第四話:遠雷を前に

24  -魔法少女の仮面-


 次の日、水曜日。

 午前11時を過ぎた辺り。高校の制服を着た薙乃の姿の明悟は、新哉駅から多那橋へと向かう電車に乗っていた。乗客は殆ど居ない。明悟は悠々と座席に腰掛けていた。

 こんな遅い時間帯から登校している理由は、昨日の戦闘で変身可能時間を全て使い切ってしまったからだ。昨日変身を解除したのが大体夕方辺りなのだが、そこから変身せずに次の日の朝を迎えても変身可能時間は12時間強しか回復しない。朝イチで登校し、帰ってくる頃には変身可能時間が無くなっている。少し遅刻してでも変身可能時間を多めに貯金しておきたかったのだ。中学生の頃ならこういう場合、丸一日学校を休んで24時間変身可能時間を溜める所だが、今日に関してはそうはいかない。出来れば原田結良に会っておきたい。


 ……筋書きはこうだ。昨日の夕方頃の事、自転車で転倒して怪我をしていた原田結良を偶然車で通りかかったIKセキュリティのスタッフが最寄りの病院まで連れて行った。作り話としての出来の如何はともかくとして、真実を明かすよりもよっぽど現実味を帯びた嘘である。実際、結良には病院で診察を受けてもらった。手足に軽い擦り傷が見られたが、大きな怪我は無かったらしい。

 明悟は、結良がスタッフ達に病院へ送られる前に彼女の元を離れた。いつ変身が解けるのかわからないような状況だったので、そうせざるを得なかったのだ。呼び出しアラートのボタンを押して30分も経たない内に秘書が迎えに来た。火器で武装した男達の元に残される結良の心中は察して余りあるが、ここは仕方が無い、北森に任せ現場を後にした。

 ……今日見聞きした事を口外しない事を結良が約束してくれた、とその日の夜北森から報告を受けた。剣呑な言い方をすれば、IKセキュリティと結良はお互いシフト・ファイターの秘密を握り合っている関係にある。結良は自分がシフト・ファイターである事を長らく隠していた。そこは利害が一致していると見ていいのだろう。何より、結良が約束してくれたと言うのならばそれは信用で出来ると明悟には思えた。

 しかし問題は、最早原田結良がシフト・ファイターか否かという次元を超えている。『最初の人間』などという組織名を名乗る二人組の出現。『魔法』と称し魔犬を造り出して見せ、一人は目の前でシフト・ファイターに変身した。そして彼らは、近日中に魔犬により浸透域から東方面に侵攻すると宣言した。……余りにも何もかも唐突である。唐突ではあるが真っ先に懸念すべき案件はひとつだけ。魔犬の侵攻、それが本当に行われるのかどうかだ。魔犬とシフト・ファイターが戦う様で魔法・魔素の宣伝をしたいなどという正気を疑いたくなる様なそんな理由で本当にそんな災禍を引き起こそうというのか? それは明悟にとって理解し得ない行動原理だが、相手がそれを可能とする能力を有しているという事を昨日ハッキリと明示されてしまった。

 昨日の夜、司令官の磯垣とIKセキュリティの代表取締役の三人でモニター越しの臨時会議を行い、『最初の人間』との邂逅の件を自衛隊サイドに伝える方針が決められた。信憑性に関してどう考えるかはあちらに委ねるしかないが、無視するには余りにも危険過ぎる情報だ。しかしシフト・ファイターに関しては完全に伏せておく。飽くまでIKセキュリティのスタッフが謎の二人組と接触したという形で情報を提供する。ドローンやスタッフの仮面に取り付けられたカメラの映像も(女子高生二人が映っていないシーンのみ)開示する事になった。

 IKセキュリティでさえもどう扱うべきか考えあぐねている謎の組織の宣戦布告を、自衛隊なりその上なりがどう判断するのかはわからないが、IKセキュリティが出来る範囲で行える情報収集、浸透域内(主に半田崎近辺)に設置したモニタリングポストが感知した魔素体の動向の分析、浸透域内に偵察用に残してきたカサジゾウの使用など、魔犬達に異常は見られないか、その兆候を読み取ろうと動き出していた。無人哨戒機での偵察も一両日中には行われるはずだ。

 方針が固まってしまえば、会社に於いて明悟が出来る事は特に無い、後は下の者の裁量である。が、薙乃としては話が別で、今日これから行う『交渉』は薙乃が行うべき仕事で、それでいて会社の趨勢に関わる性格を有していた。


