35  -百目鬼(アイキャンディー)-


 変身して最初に驚いたのは、どの方向が身体の正面か即座に理解出来なかった事だ。人間の眼は身体の正面に付いているから、必然的に視野が拓けている方向が自身の正面だと直感で理解出来る。しかし、今の自分には前も後ろも右も左も、上や下さえ全てが正面だった。

 爪先立ちで回転しているバレリーナの視野に近いかも知れない。身体を高速で回転させながらその視界に映るあらゆる物が全てハッキリと捉えられるような特殊な視界。回転が速過ぎて全方向にある物を同時に見ているような錯覚に陥る。人間の感覚で今の自身の視界を喩えるとそんな風な表現になる。全身のあらゆる場所に『眼』が付いているが故に、自分の身体が唯一視界を阻む障壁になるという、不可解な感覚に陥っていた。何処までも澄み渡った球体の中心で、自分の身体だけが黒くぽっかりと浮かび、その内側だけが見て取る事が出来ない。

 兎に角、『正面』を規定/確認する。爪先の方向と背骨の伸び具合、そこから前傾姿勢を取り重心が何処にあるのかを感じ取る。大丈夫、正面が何処かはすぐわかった。

 次は、どの方向に進むかだ。蒲香市、半田崎市のある方向。今いる場所は多那橋駅のバスターミナルの中心。全周を見渡すとまた自分の向いている方向がわからなくなるので、正面を特に意識して視野の方向をひとつずつ意識して、落ち着いて進行方向を探る。蒲香はこっち、前傾姿勢を取り顔の先端を意識し、無限の視野から一方向を選び取り意識を定めてイグニッション、シフト・ファイター:原田結良は走り出した。

 走っている時は正面以外の側面の風景は高速で移り変わるので捉え辛くなり人間の身体で走っている時の視界に近くなり、視覚面では意外と苦労しないのだが、進行方向の真後ろだけは正面と同じくらい鮮明に像を結良の視野に焼き付けるので、意図して後方を意識しないように気を付けねばならない、躓きそうになる。

 多分普通の自動車よりもずっと速い速度で走っている。6年前に空飛ぶ箒(の性質を持った槍)で空を飛ぶ経験をしていなければこれだけでもすごく怖かったと思う。視点もいつもより高い所にある。

 前方と後方の視界に映る風景からは徐々に『生活感』みたいなものが消えていった。皆避難して居なくなっているのだろうけど、浸透域との境界が近付くに連れ、そもそも元から住んでいる人も少なくなってくる。そして程無くして進行方向の先に迷彩色の服と車両の一団を捉える。自衛隊員である。

 結良は祈るような気持ちで彼らの傍を瞬く間に横切る。彼らに敵と判断されませんように、と。見た目は魔犬に似ているけど多那橋の方から現れたからシフト・ファイターが助けに来てくれたと察して欲しいと願いながら。

 通り過ぎた自衛隊の一団を背中の眼で確認しつつ、このまま見逃して欲しいという思いと共に注視しながら、最早完全に無人なった廃墟の様な町並みをはし

不意に足元から爆音と閃光が噴き出し

一瞬の浮遊感の後身体は意志とは関係の無い方向へ跳ね飛び、制止してしまった。

自分が爆弾の様なもので吹き飛び転げながら倒れたと気付いたのは数秒後になってからだ。何せ身体が倒れた後も視界にはほぼ何の変化も無く地面の下と自分の身体以外のあらゆるものを映し出し続けていたので、転んだ事に気付かなかった。空を蹴る足の裏が地面に接していない事に気付いて初めて自分が倒れているとわかった位だ。

 地面の方向と、肩・爪先・背骨の位置を意識しながらうつ伏せになり、立ち上がる。左脚の内股辺りがじんじんしていたが、痛みは多分直ぐに引くと思う。爆発した場所を見下ろそうと思ったけれどそんな事をせずとも既にそれは視界に入っていたので、進行方向を確認しながら地面に空いた穴を見る。濛々と煙を上げる穴。自衛隊の攻撃かと思い(多分500メートル位離れた)後方に居る先程通り過ぎた自衛隊の様子を確認したが、彼らも先程の爆発に驚いている様子で、臨戦態勢だが結良を攻撃した後のようには見えなかった。

