29  -相互補完される魔犬-


 屋敷から地下ドームへと繋がる地下通路の道すがらに設置されたままになっていた脱衣所で変身を解いて着替えて(置いてあった服は先程同様着物と羽織だった)から、老人:鶴城明悟は秘書と共に地下ドームに向かった。

 地下ドームの中には、微かな会話の声がぽつぽつと響いていた。それはほぼ六面体の檻から発せられるもの。檻は一見直立しているが、背面に大きな穴が開いており、焼け焦げて黒ずんでいるらしい。壊れた檻の中と外でそれぞれ何やら作業が行われているらしく、檻の手前ではIKセキュリティの戦闘服のスタッフが檻の中から回収したカサジゾウのメンテナンスをしているらしかった。

 明悟と秘書は研究棟の方に入る。

「おお、待っていたよ」

 待ち侘びていたという表情で駒木が出迎える。曳山や瀬名以下、研究者達も一瞬手を止め、明悟に注目した。

「皆、大事無いようだな」

「まぁ、こっちは問題無いよ。魔犬が吹き飛んだ時に衝撃で少し揺れたぐらいさ」

 無駄に努めてあっけらかんと、駒木が言う。

「すみません、原田さんとの会合のバックアップが出来なくて……」

「ふむ、その点は瀬名君がしっかりサポートしてくれたから問題無かったよ。

 それよりどういう事なんだ、『魔犬の正体がわかった』というのは?」

 明悟がそう尋ねると「ご説明します」と曳山が言い、部屋の端のテーブルに明悟を促す。明悟と曳山と駒木でテーブルを囲む。

「……そもそも今日の実験を始めようとした切っ掛けなのですが」

 電話越しで駒木が言い掛けた時とほとんど同じ切り出し方で曳山が話を始める。

「昨日の、『最初の人間』を称する二人組とのやり取りの録音を聴いていた時に、一ヶ所引っ掛かる部分が有ったんです」

「ふむ」

「あの『広報官』を名乗った人物は、『魔法の宣伝』の為に魔犬を造り出して、魔素体大禍を起こした、と言っていました。……最初にこの話を訊いた時、余りにも不合理なんじゃないのか? と思ってしまったんです」

「まぁ、不合理だろう。言っている事が本当なら異常だ」

「そうです、異常です。でもそれは人命軽視の点だけで無く、あんなに凄い技術をまるで無料配布の如く世界中にばら撒くという点でも、です。情報と技術は知っている者が少ない程価値がある。なのに彼らは、……彼らが本当に魔犬を操る事が出来ると仮定してですが、宣伝と称し魔犬を世界中で暴れさせるだけで、二週間という非常に中途半端なタイミングで突然終わらせた。確かに、『宣伝』という意味ではこれ以上無い程の大成功です。しかし本当に、そんなあやふやな目的の為にあんな大災害を引き起こせるものでしょうか? そもそも、何のための『宣伝』なのかがわからない」

「……魔素体大禍に、常軌を逸した自己顕示欲以外の実利的な理由が有った、と言いたいのか?」

「その可能性が今日の実験の立脚点でした」

 曳山は、テーブルからやや身を乗り出し気味に話を続ける。

「宣伝がその宣伝の本来の効用以外のもっと具体的な効果を期待したものだったとしたら。そもそもあの『広報官』という人物が殊更に『魔法』というものを広く知らしめたがっていた事が非常に引っ掛かるのです」

 魔素は人間の思惟に反応する。思惟、ヒトの認識。『魔素が有る』という認識が有るからこそ魔素を利用して魔法を使おうという発想になる。知識の伝播、ヒトの思惟に併せてあらゆる可能性を示す『魔素』を広くしろしめすという行為。

 何なんだ今日は。

結良にしろ小岩井にしろ、怪談話など比にならない程にゾッとする話を披露してくる。肝が冷える。気持ちは若返るが寿命が縮む思いだ。

「駒木さん」

 機は熟したと見たらしい曳山は、駒木に何やら促す。それに併せて駒木は首肯し、机の上に一冊の本を置く。

タイトルはこうある


 自我と無意識の関係 C・G・ユング著


と。

「……まさか、魔犬が反応を示した情報の正体がこれなのか?」

 明悟が、自分でも正体がよくわからない感情の奔流を押し殺す様に曳山と駒木に尋ねた。著作については明悟にはハッキリとした知識は無いが、著者は非常に高名な心理学者だと認識している。自我と無意識。この言葉の具体的な意味を想起する事を何故か明悟の脳は強く拒んでいた。防衛本能が、働いてしまっている。

