙乃のその様子から結良は、自分の左側から普通の魔犬が複数体迫ってくる事にようやく気付いた。視界には入っていたが、全身から力が虚脱していて意識が追い付いていないのだ。

 視界がぼやけていない、痛みの無い眼球が捉えた。

「『武器を識る者ウェポン・マスタリー』ィイ!」

 薙乃の切迫した絶叫と共に薙乃の持った銃が瑠璃色の魔素の粒子を帯びた。

そして薙乃の全身から蒼い炎が沸き立ち、それが消えた瞬間、見慣れた瑠璃色のドレスを着た薙乃が現れた。シフト・ファイターに変身した薙乃のコスチュームは、かつて栄美が身に付けていた物とほぼ同じデザインだ。銃の方も形が変化しており、真っ白で大仰な、アニメのヒーローが持つような大砲の様な姿を変わった。

 ……その姿に、結良は曖昧な思考の中で小さな違和感を覚えたのだが、それが何を意味しているのか思考する事は出来なかった。


 身体の眼球から衝撃波の様なものを発射するシフト・ファイター能力、恐らくさっきの爆発はそういう物だ。それにより有角魔犬の頭部が吹き飛び、結良もその巨体のまま座り込んでしまった。

 しかしそれに呼応するかのように道の向こう瓦礫の陰から複数体、計八体の魔犬が飛び出してきた。結良は、まともに動けるような状態には見えない。出て行くしかない。

 第二段階に変身する事に一瞬躊躇った。しかし敵の数の多さを認識、目視出来る範囲に魔犬が八体も現れたのなら第二形態を使わないと距離を詰められる前に倒し切れない。

 変身と共に『武器を識る者ウェポン・マスタリー』を再発動、アサルトライフルに魔素を収束し姿を変える。白を基調にした大袈裟に大振りな形状になったそれを即座に構え、連射する。瑠璃色の魔素を帯び、発射と共に加速し膨れ上がる弾丸で魔犬の群れを薙ぐ。一発一発が戦車の砲撃のような威力の弾丸が魔犬の身体を引き裂く様に消し飛ばし、黒い粒子に変えていく。

 変身していた時間は5秒。明悟はアサルトライフルを連射しながら自身の身体を再び青い帆の腕燃え上がらせ、ライダースーツに仮面を被った薙乃の姿に戻った。

 第二段階を解除した後、射撃を止め、状況を確認する。視界の範囲に動いている魔犬は居ない。明悟の瑠璃色の弾幕に襲われた魔犬達は漏れ無く上半身が消し飛び抉り取られ、原型を留めていない。

「司令室! 周辺の魔犬の状況は!? わかりますか!?」

 ベルトのポーチから新たな弾倉を取り出し、アサルトライフルに差し込みながら、仮面に内蔵されたマイクに向かって明悟は叫び、向き直り、結良の様子を確認した。

「大群の大部分はもうそこを通り過ぎて、現在自衛隊と交戦中だ。やはり魔犬の侵攻には波があるようだ。今なら比較的安全に山道まで撤収出来るはずだ」

 磯垣からの通信を聞きながら結良の様子を確認する。……本当に結良なのか、これは? いや、実際はこの『魔素体』が結良である事は確信しているが、どうしても脳が断定する事を拒否している。これは多分、只の逃避である。

腕や胸元、脚部にかけてまで身体の左右対称の位置に秩序良く紅い虹彩の瞳が並んでおり、身体の全面の瞳その大部分は眩しさに耐える様に瞼を半開きにしており、黒い魔素を噴き出しているものさえある。魔素の黒い巨体も有角魔犬の頭部を破壊した直後に座り込み、その動作も非常に緩慢になっている。目に見えて、消耗している。

「結良さんだよね!? 大丈夫かい!」

 明悟は、座り込む魔素体に呼び掛けた。放心したように座り込んでいた魔素体は明悟の声に反応し瞼が開いている目の眼球をぎょろりと動かした。

「え……、あ、うん。大丈夫……」

 禍々しい巨体に似合わない少女の声、間違い無く結良の声で返事をする。声はちゃんと、頭部の口の部分から発せられた。一応人間の形状に近い頭部は有るのだが、首は一切動かさず眼球の虹彩のみを明悟の方に動かしてきた。その人間らしくない反応の仕方に、明悟は少なからずショックを受けた。

