28 -推理途中-
夕暮れの気配に満たされ始めた空の下、秘書の運転により明悟と結良は、新哉駅へと続く農道を車で走っていた。
「あっ」
車中、明悟はちょっとした失敗に気付いた。
「ん、どうしたの?」
「いや、折角駅まで君を送りに行くなら、帰りは駅に停めたままの自転車にいいじゃないかと今気づいたんだけど、生憎自転車の鍵を家に忘れて来た」
「あぁ、そっか、薙乃さん駅までは自転車なんだ。どうしよう? 一旦自転車の鍵取りに帰る?」
「いやいやいや、もうすぐ夜も更ける。君を駅まで送る方が先決さ」
……屋敷から駅までは車で五分と掛からない。ここで引き返してしまうとわざわざ結良を駅まで送り届ける意味合いが無くなってしまう程のタイムロスである。
「いいの? 明日大変じゃない?」
「歩いて行けない距離ではないからね、明日は少し早く家を出るよ」
「えー、朝辛くない?」
「いや……、まぁ、朝は強い方だからね……」
老人の朝は早い。無論それは未成年の生活サイクルとはかなり異なる。日付が変わる前に就寝し、朝五時に起きると以前学友にうっかり漏らした時かなり驚かれた記憶が有る。この話題はあまり掘り下げない方が良いだろう。
そう時間の掛からない内に駅に到着。バスターミナルの端に自動車は止まる。
「今日は楽しかった」
仮面を被っているので表情はわからないが、非常に朗らかかつ楽し気な調子で言うので、明悟は「そうなのかい?」と少し驚いてしまった。
「うん。薙乃さんのお屋敷も見れたし、秘書さんと探偵さんにも会えたし(自動車を運転する秘書を気にしてか、少し声を落としつつ)。……それから、大事な話も色々出来たしね。その、今まで誰にも出来なかった話をたくさんしたから、ちょっとテンションが変な事になってるの、実は」
「テンションが? 変な風には見えないけど?」
「うん……、平常心を装ってる」
「……今日は色々話してくれてありがとう。私からもお礼を言わせて欲しい」
「ふふ、どういたしまして」
結良はドアを開き車から出る。振り向き様にまた明悟に視線を向け、
「じゃあ、また明日ね」
「ああ、また明日」
小さく手を振ると、結良は車のドアを閉めた。
車が発進した後、駅前で非常に大袈裟な動作で結良は手を振り続けていた。表情で感情が伝えられないので仮面を被ると身振り手振りをオーバーにせざるを得ないのだ。ドアの窓にはスモークフィルムが張られており外からは中の様子がわからないので、明悟は窓を開けて手を振り返した。
程無くして自動車はバスターミナルを離れる。パワーウィンドを閉じた明悟は深々と溜め息を吐き、後部座席のシートに身を沈めた。
「お疲れ様です、会長」
運転席から声を掛ける秘書の口調は、何故かよくわからないが満ち足りた様な快活な物であった。まぁ、さぞ愉快な見世物だっただろうさ……。
結良が居なくなってから、改めて神経を張り詰めさせていた自分に気付いた。いや、まだ今日という日は全く終わる気配を見せない。棚上げにしている案件が山積みだ。しかし取り敢えずこれで鶴城薙乃を演じる必要は無くなった。速やかに女の肉体から解放されたい。女性的な身体的特徴や服飾を意識する度に平常心を保つために神経をすり減らさねばならないのだ。
一応地下ドームの駒木に連絡をしておこうか? と一瞬考えたが、止めておく事にした。
結良を駅まで送るために秘書を電話で呼び出した際に、駒木とも電話越しで地下ドーム側の現状を訊いた。内容は概ね前以て秘書に訊いていた通りで、魔犬を用いての実験の最中、不意に魔犬の身体を構成する魔素が非常に不安定な収束率を示しながら膨張し、案山子の頭部を取り込んで片足立ちの状態から地面に倒れ込んだらしい。その後も立ち上がろうともがく素振りを見せたので、檻の中に配置されていたカサジゾウからグレネード弾を発射し、魔犬を破壊した。