「厳密にはこれの『集合的無意識』に関する記述だね」

 そう補足するのが駒木。

「会長はユングの著作や研究活動に関する知識はお有りですか?」

 明悟は一応、「いや、全く無い」と丁寧に返答した。それを聞いた曳山は「……斯く言う私もネットで解説を確認しながら読了した程度の知識しかないのですが」と断りを入れながら説明を始める。

「ユングの説に於いては、人間の無意識というのは二つの層に分かれます。個人の知識や経験の蓄積によって形成される個人的無意識と、人間構造の中に遺伝的・先天的に備わっている普遍的な無意識である集合的無意識とにです」

「普遍的な……、無意識?」

「例えば、神に対する印象などが良い例です。古今東西世界中ではあらゆる神様が信仰されていますが、そのどれもが共通して力強く、人の手に届かない畏怖すべき存在として考えられてきました。地域や時代の垣根が有るはずなのに顕れるその類似性というのはそもそも、人間の無意識下の個人の経験よりもより深い領域に、ヒトという種そのものが想像や印象を抱く際に共通した元型(アーキタイプ)を持っているのではないかと考えられる訳です」

「……なるほど」

 馴染の無いカテゴリーの知識で、中々興味深い話ではあるが、話の腰を折りそうなので明悟は多くを語らないようにした。……全ての人間が教育や経験を介さず特定の物事に対して特定の反応を示す様な無意識の構造を予め持っている、という話らしい。なるほど腑に落ちる部分もあるが、人の手に届かないような『何者か』に操られている様な感覚を想起させられてしまう。そして魔犬との関連性という面でいよいよ不気味な雲行きを帯びてきたように思わされる。

「人類全てが共通して持っている同じ元型の無意識。これは本来繋がりの無い個別の人々が精神の一部分を全ての人類で共有しているという見方も出来なくはありません」

「だから『集合的』無意識と呼ばれている訳か。……それで、その『集合的無意識』に魔犬が反応するというのはどういう事なんだ?」

「……まぁまず実験の方法だけど、前回の案山子や犬の講義の時と基本的には同じだったんだ」

 駒木が説明のバトンを握る。

「ただ今回は反応を見るために略式で、本の内容が頭に入れた数人に念じて貰いながら僕が音読するという形を取ったんだ。軽く反応を見る程度のつもりだったんだけど目で見えるレベルで魔素が活性化し始めてね、ああいう結果になったのさ」

 そう言いながら駒木は研究棟の窓の向こうの半壊した檻を指差した。

「……魔犬を人為的に造り出せると仮定した場合」

 再び曳山が説明を引き継ぐ。

「魔犬を形作る強固な思惟をどのように魔素に固着させるかが問題になります。例えば芸術家が自身のイマジネーションを頭の中から出力する際、誰しも脳内と現実世界の差し渡しになる道具を用意します。画家ならキャンバス、彫刻家なら石材、音楽家なら楽譜と楽器、という具合に。しかし魔素からイマジネーションで何かを造りだそうとする場合、キャンバスや石材といった物理的な介在物にイマジネーションの断片を記録するという事が出来ない、頭で想像した事がそのまま結果になってしまう訳ですからね。その代りとして、前回案山子の頭部に行ったように講義を流しつつ複数の人間で念を送ったり、関連するデータの入った記録媒体を埋め込むという形を取ったのですが恐らくあれだけでは想像力の精度が不十分だった。魔犬を形作る思惟の圧倒的安定感、そのブラックボックスに寄生するという形で何とか案山子の魔素体を造り上げる事が出来た訳です」

「そのこちら側が便乗していたブラックボックスの正体がその『集合的無意識』という事なのか?」

「……ここからは完全に仮説になるのですが」

 曳山はテーブルを挟んでやや前傾姿勢になり真剣な表情で明悟に顔を寄せる。平静を装っているが、言葉には非常に熱が籠っている。

「魔犬を形作る為の思惟を魔素に読み取らせるためのアプローチとして、二通りの方法を併用していると考えられます

 一つ目は、魔犬を形作る為に必要な知識や思惟を直接魔素に籠める方法。これは魔素体の骨子となる設計図という位置付けでしょうね。平たく言えば我々が案山子の頭部に行った事と同じです。『最初の人間』側はより効率良く思惟を焼き付ける方法を確立している可能性が高いですが、恐らく理屈としては我々が行ったものの延長線上にある手法でしょう。

 そして二つ目は、周囲の人間の集合的無意識を経由して不特定多数の人間、或いは全人類の意識・無意識下の魔犬に関する情報を参照する方法です」

「…………ん?」

 一つ目はともかく、二つ目に関しては一瞬何を言っているのか明悟には理解出来なかった。何かとんでもない理論の飛躍が繰り広げられた事だけは理解出来た。

「魔犬を構成する魔素には恐らく、周囲に居る人間の無意識の深い層へ潜り込み集合的無意識を経由し、不特定多数の人間の意識下・無意識下から魔犬に関する情報を参照し魔犬としての存在を強化しているものと思われます」