「結良さん、どうしても訊いて貰わないといけない事があるんだ……!」

 明悟の切迫した心境が微かに滲み出た言葉に対する結良の表情の変化は読み取れない。そもそも結良の今の姿は、辛うじて人間の輪郭が読み取れる黒一色の巨体に無数の目玉が張り付いているという人間的な所作を読み取り難い姿をしているので、表情や様子から彼女の心情を読み取る事が出来ない。表情が無い。そう、人間に近い頭部と顔が有り本来一対の目が有るはずの位置にある二つの赤い目からは人間らしい表情が読み取れない。表情が無い。

 明悟は、何故か自分が、じりじりと追い詰められていく感覚に苛まれていた。

 

 ぼやけた視界の中心に立つ薙乃はわたしの正面に立ち何か話をしようとしていた。……正面の眼球は今殆どがまともに見えていない状態なので右横か後ろに立って貰った方が楽なんだけどな、と結良はぼんやりと思った。先程の攻撃で使用していなかった眼球(右腕の前腕部)で薙乃の鮮明な姿を確認した。

「……君のその新しい能力が脳に掛ける負担についてだ」

 薙乃は酷く深刻そうに、言葉を絞り出す様に、薙乃は話し始めた。

「さっきの戦闘と今の君の様子から察するに、君は身体の目を全てフル活用しながら戦っているんじゃないのかい? 全ての方向を同時に見ている様な視野なんじゃないかな?」

 結良は曖昧な声色で「うん」と口にし、首肯する。

「その視覚は君の脳に大変な負担を掛けている可能性が高い。人間の本来の視野、普段の君の目に見えている景色と今とでは大きな違いがあるんじゃないかな?」

「……脳に負担って、どうなるの?」

「わからない、だけど魔素体の今の視野に脳が慣れてしまうと人間に戻った時に視野のギャップに脳が混乱してしまう恐れがある」

 そして薙乃は自身の目を、人間が本来持っている目が有るであろう位置を仮面越しに指差す。

「直ぐに変身を解除するのは危険だ。一度全ての目を閉じて、視界を暗闇の状態にならしてから変身を解除して欲しい。そしてこれは一刻も早く行わないといけない。今の視界に慣れれば慣れる程脳がその視界に最適化されてしまう可能性がある」

 自分の脳が今のこの全身に眼球を持つ視界に慣れてしまう事に薙乃は大きな危機感を持っているらしい。その薙乃の自身の中の恐れを噛み殺す様に訴えかける言葉を訊きながら結良は自身を顧みる、思い出そうとする。

 そして結良は気付く、変身する前、人間の時の視界を全く思い出せなくなっている事に。


「……でも、わたしがここから逃げたら誰も魔犬を止められなくなる」

 結良はそんな事を言って明悟に反論する。ただその口調は何処か自信無げで、気がそぞろになっている風である。

「有角魔犬がまた来るかもしれないし……」

「そんなもの大人達に任せておけ! 君一人が請け負う事では無い!」

 明悟思わず声を荒げる。

「それに今の君の状態ではこれ以上まともに戦えるようには見えない」

 結良は未だに地面に力無くへたり込んだままで、前面の目のいくつかからもうもうと魔素の煙を噴き出していた。やはり、とてもこれ以上戦える状態に見えなかった。それよりも早く目を閉じて

「…………!?」

不意に、半開きになったいくつかの目が大きく見開かれた。それは如何にも驚きの感情を想起させるもので、明悟は弾かれる様に結良の視線の先、振り向いて自身の真後ろに視線を走らせた。

 先程結良が目の能力で頭部を吹き飛ばされ地面に倒れ伏した有角魔犬の上に一体の魔犬が、『猟犬形態モード・ハウンド』の角の無い普通の魔犬が立っており、結良に抉られた、吹き飛んだ頭部の魔素が噴き出す傷口に鼻を近付け、匂いを嗅ぐ様な動作をしている。

 不意を衝く魔犬の出現。それに二人が反応しようとする間も無くその魔犬は有角魔犬の傷口の中に潜り込んだ。大型犬の姿をした魔犬が身体を傷口の中に滑り込ませると犬の身体は輪郭を無くし、有角魔犬の傷口に溶け込み、傷口を塞いでしまった。直後、東部を失って動かなくなったはずの有角魔犬の両腕が持ち上がり、傷口があった部分を庇う様に両腕で覆い、膝立ちのまま巨体を痙攣させ始めた。

 明悟は自身の動悸が速くなるのを感じた。まさか、普通の魔犬が有角魔犬の残骸と同化した!? 失われた有角魔犬の頭部を補おうと言うのか? そんな馬鹿な? いや、馬鹿な事は無い、出来るはずなのだ。自分達でさえ魔犬の身体に案山子の頭を埋め込んで不細工な案山子を造り出す事に成功しているのだ。同じ事が出来ない道理は無い。

