34 -彼女は矢のように-
明悟は自動車の窓のみ開いて仮面を顔に当てつつ、『気配』を感じ取った方向に視線を向ける。方向は多那橋駅の方、気配の発生源は先程の大量発生よりずっと近い、と思われる。それこそ、距離と位置からほぼ多那橋駅と一致する。
魔犬の大量侵攻が伝えられる前に明悟が感じ取った『害意の昂ぶり』とでも言うべき感情の発露とよく似ている。しかしこれは恐らくひとつだけ。そして魔犬のそれよりも鋭く毒々しい。胸中の一切を貫き塗り潰す程に。
その懸念は無意識化で先程から燻っていたものだった。そして、同じようにそれが勘違いであってくれと願い続けていたものだった。しかしこの絶叫のような気配の出現に、思い付いた非情な可能性を無視出来なかった。
その後明悟は5分待った。明悟が察している通りなら、現在磯垣は、情報収集に追われている最中だろうから。その代り、スマートフォンで原田結良に電話をした。時間を置いて2回電話したがいずれも出ない。……無論、魔犬出現の報を受け、避難している最中で携帯電話の着信に気付いていない可能性も高いが。
「……監視班は目標をロストしました」
5分後に通話した磯垣がモニターの向こうで苦々し気にそう切り出した。
「尾行はばれていないはずでした。ただ原田さんが2回目の電話をした後不意に多那橋駅から地上に降り建物の隙間に入り込んでしばらくした後、突然その隙間から『
……昨日の屋敷での会合の後も、明悟は結良に監視を付けたままにしておいた。それはどちらかというと結良の安全を守るための措置だった。『最初の人間』の話から『シフト・ファイター』の重要度を考えると、直接的な危害を加えてくる危険性も無くは無かったからだ。
「その数分後、多那橋市内から蒲香に掛けて設置されていた複数のモニタリングポストが反応。そしてつい先ほど、自衛隊の防衛ラインの背後から現れた魔素体が自衛隊を横切り、脇目も振らず浸透域の奥の方へ向かっていったという事です」
「状況を鑑みて、結良がシフト・ファイターに変身して魔犬の群れと戦いに出向いたと、私は考えているんだが、どうだろうか?」
磯垣が微かに言い澱んでいるような素振りを見せていたので、明悟が代わりにそれを口にする。
「その可能性が最も高いと思われます」
磯垣も神妙に重々しく首肯する。
「……結良はシフト・ファイターに変身する能力を失っていた筈なんだ。嘘を吐いているようには思えなかった」
少なくとも、変身能力の件については。
「それについては何とも。……しかし、無くは無い可能性としては、この非常事態を受けて再びシフト・ファイター能力を獲得した、と考えられます」
信じがたい想定だが、実は明悟自身も同じ可能性を考えていた。
……確認は取れてしまった。結良が魔犬の群れに単身戦いを挑んだ(可能性が高い)。自衛隊が設営した地雷地帯を踏み越えて、数百もの魔犬の群れと対峙する原田結良。
光景を想像しただけで頭がどうにかなりそうだった。
「シフト・ファイターに変身出来たとして、数百もの魔犬を相手取って、無事で済むものなのか?」
「……シフト・ファイターの能力にも依りますが、正面から相手取るとなると、非常に難しいでしょう」
――確かに結良は戦闘に出て行くかもしれない明悟を止めないと言った。あの言葉は「薙乃さんを止めない代わりにわたしが出て行く事も許して」とでもいう意味だったのだろうか? そんな免罪符、認めてやれるわけがないじゃないか。
そして明悟に突き付けられていた。事態は進行している。磯垣の情報整理の時間を鑑みて、もう5分も消費している。
果たして、自分はどうすべきなのか?
間違い無く何もしないのが正解だ。そんなもの、どうしようもないではないか?
