32  -魔素体大禍とその経緯と原田結良-


 多那橋駅は人々でごった返し混沌を極めていた。

北部と南部の路線、そしてバスから下車して来た乗客達が橋上駅舎に入り乱れ、静岡の本数には限りがある。順番待ちの乗客が駅舎内に溢れかえり、不安と恐怖が構内を満たし始めていた。

 原田結良は橋上駅舎の西側の端、ガラスの壁から外の風景、多那橋の市街地の向こう側からやって来る魔犬の群れを見ようとしていた。わかり切っていたがそこからは建物が連なる景色しか見えず、魔犬が現れる兆候など無い。

 6年前、結良は『こちら側』には居なかった。魔素体大禍の時結良は魔犬達と戦っていた。だから実は、逃げ惑う人々の混乱の渦中に居るのは今が初めてなのだ。こんなに大勢の人達が途方に暮れて心を擦り減らせている光景など初めて見た。なんだ、ここだって十分地獄じゃないか。

 駅のスピーカーから努めて冷静を装った声色でアナウンスが響く。客達に冷静な判断と行動を促すものである反面、電車が遅れている、バスの追加車両を用意している最中だ、今状況を確認中だ、等断片的な内容ばかりで、時折苛立ちの籠った溜め息が方々で聴こえる。

 結良の傍に居る子供連れの両親が軽く揉めている。電車は何時止まるかわからないし交通渋滞でバスも動かないかも知れない。そもそもどちらもいつ乗れるかわからないから徒歩で静岡の方まで移動すべきじゃないのかと父親。でもバスや電車も本数を増やしているみたいだし、と母親が喰い下がる。それだって準備をしていると言っているだけでいつになるかわからないよ? 小さい子供が居るのに歩いて移動するのは無理よ。……その小さい子供、リュックサックを背負った7・8歳位の男の子と結良は眼が合った。男の子は困惑したような不安げな表情をしている。結良は何とか笑顔を返そうとしたが、表情筋が硬く、引き攣っているのが自分でもわかった。まだちょっと頭痛がする。

 両親には電話してある。非常に心配しているようだった。結良には『前例』がある、無理も無い。電話に出た母親は「待っているから早く帰って来なさい」と言っていた。今高校から多那橋行きのバスに乗っているけど渋滞に巻き込まれていて身動きが取れないと説明した。2時間経って帰れなかったら先に逃げて欲しいと。……そんな内容を今ここで話した。ほぼ確実にバレない小さな嘘。取り敢えずこれで暫く『悩む』時間を稼げる。ここから家まで徒歩でも一時間掛からない。


 自分が『嘘吐き』を始めた時は小学校四年生の頃だと、結良は認識している。それ以前にも、親から些細な失敗を隠すために嘘を吐いた事は有ったはずだが、基本的に自分は正直である事が正しいと信じていたし、比較的正直者の側の人間だと自覚していた。小学四年生の時、魔法少女に変身出来る事を隠していようと栄美ちゃんが提案した。変身ヒーロー・ヒロインが正体を隠して活動するのは創作世界ではよく有る話なので特に深く考えず納得してしまった。

「それに、もしわたし達が魔法を使えると知られたら、お父さんの会社に人体実験をされてしまうわ」

 ある日栄美は、脅かす様に声のトーンを落としてそんな事を言っていた。

「じんたいじっけん……」

「そう、カエルの解剖実験みたいにわたし達も解剖されるの」

 自分達の小学校でカエルの解剖実験などやった事は無いが、わたし達は『カエルの解剖実験』という物がどういった物か大凡理解出来ていた。古い時代の学校での恐ろしい出来事は怪談の一種の様に生徒達に広まるケースがある。

「それは、元に戻してもらえるのかな?」

「縫い直してくれるかって事?」

「うん」

結良は真剣な表情をして質問していた。

「ビミョウな所ね」

 栄美も真面目な表情で返した。

「ただ会社というのは利益やお客様の為に残酷な決断をしなければならない時があるの。大人を信じるのは絶対危険ね」

 ……当時の結良は内心尊敬していたのだ、栄美の大人びた態度や知識量、そして危ういとすら思える決断力を。この時結良は判断を栄美に委ねてしまっていた部分もあるが、何よりも、大人ですら驚く大きな秘密を栄美と共有していた事に浮き足立っていた。魔法少女(のようなもの)に変身出来るとワクワクしていたのだ。