 午後からの授業が始まる前には学校に辿り着く事が出来た。学友達に少し驚かれた。

「えー、大丈夫なの?」

 授業開始前に小野が尋ねて来た。先週の病欠(仮病)と併せて、明悟の体調を慮っているようだ。

「うん、大丈夫、今朝薬を飲んで安静にしていたら直ぐ良くなったからね」

 それらしい事を言って話を合わせた。

「もう今日一日休みを謳歌するものだと思ってた。てか休んじゃえば良かったんじゃない?」

 そう口にするのは茅原。

「そうもいかないよ。休み過ぎると授業に付いていけなくなってしまうからね」

「ほー、流石に真面目だぁ……」

 茅原は目を丸くして感心して見せる。

 ……心配する二人、そしてクラスメイトの少年少女達の学生としての朗らかな在り様を目にしつつ、明悟は昨日現れた魔犬の暴力的な躍動感と存在感を、そして魔犬の群れがこの街に攻めてくると言う男の予告を思い出していた。胃の辺りが締め付けられるような思いだった。

 高校に重役出勤したのは無論真面目に授業を受ける為ではなく、結良に会うためだ。五時間目の休憩時間に一年六組の教室に出向く。教室の入り口辺りに明悟(薙乃)と同じ中学の出身者の男子生徒が居たので、声を掛け、取り次ぎを頼んだ。明悟に話し掛けられた男子生徒は一瞬ギョッとした顔をしたが、直ぐに何気無い態度で受け応え、結良を呼びに行ってくれた。……昨日の今日で、結良はちゃんと登校していたらしい。

「良かった……、大丈夫? 身体、何ともない?」

 感情を押し殺した挙動で明悟の元までやって来た結良は明悟の手を取り、周りを気にした小さな声だが力強い声で結良は尋ねた。

「私は問題無いよ。結良さんも大事無いようで、良かった」

「うん、わたしも全然問題無い」

 結良はニッコリと笑う。

「てか、今朝薙乃さんの教室まで会いに行ったんだけど休みだって言われて心配してたんだけど、本当に平気?」

「まぁ、念のために午前中は安静にさせられていたんだ。問題無さそうだから登校させてもらった」

 明悟はちらりと辺りを窺った。教室の中と廊下は、無論そこかしこに学生達が居る。休憩時間もそろそろ終わるだろう。

「放課後なんだけど」

 明悟は切り出す。

「昨日の事や、それに付随する事柄について話がしたいんだ」

「……うん、そうだよね」

 結良が、わかっていたとでもいう様に真面目な表情で頷く。

「わたしも訊いてみたい事があるし」

「取り敢えず……、体育館裏で待ち合わせたい」

「あはは、先週と逆だね」

 結良が小さく笑うので、明悟もつられて小さく微笑んだ。


 そして放課後。

 人目を忍んで体育館裏に到着。まだ結良は居なかったが、結良がやって来るのにそれほど時間は掛からなかった。

「……や、さっき振り」

 結良ははにかんで挨拶した。

「……さっき振り」

 明悟も挨拶を返す。寛いだ笑顔を返そうとしたが、表情筋は緊張で若干引き攣っている気がする。

「さて、えーと……、どこから手を付ける?」

 結良は深刻になり過ぎないように気を遣い、それでいて言葉を選びながらそれを口にする。

「……昨日出会ったあの二人組についてから、かな」

 明悟は、一瞬悩んだような素振りを見せつつ切り出した。

「因みに私はあの二人については何も分からない。初対面だった」

「……いきなり良い質問だね」

 結良が困ったように、自嘲気味な口調で言う。普段の結良が余り見せない反応だ。――そもそも、その『普段の原田結良』について一体どれほど正しく理解出来ているのか、という疑問はあるが。 