 もしかして地雷? そう言えば蒲香から浸透域までの区間には地雷が敷き詰められているという話を聞いた事がある。結良はこれから進む方向に視線を、いや、視線は常に全ての方向に向いているので意識を、進行方向へ向ける。魔犬が踏むように仕掛けた地雷なら、『人間』が見ればわかる様に設置されているのではないかという期待を籠めつつ。

 地面に隠れている物を見つけよう、そう決めて視界に意識を向けた時、結良は視界に微かな違和感を持った。少し遠くの地面から何か靄の様なもの? いや何か蜃気楼の逃げ水の様に地面の一部分から上に掛けて空気が揺らめいている様に見えた。その揺らぎの中心を注視すると、アスファルトをくり抜いた箇所に巧妙に同じ色の土が詰められているのが見て取れた。

 ……そこに別の地雷が埋まっているのだろう、結良は予想した。地雷の存在を意識した瞬間、地雷が埋まっている場所は何故かわかり易く可視化された。――ある種の『殺気』よろしく地雷を埋めた痕跡を視界から無意識下で収集・分析し『視覚』という形で認知させているのか、自衛隊の管制と相互通信するスマート地雷の電波を視認できるのか、そういった兆候が可視化出来ている理屈は結良にはわからなかったが、今のこの身体、シフト・ファイター能力『百目鬼形態モード・アイキャンディー』と同化した視界ならばそういう事も可能だろうと、安易に納得した。

 地面から湧き立つ『兆候』に気を付けつつ、蒲香の廃墟を更に進む。この様子ならまだこの辺りには魔犬は現れていないのだろう。この場所に魔犬達が到達する前に出来るだけ数を減らしたい。ただそれは今の自分にとっては最優先では無い。狙いは飽くまでも有角魔犬。有角魔犬はシフト・ファイターでもどうにも出来ない危険性がある相手だ。大群で現れたという普通の魔犬は自衛隊にどうにかして貰うしかないが、有角魔犬に関しては恐らく自分が出て行かなければどうにもならないだろう。

 ……自分が有角魔犬に対抗するシフト・ファイター能力を獲得する事もあの『最初の人間』の二人にとって予想通りの事だったのだろうか? 彼らが敷いたレールの上を走らされているという懸念がどうしても拭えない。だが結良は向かわない訳にはいかなかった。普通の人達の元に魔犬が現れたらどういう事になるのか、結良はその目で見て知っている。でも自分は本当に街を、人々を守るためにここまで来たのだろうか?

 多分違う気がする。誰かを守りたいから戦いに行くのではなく、戦いに行く力が有るのに戦いに行かないという選択をする事が出来る自分が怖かったのだ。栄美を守る事が出来なかった事をずっと後悔していた。痛いのも死ぬのも怖いはずなのに、栄美の代わりに死ぬ事が出来なかったとずっと後悔していた。

 このままずっと何も出来ずに、平和に穏やかに、生きていける特権を享受してしまいそうな自分が、本当に怖かったのだ。


 山中に現れた工事現場の出入り口で使われるような白のパネルゲートの鍵をシフト・ファイター能力で強化したサバイバルナイフで破壊した際、明悟は遠方から断続的な爆発音を耳にした。

「戦闘が……、始まったんですか?」

 腰のベルトにサバイバルナイフを納め、明悟はアコーディオン状の扉を左右に開きながらマスクに内蔵されたマイクの向こうの誰かしらかに尋ねた。

「戦車の砲撃のように聞こえましたが」

「ああ、魔犬の一団が射程範囲に入った」

「結良さんは、どういう状況ですか?」

 明悟は話を続けながら、背負ったアサルトライフルのエンジンを掛けたままのバイクに跨り、即座に走り出し、パネルゲートを潜り抜けた。……この山中の道には基本的に魔犬は入って来ないと言われている。魔犬の性質上、積極的に山の中に入ろうとしないと考えられている。先程のパネルゲートや満中の道に沿ってぽつぽつと設置されたモニタリングポストは、山に迷い込んだ魔犬対策という以上に山道から魔素体浸透域に侵入しようとする人間に対してのものだ。(モニタリングポストに関しては前以てIKセキュリティのスタッフの工作によって探知能力を失っている。破壊されたという痕跡が後々この道を何者かが通ったという証拠になってしまうが、与える情報を制限する事は出来る)。