 子供の浅はかさである。数日前の結良ならそんな風に思っていたかも知れない。ただ『今』は過去の自分達を笑えないと改めて気付いて、逆におかしくなった。

 魔素体大禍の最中、栄美が何時命を落としたのか結良は知らない。先に結良が意識を失ったからだ。有角魔犬を含む魔犬の群れとの戦闘中にコスチュームの仮面が外れたのだ。シフト・ファイターに変身している状態なら魔犬に殴られても少し痛いだけだけど、何故執拗に顔ばかりに狙っていたのかは、仮面が外れた時、視界の先にドッペルゲンガーの集団を見つけてしまった時に初めて気付いた。

 その中の一体ののっぺらぼうの顔面が歪む。

 それが自分の顔に変わりつつあったのを認識した時、結良は意識を失った。

 次に気が付いたのは何時間後だろうか? 意識を取り戻した時、辺りには誰も居なかった。人気の無い、閑散とした街中にわたしだけが残されていた。魔犬もドッペルゲンガーも栄美も何処かに消えていた。気絶する直前とは打って変わった静寂と、あの状況の直後で無事だったという不合理で、ここは天国か地獄なのではないかと本気で思ってしまった。

 変身はいつの間にか解除されていた。そして変身出来なくなっている事には直ぐに気付いた。変身用のコンパクトは意識を取り戻した時には輪郭があやふやな魔素を噴き出す塊の様になっていて、一日も経たない内に消えてなくなってしまった。変身して走ってしまえばすぐに移動出来たのだが、仕方無いので徒歩で、魔犬が現れた名古屋の方向とは逆の、東に向かって進む事にした。

 十歳の子供に何十kmもの道を徒歩で進むのは過酷としか言いようが無い。明らかに魔犬が走っている様な物音もしばしば耳にし、その度に物影や建物に隠れ、音が遠ざかってからも恐怖で足が、というか心が竦みしばらく動けなかった。

 とにかく栄美ちゃんの無事を確かめたいという一心で結良は歩き続けた。栄美の無事と、両親の無事を確かめたかった。だが道は行けども行けども無人で、アスファルトを踏みしめる足音を耳にする度に確かめるよりも先に恐ろしくて身を隠した。

 どれだけ歩いたのかわからない、どれだけ歩けばいいのかもわからない。心も身体も、みるみる疲弊していく。二度目の夕焼けを迎えた頃、無人の見知らぬ民家に身を隠しながら、頭の中では絶望的な考えが少女を蝕んでいた。このまま歩き続けてもヒトが居る場所に辿り着けなかったらどうしよう。自分が歩いている方向は正しいのだろうか? 携帯電話は繋がらないまま、表示される日付けは両親と別れてから4日経っている事を教えてくれるが、生真面目に表示されている今日の日付が、何故か自分と関係無い、遠い別世界の時間を表示している様に見えてならなかった。……このまま誰にも会えずに自分は終わってしまうのかもしれない。そもそも、魔犬とあの白いのっぺらぼうに世界中が埋め尽くされて安全に暮らせる場所なんてもうどこにも無いんじゃないのか。

 明らかに自動車と思しきエンジン音を耳にしたのはそれから更に二度朝を迎えた頃。隠れていた民家から何とか出て行き、そのまま自衛隊に保護された。

 衰弱し切っていたらしく、保護されて暫く病院に入院させられた。ベッドに体を横たえ、点滴を打たれている自分。何故か現実感が全く沸かなかった。この場所は安全なはずだ、周りには看護師や他の怪我人も居る。でも、本当にこんな安全を享受していられる状況なのかと、どうしても頭の隅で警戒してしまう。魔犬とドッペルゲンガーに殺されかけた恐怖感と一人で何日も無人の街を放浪した絶望感は耐え難く結良の心を傷付けていた。