 普通の魔犬と同化した有角魔犬の身体は小刻みに震えながら膝立ちになった脚を持ち上げ、立ち上がろうとしていた。

「くっ、『武器を識る者ウェポン・マスタリー』!」

 明悟はアサルトライフルを構えて能力を発動、そのまま頭部に向けて6発発射する。が、弾丸は頭部を守る有角魔犬の腕により弾かれてしまう。

明悟は直ぐに射撃を止めた。第一段階の魔素収束力では有角魔犬の身体を破壊する程の威力の攻撃が出来ない。第二段階に変身したのは5秒程度だが、連射したアサルトライフルの弾丸に込めた魔素の量を鑑みれば残りの変身可能時間は1秒に満たない程度だと考えられる。

「結良!」

 明悟は結良の方に向き直り黒い巨体を見上げた。

「撤退、ここは逃げよう! 目を閉じたまま一度変身を解除してくれ! 魔犬が動き出す前に君を担いで遠くまで逃げる!」

「出来ない……」

 それを訊いた結良は戸惑った様な震えた声色で小さく何かを呟いた。

「何?」

「変身を解除できない……」

「な、に……?」

 結良が何を言っているのかはしっかりと聞き取れた。しかしそれが何を意味しているのか一瞬理解出来なかった。

「変身を解除できないの! 変身する前がどんな姿だったか、全然思い出せない……!」

 結良は、殆ど悲鳴の様な震えた声でそう告げた。

 明悟の頭は真っ白になり、絶句した。

 頭部を両腕でガードした有角魔犬が痙攣した身体を立ち上がらせる。それに併せて尻餅を付いたままだった眼球塗れの巨体も、前傾姿勢になり両腕を地面に突き、重々しく立ち上がろうとしていた。

「薙乃さんだけでも逃げて! わたしが食い止めるから!」

 結良の悲痛な絶叫が響き渡る。明悟は、その言葉に対して巧く対応出来ない。頭が全く回らない。ただ、結良の言葉全てと、動き出しつつある有角魔犬とに冷静な思考力が引き裂かれていた。食い止める? 何を言っているんだ君は? しかし目の前に有角魔犬が。そもそも変身を解除できないとはどういう事なんだ? そんな、そんな事が有り得るのか? そんな事があっていいのか? そんなもの、ここを生き延びたとしてももう意味が無いではないか……!

 一瞬でも速く次の行動に移らねば危険だ。だがそれが結良を守るための行動か結良を説得して逃げるための行動か結良を見捨てて逃げるための行動か、決断が出来ない、目の前を構成するあらゆる物の無慈悲さに立ち尽くしてしまっていた。

 それは絶望、明悟にとっても最早慣れ親しんだはずのものだ。

 魔素体大禍から、人々は涙を耐え忍び悲しみに囚われぬよう、前向きに生きてきた。しかし全ての人々がそのように振る舞えるはずも無く、また、それを実践し得る者も常にその重みに耐え続けている事実は変わらず、心の奥底に深く沈み込み、キャパシティを超えた瞬間に、耐えられぬ裂傷を伴って嚥下されるのを待ち構え続けているのだ。

 明悟は、結良の肉体が置かれている状態を理解してしまった。

 乗り越えるべき危機的状況を前に、その先で待つ結良の致命的に歪められた肉体と脳の存在を突き付けられ、心が折れてしまった。

 引き金はその絶望だったのだろうか。

 恐らく『そこ』に辿り着くための入り口は複数用意されていた。しかし時代と、明悟が『鶴城薙乃』になった経緯、そして何より、鶴城栄美が最期に目の当たりにしたもの感じ取ったものが再現されるという形が、何よりも『そこ』に辿り着くための最短距離だったのだろう。

 明悟の絶望は瞬く間に怒りに変わっていた。目の前には怪物の姿になって有角魔犬と相対する結良の姿。くそ何なのだこれは! 何故結良がこんな業を背負わねばならぬのだ! その不条理に、絶望すら上回るほどの怒りを感じた。それは明悟が常に、絶望と寄り添う様に抱かされ続けていた感情。理不尽な災悪に対する怒り、それを恣意的に起こしたという者達に対する怒り、そんな惨事に対して何も出来ずにみすみす若者達を死なせてしまった事への怒り。この絶望と怒りの終わらないループから抜け出す為に明悟は偽善を謳い羞恥を押し殺しここまでやって来た。しかし結局、やれる事をやってこの体たらくだ。目の前で結良が絶望的な最期を迎えようとしている。いやだ、こんなもの認めたくない。でも私には力が

 

 そして、目の前の栄美も明悟同様に、怒りに満ちた表情をしていた。

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