「男の人については何も知らない。初めて会った人。でもあの女の人は……」

 そこで結良は一瞬、考え込むように間を置く。

「多分あの女の人は人間じゃない。ドッペルゲンガーだよ」

「……ん?」

 予想外過ぎる結良の言葉に明悟は思わず眉を顰めてしまった。

「ま~、そういうリアクションになっちゃうよね」

 結良は申し訳なさそうな、そしてどこか楽し気に苦笑いした。

「ドッペルゲンガー……、いや、ちょっと待って欲しい。

 とするとあの『拾い読み』?は数時間前にどこかで別のシフト・ファイターをコピーして来たという事になるのかい?」

「えと、そうじゃなくて、あのドッペルゲンガーは誰かをコピーしても消えないんだと思う」

「……そんな風に思う根拠って、何なんだい?」

「変身した時のあのコスチュームと特殊能力が、シフト・ファイターに変身出来ていた頃のわたしのと全く同じだったから」

 明悟は再び言葉に詰まった。結良の発言がいちいち衝撃的で、思考が追い付きそうにない。

「……とすると、今の結良さんはシフト・ファイターに変身出来ないのかい?」

「うん、出来ない。

 これは憶測でしかないんだけど、何故かわたしの変身する能力だけがコピーされて、『殺された』んだと思う」

「……でも、君は昨日魔素体の居場所を感知して自転車を走らせた。それはシフト・ファイターの能力ではないのか、……って思ったんだけど?」

「何故か、あの『拾い読み』が変身したり能力を使う時だけ、わかってしまうの。わたしと『拾い読み』の距離が近ければおおよそどこに居るのかわかってしまう。理由は、わからない。あの二人が言うには、わたしと『拾い読み』の距離が離れていても、共有している同じ場所から同じ力を使っているから繋がりが出来てしまっているって言っていたの。理屈はわからないけど、その話を訊かされた時、凄く腑に落ちた気がした。ああ、思っていた通りだったんだなぁって……」

「いや……」

 口に出した明悟自身、何が「いや……」なのか全然わかっていなかった。何かを言わねばならないと口を開いてみたものの、何を言うべきなのかさっぱり思い当たらなかった。

「いや~、何かごめんね」

 結良が困った様な表情で謝罪した。

「いや、君が謝るような事は何もない。よく話をしてくれて感謝しなければならない所だよ」

「うん、有難う。いやでも我ながら、ややこしい話をしてるな~って思って」

「確かに、中々入り組んでいるね……」

 しかし納得のいく説明でもある。明悟が結良に対して感じていた『シフト・ファイターなのにシフト・ファイターではないかのような言動』に対しての解答にはなる。かつて原田結良はシフト・ファイターであったが、断片的な能力を残して大部分をドッペルゲンガーに殺され、コピーされていた。……しかし、変身出来ないのなら尚更、シフト・ファイターへの変身能力をコピーしているドッペルゲンガーに会おうとするなど危険過ぎるではないか。

「もしかして……」

 明悟の頭の中で一組の歯車が噛み合った。

「先週発見された意識不明の女性の事件は、昨日のドッペルゲンガーと関係あるのかい?」

「それは……、結局わからなかった。ただ、近所でドッペルゲンガーが出たかもしれないっていうニュースを見て、他人事とは思えなかった。わたしをコピーしたドッペルゲンガーと関係あるんじゃないかって勝手に思い込んじゃって」

 結果、思い込みが大当たりだったんだけどね、と言いながら結良は小さな笑みを無理矢理作る。明悟は、少なからずショックを受けていた。結良の話を信じるのならば、自分の変身能力をコピーしたドッペルゲンガーがどこかで特殊能力を使用しているのをずっと感じ取りながら生活していたというのか? 得体のしれない怪物の胎動を常に感じ取りながら日常を送るというのは一体どういう感覚なのだろうか? 学校や部活動での溌剌とした笑顔の下に隠されていた物の底知れなさに明悟は戦慄を感じざるを得なかった。

「……結良さんにひとつ提案をしないといけないんだ」

 明悟は居住いを正して結良を改めて見据える。

「私の義父に、会って欲しいんだ。義父が結良さんの話をどうしても訊きたいと言っている」

「薙乃さんのお義父さんって確か……」

「鶴城明悟。IKセキュリティの会長だよ」

 最早、結良の語る情報は、女子高生・鶴城薙乃には手に余る物になっていた。会話を記録しておく必要があるし場合によっては研究者達の意見を求める必要のある場面も出てくるだろう。それに、『鶴城明悟』として結良と話さねばならない事もある。

「IKセキュリティって、魔素体のモニタリングポストを開発した会社だよね?」

「うん、厳密にはモニタリングポストの魔素体用のセンサー部分だね」

「えー、本気で凄い会社だよね……」

 結良は目を丸くして本気で驚いていた。

「え、いや、そこで私が同意してしまうと自画自賛みたいになってしまうんだけどね?」

 そう言うと、結良は小さく笑う。しかしすぐさま思案するような顔を作る。

「でもそうか……、そうするとIKセキュリティもシフト・ファイターの研究の為にわたしの身体を調べたいとかそういう感じなのかな?」

「いや、それは」

 ……それを曲がりなりにも関係者である鶴城薙乃に尋ねるのは明け透け過ぎではないだろうか、と明悟は思った。彼女なりに鎌を掛けているのかも知れないが。

「……義父は飽くまでも話をしたいだけだと言っていた。身体を調べさせて欲しい頼んでくるかも知れないけれど嫌ならきっぱりと断ってくれればいい。もし義父や誰かが結良さんを無理矢理調べようとしたなら、私が暴れてでも止めさせるよ」