 栄美ちゃんが行方不明だった事、そしてその後死亡が確認された事を両親はしっかり教えてくれた。勿論ショックだったが変に誤魔化されたりするよりはずっと良かったと思う。自分は本当の事を隠しているのに両親の嘘を許さないなんてムシが良過ぎて虫唾が走るけど。ただ、辛かったのは多分栄美ちゃんの死を訊かされた直後よりそれからの毎日だった。嬉しい事や楽しい事があっても、頭の隅で『栄美ちゃんはもう嬉しい事や楽しい事を感じ取る事は出来ない』という事実がちらつく。でもその次の瞬間に結良の心を支配する感情は悲しみより悔しさだった。栄美を殺した者に対する、そして栄美を守れなかった自分に対する、悔しさ。

 栄美の死の悲しみは誰とも共有出来ないと思っていた。魔素体大禍以後の、誰もが誰かしら身近な人を亡くしていた。しかし栄美と自分がシフト・ファイターだったと話す事は出来なかった。栄美と自分がシフト・ファイターだったという事はずっと秘密にしていた。栄美が口にしていた『解剖されるかも』という警句を信じ続けていたというのもあるし、何より証拠が無い。変身に使っていたコンパクトも消えてなくなったままだ。それに、自分達がシフト・ファイターに変身出来るという事は栄美ちゃんとの『秘密』だった。世界が変わってしまった今、その秘密を守る事に如何ばかりの意味があるのかわからないけど、友達との秘密を守り続ける事は合理性以上に重要な意味が有った。

 自分を呼ぶような、監視するような気配を感じるようになったのは魔素体大禍から二年くらい経ったある時。多分それは魔素体大禍直後からそこにあったものなのだろうけれど微か過ぎて気付かなかったのだ。それが、変身用コンパクトを手にした時に感じた頭の中に直接言葉や概念を教え込まされた時の感覚に似ていると。

 ある日、掌にアルミホイルのような薄い銀紙の欠片が付着しているのを見つけた。爪の先程のサイズで、指で摘まんで軽く擦ると黒い煙を出して消えていった。そして数日すると、また掌の中に同じような銀紙がくっ付いていた。魔素の塊が、わたしの手の上で形作られている。その塊は、かつてわたしが使っていた魔法『響け、造物の鐘ディンドン・ブラウニー』のひと欠片であるように思えた。感覚的に、それを使っていた時の心象がぼんやりと思い出せた。そして同時に、その銀紙に意識を向けると、視られているような気配がより強くなる事に気が付いた。いや、視られているのではない、見詰め合っているのだ。この銀紙を通して、それ以上のもっと根本的なシフト・ファイターの能力の源になっていた心の中の一部分で、『何か』と繋がっていた。栄美と何か関係があるのでは、とほんの少しだけ考えたが、それにしては自分自身の奥底の部分まで深く関わり過ぎているように思えた。

 ……そうすると、連想できるものなどひとつしかなかった。結良をコピーしたドッペルゲンガーだ。

 その存在感の高まりは結良に『成長』を連想させた。

 どういう訳か自分をコピーしたドッペルゲンガーは消える事無く、何処かで、何らかの形で成長を続けているのだ。ドッペルゲンガー側の存在感が増してゆくのに呼応して、結良の特異な形で発現したシフト・ファイター能力――或いはシフト・ファイター能力のようなもの。何故変身せずにそんなものが使えたのか未だにわからない――も、少しずつ、シフト・ファイターだった時の能力の強さと比べ物にならない程ひ弱だが、確実に何かが作り上げられつつある事が感じられた。しかもそれは数時間で消えてなくなる様な一過性のものでは無く、使わない限り消えてなくならない強固なものが出来上がるという確信が有った。現に掌に現れた銀紙は、机の引き出しに仕舞って何日かして確認しても、消失せずにその場に残り続けた。結良が本来持っていた能力とは違う形に変質していた。