檻の中で四散した魔犬の断片は程無くして指向性の無い魔素の粒子となり消失、研究棟のスタッフには被害無し。グレネード弾の爆発で檻は破損したらしいが大事に至らなければそれで幸いである。……そこまで説明した駒木なのだが、電話越しでもその異常が感じられる程に妙にそわそわしている。それを指摘すると駒木は一瞬思案してからこう口にするのだ。
魔犬の正体がわかったかもしれない、と。
「……本当なのか?」
半信半疑で明悟がそう訊き返すと、「……そもそも今日の実験を始めようとした切っ掛けなんだけどね」と本腰を入れて発端から説明しようとする素振りを見せたので、いや待て原田結良を待たせているんだ後にしてくれと駒木を制し、秘書を屋敷に戻して運転手を任せ今に至るという訳だ。
あの時の会話で、電話越しであるにも拘らず駒木の興奮が伝わってくるようだった。結構な大事故が発生した直後の様子としては異様だ、恐らく何か重要な事がわかったというのは間違い無いのだろう。曳山も交え腰を据えて訊いた方が良さそうな案件だ。今焦って電話で訊く様な事でもないだろう。
そこで明悟は、先程小岩井から預かった封筒の開封しようと考えた。小岩井に渡されたままどこかに直しておくタイミングを逸し、手に持ったまま結良の見送りに出てしまったのだ。「何となく持ってきてしまった」と結良には苦笑いをしながら誤魔化したが、駅からの帰り道に気が向けば確認しようという意図も少なからずあった。今日中に確認するように、という小岩井の言葉も気になる点ではあった。
封筒の中身、数十枚の紙の束を取り出す。
クリップで纏められた資料の先頭には原田結良の簡単なプロフィールが載せられていた。彼女の出身地・出身校、今日に至るまでの経緯が羅列されている。先日小岩井本人から渡された結良の身辺調査の資料に全く同じ物があり、何故また今更この資料を見せるのかと明悟は一瞬疑問に思ったが、一ヶ所だけ先日の資料と異なる点が有った。
結良の魔素体大禍が起こる以前の住所にピンクの蛍光ペンでアンダーラインが引かれているのだ。
魔素体大禍以後に移り住んだ大叔父の住所やその後の多那橋の住所にはアンダーラインは引かれていない。魔素体大禍以前に住んでいた半田崎の住所にのみ線が引かれていた。明悟はその真意を測りかねたが、そのままページを捲る事にする。
その次のページには短い見出し文とまた別の人物の来歴が載せられている。見出し文の冒頭には『魔素体大禍以後に発生した日本国内のドッペルゲンガーに因ると思われる脳障害被害の内、死亡に至らなかったケース全24件』と書かれている。姿をコピーしたドッペルゲンガーと相対して一命を取り留めた例は非常に稀だが存在する。これはそれの具体的なケース、実際の被害者をリストアップしたものらしい。
国内で24件、意外に少ないのだな、というのが明悟の印象だ。ドッペルゲンガーにコピーされても死なないケースが有るというトピックスが一時期大々的に取り沙汰され広く知られる様になっていたが、実例について明悟は余り深い知識は無かった。漠然ともっと多いのではないかと思っていたが、レアケースが大きく取り上げられていたというのが実際らしい。
書類はそこから先、その死亡に至らなかった24名の情報が掲載されていた。結良のものほど詳しくは無かったが、プロフィールと脳障害を発生させるに至るまでの経歴については最低限以上の情報が記載されていた。……そしてそれらの経歴の欄に一ヶ所、全員ではないが過半数の人物の経歴の欄に蛍光ペンでアンダーバーが引かれているのだ。
……年三月まで半田崎市横川町に在住
……年まで半田崎の親戚の家で生活
……父親の赴任先である半田崎市に引っ越し
……半田崎市の小学校に
……半田崎
……半田崎
明悟はアンダーバーが引かれている人物の人数を数えた。16人だ。ドッペルゲンガーの被害者として公には勘定されていない原田結良も合わせると17人。国内のドッペルゲンガー被害の生存者とされている25人中17人が半田崎市で生活していたか或いは通勤・通学をしていたという事になる。
不意に、背筋に悪寒が走った。