明悟が行使できるシフト・ファイター能力では対処出来ない、キャパシティの超えた状況で、そんな場所に出て行っても二次災害になりかねない。銃後に於いても、出来る仕事・やるべき仕事などいくらでもある。みすみす渦中に飛び込むなど……
「会長」
不意に、運転席の秘書が明悟の方を向き声を掛けた。気付けば車はいつの間にか静岡とは反対方向の車線に停車しているではないか。
「……?」
「いつも通り、会長の好きになさってはいかがですか?」
明悟は倍以上年の離れた秘書の言葉に息を呑んだ。秘書の立場で会長に意見する、などという問題では無い。ともすれば、会長に「死んで来い」と言っている様なものだ。
「会長と、『薙乃さん』の我儘に文句を言う人なんて、会社には居ませんよ、きっと」
いやこれは、明悟の本心を見透かしての発言だ。敢えて無神経に明悟に迫られている選択肢を提示する事で、決断の時間を早めようとする意図が有る。何分もう、時間が限られている。
「長期的な展望から鑑みても、ここで原田さんを助けておくのは会社にとってメリットにはなるでしょう」
秘書の『急かし』に便乗したのが、モニター越しの磯垣である。
「今回の魔犬侵攻の収束の見通しが未だに立たない以上、新たなシフト・ファイターと連携が取られれば大きなプラスとなるでしょう。残酷な言い方ですが、戦力としてアテに出来るのなら、こちらの手足として動かしたい所です」
『残酷な言い方』などという言い方をしてはいるが、その実磯垣は明悟に助けに行く体の良い口実を提示しているだけである。
遠慮せずに結良を助けに行ってこい。要するにこの二人の言っているのはそういう事である。
部下達の後押しに、明悟は苦悶の表情を浮かべ悩んだ。しかし先程まで見せていた蒼白とした呆然自失の表情よりは生気を取り戻したと言える。秘書と磯垣からすれば、表情を失った少女『薙乃』の貌から滲む悲壮感に対して声を掛けずにはいられなかったとも言える。
秘書に促されるという形は非常に癪ではあった。不遜を非難する気持ちが喉元まで出掛かったが、巧く言語化出来ず声に出せなかった。シフト・ファイター『鶴城薙乃』の中途半端な戦闘能力では、こんな渦中に出て行くのはリスク対効果の面で得策では無いと考えた。しかしこの二人は危険を承知で助けに行く事を促した。自分の欲求に従えと、若い部下達に礼など顧みず力強く背中を押されてしまった事に明悟は一瞬面喰ってしまったのだ。
明悟はしばし思案し、眉間に皺を寄せたまま小さく溜息を吐いた。
「……私がIKセキュリティを立ち上げた理由は、栄美の様な犠牲者を一人でも減らす為だったな」
居住いを正し心持ちを研ぎ澄まし、運転席の秘書とモニター越しの司令官に自身の言葉を伝える。整えた体勢と気持ちとは裏腹に、肉体のバランスとそこに響く音声と衣擦れの感触が女子高生のそれだったので一瞬戸惑ったが、直ぐに雑念を振り払う。
「にも拘らず、栄美の友人の結良君一人を助けられなかったでは会社の存在意義が危ぶまれる、孫娘に顔向けが出来ないよ」
これを『会社の私物化』と言わずしてなんと言うのだろう? しかし口に出してしまうと気が引き締まり覚悟を決められた気がした。社会的人的金銭的リスクを全て呑み込んでやろうという覚悟が。自分が本当に女子高生で、嘘偽り無く鶴城薙乃だったらと、一瞬考えた。本物の薙乃なら万事を顧みず友人の結良を助けに行くだろうか? 助けに行くかもしれない。きっとあらゆるしがらみをかなぐり捨て、いや、子供ゆえの身軽さに頼って颯爽と結良の元に向かっていたかもしれない。……子供が羨ましいと思える無数の理由のひとつだな。年を取ると行動ひとつにぐだぐだと言い訳が必要になる。
明悟のその宣言を訊き、秘書は力強く頷いた。仮面越しではあるがそれはあまりにも嬉し気で、子供の成長を見守る母親の様なニュアンスさえ込められた、居心地の悪くなる程のものに思えた。
「随分嬉しそうじゃないか……?」
明悟がカマを掛ける意味でそう指摘すると、秘書は一瞬フリーズした。
「いえ、会長の結良さんを思う気持ちに感じ入、いやその何でもありません」
体裁を無理矢理整えるような口調。後半何故かしどろもどろになり、秘書が言っている事が上手く聞き取れなかった。……彼女個人の中にも、結良を助けて欲しい、という希望があったという事なのだろうか?