 拳銃を作ろう。結良は真っ先にそう思い付いた。魔素体大禍の前、魔犬退治の為にシフト・ファイター能力で武器を造る際、どんなものを作れば効率が良いかと栄美ちゃんと相談した事がある。その時栄美は『参考資料』と称して大量の銃の写真が掲載された雑誌を結良しに見せた。これどうしたの? 驚いて栄美ちゃんに尋ねると、栄美ちゃんは少しうんざりしたような口調で、うちにはこんな雑誌がいくらでもある、と言った。自分の父親がこんな雑誌を好き好んで読んでいて、最近では弟もそれに影響されて玩具のピストルで遊ぶようになったのだと、自身の家庭環境を嘆いていた。そんな栄美ちゃんの様子が可笑しくて、その銃器がたくさん載った雑誌の事をよく覚えていた(因みに、『響け、造物の鐘ディンドン・ブラウニー』で銃器が造られる事は無かった。魔犬出現の際の移動手段を兼ねた道具を造らねばならないという事から『空飛ぶ箒の能力を持った槍』という身も蓋も無い武器が採用された。何故か空飛ぶ箒を造った時だけ魔素の思惟が長時間保たれるのだ)。

 魔法の弾丸(のようなもの)を撃ち出す手のひらサイズの拳銃を作る。操る事の出来る力の量を予想すれば多分手のひらサイズが限界。銃器に関する資料を集めて完成品をイメージする。それは毎日少しずつ思惟を籠めて少しずつ魔素を組み上げる、気の遠くなる作業だったが、目標を持つ事で、結良の心持ちは前向きになった。秘密の力でいつか魔素体と戦う。栄美ちゃんと魔犬をやっつけていた時と同じだ。そして秘密を持つなら何事も無いフリをしなければならない。辛い事件から立ち直った、立ち直ろうとしている演技をしなければならない。人前では努めて明るく、朗らかに振る舞った。両親や周りの人に心配をかける訳にはいかなかった。

 人前では何事も無い風に振る舞い、家に帰れば密かに一人で魔素体を倒す武器を造る日々。銀紙が少しずつ大きくなり銀色の塊に形作られていく過程で、結良の憎悪と悔恨は晴らされる事は無く、寧ろより具体的で救い様の無い程明確な結晶になってしまっている事を、結良自身も感じ取っていた。


 ……非常に何処か近い場所で、携帯電話の着信音がけたたましい電子音を響かせている。自分の携帯電をの着信音とは違う。何処からだろうと結良が駅の構内を見渡すと、先程口論をしていた夫婦がちらりとこちらを見ているのに気付いた。着信音は自分の鞄の中から鳴っていた。結良は鞄を探る。奥の方から震えながら音を鳴らす見慣れないスマートフォンが見つかった。ディスプレイの表示には『喰い散らかし』と書かれていた。……鞄にこれを入れたとすれば一昨日彼らと出会った時だろうか? どうやって鞄の中に入れたんだ? と訝しんだが、相手は最低でも2回以上『響け、造物の鐘ディンドン・ブラウニー』が使えるのだ。方法は幾らでもあるだろう。

「……もしもし」

 結良は律儀に応答した。

「こんにちは、原田結良さん」

 美しい女性の声だが、情感を籠めて台詞を棒読みしている様な何処か空疎な印象を受ける口調。一昨日耳にした『拾い読み(或いは『喰い散らかし』)』の喋り方と同じものである。