「いや、いやいやいやちょっと待ってくれ」

 飽くまで全霊で説明を続ける曳山を明悟は思わず遮った。

「その集合的無意識を経由して他の人間と繋がるというのはどういう理屈だ? 人類の無意識下に遺伝的類似性があるというだけの話だろう? それが何故全ての人間が頭の中で繋げるなどという途方も無い規模の話になっているんだ!?」

「……そのように魔素を加工する事に成功したから、としか言えません」

 曳山はそう返す。申し訳無さそうな素振りを作った返答だが、同時に興奮の熱を必死に抑え付けているらしい事も見て取れた。

「いやー、呼び方のせいだよねぇ。『集合的』っていうのが悪いよ」

 能天気にさえ聴こえる口調で駒木はしみじみと口にする。

「『普遍的無意識』という呼び方もあるようですけどね」

「あー、それだと『集合的』の方使うよねぇ、わかり易い感じがするし、格好良い」

「因みに英語では『Collective unconscious』。『Collective』というのはやはり『共同体』とか『集合体』というような意味の言葉ですね」

「そうだね、実情はともかく、概念そのものに大多数の人間の無意識を寄り合わせる事で浮き彫りになる領域であるという性質もあるんだよ」

 駒木はまた、明悟の方に向き直り話し出す。

「結果だけでなく、研究でそれを認識する過程で人間の無意識を『集合』させる必要が有った。要するにサンプルデータ集めだね。どうあれ『集合的』無意識という呼称が付加された。呪術的根拠として利用するにはその言霊だけで十分なんだろう。全人類が無意識の中に同じ元型を持っていてしかもそれに『集合的』無意識なんて名前も付いている。――これは『金枝篇』で定義されている所の所謂『類感呪術』だね。世界各地で広く信じられていた『共通した性質を持った者同士がお互いに影響を与え合う』という発想を利用した呪術。わかり易い例では、藁人形に呪いたい相手の髪の毛なり名前なり写真なりを仕込んで丑三つ時に杭を打ちすえる呪いとか、そんなのだね。勿論これは迷信を人類学的切り口で体系化しただけなんだけど、これらの発想を元に魔素に思惟を与えて収束を試みてみればどうかな? 非常に魔法っぽくなる気がする」

「…………」

「一人の人間が魔犬を形作る程の強力な想像力を魔素に焼き付けるのではなく、不特定多数の人間から魔犬のイメージを少しずつ参照して集合させて、魔犬の存在を強化している。まず魔犬の目の前に居る人物の意識下・無意識下から思惟を読み取り魔犬を魔犬として認識しているその思惟を自身の魔素の収束に利用する。勿論そんなあやふやな思惟だけでは足りないから、そこから集合的無意識まで潜って類感呪術的に魔犬の目の前に居る人間と同じ元型を持った相手、つまり全人類に同じ呪術を掛ける」

「いや……! 待て、ちょっと待ってくれ。全人類に呪いなど、そんな簡単に出来てしまうものなのか?」

 明悟は駒木の途方も無い仮説を遮った。

「その方法が正しいのならば、魔犬を造るだけでなく、人々に、自由自在に呪いを掛けられるという事になるではないか!」

「……恐らく、そこまで強固な魔素の収束は出来ないとは思います」

 思案し言葉を選びながら曳山は答える。

「効果範囲は恐らくもっと限定的でしょう。いくら『集合的無意識』という立脚点があっても、魔犬一体一体が全世界の人間と接続しているというのは考えにくい。効果そのものについては、恐らく『人を呪い殺す』なんていう人間存在にとって重大な影響は与えられない。一人の人間に対する効果は非常に小規模。『人間の意識・無意識から魔犬に関する情報があるのか確認する』という非常に限定的なもの。魔素の本来の性能に即した性能なので確実性が高い。読み取っている方すら誰からどんな情報を読み取っているかすら気付いていないと思われます」

「……改めて訊くが、それらは全て仮説なんだろ?」

「まぁ、そうだね」

 駒木があっさり答える。

「ええ。現状ハッキリしている事は、捕獲した魔犬が、集合的無意識に関する講義を聴いた途端、瞬く間に案山子の頭部の思惟を呑み込み、魔犬としての形態を再構築させようとしていたという点だけです。……仮説を元にさらに仮説を立てねばならないのですが、これを踏まえてもう一つ考えねばならない事があります。それは、魔犬の出自です」

「魔犬の……、出自?」

「はい。魔犬が人間の心から魔犬の情報を読み取る事で自己の魔素収束を補強するものと考えた場合、そもそも魔素で魔犬を構築する以前から一般的に『魔犬』というモノが認知されている必要が有ります」