「……実は、別行動をしているチームは他にもおりまして」
秘書とのやり取りに区切りが付いたのを見計って磯垣が口を開く。
「『薙乃』専用の装備を輸送しているチームを新哉市南部に待機させています」
方針が決まれば善は急げとばかりに秘書は車を再発進させ、渋滞が続く静岡への道を横目に一切車が走っていない西方向、戦地への道を矢のように駆け抜けていった。普段の安全性重視の運転とは打って変わって、かなりの速度を出している。それでも運転に危うさを感じさせない注意すべき部分は注意するという安定感を持っているという辺り、彼女の運転技術の高さを窺わせる。
同じ車線を走っている車に殆ど出くわさなかった事も手伝って、普段とは比べ物にならない位早く(少なくとも昨日結良を乗せて同じ距離を走った時よりも圧倒的に早く)、新哉市南部の、『輸送』チームとの合流場所に辿り着いた。
田畑が広がる見通しの良い区画に土を平らに固めただけの駐車場と思しき空き地が有り、そこに白のワンボックスカーと小型のアルミバンが駐車されていた。アルミバンの荷台のリヤドアは既に開かれており、荷台から伸ばされたスロープによりスタッフ達の手でバイクが降ろされている最中だった。黒のネイキッドタイプで、気圧されてしまうほど重厚感が有る。……明悟は一応過去に大型自動二輪車の免許を取得していたが、乗る機会が無かったので更新せず、既に失効されている。にも拘らず七十を過ぎてまたこんな大仰なバイクに乗る機会が訪れるとは正直思いもしなかった、しかも未成年の女性の姿で。因みに大型二輪の免許は現在の日本の法律では十八歳以上でないと取得出来ない。『薙乃』は戸籍上(韮澤薙乃の戸籍に照らし合わせて)は未だ十五歳なので、今から平然と法律違反を行う事になる。無論、そんなものを今更とやかく言う人間はこの場には誰も居ない。
明悟は仮面を身に付け、秘書と共に車から降りる。明悟を迎えるように一人の体格の良い男性が近付いていた。仮面を被っていて表情が読み取れないはずだが、その所作から何となく不満や不服の感情が読み取れた。顔が隠れていても歩く姿で何となく予想出来た。彼はスタッフの北森伸一である。
「お疲れ様です」
生真面目かつ、緊張感を持った声色を意識しながら明悟が薙乃の立場で挨拶をすると、北森も気の進まない様子で「お疲れ」と律儀に返した。
「本心を言うと行かせるべきではないと思っているんだ……」
北森はやはり、その態度から連想させる通りの苦々しい口調で打ち明ける。
「考え直す気は無いか? 二次災害になる可能性が高いのは君も理解出来ているだろう?」
忸怩たる思いを噛み殺した声で北森は説得を始める。なるほど、君の立場・人間性なら、そういう説得をしたくもなるのだろうな……。
「……仰る事はわかります」
他のスタッフ、つまり薙乃がシフト・ファイターであると知っていて、尚且つ薙乃の正体が明悟だと知らされていない者達に対しては、『薙乃が自らの意志で結良を助けに行きたいと宣言して、明悟がそれを了承した』という風に訊かされている筈だ。『薙乃』の意志で結良を助けに行くという事にしている。その方が、義父が養女を死地に送り出そうとする構図より幾らかスタッフのモチベーションが上がるのではないかという姑息な計算に因った判断なのだが、無論、北森の様に薙乃の身を案じる者、説得を試みる者が現れるのは想定出来る。そもそも、北森が薙乃用の装備を輸送しているという話を先程磯垣から訊かされた時点で、北森から何かしら言われる事は想定出来ていた。
「結良さんは私に約束させたんです。命を懸ける様な無茶はしないようにって……」
実際、北森を説得する必要性は特に無い。雇い主からのオーダーである限り、従うかリスクを恐れず職務放棄するしかない。だが北森を納得させられるか否かは今後の趨勢に幾らか関わっては来る。しかし説得すると言っても最早理屈の問題では無い。真摯に『本音』を明かすしかないと思った、無論、薙乃としての。