「シフト・ファイターの権能を捨てて下さったようですね」

 その一言で結良の肩がピクリと震えた。

「本心を言えば少し寂しくはあります。わたしが自意識を獲得した頃から、貴女との繋がりは特別なものだと感じていましたから」

「あなたが」

 『拾い読み』の言葉を遮って結良が呟く。感情の昂ぶりを抑え込み、平静を装っている様な声色で。

「わたしのドッペルゲンガーなのにわたしと見た目が全然似ていないのは、他の人の記憶もコピーしているからなの?」

「平均値だそうです」

 『拾い読み』はあっさりと口にする。

「わたしがコピーした女性は成人した方の方が多いので背格好がそちらに寄ったのだと思います」

「……わたし以外の人をコピーするのはシフト・ファイターとしての力を強くするため?」

「いいえ、それは副次的なものでしかないんです。

 ドッペルゲンガーというモノは本質的に人間の分身になる存在、分身になろうとする存在なんですよ」

「…………」

「ケダモノが動物を捕食するのと同じです。ですから、わたしがヒトをコピーする事に意味を見出そうとする必要なんて無いんですよ?」

「……止めるつもりはないのね」

「はい、止めないでしょうね」

「そう……、わかった」

 失望したというより、何か大事なものを手放した様な暗く沈んだ声で結良は呟いた。

「……では本題に入ります。

 今から『最初の人間』の方で頭目、もとい有角魔犬を構築するそうです」

「…………なっ!?」

「構築完了後、半田崎から蒲香の防衛ラインを目指して移動を始めるようです。自衛隊では……、恐らく手も足も出ないでしょうね」

「あなた達は……!」

 結良は思わず声を荒げた。

「どうしてそんな酷い事ばかりするの!? みんな静かに、楽しく暮らしていたいだけなのに、どうしてそんな人達を傷付けようとするのよ!?」

「……そうですね」

 電話の向こうの二人組は多分、冷静な様子で平然と自分の言葉を訊いているのだろうなと、結良の冷静な部分が推測していた。

「『最初の人間』の魔法使いの方々が仰っていたのは、『人権・人道を最重要視した人体実験に限界を感じた』という事らしいです」

「…………」

「人間と、そして社会を極限まで追い込む事が魔術と科学技術の更なる発展に繋がると、彼らは本気で考えているようです」

「……異常」

 結良は殆ど無意識に毒付いた。

「……取り敢えず、わたしからはこれで終わりです」

 そんな結良の呟きを殆ど無視して『拾い読み』は話を締める。

「結良さんのシフト・ファイターとしての新しい姿と能力を、心から楽しみにしています。では、後程」

 本当に笑顔すら浮かべていそうな口調で『拾い読み』は口にし、電話を切った。

 先程の親子とその周囲の人々が、声を荒げた結良の様子に驚き様子を窺っていたが、結良は周りの視線を気にしていられるような状態では無かった。

 無論、怒りはあった。しかしそれ以上に結良が感じていたのは途方も無い恐怖だった。『最初の人間』の『広報官』と『拾い読み』、そして魔犬の群れと有角魔犬。それらがじわじわと確実に結良を執拗に追い詰め迫り来る。そして自分を、再びシフト・ファイターになる様に、なるしか選択肢が無い状況に追い込むのだ。彼らには、明らかに自分を罠に嵌めようとしている意図が有る。有角魔犬、あの紅い角の怪物の眼で追う事すら難しい程の俊敏な挙動、振り回される両腕の圧と暴力を忘れた事は無い。シフト・ファイターの強化された肉体が頼り無く感じる程に、有角魔犬のもたらす圧倒的な威圧感は未だに結良の心に深く刻み込まれていた。

 そんな相手が自衛隊の前に現れれば、多那橋の街に現れればどんな事になるか、想像する事すら結良の脳は拒んでいる。

 結良は胸元に手を当てた。そして、服の下にある『鍵』の存在と感触を確かめた。

 ……シフト・ファイターの変身能力を捨てればいい、と言われたが具体的にどうすればいいのかまるでわからなかった。シフト・ファイター能力を捨て去る事で新たな変身能力を獲得出来ると『広報官』は口にしていたが、信じてもいいのだろうか? 自分がシフト・ファイターとしての能力・資格を捨て去ると、『拾い読み』と共有していたシフト・ファイター能力をあちらが独り占めしてしまう形になる。それは何となく危険な気がするし、それこそがあちら側の狙いなのかも知れない。物語の悪役なら如何にもやりそうな手口だ。

 昨日、薙乃さんのウチ(或いは栄美ちゃんのおじいちゃんのウチ)から帰って来た後に、自室で改めて自分の手の平を確認した。そこに何か『点』がある。目には見えないし多分まだ何も存在していないのだろうけれど、そこから銀色の小さな粒が浮かび上がってくる事が何となく感じ取れた。気にしなければ魔素の粒に変わって消えてなくなってしまうモノ。

 多分『これ』でまた、拳銃か何か、新しい道具を造ろうと思えば造る事が出来るだろう。しかしそれにはまた十数ヵ月単位の時間を要する。とても間に合わない。……確かに、これは最早不要と言えるものかも知れない。