明悟は堪らない息苦しさを感じ仮面を外す。……偶然と断ずるには余りにも露骨な偏りである様に思えた。全く意味はわからない。ただ、だからと言って無視出来る程楽観的なものの考え方は明悟には出来そうになかった。寧ろ、全く予想していなかった場所から未知の脅威に気付かされた感覚に心身ともに戦慄いていた。
「……大丈夫ですか?」
急に仮面を外した明悟に運転中の秘書が心配そうに声を掛けた。
「いや、大丈夫だ。……電話を掛ける」
フロントガラスの方を見ないように気を付けながら秘書にそう言った明悟はスマートフォンを取り出し、小岩井のアドレスを探した。
「もしもし」
電話を掛けると、待ってましたと言わんばかりにすぐさま電話は繋がった。
「資料を見せてもらった。何なんだアレは、どういう意味だ……!」
そう口にする明悟の声は、自分で思っていた以上に切羽詰まったモノになってしまった。
「おっ、薙乃嬢ちゃんの声で電話掛けてくるとか、わかってんじゃねーか、嬉しいねぇ」
「それはもういい! 茶化している場合か!?」
明悟が思わず怒気を含んだ言葉で返すと、小岩井は「あー……」と何かを思案するような唸り声を上げた。
「結論から言うとな、実はまだなんにもわかってないんだよ」
「何?」
「いやな、今日の昼前に蒲香と多那橋と、あと浜松の自衛隊の基地の関係者が異様に忙しなく動き始めたって情報が入ってな、いよいよ『タイムリミット』が近付いてきたんじゃねぇのかと思ってよ、しょうがないから推理途中のデータだけ持って行ってやったんだよ」
「…………ふむ」
「補足説明をするぜ。
ペンで印を付けた16人、結良ちゃんを入れて17人は半田崎市に住んでいた、或いは半田崎市に職場か学校が有ったんだけど、もう一つ共通点がある。全員女性であるという点。更に言うと十代中盤から三十代前半の女性だ」
「十代中盤……」
いや待て、結良が襲われたのは十歳の時ではないのか?
「あー、そうだ、結良ちゃんは例外なんだが、でもそこは少し注釈が必要だな。ドッペルゲンガーに襲われた十代中盤の女の子っていうのが2人いたんだけど、その2人が半田崎に住んでいたのが確か両方とも魔素体大禍から4・5年経った頃に襲われている。つまり、魔素体大禍が起こった自分には十代前半、つまり結良ちゃんとかなり近い年齢だってって事になる」
いや待て待て待て、お前は何を言っているんだ? 明悟は小岩井の理論の飛躍に混乱し始めていたが、同時に、小岩井が何かとんでもない事を考えているのは皮膚感覚で察知し始めていた。
「だからこう言い換えるべきなんじゃねぇのかな、『被害者は半田崎市に関わりの有った時分に十代前半以上の年齢だった若い女性』と」
「お前……!」
「そして芋ずる式にこんな仮説が立つ。原田結良は十歳の時に半田崎でドッペルゲンガーに襲われてコピーされているんじゃないかってな。違うか?」
「お前…………、凄いな」
今日ほど探偵という職業に恐怖を感じた事は無かった。いや寧ろそれすら通り越して感動と畏怖すら込み上げていた。今し方結良本人が明かすまで思い付きもしなかった真実に事件被害者の共通点を探し出すという単純な方法で辿り着いてしまったのだ。
「全然凄かねぇよ! 実際なんで半田崎に拘ってんのかは全然わからねぇんだから」
口ぶりは照れつつ謙遜しているようではある。だがその後「そこから先の推理が暗礁に乗り上げてんだよ」と本気で口惜しそうに付け加える。
「……それから半田崎と関係無い他の8人の被害者は老若男女出身地もバラバラで、目を皿の様にして資料を見比べたけど共通点らしいもんは見つからなかったぜ。そもそもさ、そのリストの人達は全員まだ生きてるからな、個人情報保護の観点とかで実名は殆ど報道されてないんだ。情報集めるのも一苦労さ、重要な情報の取り溢しっていうのは正直あるかもしれん」
「ならお前はどうして半田崎市の出身者がここまで多いと気付いたんだ?」
「まぁ、正直に言えばただの勘だな。先週起こった事件の被害者が半田崎出身だっていう話を何かで聞いてな、何故か妙に引っ掛かったんだ。そういや、結良ちゃんと同じだな、って」