 その明悟本人が言うようなセリフでは無いのだが、少なくとも同意が無い状態で結良を調べる事は絶対にしないと決めていた。……何が有っても絶対にしないと言い切れない点は己が卑劣さにほとほと嫌気が差す部分だが。

「わぁ、それは心強い」

 明悟のその言葉に薙乃は嬉し気に笑った。間違い無く、結良は薙乃を信頼してくれている。……その信頼には(最初から)答えられない、しかしせめて最後まで騙し通そうと思う。

「……じゃあ、早速今日私の家に来てほしい。秘書が車を回して学校まで迎えに来ている筈だ」

 少々強引かも知れないな、と思いつつ畳みかける事にした。結良の反応次第では後日

「え……、『秘書』?」

結良は『秘書』という単語に硬直し、驚いていた。

「え、薙乃さんに秘書なんているの?」

「あ、いや、義父の秘書だよ」

「あ、あははははは、そっか、そうだよね。当たり前か」

 結良は照れ隠しのように破顔した。

「いやでも、秘書か……。わたし本物の秘書なんて見た事無いなぁ……」

「……来てくれるのかい?」

「え……、あ、うん、行く! いやでも別に秘書さんが見たいから行くんじゃないよ。いや、実はちょっと楽しみだけど」

 ……無邪気だ、とんでもない。明悟は胸のわだかまりを忘れて微かに微笑んでしまった。


 ……筋書きはこうだ。昨日自転車で転んで打ち身をし、まだ多少痛むので大事を取って部活を休む。五時間目の休み時間の時点で、明悟と話した直後に既に他の部員にそう連絡していたらしい。体育館裏で友達と話をしているのが部活の先輩に見つかったら何言われるかわからないから早く学校から離れたかった、と結良はずるっぽく笑う。嘘に嘘を重ね嘘を相互補完するという手腕が嘘を吐き慣れている気配を明悟に感じさせ、明悟は密かに戸惑っていた。女の笑顔を信じ過ぎるな、か……。多分、明悟が持つ結良に対する印象と実際の結良には乖離が有る。ただ、それがどの程度深いものなのか、明悟はまだ測りかねていた。

 高校の校門を出ると、バス停からやや離れた場所に白のセダン、国産の高級車が駐車していた。車の傍にはスーツ姿の秘書が控えており二人が近付くと「お待ちしておりました」と深々と頭を下げ、後部座席のドアを開け「どうぞ、ご乗車ください」とにこやかな笑顔と共に口にした。明悟も結良を促すと、一瞬きょとんとした結良はすぐに我に返り「あっ、はい、失礼します!」と若干ぎくしゃくした様子で車内に這入った。明悟もそれに続く。

「ヤバい、秘書さんヤバい! めっちゃ格好良い!」

 車内に這入ると結良が、非常に興奮した様子で小声で歓喜を露わにした。……確かに、先程の秘書の畏まった様子は、少々過剰ではないかと思える丁寧なものだった。普段でもあそこまで気合の入った所作を見せる事は滅多に無い。結良の警戒を解こうとする秘書なりの気遣いなのかもしれないが、結良は妙な具合に感動してしまっている。