 ……そしてこの時ふと気付いた。手の平の銀紙が身体の内側に引っ張られている、と。いや、この感覚は今までも無意識に感じていた。『拾い読み』が口にしていた『同じ領域を二人で共有している』という言葉がこの感覚の意味を結良に理解させた。自分は、この銀紙を、『拾い読み』と一緒に運動会の綱引きの様に引っ張り合いをしているのだ。お互いが、もう片方に能力を奪われない様に、シフト・ファイター能力の使用権を引っ張り上げようとしている。結良はその事に全く気付いていなかった。しかし、シフト・ファイター能力を手放す気は全く無かったので、この引き摺り込まれる様な感覚に無意識下で抵抗していたのだ。

 微かな力で引っ張られている感覚。不合理だが、結良は何故かそれに、いじらしさの様なものを感じてしまった。自分には役に立たないこんなものをそんなにも欲しがっているのなら、あげてもいいのではないだろうか? そんな事であのドッペルゲンガーとの繋がりを清算出来るのならそれはそれで良いのでは……。

 結良は、その引っ張られる感覚に抵抗せず、されるがままにした。手の平の銀色の破片は手の中に吸い込まれる様にみるみる小さくなり、蝋燭の火が消え去る瞬間の様に魔素の粒を舞い散らした。

 銀色の破片は消え去ったが、身体には何処にも異常を感じなかった。自分のシフト・ファイター能力が失われているかどうかもすぐには判断出来なかった。あの監視されているような存在感は消え去っている、かもしれない。そもそもがとても微細な感覚で、消え去ったどうかもすぐには判断し辛いのだ。

 だが、ふと自分の勉強机に視線を向けた時、結良は思わず小さく悲鳴を上げてしまった。

 机の上に見慣れない物が置かれていた。銀色の円筒状の金属のような質感の何か。筒の中は空洞になっており、円柱の先端の縁には細かく凹凸が彫り込まれている。それは所謂チューブラーキーと呼ばれる鍵の一種なのだが、結良はそんな単語は知らないし、小さめのスティックのり程のサイズのあるそれが鍵だとは直感的に思えなかった。そして、直感でその筒の正体を判断するのならば、結良の中ではすでに結論が出ていた。

 間違い無く、変身用のアイテムだと。

 この唐突さは覚えが有った。魔素体大禍前、変身用コンパクトが急に勉強机の上に現れた時と殆ど同じだ。何の前触れも無く、ずっと前からそこに置いてあったみたいにいつの間にかそこにある(もっとも、現れた場所は半田崎の小学校入学の時に買ってもらった机の上で、今この場所ではないし、机も完全に別モノだ)。変身用アイテムの形状が必ずしもコンパクトでは無いという事はかつて魔素体大禍の最中に出会った他のシフト・ファイター達から訊いていて、『今回』はコンパクトの形ではないらしいと、すぐさまあっさりと納得してしまった。

 ……しかし、古い力を放棄した瞬間新しい変身アイテムが現れるというご都合主義とも思えるタイミングには面喰わされる。かつて、この変身アイテムに『選ばれる』人とそうでない人との差は『正義感の有無』ではないかと栄美ちゃんと仮説を立てた事がある。しかし結良自身は別段自分が特別正義感が強い人間だとは思った事が無く、今では割と懐疑的に思っている。というか、結良が知っているシフト・ファイターに変身出来る人物など二人しか知らない。栄美と薙乃だ。

 シフト・ファイターの力で魔犬を退治しようと最初に提案したのは栄美だった。結果的に、シフト・ファイターの強化された身体能力で難無く魔犬を退治出来たが、それは戦ってみるまでハッキリしなかった事で、殆ど無軌道なまでの正義感だったように思う。

 そして薙乃の在り様も、結良にとっては危うい様に見て取れた。理知的で冷静な態度を装っているが、その実自分の身の危険を顧みず誰かを守ろうとする義務感のようなものがひしひしと伝わってくる。それは、義父(栄美のおじいちゃん)に育ててもらった恩義とかそういう物ではなく、純粋に彼女自身の正義感から来るものに思えた。