「ターゲット……、原田結良は現在魔犬複数体と交戦中だ」

 アスファルトの道はゲートを抜ける前より少々荒れているがバイクの走行には支障は無い。

「原田君が窮地に陥っている様子は見られないそうだ。魔犬に近付かれる前に腕で叩きのめしている。というか、魔犬に近付かれる前に何らかの方法で吹き飛ばしているように見て取れる」

「……シフト・ファイター能力、でしょうか?」

「恐らくは。具体的にどういう能力かまでは不明だが」

グリップに力を籠め、制動可能なギリギリの速度まで加速する。殆ど歩道程度の道幅でカーブには注意しなければならない。小手型のディスプレイに表示されたGPS付きの地図を見るほぼ限り一本道なので迷う事はなさそうだ。今はとにかく運転に集中する、行程に滞りが無ければあと十数分で結良が戦っている地点に到着出来るはずだ。

「再確認だが」

 走行中の薙乃に聴こえる様にハッキリとした口調を意識する司令官・磯垣の言葉だ。

「自衛隊の哨戒機とモニタリングポストの情報で魔犬の侵攻状況はある程度把握出来る。魔犬が東側に移動するタイミングにはムラが有って、西から合流し数が揃ってから移動を開始するらしい。こちらが指示を出すまでは物影に隠れてくれ。戦闘機からの爆撃のタイミングもある、安全に結良君と接触出来るタイミングをこちらで見定める」

「……わかりました」

 現在、結良は魔犬の大群を相手に大立ち回りをしているとの事だが、特に苦戦している様子は無いとの事。恐らく今の明悟の不完全で限定的な変身能力では無く、かつて魔素体大禍で戦っていたような、或いは東京で匿名で活躍する三人のシフト・ファイターのように完全なシフト・ファイターに変身出来ているという事なのだろう。そんな状況へ明悟が出て行ってもどうしようもないのだ。不完全な明悟の力では数体倒すのもやっとなのだ。ここは注意深くタイミングを見計らって結良と接触するしかない。

 あとは、結良の無事と、無茶をし過ぎない事を祈るしかない。いやしかし勿論現段階でも十分無茶のし過ぎだ。文句を言いたい気持ちは脇に置いておくにしても、一刻も早く結良を連れ戻すべきだと明悟は考える。

 ……だが、予感はあったのだ。魔犬の侵攻が行われるという話は明悟も結良も一昨日に既に聞かされていた。それが現実になったからと言って一目散に最前線に向かっていく結良の性急さには一抹の違和感を持っていた。シフト・ファイター能力に再び覚醒したなら、先に相談してくれても良かったのではないのかと疑問に思った。単に明悟(薙乃)が想像よりも信用されていなかっただけだという可能性も勿論あるが、どうにも腑に落ちなかったのだ。

 数分後、半田崎東部で有角魔犬が確認されたと磯垣から訊かされた時、明悟は内心納得していた。違和感が解消され胸のつかえが取れた気さえした。


 『目』は入力器官であると同時に出力器官でもある。漫画か本かでそんな話を目にした記憶がある。

 周囲から発せられる、或いは反射する光に反応し視界という形で認識するための部位であると同時に、自分の感情の機微や気持ちが向いている方向を周囲に知らせる役割も持っている。目は口程にものを言う、というアレだ。睨み付けて威嚇するなんて行為は野生動物でさえも頻繁に行っている。

 原田結良の新しいシフト・ファイター能力『百目鬼形態モード・アイキャンディー』は目が持つ入力器官としての役割と出力器官の役割の両方を強化する物だ。

 左前方から『猟犬形態モード・ハウンド』、その右隣から『怪物形態モード・フリークス』の魔犬が並んで襲い掛かって来る。しかし走る速度は身体の構造的に左の『猟犬形態モード・ハウンド』の方が速い。真直線に結良に向かって駆け、紅い瞳と肉体との境界の無い黒い牙を煌めかせながら結良に飛び掛かる。結良は野球でバウンドするボールを掴む要領で魔犬の頭部を掴み、そのまま頭部を握り潰しながらもう一方の『怪物形態モード・ハウンド』の魔犬に投げ付ける。再起不能になった同胞をぶつけられ一瞬よろめいたが、それだけ。そのまま速度を緩めず結良に向かって来る。結良は相手と同じ黒い腕を振り下ろし爪で魔犬を切り裂く。爪と腕が通過した後には頭部から胸元が抉れた魔犬の身体が残り、倒れ伏しながら惰性で結良の傍を滑った。