 兎にも角にも車は発進する。秘書の後ろ姿と柔らかだが機敏なハンドル捌きにより、フロントガラスの景色はゆっくりと変化する。

「わたしも、薙乃さんに訊きたい事があるんだけれど……、いいのかな?」

 結良は運転席の秘書を気にしながら、おずおずと尋ねる。その様子から、結良が懸念している事を明悟は察する。

「……ああ、彼女は今回の件はすべて把握しているよ。義父の秘書だからね」

「そっか……。じゃあ訊くね。薙乃さんが変身に使っている道具って、やっぱりコンパクトなの?」

「うん、そうだよ」

「それはどうやって見つけたものなの?」

 ……結良にも何となく目星が付いているのだろう。

「私のコンパクトは栄美さんの遺品なんだそうだ。私に適性があったから代わりに使っている」

「やっぱり、そうなんだ……」

「コンパクトを入手した経緯については……、多分私から話すべき事じゃないよ。義父から直接訊いて欲しい」

「……わかった」

「私の方から訊いても良いかな、結良さんがコンパクトを入手した経緯について。こちらが出し惜しみしている話題を尋ねようなんて虫が良過ぎるかも知れないけど……」

 明悟がやや申し訳無さそうな口調で言うと、「それは、うん、構わないよ」と、特に澱み無く素直に首肯した。

「わたしのコンパクトと、あと栄美ちゃんのコンパクトは、気が付くと急に現れた物なの」

 酷くあっさりとはきはきと、屈託無く結良は言ってのけた。

「急に……かい?」

「うん、前触れも無く急に。

……これは関係あるのかどうか、本当の所はわからないんだけど」

 結良は少し思案してから続きを紡ぐ。

「魔素体大禍の八ヵ月位前に、愛知県と長野県の県境に魔犬が現れた時の事なんだけど、その場所が栄美ちゃんのおじいちゃんの家のすぐ近くで。……そっか、薙乃さんの家がそこなんだね」

「……義父から訊いた事がある。自衛隊が早期に対処出来たから大事にはならなかったそうだけどね」

「うん、それは良かったんだけど、栄美ちゃんはその事件でショックを受けていてね。おじいちゃんとおばあちゃんが魔犬に襲われていたかもしれないって、栄美ちゃんは凄く怒っていた」

「怒っていたの?」

 明悟は密かに驚いた。

「……正義感って言うのかな、怒っていたっていうか、何とかできないかって本気で考えていた。わたしも栄美ちゃんの気持ちが理解出来た。栄美ちゃんのおじいちゃんとおばあちゃんに危険が迫っていたって事でわたしと栄美ちゃんは魔犬の怖さを身近に感じられるようになっていたの」

 ……喉元過ぎれば熱さ忘れる、という話ではないが、その県境で魔犬が出現した後日息子から、魔犬の騒ぎが沈静化するまで都市部のどこかに移り住んではどうかと軽く提案をされた事がある。大袈裟過ぎると提案を突っぱねると息子もそれ以上話題にはしなかったが、当時の栄美にとってその事件は、身近な人間の平和を脅かす非常にショッキングな物だったのだろう(寧ろ当時の大人連中が、魔犬の脅威を過小評価していた部分が大きいのだが)。

「コンパクトが急にわたしの前に現れたのはその頃。何の前触れも無く勉強机の上に置かれていた。それに触れると……、全てが理解った。使い方とか、変身するとどんな事が出来るようになるかとか。栄美ちゃんも殆ど同じ感じだって言ってた」

「何の前触れも無く、か。しかしその頃の結良さんや栄美さんの悩み、思考に関連して呼応するかのようにコンパクトが現れたというのは……」

「やっぱり、関係あると思う?」

「わからないな。ただ魔犬発生時の目撃証言を連想させる部分が有る気がする」

「魔犬発生……」

「ああ、一番有名なのは魔素体大禍最初の日のローマでの証言だね。何でも、朝のニュースでニューヨークに現れた魔犬の報道を視ていて、その様子を頭の中で想像していたら目の前に本物の魔犬が想像していた通りに現れたそうだ」

「似てる、気がするけど……」

「まぁ、似ているけれど全く接点が無い可能性も高い。同じ風に魔犬に対して考えを巡らせていたにしても片や魔犬に対する対抗手段が出現して、片や魔犬そのものが出現したというのも解せないしね」

「う、うーん……」

「そもそも何故結良さんと栄美さんの様に限られた人間の元にだけコンパクトが現れたかというのもわからない。魔素体大禍前においても、魔犬に対して心を砕いていた人間は沢山居たはずなのに」

「『まるで、わたし達が選ばれたように』……」

「……なに?」

 結良が呟いた言葉が上手く聞き取れなくて明悟は思わず訊き返した。結良は恥ずかし気に笑って「ごめん、今のは関係無い」と言った。

「薙乃さんはシフト・ファイターに変身して魔犬と戦うのを怖いと思った事って、ある?」

 籠った熱をそっと押し隠すような表情で結良は尋ねた。急にそんな事を訊かれて明悟は少し驚いたが、直ぐに考えを研ぎ澄ませる。薙乃としての、真摯な回答。

「怖いとは思うよ。でもシフト・ファイターに変身できるのは私しか居なかったし、他人の安全を守るという面でも魔素体の謎を解明するという面でも危険を冒すメリットはあると信じられる。……とは言っても、実際に魔犬と戦ったのは昨日を含めてもまだ二回だけなんだ。結良さんの前で胸を張れるようなものでは無いよ」