「しかし、多那橋の住人には半田崎から避難して来た者は少なくないだろう?」
「まぁ、だから勘なんだよ。いや、何かの報道で過去の被害者に愛知県出身とかそういう話があったの記憶の隅に残ってたのかも知れねぇ。それでまぁ、片手間で調べてみればご覧の通りだぜ、何なのかよくわからねぇが正直ゾッとしたぜ……」
明悟は、結良との先程の会話の一部を思い出していた。結良は、自分をコピーしたドッペルゲンガーの力が少しずつ増していた事をずっと感じ取っていた、と。これが、結良のその話と全く関係が無いとはどうしても思えない。
「……半田崎出身の被害者達が襲われた時期が、数カ月に一回というか、機械的と言う程ではないが周期的な様に感じるな。まるで、消化に時間が掛かってるみたいによぉ。……すまん、今の喩えは紛らわしいな。今のは推理じゃなくてただの妄言だ、忘れてくれ。
被害者のプロフィールでもう一つ気になるのは、被害者がドッペルゲンガーに襲われた場所とその時の被害者の住所だな。これが見事にバラバラでよ、比較的中京地域が多いんだが北から南まで、全国に満遍無く分布している。よくそんな場所から半田崎と所縁のある奴を見つけたなぁ、って位に」
「意図的に、半田崎に関係のある人間を狙っている事を悟らせない様にしている、という事か?」
「そう、あと『同一犯』だと悟らせないようにするためだな。野良のドッペルゲンガーが浸透域の抜け穴から出てきて『偶然』見つけた人間を襲ったように見せ掛けたいんだろうな」
小岩井は、特に根拠も無く『同一犯』だと断言した。
「それと興味深いのが、半田崎と関係の無い八件中四件は、被害者をコピーしたドッペルゲンガーが消え去る瞬間を目撃されている。だが半田崎関係者に関してはコピーしたドッペルゲンガーを見たって証言は一つも無い」
「……当局は何も気付いていないのだろうか?」
「気付かねぇほど馬鹿じゃないとは思うんだけどな。ただオレと同じで意味がわからねぇんじゃないのか? 半田崎に関係が有る人間が襲われるのはわかった、しかしそれは何故か? 結良ちゃんの事を知ってるオレでさえどの仮説も妄想の域を出ねぇ」
「襲われる対象がわかったとしても、半田崎と所縁のある若い女性を全員守るのは不可能だろう。中途半端な情報を公にしても混乱を招くだけ。そんな所か」
「てかさ、これってもう、アレなんだろ?」
不意に小岩井は面白がるような口調で言う。
「アレ、とは?」
「一般人が集められる範囲の情報だけじゃ正解に辿り着けない段階に来てるよな。そういう場合は答えかヒント知ってそうな奴の家の門を叩くのが次の手段なんだけど、今回は、その立ち位置に居るのは明らかにお前だよなぁ?」
「……」
「どの道もう関係者を大広間に集めて真犯人吊し上げてる時間なんて無い位に切羽詰まってんだろ? オレの代わりに謎解きの続きをやっといてくれよ」
……小岩井との通話が終了した頃には、既に車は屋敷に到着しており、車から降り立ち上がった時に、異様な虚脱感に襲われていると気付かされた。
「あの、大丈夫ですか?」
秘書が明悟の顔を覗き込み、心配そうに、先程明悟が小岩井の封筒を確認した時と同じように声を掛けて来た。
「いや、大丈夫だ。直ぐに着替える、地下ドームに行こう」
そして先程と同じような返答を返す。……確か、秘書の出身地は半田崎ではなかったな、と、脳内で一応確認する。
勝手に頼んでもいない仕事を始めて中途半端なまま他人に押し付けていくという傍若無人な所業に巻き込まれた形になったのだが、小岩井から与えられた情報は確かに無視するには少々不気味過ぎる。
……どうにも、老婆心以上に明悟を困惑させたいがためだけにこんな調査を行ったのではないだろうかと勘繰りたくなる。探偵という連中はどうも、聴衆を驚かせるために推理をしているきらいがあるな、と夜に放送している二時間ドラマを視ていた頃から思っていたのだ。
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