 ……魔犬の挙動に関してはハッキリ言って見慣れている。十歳の時にも戦ってきた相手だ。シフト・ファイターに変身出来るならどうとでもなる相手だ。

 しかし、どう考えても数が多過ぎる。

 結良の目の前(この場合は、身体の前方が向いている方向)には新たな魔犬三体が迫りつつあるし、両サイドと後方には結良を無視して多那橋の方へ向かっていく魔犬が無数に居る。

 結良は、全身の『目』の状態を確認する。取り敢えず今は痛みは引いている、多分やれるだろう。

 結良は全身の眼球ひとつひとつに意識を向け、ひとつひとつにそれぞれが視線を向ける魔犬を一体割り当てた。全景の脳内で十数体もの魔犬の姿を同時に捉える。狙いは頭、無理そうなら脚。

 更に拡大するようにそれら魔犬の頭部か脚部にピントを絞り、全身の眼球ひとつひとつで凝視し、睨み、針を穿つように念を向ける。

 殺してやる、と。

 途端、結良の前方三体の魔犬の頭部が同時に消し飛んだ。

 更に結良の周囲に居た魔犬達も制御を失ったように倒れ、地面に転がった。その大部分は前方の三体同様頭部を失っていたが、斜め後ろの二体だけは脚のみを失い地面をのた打ち回っていた。

 全身の眼球から能力発動による戦果を確認したが、その眼球ひとつひとつから神経を伝い、脳に鈍い痛みをもたらした。

 所謂、凶眼、或いは魔眼というものだと考えられる。

 出力器官としての目の特性を魔法と呼ばれるまで強化して、見詰めた相手に影響を与えようとする念を物理的衝撃にまで昇華するという理屈なんじゃないかと、結良は考えている。

これが結良自身の憎悪に因る産物なのだろうと、結良自身認めざるを得なかった。

 凶眼―視線に因る衝撃波を使用すると、魔犬を睨み付けた眼球から痛みが走り、痛みが引くまで目の出力能力は使用できない。連射は出来ない。使用した直後は視界も少しぼやけてしまう。休み休み、目を休めないといけないという事なのだろう。痛みのある瞳を一瞬だけうっすらと閉じ、全身から脳にかけて神経(?)を伝う痛みが引くのを待つ。

 大した痛みでは無い、最初に変身アイテムの『鍵』に触れた時の重く圧し掛かるような痛みに比べれば何の事は無い。視界とその意識の向け方、身体の動かし方もわかってきた気がする。

 大丈夫、慣れてきた。身体が適応してきている、という事なのだろう。

 半田崎の方からやって来る魔犬の全てが結良に向かって襲い掛かってくる訳では無かった。結良の傍を通り掛かった魔犬が向かってくるというだけで、大部分は結良を素通りして多那橋の方へ走っていく。結良のシフト・ファイターとしての能力ではどうしても、魔犬が通り過ぎていくまでに倒せる数に限りがある。目の出力能力は連射が出来ないし一体一体追い回して爪で引き裂くという戦い方も効率的とは言えない。……後方から複数の爆発音が断続的に聞こえてくる。取り溢しは自衛隊が倒してくれていると信じるしかない。

 そもそも、今の結良しにとって、普通の魔犬退治はオマケか準備運動の様なものでしかない。本命は、もうすぐやって来る。

 前方からやって来る魔犬の性向、何を目標に前進してくるのか――結良を目標にしているのか素通りするつもりなのか――という意志の方向性が魔犬の挙動からある程度読み取れる。そんな魔犬達の動きが、何となく『背後』を気にし始めている。背後からの『何か』の動向を窺う様に歩調を合わせる様に、不自然な動きをしている。

 結良は不穏な気配に身構えた。

 そして、それが現れるのにはそれほど時間は掛からなかった。

 遥か前方、瓦礫の影から一体の『猟犬形態(モード・ハウンド)』の魔犬が飛び出してきた。しかしその魔犬は普通の魔犬とは明らかに違う。頭部や肩、背中から突き出す赤い、仰々しい角状の突起。