 他のサンプルケースとしては魔素体大禍の時に出会った他のシフト・ファイターの人達。全員死んでしまったか未だに行方不明かのどちらかだ。彼らの事は表面的にしか知り得なかったが、誰もが正義感が強くて、命を懸けてでも誰かを守る事に躊躇が無いように、見えた。

 どうにも、自分だけが浮いているのではないか? 結良にはそう思えた。確かに正義の味方みたいに誰かを守りたいという気持ちはあった。しかし自分の場合は変身ヒロインとか魔法少女への無邪気で迂闊な憧れの方が強かったように思える。後は、惰性と、憎悪。

 ただどうやらこうして新たな変身アイテムが現れる基準は自己評価とは関係が無いようだ。そもそも正義感云々という仮説も見当違いかもしれない。……そんな分析をしながら結良はその筒状の大袈裟なサイズの鍵に手を伸ばした。もしこの時、一度落ち着いて、『紅の魔法少女』に変身する際に使っていた変身用コンパクトを初めて手にした時の事を思い返していれば、多少は心の準備が出来ていたのかもしれない。でも実際はそんな警戒心は抱かず、それに、触れた。

 触れた瞬間、結良は頭を引き延ばされたような感覚を抱いた。頭というより、脳を、直接捕まれ、パンの生地かガムの様に平らに引き延ばされ、筒状に変えられるような錯覚。それでいて脳は正常に稼働し、いや思考も感情も脳の形に併せて湾曲

 結良は指先に電気が走ったように鍵に触れた指を引っ込める。その途端に鋭い頭痛に襲われ、思わずその場にへたり込んだ。

 身を屈め、嵐が過ぎ去るのを待つように頭痛の緩和を待った。不意の刺すような痛みは無くなったが、代わりにずきずきと、鈍く重い痛みが結良の頭を苛んだ。……この時点で結良はようやく、魔素体大禍以前に初めて変身用コンパクトに触れた時の事を思い出した。あのコンパクトに触れた時に全てが解った。あの変身用コンパクトでどんな物に変身出来るのかとか、シフト・ファイター能力がどんな内容かという事とか。この鍵に触れた事で、自動的/強制的な理解が、結良にもたらされたのだ。そう、新しい記憶だ。この鍵は以前のコンパクトとは全く違う能力を結良に与える、それが今、まるでひらめきの様に結良の脳内に押し込まれたのだ。ただし、前回の結良は『響け、造物の鐘ディンドン・ブラウニー』の能力を知って頭痛に襲われるなどという事は無かった。それ程に、もたらされる能力が結良にとって『異様』だったのだ。

 魔法少女が魔法で便利な道具を造り出す、『響け、造物の鐘ディンドン・ブラウニー』は結良の常識から言わせればそれ程突拍子も無い事では無く、彼女の想像力の延長線上に行き着く事が可能な内容だ。しかし、この鍵がもたらす能力は異常だった。結良の脳の方が能力の方に追いつかねばならない程に。

 頭痛に慣れつつあった頭でしかし、結良はその鍵での変身後全ての能力でどの程度の事が出来るだろうかと想像した。……間違い無く『紅の魔法少女』よりも圧倒的に戦闘向きの能力である。というか、ほぼ戦闘にしか使えない能力に思える。もしかしたら、有角魔犬とも戦えるかも知れない。

 ただ、その余りにも暴力に特化した変身能力に結良は驚きを抱かざるを得なかった。シフト・ファイターの能力が、その変身者の性質や経験に即したものがもたらされるとしたら、この鍵の与える能力の荒々しさが結良自身の内面を表しているという事になる。

 それを思うと腑に落ちる気がした。自分でも驚く程、結良自身の内面と欲求に応えた能力だと思う。

 ……結良は、無意識下でこの駅の周辺で人目に付かずシフト・ファイターに変身出来そうな場所を探し始めていた。6年間掛けて澱みに淀んだ憎悪と、本人すら認識できないほど深い自罰感情によって形作られた能力が何を巻き起こすのか深く考えない内に。いや、たとえそれがわかっていても結果は変わらなかったかもしれないが。


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