「でもそれなのに結良さんは自分がシフト・ファイターに変身できるようになったら何の迷いも無く独りで戦いに行った。筋が通らないじゃないですか。自分だけ危険な目に遭っても良いだなんて、そんなの、おかしい……」
感情を押し殺しつつも結良を心配しているというニュアンスを多分に含ませながら明悟は口にした。実際、明悟は結良のダブルスタンダードぶりに少なからず怒っていた。それ以上に感じていたのは、身悶えするような口惜しさだが。
不意に、北森は仮面を外して明悟を見据えた。仮面から現れた表情は、怒りのそれと言うより、無力感に押し潰されそうな自分を必死で押し殺しているように見えた。
「不合理でも構わない。自衛隊に任せるという判断も十分現実的と言える。君を失うリスクは避けたいんだ。考え直してくれないか……?」
仮面を外してまで感情に訴えるという手段を取って来た事に明悟は少なからず驚かされた。北森の薙乃を慮る気持ちが強く熱く、思わず気圧されそうになってしまった。そしてその言葉は、数十分前まで明悟が考えていたものとほぼ同じ内容だ。まるで明悟自身がさっきと今とで全く違う人間に生まれ変わったようにすら感じる。いや実際、ほぼ毎日生まれ変わり続けていると言っても過言ではない気がするが、この時変身するようになって以来初めて、自分は『明悟』と『薙乃』の人格の連続性を刹那疑い、別個の人間であるかのように『錯覚』した。
秘書と、バイクを搬出している他のスタッフ達が仮面越しに明悟と北森に注目していた。そんな中明悟は、北森に倣って仮面を外した。
「私は死ぬつもりは有りません。結良さんを説得して、絶対戻ってきます」
ハッキリ言って、両者どちらの判断も見方によっては不正解なのだ。しかし、北森が感情に訴えて説得しようとするならそれに応えるしかない。
「力を、貸して下さい……」
……結良を何としても連れ戻したいという思いは、明悟にとっても動かしがたい本心なのだ。それだけは、北森にも真っ直ぐ伝えて差し障り無い感情である。
数秒の睨めっこの後、北森は小さく溜息を吐き、明悟から視線を逸らしながら仮面を被り直した。
「力を貸すと言っても、バイクを運んできた時点で仕事の九割は終わっているようなものなんだけどね」
そして仮面のまま明悟に向き直った。
「君の頑固さを再認識させられたよ。もう止めない、皆で結良さんを助けよう」
……意外とあっさり北森が退いてくれた、というのが正直な印象だった。北森が本気で薙乃を止めようとしていたのかは不明だ。案外、試されただけなのかもしれない。結良の件が発生する前から磯垣は明悟の戦闘参加を想定していたようだし、別行動で薙乃の装備を輸送するチームが新哉市近辺に待機していた。薙乃の決断は完全に『大人達』の予定調和で、先程の北森も、作戦遂行のデータ収集の為に『薙乃』の精神的コンディションを確認したかっただけかもしれない。
あるいは、『薙乃』が結良を助けようとする意志は、外野が止めようとしても止められない程強固なものだと考えられているのだろうか?
内心釈然としない部分があるが、兎に角北森を説得出来た。
北森に促されワンボックスカーにバックドアから入り込み、バックドアを閉じる。中では女性スタッフが待機しており淡々と制服を脱いだ明悟に全身タイツのようなインナーと腕と脚の外側に鋲のような硬質な突起が無数に取り付けられた黒一色のライダースーツを着せに掛かる。……シフト・ファイター鶴城薙乃は極秘の存在であるため、IKセキュリティの戦闘服を着て戦地に向かう訳にはいかない。飽くまで『謎のシフト・ファイター』として戦地に現れなければならない。シフト・ファイターの存在が露見するのはこの際仕方が無いとして(そもそも結良の存在は、正体がバレていないとは言えすでに明るみになっている)、IKセキュリティとの接点が明るみになるには今はまだ早い、避けるつもりだ。
白い仮面を被り、女性スタッフからIKセキュリティで使用している物とはデザインが違うヘルメットを渡され、ポニーテールを結った頭に被る。その間、女性スタッフに拳銃とナイフが収納されたベルトを腰に巻かれる。