 有角魔犬である。

 有角魔犬の登場により左右に道を開けた魔犬達を追い越し、自身の肉体を膨張させながら結良の方に向かって来る。走る速度も、変形する速度も普通の魔犬とは全く違う。眼を瞠る素早さだ。

 瞬く間に『怪物形態』に変身した有角魔犬は走りながら、腕に変わった前脚で人の顔面程あるサイズの瓦礫を掴み結良に投げ付けた。

 結良は飛来する瓦礫を右手で払い飛ばす。……この際、瓦礫を防いだ右腕が視界を遮り死角が形成されてしまうのだが、結良の右肘の眼球は結良の右腕に隠れながらすかさず飛び掛かって来る有角魔犬を見逃さなかった。

 左側に飛び退いて有角魔犬を躱す。宙を舞い地面を側転する間、身体のどの部位の目が何処を向いているのか、かなり正確に把握する事が出来た。凶眼としての出力能力に伴う痛みが、どの眼球が何処を向いていて何を見ているのかという事を意識する助けになっていた。

 この身体をうまく使いこなせてきている。

 先程地雷で転倒した経験もあり、今度は素早く身を起こし、有角魔犬の姿を正面に見据える。結良に避けられた有角魔犬は、飛び掛かった勢いを両手両足で着地し身体のバネで地面で殺し、上体を上げ後ろ足だけで立ち上がり、結良の方に向き直った。

 着地と同時にまた襲い掛かって来なかったのは結良がすぐ立ち上がった事を確認したから。そして有角魔犬にとっても今の結良が簡単に倒し難い相手だと認知されているからだ。十歳の時の結良なら瓦礫を投げ付けられた時かその後飛び掛かって来られた辺りで既に大怪我をしているか死んでいる。一連の挙動が速過ぎてシフト・ファイター化したとは言え動体視力で捉えられないのだ。でも今なら有角魔犬の動きを目で追えるし付いていける、十分に対応出来る。

 結良と有角魔犬は刹那の睨み合い。しかし結良はその間、左側面から向かって来る普通の魔犬三体の姿を確認していた。有角魔犬は普通の魔犬としばしば連携する。今睨み合っている有角魔犬は、結良に三体の魔犬をけしかけて、隙を作ろうとしているのだ。

 結良は左肘と腰の左側面と左脹脛に有る眼球に意識を向けた。それらの眼球ひとつひとつで迫ってくる魔犬三体を凝視。しかし腰の眼球から微かな痛み、先程使用してからまだ痛みが完全に引いていないのだ。しかし他の、左から迫って来る魔犬を凝視できる眼球は全てから痛みを感じる、クールダウン中だ。仕方ない、腰の眼球を、使う。

 次の瞬間消し飛ぶ三体の魔犬の頭部、しかし同時に腰の眼球から脳にかけて鋭く刺すような激痛が走る。腰の眼球が映し出す光景が磨りガラスのように滲み、眼球から血が噴き出しているのではないだろうかという錯覚に陥る程。口から思わず苦悶の呻き声を漏らし、全身の瞳の瞼を痛みで少し細めた。

 それを隙と判断したのか、有角魔犬がすかさず右腕を振り上げて鋭い爪を立て、空を裂き、振り下ろす。結良は痛みに耐えつつその鋭くしなる大木のような腕を払い除ける。強襲を防がれた有角魔犬は一瞬思量し、今度は両手を頭と同じ高さに構えて覆い被さる様に掴み掛って来た。結良は自身の手首を掴もうとする有角魔犬の腕を振り払い、身体を掴み押し倒そうとする巨体を振りほどき躱しながら、自身の『肉体』のコンディションを注視していた。

 回避や牽制に徹するが、逃げる素振りを見せない結良に、有角魔犬は咆哮を上げた。恐ろしく、尚且つ恐ろしく気味の悪い咆哮だ。吠える猛獣の声を高音に加工し、女性の悲鳴を混ぜた様な、動物的なのに酷く不自然な、殺意に満ちた咆哮。

 体勢を崩れないように注意しながら掴み合い、殴り合いながら、結良は身体中の眼球の痛みが完全に引くのを待っていた。……そして戦いながら見詰めていた。原型を留めたブロック塀の陰から酷く驚いた表情でこちらを窺う鶴城薙乃の姿を。

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