 そう口に出して明悟は改めて、隣に座る結良が魔素体大禍の最前線で魔犬と戦っていたシフト・ファイターだという事を再認識した。怪物達に敗北し、ドッペルゲンガーにコピーされてそれでも死ななかった少女。それがこの少女だとわかっているがどうしても認識と現実が乖離する。学校で無邪気な笑みを浮かべて日々を謳歌する彼女とはあまりにもかけ離れている。『原田結良』という人間がこの世に二人いるみたいだ、という不合理な印象を明悟は抱いていた。うむ、他人の事を言えた義理では無い。

「……薙乃さんも必要だから魔犬と戦って、わたしを守ってくれた。一応当時のわたしや栄美ちゃんもそうなの。魔犬に誰かが襲われるのを何とかしたくて戦った」

 結良は、自分達の過去を噛み締める様に静かな口調で言う。

「でもさ、それって誰にでも出来る事じゃないと思うの。いくら魔犬より強い力を持っているからって明らかに敵対心を持っている相手に立ち向かうのは怖い事だし、それにハッキリ言って自発的にそんな大変な事をしようだなんて思わないかも知れない」

「でも君達はやった」

「うん。わたしと栄美ちゃんで相談してそうしようって決めた。わたし達はそれが一番正しいって思ったの。でもね、もしわたしと栄美ちゃん以外の誰かが同じ状況になったら多分違った選択肢も選べたと思うの、もっと個人的な事のためだけに能力を使う、とか。それなのにわたし達は殆ど迷う事無くシフト・ファイターの力を魔犬をやっつけて平和を守るために使った。まるで、選ばれた正義の味方みたいに」

「もしかして結良さんは、他人を守るためにシフト・ファイターの力を使う資質のある人間にだけ、シフト・ファイターの力が与えられた、と言いたいの?」

「可能性のひとつだけど」

 結良は秘密を打ち明ける様に口にする。まるで、言葉の中から彼女の胸の高鳴りが聴こえてくるかのようだった。

「魔素体大禍の最中にも他のシフト・ファイターと何人か会った事があるんだけど、変な言い方だけど、みんな本物の『正義の味方』みたいだった。有角魔犬やドッペルゲンガーが現れた後でもみんな一人でも多くの人を助けようって必死だった。今考えると凄く不自然に感じる。いや勿論、そういう考え方をする人達だったから最前線に集まっていたっていう可能性はあるけど」

 明悟は不意に、自分が今非常に鋭く重い慙愧に駆られている事に気付いた。冷や水をぶっかけられた様な気分、いや、知らぬ間に底無し沼に両足が沈み込んでいる事に気付いた絶望感だ。自分の孫娘に、そんな無軌道な程の正義感が宿っていた事を何もかも手遅れになってしまった後に改めて明示させられる。残されるのは肝心な事には何も気付かずのうのうと日常を送っていた間抜けでゴミの様な大人達だけ、という訳だ。栄美の胸の内の気高くも危うい性質に気付いて何か言葉を掛けてやれていれば何かが変わっていたかも知れない。そんな詮無い後悔が胸を締め付けていた。

「薙乃さん」

 不意に、結良に名前を呼ばれた。そう、『薙乃』というのは女子高生としての自分の名前だ。明悟はそれを再認識するのに、何故か酷く苦労した。

「薙乃さんは、わたし達みたいになっちゃダメだよ。自分の命が危ないと思ったら絶対に逃げなきゃダメ、誰も薙乃さんの事は責めないから。わたしを守ってくれた薙乃さんを責める人が居たら、わたしその人を絶対許さない」

 一瞬、驚きで頭が真っ白になってしまった。そうだな、自分の命を勘定に入れていないのは自分も同じだ。自分の心配が出来ていない人間が他人を心配するなど虫のいい話だ。

「……ありがとう。でも、それは君にも言える事だよ。ドッペルゲンガーを生身で探し回るなんて危険じゃないか」

「うん、我ながら考えが足りなかったなぁって思う」

 結良はバツが悪そうに微笑んだ。

 意趣返しという形で、結良の無茶をやんわりと指摘した。そして意趣返しという形になってしまったが故に恐らく明悟の憂いは結良には伝わっていない。しかしこれが、今日何をおいても結良に伝えておきたかった事なのだった。 

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