……一通り準備が出来、ワンボックスカーを降りると北森と、開いたノートパソコンを携えた秘書が待ち構えていた。ノートパソコンには、仮面を外した磯垣の顔面が映されていた。まだ車内のようだが、仮面を外している事から恐らく多那橋の東部辺りまで移動が済んでいるのだろう。
「改めて『目標』との接触までの道程を確認する」
ディスプレイの磯垣が険しい表情で口にする。今の明悟は飽くまでも『薙乃』としての立場でここに居るので、無論磯垣は敬語を使わない。
「……先に『目標』の状況から確認しておこうか。
シフト・ファイターに変身した原田結良と思しき人物は蒲香の駐屯地から西へ5キロほどの地点に陣取り魔犬を待ち構えているらしい姿が陸自の哨戒機から確認されている」
ノートパソコンのディスプレイ上、磯垣の顔の右斜め下の辺りに地図が表示された。蒲香の自衛隊の防衛ラインから西方向へ、半田崎全域までを描いた地図。点滅する赤い点で、観測された原田結良(と思しきシフト・ファイター)の所在が表示されている。
「魔犬の移動状況を鑑みると半田崎と蒲香の市境の辺りで歩くような速度で群れを作りつつこちらへ近付いて来ていて、何時戦闘が始まってもおかしくない位まで接近して来ている」
「……」
「自衛隊側としては、現状シフト・ファイターを敵とは見做していないようだ。敵対する素振りを見せていないようだし、様子見するつもりらしい」
「……魔素体大禍での経験則なんでしょうね」
一緒に磯垣の話を訊いていた北森が注釈する。
「この状況で現れたシフト・ファイターなら、例えそれが不確定要素になるとしても手を出すべきではないという判断なのでしょう。味方である可能性が高い」
結良が自衛隊から攻撃される可能性は現在は低いという事なのだろう。……北森の言葉は自衛隊の行動原理の補足と言うより、遠回しに薙乃が抱く不安要素を排除しようとした節が有る。気が回る男だなぁ、と内心感心した。
「薙乃くんには原田結良に接触、説得して連れ帰って貰わなければならないのだが、そのためには自衛隊の防衛ラインを迂回せねばならない」
磯垣がそう言うと画面下の地図、蒲香から半田崎までの平地の北部に横たわっている山間部に、細かく蛇行し東西へ横断する赤い線が表示された。
「山間部に現在閉鎖されている細い山道が有る。途中ほぼ歩道になっている道もあるが、薙乃くんのバイクの制動力なら難無く進めるだろう」
『薙乃』のバイクの運転については、単独での活動・移動を想定して訓練していた時期があった。指導に当たっていた北森は「シフト・ファイターの身体能力の高さもあるんだろうけど、君のセンスも相当なものだね。とても初めて乗ったとは思えないよ」と割と屈託無く褒めてきたので、苦笑いを押し殺したはにかみ顔で誤魔化した記憶が有る。
「……自衛隊の監視は無いんですか?」
明悟は敬語で二人に尋ねる。
「無人だがモニタリングポストがある」
磯垣は努めて敬語を使わない様に答えた。
「参道の途中には人が通り抜けないためのゲートが有るが(と言いながら北森は赤い線の一ヶ所を指差す)、シフト・ファイターの能力で鍵の部分を破壊すれば別段問題は無い。モニタリングポストについても君が通り過ぎる前に死角からスタッフに破壊させる準備が出来ている」
……目的が定まれば手段を選ばないというのは堂に入った『悪の秘密結社』ぶりだと暗澹とした気持ちにさせられるが、道中のモニタリングポストを破壊して進むとは言え、結良と接触しようとした時点で、自衛隊の監視がある場所に『シフト・ファイター 鶴城薙乃』の姿を晒さなければならない。IKセキュリティの秘密裏に行ってきた所業を明らかにしてしまうリスクが高まってしまう訳だが、そのリスクを背負ってでも原田結良を助けようとする方針で組織の意思統一が既に成されているというのは(先程の車内での秘書や磯垣とのやり取りも含めて)面喰う意外さを感じさせる。鶴城明悟/鶴城薙乃が原田結良を助けに行くのは当然の事だという認識が始めから共有されていたとでも言うのだろうか……!?