 曳山のその言葉を耳にした直後、明悟は一瞬きょとんとした表情を作ったが、それはすぐ目を見開いた驚愕の表情に変わった。

「『魔犬』モノが一般的に認知されるようになったのは魔素体大禍の五年位前だと言われています」

 曳山の言わんとする所を明悟も気付いたらしい事を曳山も察したが、曳山はそのまま話を続行する。

「ただ初期の印象は、何やら犬型の謎の怪物が居るらしいというUMAの目撃情報クラスの信憑性のものだったり、野犬の群れが廃村を我が物顔で占拠していたりとか科学飼料で肥大化したイノシシが目撃されたとか狂犬病の犬が人を襲っただとか関係の無いと思われる事件に行き着く場合が大半だったのですが、これらの事件は後の魔素体大禍と関連が有るのかどうか不明なままでした。そもそも魔犬の正体すらわからないですからね。

 ただここに、『集合的無意識』に反応してしまう魔犬の構造、不特定多数の魔犬に対する認知を参照して思惟を補強するという仮説を前提にすると説明が付いてしまう。この方法で魔犬を造るのならば、『魔犬』という概念を一般に広く認知させる必要がある。恐らく『最初の人間』と名乗るこの組織は魔素体大禍の五年前、いえ多分もっと前からあらゆる方法を使って『正体不明の犬に似た怪物が世界中に現れている』という事件やニュースを世界中で起こし広めていたと考えられます。

 そしてここから導き出される可能性。あの『広報官』を名乗る男は宣伝の為に魔犬を町にけしかけると言っていましたが、それがただの宣伝のためではなく魔犬の存在感をより強固なものにする意図があるなら、それは明確な実利を伴った行為となります。宣伝、などというモノ以上の動機となります」

 暫く、テーブル上を深い沈黙が支配した。明悟が思案に耽ってしまい、駒木と曳山が反応を待っているのだ。

「……では、魔犬を形成する思惟を補強させなくするにはどうすればいいんだ?」

 明悟が重々しく口を開く。

「その話を訊く限りでは、全ての人々が一斉に魔犬の事を記憶から消さなければ消えてなくならないという事になるのか?」

 無理だろうそんな物、というニュアンスが明悟の口調には多分に籠められていた。

「……恐らくこの『集合的無意識』に関する思惟は魔犬の個体一体一体を自律・維持させるための仕掛けです」

 臆する風も無く曳山は返答する。

「世界各地の主要都市部で魔犬を発生させている方法はまた別にあると考えられます。そちらがどういった方法で行われ、どうすれば止められるのかは今回の発見とどれほど関連が有るかは現状ではまだ明確ではありません」

「……極端な話、そちらをどうにか出来れば魔犬はある程度放置しても構わないからな。青山霊園封鎖作戦もそういう論法だろう」

「はい、ただ維持方法と発生方法に関連性がある可能性は非常に高いでしょうね。魔犬の思惟の相互関係、魔犬の設計図を見定めれば発生源の発見・破壊に大きな効果を期待できます。魔犬を青山霊園周辺に閉じ込めっぱなしという訳にもいきませんからね、今後の研究は大きな一歩となるはずです」

 それを聞き明悟は小さく「うむ……」と唸る。そこから何かしら読み取ったらしい曳山は「ただここから思惟の相互関係の細部を調べていくにはより多くのサンプルによる実験が不可欠になります」と付け加える。

「兎にも角にも、目下の問題を解決せねばならない、か……。

 魔犬の組成に集合的無意識が関係あるという事はわかった。ならばドッペルゲンガーの方はどうなんだ? 集合的無意識は関係あるのか?」

 明悟がそう訊くと曳山と駒木は一瞬顔を見合わせた。

「いえ、ドッペルゲンガーとは関係ありませんね」

 そう答えたのは曳山。

「そうなのか?」

「はい、実はユングの心理学研究の記述は概ねドッペルゲンガーにも試しています。魔犬に対しての実験を思い付いたのもそれに起因しています」

「……ドッペルゲンガーはまた違う仕組みで造られているという事か?」

「……ハッキリ言って、ドッペルゲンガーに関しては取っ掛かりが全く見つからないというのが実情ですね。魔犬に対しての方法では反応が得られないのではないでしょうか?」

 曳山が渋い表情で口にする。

 ドッペルゲンガーに関しては幾らか明悟の方が収穫が多いらしい。とは言え、明悟自身完全に持て余している情報なのだが。明悟は今日の結良との会合の内容と、小岩井が見つけ出した不気味な符号について話を始めた。夜はまだまだ長くなりそうだ。



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