不意に、モニター内の磯垣の顔の下部、地図の隣に小さなウィンドウが点灯し、そこに曳山博士の顔が表示された。
「すいません、私からもひとつ宜しいでしょうか?」
曳山の言葉に磯垣は「どうぞ、博士」と応えたので、北森は画面上の曳山の顔に軽く触れ、曳山と磯垣の顔を入れ替えた。曳山の顔が大写しになり、磯垣の顔が下部の小さなウィンドウに収まった。
「出発前にどうしてもお伝えしておきたい事がありまして……」
「……博士はどちらから連絡なさっているんですか? 無事に脱出出来ましたか?」
曳山が本格的な話を始める前に、明悟は薙乃としての立場で、心から心配している風を装って曳山に尋ねた。曳山は一瞬だけぎょっとした表情を見せ、硬直した。曳山達の無事を心配しているのは本心だが、曳山の口調が完全に『会長』に対してのそれだったので遠回しに釘を刺したのだ、今の私に敬語を使うな、と。
「えええと、うん、こっちは、僕達は大丈夫だよ。研究チーム全員は浜松の本社への避難を完了している」
懸命に言葉を選びながら、曳山は高校生の女の子に対する気軽な喋り方を注意深く出力する。……『薙乃』の姿で曳山と会話する時はいつも正体を知っているスタッフしかいない状況だったので常に敬語を使っていたのだ。下手をすれば、曳山が明悟を『女子高校生』として扱うのは今日が初めてかもしれない。……苦労を掛けて申し訳無いな。
「それで、出発前にどうしても伝えておきたい事があるんだ」
曳山が改めてそう言うと手早く自身のパソコンのキーボードを操作し始めた。モニターに複数の画像が表示された。明悟はそれらのひとつ、一番鮮明に『被写体』を捉えていると思しき画像を注視する。それは黒い体躯の、全身に赤い斑点を複数個付けた人影である。
「……これはまさか、有角魔犬?」
明悟と一緒にモニターを覗き込んでいた北森が、明悟の第一印象と同じ単語を口にした。
「似ているけれど少し違う。有角魔犬の角の部分がそのまま眼球に置き換わっているような外観をしている」
そう言うと曳山はパソコンを操作し画面に新しいウィンドウを表示させる。そこにはその黒い人影の赤い斑点が高い解析度でアップになっている。その一つには赤い球体の中に黒い円形の模様が、瞳孔と光彩の様な模様が見て取れた。
「これらは自衛隊やモニタリングポストによって撮影された原田結良さんと思しきシフト・ファイターだ」
明悟と北森は同時に息を呑んだ。
「……有角魔犬、のような姿に変身するシフト・ファイター能力、という事なのでしょうか?」
明悟は、明確な回答は返って来ないだろうなと予想しつつも、その質問をしない訳にはいかなかった。
「断言は出来ないけれどその可能性は大いに考えられるよ」
その時明悟は初めて、曳山の言葉と表情に妙な落ち着きの無さが漂っている事に気付いた。自分の会社の会長を女子高生として扱わねばならない緊張感以外の何かが含まれているように見て取れる。
「もたらされるシフト・ファイター能力が個々人の人生経験に即したものになるなら、恐らく原田さんの人生経験に大きな影響を与えている有角魔犬に変身する能力を獲得するのは十分理に適っていると言える。
問題はね、それに付随して全身に眼球を造り出すという能力を得てしまっている事なんだ」
「……どういう事です」
いよいよ、曳山の口調がただならない切迫感を帯びて来た。ここまで緊迫感を持って話をする曳山の様子は明悟の記憶する範囲では見た事が無い。
「薙乃さんも初めてシフト・ファイター能力を使って武器を強化した次の日に軽度の頭痛と発熱を訴えた事があっただろう? これは脳がその本来の機能に無い使われ方をした故のストレスによって発熱した可能性が高い。馴染の無い学問の専門書とかを長時間読み続けていると頭痛がしてくるのと理屈は同じ。本来の人間の脳はシフト・ファイター能力を使う風には出来ていない、慣れが必要なんだ。
これは勿論原田さんにも言えるんだけれど、問題は、全身に眼球が生み出されているという特異過ぎる能力。これは想像でしかないしもしかしたら全く別の能力かも知れないが、彼女の能力は『身体を中心に全ての方向を見渡す事が出来る能力』かも知れないんだ。もしそうなら、こんなものは人間の脳で許容出来るレベルを超えている。本来の人間の脳で想定されている視野を大きく超越しているんだ」
そこまで聞くと北森はモニターから視線を逸らし「そんな、クソっ!」と口惜し気に毒付いた。
「あの能力で獲得する全ての方向を見渡し続ける視野に脳が耐えられない可能性もあるけれど、万が一それに慣れてしまえばそれはそれで拙いかもしれない。変身解除後に、人間の視野とのギャップで脳に変調を来たすかも知れない。
か……、薙乃さん、原田さんと接触する事が出来たら、目を閉じさせてから直ぐにシフト・ファイター能力を解除するように説得してもらいたい。そして出来れば、努力目標で構わないけど、目を開けさせない様に防衛ラインの内側まで連れ帰って欲しい。脳が全周の視覚野に最適化されていなければ脳に障害が残る可能性は低くなる。勿論私の推論が完全に間違っている可能性も高いよ、あの身体の眼球が同時に機能し続けてその視覚情報を常に脳で処理し続ける様なものなら、少しでも早く使用を止めさせなければならない」
明悟は、咥内が異様にからからになっていると今気づいた。
何、やるべき事は変わらない、いち早く結良に接触し、いち早く連れ帰る。そう言い聞かせ続けなければ、胸を締め付ける焦燥感に気が狂いそうになりつつあった。
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